(1)
唇から伝わる柔らかな感触に、身体の芯から温まっていく。
――なんだろう、この感覚は……。
あたしはゆっくりと瞼を上げた。始めのうちはうまく焦点を合わせられなくて、何が見えているのかわからなかった。次第に輪郭がはっきりとしてくると、自分がどんな状態なのか理解する。
――病院?
見えてきたのは真っ白な天井と、同じく真っ白なローブに身を包んだアベルの姿。それも大袈裟に椅子を倒してあたしから遠ざかっていくところの。
――状態はわかるが、状況がわからんのだが。
あたしは目をぱちくりさせながらアベルに視線を向けた。
「ごっ……誤解しないで下さいねっ! 今のはおまじないといいますか……民間療法といいますか……」
やたらあたふたとしている。想定外の事態に遭遇したらしい。顔を真っ赤にしながら弁解する姿はちょっと可愛くすら思える。
――うーん、あたしは何もしてないんだけど?
「その……すみません! あのっ本当に悪気はなくって……」
――えっと……キスされたってことでよいのかしら?
むくっと上半身を起こしてアベルに向き合う。
「善かれと思ってしたなら、逃げなくったっていいんじゃない?」
小さく首をかしげる。そのとき初めて自分の首に包帯が巻かれていることに気付く。どうやらあの時受けた傷は回復していないらしい。
「いえっでもっほらっ」
顔だけじゃなく、全身が上気している。色白であるだけにその違いは明らかだ。
「寝室侵入事件のことがあるから気にしているの? 今日は怒らないって」
不思議と怒る気にはならないのよね。あの時は部屋にいただけであたしは悲鳴をあげたわけだけど、今回はキスされたわけで、その罪は重くなっていてもおかしくはないのだろうけど。
あたしはアベルの慌てっぷりに気持ちが緩んで思わず笑ってしまう。
「ですが私は……」
戸惑いの表情。警戒しているような素振り。いまだに彼は壁に寄って近付こうともしない。
「なぁに? 下心があったの?」
にやりと笑んでじっと見つめると、アベルは勢いよく首を横に振った。さらさらの長い銀髪がそれに合わせて揺れる。
「滅相もない! 私はあなたがなかなか目覚めないから……だから、そのっ……」
――ま、許してあげるか。不意打ちでそれなりに驚きはしたけれど、あたふたするアベルを見れたから満足だし。それに……アベルにキスされて、ちょっとだけ嬉しかったし。心配してくれたことはとても嬉しかったから、ね。内緒だけど。
「だったらそんなに遠くにいないで、こっちにきなさいよ。ね?」
手招きすると、アベルは恐る恐るあたしのいるベッドにやってきて、倒した椅子を元に戻した。
「――もう大丈夫なんですか? どこか調子が悪いところはありません?」
不安げにアベルはあたしを見つめる。まだ頬は赤い。
「えぇ、平気。アベルはどうなの?」
「あなたのお陰で軽傷で済んだようです。すぐに旅をすることは止められましたが、一週間ほど静養すれば問題ないと」
「……今回はそれで済んだけど、次は本当に死ぬかもしれないわよ! あの男は本気であなたを殺すつもりだったわ。なのに命乞いはしないだなんて、正気で言える台詞じゃないわよ! そんなことされて残されてもあたし、嬉しくないっ!」
あの夜のことが次々に思い出される。それだけでも身体は震え、心は揺れた。あのとき言えなかった気持ちが次から次へと言葉に変わる。
「ですが、あなたには逃げてもらわないと意味がなかった!
――それに助けるためだけに命を無駄使いするような奇特な人間でもありませんよ。あなたには証人になってもらう必要があった。あの男が何をしたのかを伝えてもらわないとならなかったんです!」
「ばかなことを言わないで! あたしがあなたを見捨てて逃げるような女に見える? 人選を誤っているって思わないの? あたしだって馬鹿じゃないわ。勝算のない争いはしないわよ!」
「それで倒れて三日間も眠られたんじゃ、こちらだってたまりませんよ! どれだけ私が心配したと思っているんですかっ。あなたを勝手に巻き込んでしまった上に、このまま目覚めなかったらどうしようかって不安に思っていたこと、あなたにわかるっていうんですかっ!」
そこではたと気付く。――三日?
「……ちょっと待って。――あたし、そんなに気を失っていたの?」
「そうですよ。私を治療するなり高熱を出して倒れられて……。医者には特にできることはないから様子を見ているように言われるし、あなたは苦しそうにうなされているし、……それもずっとですよ? 自分の心配どころじゃないですよ。だから私にも何かできないものかと……」
それでキスしてみたわけだ。あたしの霊魂に対して働きかけたのだろう。あの優しい温もりはアベルの霊魂によるものだ。
「……ごめん。それは悪かったわ。甘くみていたの。まさか倒れるとは思ってなくって……。そんなに心配かけさせていたとは考えなかった。嬉しいよ。ありがとう」
うまく気持ちを言葉にできなかったので、あたしはアベルを引き寄せて抱きしめた。――本当にごめんね。
「……あなたが無事で良かった」
あたしが思わず呟くと、アベルはぎこちなく手を背中にまわす。彼の胸に密着したあたしの耳は、鼓動が少し早くなったのを聞き逃さなかった。
「簡単には死ねませんよ――少なくともあなたの無事が確認できるまでは」
「死なせたりしないわよ。あたしがそばにいる間は、絶対」
あたしがアベルを解放すると、彼もそっと離れて微笑んだ。
「良かった。もう大丈夫そうですね」
「お陰様で。――キスの効果かしら?」
おどけて言うとアベルは再び頬を紅潮させた。――面白いネタを手に入れたものね。
「そのこと、誰にも言わないで下さいよ。――私はあなたを起こすためにそうしただけで、本当に他意はないのですから」
視線をわずかに反らして呟く。
「あら、それはなんか残念だわ」
わざとらしく言ってがっかりする素振りを見せる。――半分くらい本当の気持ちだけどね。
「――全く他意がなかったら、さすがの私でもきっとしませんよ」
ぼそっと呟かれたその台詞にあたしは思わず反応する。心拍数が上がってしまう。
「……へ?」
「相手があなたじゃなかったら、しなかったって言っているんです」
――ちょっと待って。
アベルはあたしを真っ直ぐ見つめた。左右で色の異なる特徴的な瞳があたしをしっかりと捕らえて離さない。心まで奪われてしまいそうな、感情がこもった美しい瞳。
「私にはあなたが必要なようです。今まで自覚していなかったのですが、あの襲撃事件ではっきりしました。あなたにはそばにいて欲しい。できればずっと」
「!」
――なななななっ! なにっ! 何が起きているの?
あたしはどうしたら良いのかさっぱりわからない。――それってさ、その台詞ってさ……告白ってことでしょう?
「ですが、これは私の一方的な感情だ。あなたの都合を考慮していないわがままな気持ちです。――私はあなたの退院が決まり次第、一度実家に戻ろうと思っています。その時に是非ともあなたに同行願いたい。嫌だとおっしゃるなら別の方法を考えましょう」
「……えっと……」
――なんと答えるべきなの?
適当な言葉が浮かばない。混乱していた。寝ぼけているせいかもしれない。
「今すぐに返事をとは言いません。まだ時間はありますから」
言うと彼はにっこりと笑む。
それに対してあたしは何も返せない。ただ見つめ返すくらいが精一杯。ひょっとしたら瞬きさえしていなかったかもしれない。
「――医者を呼んで来ますね。目が覚めたら呼ぶように言われているんです」
「……あ、うん」
なんとか頷くくらいの反応はできた。なんか現実味を全く感じられない。夢を見ているみたいな気分。久々の良い夢。
アベルはほっとしたような穏やかな表情のまま部屋を出ていった。
――だけどさ、アベル? あたしは本当にあなたのそばにいて良いの? あなたのその気持ちは嬉しいよ。それは本当だよ。……でも、あたしは答えられないの。だってあたしは――アンジャベル家の末裔だから。




