祭りの後
掌サイズしかない小さなぬいぐるみをバラク様の顔に押し当てて、私はなんとかその攻撃を防いだ。
バラク様の攻撃は、当たれば一撃必殺の威力をもっている。きっと訳も分からず翻弄されて、私はここで大人の階段を一気に駆け上がってしまうことになる。
喧嘩をする前の私なら、それでもよかっただろう。翻弄されようとどうなろうと、既成事実さえ作ってしまえばよかったのだから。けれど決意が揺らいでしまった今の私は違う。
とにかく怖い。震える手を止めることが出来ないほどに恐かった。バラク様が怖いんじゃない。行為自体が怖いのだ。未知の世界に足を踏み入れることが心底恐ろしかった。
そんな気持ちでバラク様を迎え入れられるわけがない。
泣いて、喚いて、止めてと叫ぶだろう。暴れてまたバラク様を傷つけかねない。それが嫌で、そして恐かった。
だから、呆然と私が掲げるクマのぬいぐるみを見つめるバラク様に一言告げた。
「今日はもう駄目です」
クマのぬいぐるみをずらしてバラク様の茶色い瞳を見る。その瞳にははっきりとわかる色欲がある。あの色欲のこもった攻撃を受ければ、私は完全にノックアウトだ。ただ倒されるだけならいいが、目一杯抵抗してしまう様が想像できるだけに駄目なのだ。
「ちゃんと病院へ行って手当をしてもらってください。国を守る大切な体なのに、化膿したら剣も握れなくなります。それが私のせいだなんて、考えただけで嫌です」
完全な言い訳である。言い訳だとばれないようにまたクマのぬいぐるみの影に隠れた。ぬいぐるみ自体が小さいから顔全体が隠れるわけじゃないけれど、あの茶色の瞳から逃れられるなら何でもいい。
「ミナ嬢」
「駄目ったら、駄目です」
諭すような言い方に、私はぬいぐるみをバラク様に押し付けた。少しでも彼との距離をとりたい。
「その代わり手の怪我が治ったら、また食事に誘ってもらえますか?」
と、譲歩策を提案する。それに快くOKの言葉が返ってきた。
「約束ですよ。絶対ですよ」
今度こそ心を整えて、また既成事実に挑戦しますから。また今日みたいに胸をガン見してやめないでね。
思いを込めてグイグイぬいぐるみを押しつけたら、その腕ごと抱きしめられた。
「ひゃあ」
私の口から変な悲鳴が漏れる。
筋肉質なバラク様の腕の中は、まさしく筋肉でできた牢屋だ。一度入ると自分では抜け出せない。その腕が私をそっと抱き起した。ベッドから起こして床に立たせてくれたものの、いろいろなことがありすぎて足に力が入らない。揺らめいた体は、勝手に目の前の筋肉の牢屋に自分から飛び込んでいく。
何やってるんだ、私ってば。
焦れば焦るほど、足はガクガクしてくる。見かねたバラク様が、私を抱え上げた。今の私は彼の右腕にお尻が乗ってる状態。子供抱きというんだろうか。小さな子供をお父さんが腕一本で抱いているのを見たことがあるが、まさしくそれ。身長差があるからかバラク様がやはりデカいのか、難なく腕の上に納まる私のお尻。
「バラク様!」
重いでしょ、私。体重いくらあると思ってるの? 体重だけは子供なみじゃないんだから。バラク様の腕がもげる、折れる!
「降ろしてください。自分で歩けます」
なのに、バラク様はそんな私の言葉などどこ吹く風で、そのまま歩き出す。振動が体に伝わって、咄嗟に目の前にあった首にしがみ付いた。大股で歩くせいで、振動が大きくなる。絶対ワザとだ。
私はバラク様にチョップをかました。
「もっとゆっくり! というか、降ろしてください」
このままではいくらなんでも恥ずかしい。
「玄関まで見送ってくれないのか?」
「見送りますから、降ろしてください」
「では、このままでも問題ないだろう」
そういう問題ではない。私は呆れてバラク様を見つめた。側にある茶色い瞳から楽しんでいるのが一目でわかる。この人は本当に顔に表情が出やすい。わかりやすくていいけどね。
部屋を出て階段に差し掛かる。私はしがみつく腕に力を込めた。ジェットコースターみたいに安全ベルトはどこにもない。あるのはバラク様の二本の腕だけ。しかもそのうち一本は私が傷を負わせてしまっている。
「落としはしない」
「わかってても怖いんです」
毎日鍛えてる騎士だし、何があっても助けてくれると思うけど恐いものは恐い。ぎゅうと抱きついたらまた苦笑された。
大股で歩いた廊下と違って、階段は妙にゆっくりと降りた。振動も全然感じない。怖さは少しだけマシになった。周りを見回す余裕もできた。それにしても視点が高い。二メートルから見下ろす視界は妙に広く感じられた。いつもの場所でも違って見えるから不思議だ。
玄関ホールに着くと、そっと腕から降ろされた。今度はちゃんと力が入るから自分で立てる。正面に立つバラク様を見上げる。
「ちゃんと、病院に行ってくださいね。絶対ですよ」
「そんなに不安なら、ついてくるか?」
問われて私は首を振った。足に力は入っていても、なんだか頼りなげで遠くまでは歩けそうにない。町で抱っこされるなんて冗談じゃない。想像しただけで赤くなってしまう。
「次の食事の時を楽しみにしてます」
私はうつむいたまま答えた。その目にクマのぬいぐるみが映る。部屋からそのまま持ってきてしまったものだ。
私はそれをバラク様のお腹にグリグリと押し付けた。途端にバラク様は膝をついて私と視線を合わせてくれる。
こういうところ、本当に優しいよね。
「この子、持って帰ってください。約束を忘れないように」
紅茶のムラムラ効能が切れて、いつ怪獣優柔不断男になってしまうかわからない。約束の証を渡しておけば、優柔不断でも連絡くらいくれるだろう。
「離れていても、繋がっていたいです」
「わかった。また連絡する」
「はい。待ってます」
茶色の瞳を見上げる。そこには先ほどまで一目でわかった感情的なものはなく、冷徹なほどの光が宿っていた。何の感情も見いだせない瞳に少しだけ不安になる。私は思わずバラク様の首に抱きついた。
ムラムラ効能が切れても、また必ず誘ってくださいね。
願いを込めて抱きしめ、腕を離した。バラク様は私からぬいぐるみを受け取って立ち上がると、玄関を出た。外はまだ明るい。たぶん二時くらい。その太陽の下、バラク様が少し歩いてこちらを振り返る。
「気を付けて帰ってくださいね。それと食事のこと、忘れないでくださいね」
「わかってる。では、また」
バラク様は右手を左胸に当てて騎士の礼をとり、軽く頭を下げた。
スマートな人が、例えばバン様みたいな人がすれば格好もついたんだろうけど、巨体を誇るバラク様がやるとモアイ象みたいだった。しかもその手には小さなクマのぬいぐるみ。
私は吹き出しそうになるのを必死で我慢した。その背が見えなくなるまで、私は吹き出しそうになるのをずっと我慢していた。
それからひと月近く経っても、バラク様から連絡が来ることはなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
『顔合わせ編』完結です。完結と言いながら、次につながる言葉を入れております。
さて、ミナの心情によってバラクに様を付けたり抜いたりしています。読みにくい場合はつけようかとも考えているので、感想を頂けるとありがたいです。
次話からは『夜会編(仮)』です。書きだめするためにしばらく投稿は控えますが、待っていてくださるとうれしいです。
ひと月も放ったらかしにされたミナがどう暴れるか、ご期待ください。