(3)
「――面白い女を連れているものだね」
その台詞は部屋の隅で苦しそうにしているアベルに向けられたものだった。男はあたしに触れたまま、視線をアベルに移した。
「彼女は無関係でしょう? あなたの用は私だったはず。彼女を解放してください」
息が上がっている。この位置からは確認できないが、察するにアベルの顔から血の気が失せているだろうと思える。
――あたしがアベルを助けなくっちゃ……。
そう感じているのは確かであるはずなのに、全く身体がいうことをきかない。何かの術を掛けられたにしては、相手の動作にそれと思えるものはなかった。――なら、どうして?
「君の件とは別件だが、俺は彼女にも用事があってね。――ところで君は彼女がアンジャベルの末裔だとわかっていて連れていたのか?」
「…………」
アベルは答えない。返事ができないほど消耗しているわけではないだろう。彼はあえて黙っている。鋭い視線をこちらに向けて。
「ふん、だんまりか。言いたいことがあるなら今のうちに言っておくことを勧めるぞ?」
「彼女を解放してください」
男の挑発に対し、アベルはとても冷めた落ち着いた声で言い放った。意志の強い瞳は男を捉えたままだ。
「そんなに大事か? 君にとっても彼女は憎むべき対象なんだろう? 違うか?」
――それってどういうこと?
あたしは男が何のことを言っているのかわからない。あたしがクリサンセマム家に対して持っているわだかまりなら説明するほどではないけれど。
――どういうことなの? アベル?
「そんなことを知ってどうするつもりです? 私が誰とともに旅をしていようが、あなたには関係のないことだ。――そして、私の願いは一つ。アンジェリカさんを解放してください。……私は命乞いなんてしませんよ」
アベルはそう言ってごまかしたけど……ちょっと待て。そんなのあたし、認めないわよ!
「潔いな。いい心掛けだ」
男がやっとあたしから離れた。一歩ずつゆっくりと余裕のある足取りでアベルに近付いていく。
「――しかし、その条件はのめない。俺は彼女を必要としているからな!」
「ちっ!」
振り下ろされた男の手には黒光りする小振りの刀。一瞬手の甲が光って見えたから、魔術で刀を生み出しているのだろう。つまりこの男は……。
――陣魔術師ってこと?
アベルはギリギリのところでその剣先から逃れる。致命傷を避けられただけで、彼を包む白いローブは新たな赤い染みを作った。
「気が変わった。――そんなつまらないことを言う奴にはきっちりと苦痛を与えてやらないとな! ベスがどれだけ苦しんだのか、その身に刻んでやらぁっ!」
男は目をぎらぎらとさせながら刀をふるう。その太刀筋はいずれも致命傷を与えることがないように計算されている。
一方のアベルはなんの反撃もせずに受けるばかりだ。
――だけど、なんで?
人形を使えば充分に対応できるはずである。アベルはあの移動用人形以外にも複数の人形を持ち歩いている。今日だって部屋に持ち込んでいたはずだ。なのに……。
そこまで考えて、ようやく事態を把握した。――そうか、この明かりのせいで気付かなかったけど、ひょっとしたらこの部屋は……。
握り締めていた紙にペンを走らせると、術をすぐに発動させる。部屋を満たしていた青白い光は柔らかな橙色の光に変わる。それと同時に無数の魔法陣が浮かび上がった。
「!」
どおりで外から中の音が聞こえなかったはずである。この部屋のいたるところで消音、防音、人払いを目的とした陣が展開していたのだから。それもかなり複雑な、高度な陣である。その中には傀儡師の扱う魔術を封じるものさえあった。これではアベルは手も足も出せない。
男の動きが止まった。
「――何故、彼を助けようとするんだ?」
アベルの呼吸は浅い。気を失ってもおかしくない状態だと思う。それでも男はとどめを刺さなかった。よほど深い恨みを持っているのか。
「友達を助けるのは当然でしょ? それに、殺されそうになっている人間を黙って見捨てるなんてあたしにはできないわ」
あたしの声はどうしようもなく震えていた。いつもならもっと歯切れよく言ってやるところなのに。――自分でも感じ取れるくらいの迷いが台詞に含まれていた。
「そりゃ正義感が強いことで。さすがはベスの娘だな。そういうところはそっくりだ。――だがな、アンジェリカ。クリサンセマム家のせいで君のお母さんは死んだんだぞ! クリサンセマム家がベスを見捨てたせいで彼女は命を落としたんだ! 復讐するのは当然の権利だろうがっ!」
「――だからあなたは私の兄を殺したんですか?」
アベルの細い声が割り込む。
「あれは事故だろう? 操作ミスで死んだんだ。自分の能力を過信したためにね」
男は嘲り笑う。
「そうでしょうか? あなたが人形に陣を描いて操ったんじゃないのですか?」
――人形……陣……。じゃあ、人形を譲ってもらったって話は……?
男は笑うのをやめて、今にも死んでしまいそうなアベルを冷たい目で見下ろした。
「……なるほどな、カイルよ。あんたの目的はそっちだったのか」
ぼそっと男は呟くと、再び右手の甲が淡く光った。
――カイル? どっかで聞いた名前だけど……。
「――アベル君、他に言い残したことはないか? いい加減に楽になりたいだろう?」
血塗れのローブに身を包むアベルだったが、その双眸に宿る光は色褪せない。
「……アンジェリカさん……逃げて」
「――どうして君は格好をつけたがる? 君は彼女を利用したいだけだろう? ならばそう言えばいいじゃないか。どうして自分を綺麗に見せたがる? そんなんだからアイツは……!」
ナイフが振り下ろされる。
あたしは二人のやり取りを聞きながら描いていた陣を発動させた。
解除用の魔法陣。それも取って置きの強力なやつ。範囲はこの室内全域。対象は魔術に関したもの全て。制限はあたしの最大魔力容量ってところでどう? それだけあれば、全部一時的に解除できるでしょ?
部屋が一気に暗くなる。魔術的なもの全てを無効化したため、外の明かり以外に光はない。
「くそっ! 解除魔法かっ」
苛立ちと焦りの気持ちを隠さない男の声。
「さ、これなら他の宿泊客も気付くんじゃないかしら?」
――しまったな……身体が熱い……。
一度に複数の魔法陣を解除させたことによる反動を直に受けている上に、自分の身体に刻まれた魔法陣が変な反応を起こしている。自分の痣のことをちゃんと考えておくべきだったわ。
男は大きな舌打ちをする。
「ちっ! ――なぁ、アンジェリカ。君も一緒に来ないか?」
「どうしてあなたについていく必要があるのよ?」
遠回しに拒否宣言。
「陣魔術の復権を願っている集団がある。彼らはアンジャベル家の復興を切実に望んでいるんだ。是非とも君に協力願いたい」
「陣魔術の復活とアンジャベル家の復興は関係ないわ。余計なお世話よ」
気持ちだけはしっかりと言っておく。体力ギリギリのせいで迫力に欠けたんだけどもね。だけどはったりだってときには必要でしょ?
「後悔しても知らないからな」
男の声が遠ざかる。外を走って行く音はすぐに聞こえなくなった。
「――アベルっ! ちょっと我慢していて。すぐに応急処置をするから」
熱っぽさと気だるさで頭がぼうっとしてくるが、今は自分のことよりもアベルの手当てのほうが一刻を争う。あれだけ出血していたのだ。これ以上血を失ったら本当に……。
アベルに駆け寄ると、彼はぐったりと床に転がったまま動けずにいた。ローブは真っ赤に染まり、特に状態のひどい左肩の辺りはしぼれるくらいに濡れている。
「止まらないものですね……」
激痛に顔を歪ませながらアベルはなんとか声を出す。
「もう黙っていなさい。あの男なら出ていったから」
紙に描ける大きさの陣では足りないと思い、いつも身に付けているチョークを取り出して床に直接陣を描く。その床にも無数の血痕があった。
「……すみませんでした。あなたに怪我をさせてしまった。……申し訳ない」
アベルの焦点は定まっていない。空虚に天井を見つめている。言葉も虚ろで、声は浅い呼吸の中に埋もれている。
「あたしは擦り傷。もう回復しているから、大丈夫。――だから、あなたは黙って自分の心配をしてなさいよ」
声に涙が混じってしまう。
――あたしは諦めない。必ず救ってみせるんだから。だから泣いちゃダメよ。
それにアベルにはあぁ言ったけど、あたしの怪我は完治していない。解除魔法の影響で傷口が開いてしまったのだ。
――思ったより反動がキツイ……。あの男、相当強力な術を使っていたのね。
人形の修復に使用するものを人体用に応用した魔法陣が完成すると、すぐに発動させた。部屋を橙色の柔らかな光が包み込む。患部を完全に治せるものではないが、止血をするだけなら充分なはずだ。
「くっ……」
アベルの傷口に光が集まり出すと、彼は痛そうな表情を作った。回復する際に生まれる熱に反応したのだろう。その感覚はよくわかる。
――はぁ、良かった。魔術を使えるだけの力が残っていなかったらどうしようかって心配しちゃったわ。
少しの間アベルはうめいていたけれど、やがて静かになり彼はあたしに顔を向けた。穏やかな表情。あたしは彼のローブを脱がせ、左肩の状態を見る。
「止まったみたいね……」
――あれ……? 視界が……?
ふわふわとした感覚。いや、くらくらする。
「アンジェ?」
起き上がれるまで回復したらしい。良かった。
「――あくまでも応急処置だから……必ず病院には行ってね」
不本意ながら、あたしはアベルに寄り掛かるように倒れた。彼はしっかりと受け止めてくれる。
「大丈夫ですか? すごい熱じゃありませんかっ!」
――あぁ、まずい。大丈夫じゃないかも。
意識していなかったが、完全に息が上がっている。こんなことは初めてだ。
「自分を大事にしなさい……あたしなら平気だから……」
格好がつかないのだけど、あたしはそう呟きながら彼の腕の中で気を失っていた。




