(2)
そんなことがあってから、さらに時間が経った。
一日休んだくらいでは回復しきれないくらいのダメージだったのかはわからない。気持ちの問題だと言われたらそれまでだし、なんかもっと違うもののようにも思える。とりあえず言えることは、悪夢はしつこく続いているということ。旅を始めてから半月くらい経過したけれど、夢見は悪いままだし、これといった情報も見つからない。五ヵ所ほど支部をあたったが、陣魔術師自体の情報が全くないのだ。これには本当にお手上げね。
それでもあたしたちはめげることなく旅を続けている。アベルの前では明るく振る舞って心配かけないようにしているつもりだけど、あの様子だとあたしがあんまり眠れていないのを知っているみたい。でも無駄な努力だとは思われたくないわ。あたしは彼を支えるつもりだし、楽しませると言ったのはあたしだもの。自分の言葉に責任を持つつもりよ。だいたい、つまらない女だと思われたくないもの。くだらないプライドだとわかっていてもね。
夢のこともあって、あたしは結構遅くまで陣魔術の勉強をする日々を送っていた。実家から何冊か気に入っている本を携帯していたので、それらをぺらぺらとめくりながらアベルの人形に描かれていた魔法陣について考察を深めているところである。あたしはまだ納得していないから。何かの間違いであってほしいから。
しかしこの思いとは裏腹に、その陣の効果があたしに現実を見せつける。どこをどう解釈しても、本に書いてあることがでたらめでない限り、疑似霊魂にとってあまり良くない影響を与えることを示していた。――あたしはまだその調査結果をアベルに伝えていない。自分が不確かだと思っている情報を不用意に教えるものじゃないでしょ? 確信を得るまで、あたしは黙っておくつもりだった。
「……さてと」
そろそろベッドに横になろうかと思い立ち上がる。開けてあった窓を閉めようとしてあたしは異変に気が付いた。
――あの影……。
窓の外に人影。この方向は宿屋の中庭――主に移動用人形を停める場所として使われている――のはずだから、こんな時間に人がうろついている訳がない。見間違いかとも思ってじっとその影を追っていると、それはあたしたちが泊まっている建物へと近付き、ある部屋の中へ窓を破って侵入した。
「えっ?」
ガラスの破られる音がかすかに響く。そこまで大きな音ではなかったから、注意して聞いていないとそれとわからないだろう。
――ううん、そうじゃなくって。
明らかにあの影は目的を持ってあの部屋を選んでいる。この町では大きい宿であるここは、一階の一部から三階までを宿泊部屋としている。あたしがいるのは三階の角に近い部屋で、たまたま中庭の全体が見渡せる絶好のポイントだったんだけど――あれ?
そこで一度思考停止。すっと血の気が引いた。
――まさか。
宿屋の見取図を頭に思い浮かべながら、あたしはペンと紙を探した。
――あの影は迷うことなく二階の部屋を選んだ。始めからそこに入ることにしていたように見えた。ただの強盗なら、逃げやすい一階かちょっと値が張る部屋を選ぶと思う。だけど、あの影が消えた部屋は……。
「アベル……!」
そう、あたしが記憶している限りではアベルが泊まっている部屋なのだった。
あたしは自分の最強の武器であるペンと紙を握ると慌てて部屋を飛び出した。
部屋の前はとても静かだった。廊下は真っ暗で、ランプを持ってこなかったあたしは自分の目を頼りに、慌てつつも他の宿泊客の迷惑にならないように小走りでやってきたのだが。
――不気味なくらい静かね……。
仮にあたしが寝ぼけていて、あれが見間違いだったとしよう。部屋を訪ねて彼が普通に眠っていたのだとしたら。
――また同じネタは使えないわよね。
中の様子を窺うためにドアに耳を当てる。どういう訳か寝息さえ聞こえない。
――……?
不審に思い、咄嗟に紙に陣を描いた。風の状態を変化させ、音を聞き取りやすくするものだ。あたしはすぐさまに発動させる。
聞こえてきたのは話し声。少なくともアベルは寝ていないし、あたしの知らない第三者がそこにいる。
「――ベスの敵だ。悪く思うなよ」
聞き覚えのない男の声はそう言った。
「その台詞、そのまま返しますよ!」
粋がっているものの、心なしかアベルの声は震えていて小さい。嫌な予感。
「その怪我でよく言えたものだな! ――まぁいい。すぐに楽にさせてやるよ」
殺意むき出しの声にあたしは寒気を感じ、なんの策も練らないままにドアを魔術で吹き飛ばした。――正確には、精神状態を安定させることができなくなって、聞き耳を立てるためだけの術が暴走してしまっただけなんだけど。でも今はそんなことを気にしている場合ではない。
「アベル!」
「アンジェっ来ちゃ駄目だ!」
部屋は魔術で作られた青白い明かりが灯っており、アベルの姿と彼が対峙している相手の姿が目に入った。
しかしのんびりしている暇はない。男はあたしが認識するよりも速く動いた。
「!」
暴走する風が障壁となって男の攻撃がわずかにそれる。
――かなり戦い慣れしている!
男が向けたナイフはあたしの喉を狙っていて、殺すことを全く躊躇していなかった。喉を狙ってきたのは悲鳴をあげさせないためでもあるのだろう。偶然避けられたけれど、あれでは確実に命を絶たれていたはずだ。致命傷とはならなかったが、その剣先は首元を覆っていた襟を切り裂いていた。
――痛っ……。完全に避けきったわけじゃないのね。
切られた場所に手をやる。出血はわずかで、これならすぐに回復できる。擦り傷だ。
「……その痣」
男はあたしから数歩離れた位置に一瞬で飛び退くと、自分で付けた傷を見つめた。
「なるほど、ベスの娘か。なんでこんなところに」
相手の殺意が消える。少なくともあたしを殺すつもりはないらしい。
「ベスって……まさかエリザベス=アンジャベル?」
「やはりそうか」
あたしは動揺していた。エリザベス=アンジャベル、それはお母さんの名前だ。行方知れずとなった、あたしのお母さんの……。
男はゆっくりとあたしに近付く。あたしは合わせて下がる。
「なんで君がこんなところにいるんだ?」
「あなたには関係のないことだわ! アベルに何をしたのよ!」
視界の端には左肩から血を流すアベルの姿。止血を必要とする大怪我だ。
「関係ない? ――いや、それはないだろう」
あたしが壁においやられると、彼はぴたりと止まった。
「俺には奇妙に映るね。どうしてアンジャベル家の人間である君が、一族を没落へとおいやった原因そのものであるクリサンセマム家の人間と一緒にいるんだ?」
「!」
悪夢の続きを見ているかのようだった。
アンジャベル家はクリサンセマム家によって歴史の表舞台から引きずり下ろされた。ある事実を踏まえるとそう捉えることは充分に可能だ。しかし今まであたしはそれを否定してきたはず。――なのに……。
――――言い返せない。
「アベル君の様子からすると結構仲良くしているように見えるが……。――うまく手懐けて利用しようとしているのか?」
「…………」
何故かあたしは言葉が出てこない。さっきの攻撃に怖じ気づいているわけではないと思う。だとしたら……あたしはこの男の考えを肯定しているってこと?
痛む首を横に振ることしかできない。
「……ふぅん」
男は嫌な笑いを浮かべてあたしの頬を撫でた。固くて冷たい感触。あたしはその手を払うこともできずに、じっと男を見つめるばかりだ。動けない。




