(2)
あたしは彼が隠れたのを確認すると、ポケットの中から使い慣れたチョークを取り出す。そして迷うことなく床に陣を描いた。円形の中に記号と図形が配置されたその陣は魔術を発動させるためのものである。
「これでよしっと」
今まで露になっていた移動用人形の本体は保護色となる瓦礫の模様に包まれて、目を凝らして見ないと区別ができないようになった。このくらい朝飯前である。あたしが頬を拭って協会からの使者たちと対峙するまで余裕があったくらいだ。ちなみに傷はとうに癒えている。
「やぁ、アンジェ。これはまた酷いね」
声を掛けてきた協会の使者はあたしの知人だった。この町にあるエーテロイド協会支部に勤めている青年で、なにかと世話になっている人物である。
「えぇ。派手にやられたなって気分だわ」
大袈裟に肩を竦めてみせる。声も少しだけ張り上げて、扉の向こうにも聞こえるように言ったつもり。
「――それにしても到着がやたら早いような気がするんだけど、あたしの店に突っ込んで来た人物を追っていたのかしら?」
人形に関した事件・事故は必ずエーテロイド協会が処理をしてくれるのだが、今日は事故(?)が起きてから到着までが早すぎる。ここから支部までは公共の移動用人形を使うにはちょっぴり近く、歩いて行くには少々面倒な気分になる距離なのだ。元気に走ってきた彼らであったが、こんなに早く駆け付けることが出来るわけがない。
案の定なにか理由があるらしく、やってきた二人は顔を見合わせ、相談するように視線と身振り手振りで会話している。聞かれるとまずいことなのだろうか?
「……えぇ、彼に用事がありまして、捜していたんですよ」
先に答えたのはもう一人の使者で、とても困ったような顔をして言う。
「何かの事件の容疑者ってことはないでしょ?」
見る限りでは悪い人には思えなかった。着ている物からすると、どこかの良家のお坊っちゃんといったところだろうか。
「まさかまさか」
笑いながら答えたのはあたしの知り合いの青年。この笑顔に偽りはなさそうである。
「あ、でもこれは充分に事件として処理できるかも?」
あたしは通りに開かれた店の様子を一瞥してにやりとする。通りに面した壁の全てが崩れ去ったのだ。その上、商品の演芸用人形は瓦礫の下敷き、もしくは埃を被ってしまって仕事にならない。まぁ、店が瓦礫だらけじゃそれだけで仕事にならないけど。少なくとも今日の営業は強制終了ね。
あたしの皮肉に二人は苦笑いを浮かべた。追いかけたことによって店が破壊される事態に至ったのならば、彼らにも充分な過失があるはずだ。
「修理費はこちらまで請求して下さい」
知人の青年は胸のポケットから手帳を取り出すと、適当に一枚紙を切り取って書き付けた。あたしはそれを受け取って目を通す。
「……本部に直接?」
そこに書かれた住所は首都にあるエーテロイド協会本部の場所。あたしにとって縁があるようなないような、なんとも言い難い場所だった。
「はい。――で、彼は何処に行きました?」
知人はあたしの問いにはっきりと頷き、ようやく肝心なことを訊ねる。あれだけ大きな移動用人形が見当たらないのだ。もうここにはいないと判断するのは自然だろう。
「人形に乗った人物なら、すぐに飛び出して行ってしまったわ」
さらりとあたしは嘘をつく。万が一匿った彼が極悪人だったら自分でどうにかしよう。そのくらいの自信はある。でなけりゃ独りで店を開いたりはしないもの。
「よほどすばしっこいようだね。アンジェが取り逃がすなんて」
いかにも珍しそうに知人の青年が言うものだから、あたしは思わず笑ってしまう。
「万引き犯を捕まえるようにはいかないわよ。突然店の壁が前触れもなく崩れてご覧なさい。びっくりして直ぐには対応できないわ」
「そうかもしれないね」
辺りの様子を確認して青年は微苦笑を浮かべた。
この店での万引き検挙率は他の店に比べると桁違いに高い。その事実は結構有名な話になっているはずだが、それでもゼロにならないのはそれだけ人気のある人形を扱っている証拠なのかしらね。――そんなわけで、万引き犯を捕まえる度に目の前にいる青年にお世話になっているのである。
「出ていったのはついさっきだから、今なら追いつけるかもしれないわよ?」
あまり突っ込まれたくないので話を別の方向に持って行く。これで二人が去ってくれれば、扉の奥に隠れている彼もほっとすることだろう。いや、ひょっとしたら裏口から逃げてしまったかもしれないけど。
「それもそうだね。追ってみることにするよ」
やれやれといった表情を作り、もう一人の使者に目配せをする。
「律儀な彼のことです。もしかしたら戻って来るかもしれません。その時はすぐに協会まで連絡を」
丁寧な仕草でお辞儀をすると、二人は来た方向とは別の場所へと走って行った。ご苦労なことである。
彼らが戻って来ないのを確認すると、あたしは魔法陣を靴の底で消す。陣が欠けたことで術の効果は失せて、見えなくなっていた移動用人形が姿を現した。店の出入口を粉々にしただけはあって、なかなかの大きさである。二、三人は乗ることが出来そうだ。
あたしはその人形に興味が湧いたので瓦礫をそっとどかしてみた。掘り起こすといったほうがしっくりとくる作業だが、そう掛からないうちに乗り込む場所を見つけた。
なるほど、これは飛行用らしい。それも鳥を模したような見た目重視のものではなく、明らかに飛ぶことを目的とした高速飛行に特化した流線型。移動用人形にもいろいろあるが、ここまで機能にこだわっているものにはあまりお目に掛かれない。しかもこれは玄人の作品だろう。一目見ただけでわかる。無駄がないのだ。さぞかし速く空を進むことが出来るだろう。
「あれ?」
本体の半分以上が出てきたところであたしはある場所に目を止める。
――魔法陣?
違和感があった。丁度翼の付け根の辺りに、後から書き足されたらしい円形の模様。それは素人目にはただの図形にしか映らないだろう。だけどあたしにはそれが魔法陣にしか見えなかった。なんでその図形が他の人間に魔法陣と認識されないかというと……。
「……まさか、ねぇ」
傷をつけるようにして人形に描かれた陣を指先でなぞる。溝のつき方からすると書き順が異なるようだが、これは母さんが考案したものに違いない。でも、どうしてそんなものがこんなところに?
そこまで考えたところで、この人形の主をほったらかしにしたままであるのを思い出した。扉の向こうはとても静かである。そこに人が隠れているとは感じられないほどに。
もういないかもしれないなと思いながら扉を開けて様子を窺う。するとそこには……。
「!」
あたしはびっくりして駆け寄った。死んでいるんじゃないかと思ってしまったのだ。それくらい微動だにせず、壁に寄り掛かって静かに瞳を閉じていた。
……正直に言う。彼はただ眠っていただけだ。ぼろぼろになったローブをまとい、傷だらけの肌はそのままに、それでありながら今はぐっすり夢の中らしい。
「この状況でよく眠れたものね……」
胸がドキドキしている。それは自分の思い違いによるものなのか、彼の美しい寝顔によるものなのかはわからないけども。
――それにしても、だ。
飛行型のそれで店を破壊したわりには彼は元気そうである。細かな傷や汚れはあっても致命傷となりそうなものはないようだし。彼が丈夫であるというより、あの人形が墜落をも想定した安全設計になっていると考える方がきっと正しい見方だろう。衝突された方は粉微塵だが、人形自体にも激しい損傷はなかった。あれならすぐに直せそうだ。
そんなことを思って、はたと気付く。もしも自分が出入口付近にいたとしたら、さすがのあたしでもひとたまりもなかっただろう。小さな擦り傷切り傷くらいは短時間で治っても、致命傷レベルの怪我は言葉通りに命に関わる。被害が店だけで良かったものだ。物は直せても、命は取り戻せない。
これだけの事故だというのに外はやたら落ち着いている。昼下がりで一時的に交通量が少なくなっているとはいえ寂しいものだ。先月行われた交通網の大規模な整備による影響もあるのかもしれない。ここで客商売をするのも潮時なのかななんて思う。
「……一応、処置くらいサービスしてあげるか」
すやすやと眠る彼の横顔に気持ちが緩み、あたしは紙と筆を手に取った。