闇の盟主
東門から出たことに、大した意味はない。
敢えて言うとするならば陛下が……、その旅を、東門から出発したのだと、聞いていたから。
陛下、と言っても今の麗姫様ではない。
わたしにとっての陛下は、ただ一人。
麗宮王陛下――。
わたしはその陛下の唯一の者、占者だった。
だからわたしにとって陛下と呼べる方は、ただ一人しかいない――。
水色の瞳はめずらしくない。
紫の髪は、やや不自然か。
長くとがった耳は、あり得ない。
わたしの見た目では、人間族になりすますには無理があったので、紋の消えてしまった額には、バンダナをしていた。
力もすべて、失ってしまった。
陛下は、自らの愛する者を、ずっと待っていた。
半ばは、殺されるために。
半ばは、殺すために。
しかしわたしには、陛下の死があまりにもはっきりと視えてしまっていた。
「その時」に合わせて、わたしも共に死のうと思っていた。
一度目は邪魔され、二度目以降は何故か心が動かなくなってしまった。
わたしは、死ぬことができなくなってしまった。
愛が足りないのだとは、思わなかった。
ただ、脱力してしまったのだ。
そして陛下亡き今、この中央神殿にも、もう用はない。
麗姫様にはいても構わないとおっしゃってもらったが、私は旅に出ることを選んだ。
陛下に仕えたのは、二百年に少し満たないくらいか。
これからわたしには、一気に二百年の年月が、この体に降りかかる。
ただ、わたしの元々の種族である悪魔にとっては、一度成長してしまえば、二百年は大した年月ではなかった。
だからわたしは、急激に年をとることはないだろう。
白姜殿も言っていた。
白姜殿が麗王陛下に仕えていたのは、三百年を超える。
ただ、白姜殿の元の種族である化猫にとっては、長すぎる歳月だった。
白姜殿は占者を降りたとたんに、急激に老いていった。
占者は年をとらない。
しかし年月は誰の上にも公平に訪れる。そういうことなのだろう。
不覚……。
王宮での生活に慣れてしまったせいか。
それとも不老不死だった頃の体の癖が、抜けていないのか。
わたしは空腹だった。
今の季節、森の中ならば食料に困ることはあるまいと、手ぶらで出てきてしまったが。
森の中でも、食べられるようなものが見つからない場所もあるのだ。
足が、重い。
歩いているつもりで、いつの間にかわたしは地面に倒れていた。
意識が遠くなる。
ふと、人の気配を感じた。
見覚えのある顔……。
「良桜……殿?」
――暗転。
唇に、水の冷たさを感じる。
半ば無意識のうちに、わたしは水を飲んでいた。
そしてまた、眠りに落ちる。
食欲をそそる匂いに、目が覚めた。
ここは、どこか建物の中だろうか。
わたしは、やわらかいベッドの上に横たわっていた。
力は、入らない。
「食べるか?」
視界の外で、女の声がした。
わたしの意識が落ちる前に見た、彼女の声ではなかった。
何故かほっとした気分で、近づいてくる女性を見上げる。
――!!
心臓が、停まるかと思った。
その顔は、あまりにも彼女とそっくりで。
長くて艶やかな黒銀の髪。
金色の瞳。
色合いは全く違うのに、その顔の、なんと似ていることだろう。
良桜殿。
陛下がただ一人、愛した女性。
近づいてきた女性は、ベッドの脇の椅子に腰かけると、手にした椀の中から、先程の匂いの元を匙ですくってわたしの口元に寄せた。
わたしが呆然とその顔を見上げたまま口を開くと、何かどろりとしたものを流しこまれる。
「――!」
あれだけ良い香りをまき散らしているものが、なぜこのように不味いのだ!
知らないうちに、涙が出ていた。
彼女は、彼女――良桜殿ではあり得ない、妖艶な微笑みを浮かべた。
「おや、味覚はあるのか。これならば回復も早かろう」
そしてまた匙ですくってわたしの口元に寄せる。
わたしが拒む様子を見せると、さらに笑みを深くした。
「空腹で倒れたのであろう? 固形物はまだ口にせぬ方が良い。胃が受けつけまい。これは栄養申し分ない。椀一杯、口にするまで妾はここを動かぬぞ?」
わたしは諦めて口を開いた。
彼女は満足そうに微笑んで、わたしの口へ、そのどろりとしたものを運んだ。
ここはどこだろう。
村の中にしては、あまりに静かだった。
この建物は広そうだ。
わたしの寝かされている部屋は、台所の続き部屋らしかった。
時折、階段を上り下りする音が聞こえる。
彼女は二階で寝ているのだろうか。
一人で住むにしては、かなり広い建物のように思える。
そういえば、彼女の名前も、まだ聞いていない。
医者、なのだろうか。わたしに接する態度が、やけにもの慣れている。
彼女は銀狐だった。さらに言うなら、九尾の狐だ。
銀色の狐耳と、ふさふさのしっぽ。
紋は額だけに、妖狐族を示すものがある。
しかし九尾ともなると、妖狐族の中でもかなりの力の持ち主であるはず。
着物に隠れて見えぬ場所に、もしかしたらまだ紋があるのかもしれない。
着物は、上品な紫の襟を下に見せ、上から紫がかった白い着物を重ねて着ている。
裾も袖も長く、紫の帯も垂らしたまま。
足は見えず、手も、爪の長い指先が見えるだけだった。
立ち居振る舞いは、あくまで静か。
腰よりも長い黒銀の髪が、さやさやと揺れるだけだった。
金色の瞳はいつも何かを含んでいるようで、それが、ただの親切でわたしを助けたのではないのだと、物語っているようだった。
わたしは、いまだに彼女の顔を、はっきりと見上げることが、できない。
一日に一度、あのどろりとした不味いモノを食べさせられる。
しかし三日目には、わたしは完全に回復した。
「明日からはもう、普通の食事ができる。体も動いておるようじゃしな」
三日目には、わたしは自分で食事ができるようになっていた。
「今まで本当にありがとうございました。遅くなりましたが、わたしは煌と申します。あなたは?」
彼女は顔をそらし、ふいに微笑むと、再び向き直った。
「妾は闇の盟主と呼ばれておる。合成獣造物主じゃ」
合成獣は王宮にもいた。
しかし合成獣造物主について知ることは少ない。
合成獣とは、もともと強さを求めて造られることが多い。
故に、自ら造った合成獣に殺されてしまう者が多数だった。
現に魂も、自らの造物主は殺してしまったのだと聞いている。
この女性が生きているのは、まだ合成獣を完成させていないということなのか。
しかしそれでは、「闇の盟主」という呼び名はふさわしくない。
考えられるのは、彼女は自ら造り上げた合成獣を、完全に支配下に置いているということだ。
次の日の朝食は、やわらかいパンとハーブティーだった。
「心配せずともそなたをどうこうしようとは思うておらぬ。妾がそなたを助けたのはほんの気まぐれ。そう、そなたが朦朧とする中で妾を見てつぶやいた、あの名前。それが気に入っただけのこと」
わたしの意識が混濁する前に、つぶやいた、名前……?
――良桜殿。
わたしが彼女を見上げると、深く笑んでみせる。
「そなた、麗宮王様を愛したのであろう? それで妾の顔を見られぬか。しかし憎んではおらぬ様子。不思議なものよ」
声を立てて笑う。
「あなた、は」
喉が、渇いていた。
「妾? 妾こそが、麗宮王様に真に愛された者」
「嘘だ」
間髪を入れず、わたしは言い返していた。
それに、むっとした様子を見せる。
「嘘ではない」
「嘘だ。陛下は、良桜殿以外の誰をも、そのお心の内に住まわせたことはない」
闇の盟主と名乗る彼女は、さらに顔をしかめた。
しかし、すぐに笑みを戻すと、袖を一振りした。
「そなたの言う“良桜”とは、かような女性であろう?」
黒銀の髪が、一瞬にして金髪に変わり、狐の耳が消えた。
顔を縁取る髪の色が変化しただけで、もともと似ていた顔は、おそろしい程瓜二つになる。
「これは幻影術などではない。妖狐族の力、『変化』」
あかい唇が、微笑む。
「妾が麗宮王様と遭うたのは、まだ次期王と呼ばれていた頃。あれは最後の旅の途中であったのであろう。身も心もやつれ果てた姿で、麗宮王様はここにいらした」
私の目を覗きこむ瞳は、金色のまま。
「麗宮王様はあまりに無防備な様子で、彼の方が何を望んでおられるのか、妾には簡単に『視えた』」
額の紋も、妖狐族のものの、まま。
「妾がこの姿で麗宮王様の前に出ると、一も二もなく抱きしめた」
それなのに、その顔は、あまりにもあの女に似ていて。
「それから数日の間、妾と麗宮王様は、蜜のような時を過ごした」
雷良様にも、良桜殿にも、感じたことのなかった思いが、湧いてくる。
それと同時に、冷静になれと、頭の片隅で声がする。
「そなた、占者であろう? 愚かなことよ。どんなにその身が愛されようと、女でないなら子を孕むこともできぬではないか」
冷静に、という声は吹き飛んだ。
「妾は、子を授かったぞえ?」
頭の中が、真っ白になった。
雷良様は陛下のお妃で、三人の御子を儲けられた。
それでも陛下のお心が妻子に向けられたことは、一度もない。
陛下のお心は、常に良桜殿に向かっていた。
身も心も、手には入れることのできない女に。
雷良様も良桜殿も、あまりにもわたしとは立場が異なった。
だから、今までこんな思いは感じたことがなかったのに。
この女は、わたしと同じだ。
だからこそ、初めて感じる。
――嫉妬。
本当はわかっている。
盟主殿は嘘はついていない。
ただ、勘違いをしているだけだ。
陛下に愛されたと。
わたしの表情に思ったような変化が見られなかったせいか、盟主殿はいらいらとした様子で近づいてきた。
「嘘だと思っているのか? ならば妾の子を見せてやろうか? 今ここに呼んでくれる」
言ってわたしの枕元に置いてあった、小さなテーブルの上のベルを叩いた。
リーン。
澄んだ音色が家中に響き渡る。
「そなた、占者の身の上でありながら、麗宮王様と交わったか」
首筋に、冷たい指先をあてられる。
そのまま、服の上から胸元へと手を滑らせた。
「!」
背筋がぞっとする。
「妾は今でも、麗宮王様がどのようにこのからだを愛撫し、どのような囁きをこの耳にくれたか、憶えておる」
わたしの耳に唇を寄せて、冷たく囁く。
そしてそのまま押し倒すと、その手が体をまさぐる。
「――!!」
その囁き方も、手の動きも、忘れるにはあまりにも生々しすぎて。
「占者とは男でも女でもない。それはこういうことに対する欲望が無いということではないのか? ……フフフ。妾の手でも感じるか。おもしろい。そなた、妾の研究材料になる気はないか?」
「……何、を……」
トントン、と扉をノックする音に、盟主殿はやっと身を起こし、手を離した。
体が、熱くなっている。
「お呼びですか、マスター」
「お入り」
扉の外からかけられた声に盟主殿が応えると、静かに扉を開けて一人の青年が入ってきた。
吹っ切れたつもりで全く未練がましい己の体を厭わしく思いながら、視線を上げる。
「こちらへおいで」
足音はなく、ただ着物をするすると引きずる音だけがした。
地に着くほどの、長い黒銀の髪。
薄い金色の瞳。
額の紋は妖狐族。
しかし狐の耳も、しっぽもない。
おそろしく美しく、艶めかしい青年だった。
肩をはだけた白い着物の下に平らな胸板が見えていなければ、女と言っても充分通りそうだ。
憂いを秘めた長いまつげ。
それとは反対に、微笑を含む艶やかな唇。
ほそく、長いくび。
その首から肩にかけてのラインもなめらかで、過剰とも思える程の色香が漂う。
「名は花音。妾と麗宮王様の間にできた子じゃ」
体の熱は、すでに引いていた。
こんな時は、女でない体に感謝をする。
それとも、慣らされてしまったということなのだろうか……。
同時に、冷静さも戻ってきていた。
「あなたは合成獣造物主だと言った。彼もあなたのことを『マスター』と呼んでいる。彼が合成獣ではないと、何故言い切れる?」
盟主殿の態度は変わらなかった。
「ホホ。合成獣には合成獣の紋があろう。あれはな、合成獣であることを指し示すためだけのものではのうてな、あれがなくば合成獣に命を吹き込むことができぬのじゃ。見よ。花音の額にあるは妖狐族の紋。そして……。花音、見せておやり」
「はい。マスター」
青年は両の目を閉じた。
――!!
額の紋の、真ん中の縦線が割れ、中から眼が、現れる。
紫水晶の、縦開眼――。
青年は閉じていた両の目を開く。
「これが麗宮王様の血を引く証」
ホホホホホ……。盟主殿は、また笑った。
あり得ない。
まずはそう思った。
王家以外に、額に眼を持つ種族はない。
「……それほどの証があると言うなら、なぜ神殿に来られなかった」
わたしの問いに、盟主殿は意外そうに目を見開いた。
「そなた知らぬのか? 王家と他種族の間に出来た子は、神殿には入れぬ。交わるのは構わぬが、子は一族とは見なされぬのじゃ」
そんな内情は、いくら占者といえども知らない。
占者とは未来を視る者であり、ただそれだけの者だった。
「しかし王の子でも縦開眼が現れるとは限らぬのに、この子、花音にはそれが現れた。妾が妖狐である以上、相手は王でしかあり得まい?」
盟主殿は花音を椅子に座らせると、頭を顔をなでていく。
「この髪と紋は妾譲り。額の眼は麗宮王様譲り。どこからどう見ても立派な、妾と麗宮王様の子じゃ。されど妾とて身の程は知っておる。禁じられておるのにわざわざ中央神殿に乗りこんだりはせぬよ。跡継ぎがいないというならともかく、王家に王たる娘が生まれたのなら、もう妾には関係ない」
花音という青年は、盟主殿にされるがまま、じっとおとなしくしていた。
そのあまりの従順さは、母子にしてはかえって不自然で。
「盟主殿、やはりわたしには、あなたたちは合成獣とその造物主という関係にしか見えない」
盟主殿はゆっくりと、その表情を怒気に染めていく。
「ものわかりの悪い女子よの。いや、女ではないのか。何故そこまで妾を疑う。嫉妬ゆえか?」
「ではなぜあなたは、わざわざ合成獣造物主だと名乗られたのですか?」
「それが妾の身の証だからじゃ。妾の造る合成獣は優秀ぞ」
「他にも合成獣が?」
「この子は合成獣ではないと言うに。そうさな、三匹ほどは完成したか」
「それらは今どこに?」
「とうの昔に売ったわ」
この女は、見た目以上に年を経ているのかもしれない。
口論は、始めから分が悪い。
相手は頭脳明晰にして頭の回転も速く、わたしは口下手。
だからわたしは、感じたことをそのまま口にするしかできない。
「陛下があなたの体を求めたというなら、そうなのでしょう。あの方は、たった一人のこと以外は、本当にどうでもいいと思っていたから。その結果子ができたというのなら、それも信じましょう。しかし……、ただ一つだけ」
冷たい金色の瞳が、わたしを見下ろす。
わたしはその顔を、正面から受け止めた。
「陛下があなたを愛したというのは、嘘です」
「ええい、腹の立つ。この顔を見てもまだ納得せぬか!」
盟主殿がわたしの両肩をつかんできた。
しかしもう、わたしはその顔から目をそらさない。
そう、所詮、顔は顔。
「あなたは、良桜殿とは全く似ていない」
それは自らの、呪縛からの決別の言葉。
「陛下がどんな状態であったとしても、あなたと良桜殿を間違えるなど、あり得ない。あなたはあなたとして陛下に愛されたのではなく、わたしと同じ、良桜殿の身代わりです」
本当は身代わりにすら、なっていない。
陛下が本当に心の底から望んでいたものは、良桜殿の心なのだから。
「ほんに頑迷な! その体はもはや女ではないというに、その心根は嫉妬に狂った、醜き女子そのものじゃ! 麗宮王様は確かに妾を『良桜』と呼んだ。どこが似ていないと申すのじゃ」
「名前ぐらい、呼ばれるでしょう。わたしもその名で呼ばれて抱かれた。それのどこが身代わりではないと? はっきり申し上げましょう。あなたに比べたら、良桜殿の方が何倍も美しい」
「――!!」
初めて、その顔が動揺に歪んだ。
わたしにもわかっている。
これは、醜い嫉妬の感情。
盟主殿は、わたし自身だった。
わたしは呪縛から逃れたいと、初めて思った。
この歪んだ、偽りの愛から。
自己満足の、世界から。
雷良様は全てを承知だった。
陛下に愛されていないこと。
それでも子を産み、慈しみ育てた。
わたしも全て承知だった。
陛下がわたしのことを、何とも思っておられないこと。
それでも拒まれなかったから……、わたしは一方的に陛下を愛した。
身代わりでも良かった。
体だけでも、愛されたかった。
なんて酷い世界。
間違っていると、半馬人の少女に言われた。
そんなことは、きっと初めからわかっていた。
初めて良桜殿を間近に仰いだ時――。
わたしの心にあったのは、敗北感。
ああ、この女にはかなわない。
思い起こせば、今目の前にいる女とは、あんなにも違う。
良桜殿の美しさは、内なる輝き。
それは光。迫力。強さ――。
「良桜殿と比べたら、あなたは圧倒的に輝きが弱い。内なる力に、差がありすぎる。そんなあなたと、良桜殿を、陛下は間違えたりしない」
「知った風な口を利くでない!!」
頬をはたかれる。長い爪で、傷がついた。
盟主殿の髪は、いつの間にか元の黒銀色に戻っていた。
「そこまで言うなら、妾にその良桜とやらを会わせてみよ」
怒りで声が震えていた。
ふっと、頭の中がクリアーになる。
「ならば元占者たるこのわたしが、口にしよう。あなたは近いうちに、良桜殿と相見える。わたしが口にした瞬間からこれは、呪いとなり、真実となるであろう」
盟主殿がいぶかしげにこちらを見ていた。
わたしは一つ、まばたきをした。
今何を、口にした?
わたしにはもはや、何の力も残っていないはず。
だが今のは……?
「呪い、とな。上等だ。そなたがそこまで言うのなら待っていてやろう。……じゃが妾は気分を害した。食料はくれてやるからすぐに出てゆけ」
足音も高く部屋を横切る。
初めて聞くその足音で、彼女はかかとの高い靴を履いているのだな、とぼんやり眺めながら思っていた。
すると彼女はドアのところで振り返った。
「花音。その女に何日分かの食料を持たせておやり。その後さっさと外に送り出せ」
「はい。マスター」
その青年は、何事もなかったかのように、椅子に座ったまま、軽い微笑と共に頭を下げた。
「何も言わないのだな」
「何も、とは?」
台所で食料を探している青年が、きょとんと聞き返す。
と、すぐに笑顔になった。
「マスターのお怒りは気になさらないでください。マスターは怒っていても、まるで紅い花が咲いたかのようにお美しいでしょう?」
何か、的外れな答えが返ってくる。
「盟主殿は本当にあなたの母親か?」
「はい。そうです」
「なぜ母と呼ばない?」
「マスターと呼ぶようにと、言われているからです」
あっさり言い放つと、袋を持って台所から出てくる。
「これをどうぞ。日持ちするものばかりです」
「……ありがとう」
この母子は、どこか妙だ。
しかしこんな人里離れた場所で、誰とも比較しないまま育ったのでは、自分が妙だという感覚はまるでないだろう。
外へと案内されながら、そんなことを考える。
「……地下があるのか?」
ふと、下へ降りる階段が目に入る。
「はい。マスターの研究室です」
「彼女はひとりであなたを産んだのか?」
「そうですよ」
それがどんなに大変なことか、きっとこの青年には理解できない。
出入り口の扉を開け放たれる。
「地理は把握できていますか?」
「問題ない。もともとあてなどない旅なのだから」
「ではお気をつけて」
ぱたんと、あっけなく扉は閉められた。
あらためて見ると、緑の中に埋もれた建物は、やはり二人で住むにはあまりに大きかった。
それとも、合成獣を造るためには必要なのだろうか。
しかし、わたしにはどうでもいいことだった。
もう、関係ない。
食料を入れてもらった袋を肩にかついで、わたしは歩く。
愛し愛されなければ、間違っているとは思わない。
愛する人に愛されること。それはとても幸福なことではあるけれど。
運命は、いつもそんなに優しくはないから。
愛している人に愛されなくとも、それは決して間違いではないし、悪いことでもない。
愛に善悪なんてない。
それは寂しいことではあるけれど、愛し方さえ間違えなければ、ずっと想い続けているのもいいだろう。
正しい愛し方なんて知らない。
けれどわたしは、間違えたと思うから。
だから。盟主殿も間違っていると、わたしにはわかる。
そしてきっと、陛下も。
愛されなかったことが、不幸なのではない。
確かに愛した記憶があるのなら。
人を愛することが、できたのなら。
ほんの少しの涙とともに、この想いは昇華してしまおう。
誰も幸せになれない恋だった。
それでもきっと、誰も不幸ではなかった。
青空を見上げる。
闇の盟主と名乗る彼女に、黄金の光が訪れんことを願って。
―end―