道行き
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道端に猫が座っていた。
何かするでもなく、じぃ…………っと座っている。
白と黒の、結構毛並みのいい猫で、飼い猫なのかも知れない。
「おやおやこれはこんにちは。こんな所で何してるんだい?」
横にしゃがみ込んでも、猫は泰然として動かなかった。ただちらっと見上げるのみである。
「んー? どうかしたの………あれ?」
工藤はふと首を傾げた。ちょっとの間じっと、猫を訝しげな表情で見つめる。
「あれ、君………」
猫は依然として、じっとどこかを見つめている。
何を見ているのか。工藤は猫の視線の先を追って、
そこにあるものを、
見た。
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道端で猫が死んでいた。
車に轢かれたのだろう。車道の中央付近から猫に続いて、血が筋になっている。
ぐったりと転がっている猫は、恐らく飼い猫だったのであろう、毛並みのよい白と黒の猫だった。
工藤の横に座る猫は、車道に横たわるその猫をじっと見つめているのであった。
「………そっか」
工藤は小さく呟いた。それから立ち上がって、左右を見て車の来ていないことを確かめるとその猫のところへ歩いていった。そして横にしゃがみ込む。
横たわる猫は、鼻と口から血が溢れていたが、他に目立った外傷はなかった。内臓を壊されたのかも知れない。
見ると、工藤の横にさっきの猫がいた。ちょこんと座って、横たわる猫を見ている。
カァ、とどこかそう遠くないところで烏が鳴いた。
しばらくそのまましゃがんでいたが、ぽつりと工藤は、
「………でも、ウチに何ができるのかな」
道端で猫が死んでいる。
それを見て、何かしらの感情を覚えても、結局立ち止まることもなく目を逸らして通り過ぎる。
それは、言葉にすれば非情のようだが、割と普通のことだ。
死んでいる猫を哀れに思うことがあっても、だから何かしようとする人はまずいない。
ならば、その猫に対して何かすることは善なる行為だろうか。
そうかもしれない。
死んでいる猫を供養しようとする思いは、決して間違ったものではないはずだ。
だが。
それならば。
何かしようとしたとして、何ができるというのだろう。
その猫に対して、一体何ができるというのか。
拾って帰り、埋めてやるか。
だがそれでいいのだろうか。
それは、その猫が誰にも知られないまま、初めからいなかったことになりはしないか。
善も悪も、判断はつかない。
つけようがない。
何が正しくて、何が間違っているのか。
何をするべきで、何をしてはいけないのか。
手を出すことで状況をより悪くさせるのが怖い。
少しでも善意をもって猫に向き合った者は、そう思って結局諦めてしまう。
だが他に何ができるのか。
役所か保健所に連絡し、回収してもらうか。
それが、恐らく最善なのだろう。
行きずりの人間にできる、最上策だろう。
「でも」
工藤はまた小さく呟いた。
「それも何か………違うよね」
一般人に、できるのは。
せいぜい、手を合わせるくらいだろう。
でも、少なくとも工藤にとっては、それも違う。
本人の見ている前で、手を合わせて、それは何の為なのか。
何かすべきことがはるはずで、何かできることはあると思う。
でも、どれだけ考えてもわからない。
ふと、視線を感じて見ると、横に座る猫がこちらをじっと見ていた。
「んー………ウチはジョージ君じゃないから、君の言いたいことはわからないよ」
困ったような笑みを浮かべて、それでも工藤も猫の目を真っ直ぐに見返した。
猫は、視線を逸らさない。その澄んだ瞳は小揺るぎもしなかった。
「………うん。ウチはやっぱりパウエル君じゃないから、君の伝えたいことも君の気持ちもわからないんだけど」
でも、と工藤は続けた。
「でも、何となく、わかったような気がするよ」
工藤は横たわる猫の亡骸にそっと触れた。恐る恐る、その身体の下に指を差し込み、抱え上げた。
猫の亡骸を抱えて立ち上がる。
足元の猫を見ると、猫も身を起こしていた。亡骸を抱えたこちらを一瞥すると、背を向け、歩き始めた。
工藤もその後に続こうとして、ふと。
腕の中の猫が目を開いたままであることに気付いて、そっとまぶたを下ろした。
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「いや、ちょっと、もうちょっと道を選んで………!」
工藤が半泣きで言うが、猫は一顧だにせずにてくてくと先を歩いていく。
道を選んではいるのだろう。
多分、猫の散歩コースだ。
塀の上。
その上を、工藤はふらふらと、恐る恐ると歩いていた。
ただでさえ狭い足場である上に、工藤は猫を抱えている。
歩きにくいことこの上ない。
しかも先を行く猫はほとんどそういう道しか選ばず、家の中の住人や、庭の手入れをしている人と結構目があった。皆さん唖然としてこちらを見送っていた。それはそうだろう。いい年した女が塀の上を半泣きで歩いているとなれば。何の冗談かと。道沿いの塀を歩いているときなどは、クスクス笑う女子高生や呆れた顔のおじさんなど、かなり恥ずかしかった。
だが猫はどこで曲がるかわからないので、降りたくても降りられない。
そうやってどれくらい歩いた頃か。あちらこちらと、猫は思いも寄らないところで急に曲がったりするので、そのたびに工藤はおっかなびっくりついて行っていた。慣れない姿勢で不器用にバランスを取り続けたせいで、背やら腰やらが痛くなってきた。特にふくらはぎがかなりまずい。今にも両脚一度につりそうだ。
こんなへっぴり腰でも猫についていけたのは、猫がこちらの速度に合わせてくれていたお陰だ。
だがさすがにそろそろ限界だ。気を抜くと塀から転げ落ちそうだ。
「も、もう無理、少し休ませて………」
何度目かわからない弱音を吐いたとき、一メートル程前を歩いていた猫が不意に塀を飛び降りた。家と家との間の塀だ。誰かの家の庭に入ったらしい。あと一息、と必死の思いで前進し、猫が飛び降りた場所まで進んで、その先を見た。
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女性もこちらを見ていた。これまでの人たち同様、あんぐりと口を開けている。
花に水をやっていたらしい。ホースから水が迸っていた。
「あ、あはは。えーっと」
なんと説明したものか。頬を掻こうにも両手が塞がっていて如何ともし難い。
先程まで工藤を先導していた猫は、女性の足元に座っていた。
「えっと………この猫、あなたの飼い猫だったりしますか?」
塀の上にしゃがんで、抱えていた猫を差し出す。その猫を見た女性は、一瞬息を飲んだ後、ホースを放り出して駆け寄って来た。
「エリン? エリン!!」
泡を食った様子で、女性は工藤から猫を受け取った。
猫は、死んでいる。
女性は工藤を見上げた。
「その………結構遠いところの道路で、車に轢かれていました」
ここまで猫道を必死でたどってきていたために、どこからどれくらい来たのかわからなくなっていた。
「そう、ですか………」
女性は腕の中の亡骸を見下ろした。
「これは………もう、助かりませんね」
小さい声だ。工藤は何も言葉を返せない。
「あなたは?」
「え、あ、ウチは、その、そう、通りすがりの者です」
女性は小首を傾げた。
「でも、どうやってここまで………というか、どうしてそんなところから」
「え? えー、えーっと」
道案内してくれたんです、とは言えない。言ったところで仕方ない。だから工藤は「えははははは」と必死で笑ってごまかした。
ショックの大きいらしい女性は、顔色も相当悪くなっていた。
「その、では、ウチはこれで」
「あ、はい………あ」
「え?」
ゆっくりと立ち上がった工藤は、女性の方を振り返った。
「な、何か?」
「その、服」
ん? と工藤は自分の服を見下ろした。
「服に、血が」
猫の血が、どす黒く服に染みていた。
だが工藤はすぐに笑顔を見せ、
「や、このくらい、いつものことですよ。洗えば落ちますから。大丈夫大丈夫」
実のところは滅多にないことだし、血は洗ってもまず落ちないことは工藤だってよく知っていたが、工藤は笑い飛ばした。
耐えられなかったのだ。
ではではと、今度こそ工藤は塀の上をできるだけ歩き慣れているように見えるように、実際は相変わらずのへっぴり腰でそそくさと立ち去った。
一度も振り返らなかった。
振り返れなかった。
一瞬、普通の道まで案内してもらえばよかったかなと思いはしたが、すぐに打ち消した。
それでは、駄目なのだ。
そろそろと、自分としては全速力でのろのろ進んでいると、横から不意に何かが塀に飛び乗った。
敵か、と身構えようとしてバランスを崩しかけ、勝率を一瞬で計算し、自身の転落は必至とまで覚悟したところで眼前に座るものの正体に気付いた。
さっきの猫だ。
「君………」
猫は鳴きもせずに、また身を翻して歩き始めた。
まだ先導してくれるらしい。
工藤も無言でその後を追った。
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これまでの道程が嘘のようにあっさりと人の道に出て、工藤は安堵しながらゆっくりとずり降りた。飛び降りたら怪我するのは間違いないと思ったからだ。全身がひきつるように痛くなっている。地に足を着けてようやく全身を伸ばすと、至るところでボキボキと鳴りまくった。
それから、空気が抜けたように工藤は座り込んでしまった。幸いにも道に人影はない。さっきまで上を歩いていた塀に背を預け、膝を抱えた。
工藤は、泣いていた。
自分が泣くのはお門違いだ、とは思っても、涙は止まらなかった。
鼻をすすりながら視線を上げると、いつの間にか自分の前にあの猫が座っていた。
じっと、こちらを見ている。
「………御免ね」
何を謝ったのかもわからないまま、工藤はそう言っていた。
きっと、これが最善だったのだと思う。ある意味では、自分にしかできない最善だ。
でも、もっと何か違うことができたのではないかと、そんな思いが拭えなかった。
にあ、と、猫が小さく鳴いた。
驚いた工藤が目を見開いて猫を見ると、猫はもう鳴くことはなく、尾を一往復振ると、足音もなく尻を向けた。
そして、歩き去っていった。
一度も振り返ることもなく。
工藤は、猫が去った後もしばらくそのままでいた。二、三度通行人に変な目で見られたが、膝に顔を埋めた工藤にはどうでもよかった。
いつまでそうしていただろうか。
「………有り難う」
小さく、工藤は囁いた。
どこかでもう一度、あの猫が鳴いた気がした。
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