第十一話 テストと嗅覚と土蜘蛛
「……ふぅー……」
私は一呼吸置いて教室の戸を開いた。
ガラッ……
「あ、おはよう蘭ちゃん」
紬が私に気が付き振り向いた。
「おはよー蘭! 今日はドア壊さなかったねっ」
夢愛も私に気が付き声を掛けた。
「おはよう! もうそんな事しませんよーだっ」
私は鼻にしわを寄せて意地悪く挨拶を返した。
この姿になってからしばらく経った。
私はもう油断さえしなければ大抵の事は問題なくこなせるようになっていた。
サトリの一件以来、特に怪しい噂は聞かなくなり、定期的に街を探索しているが楔の気配も探知出来ずにいた。
このまま何も起きなければいいのに。でも、そうも言っていられない。
私は人間ではなくなってしまったのだから──
今日の午前の授業は体育で、体力測定だった。
種目は百メートル走とソフトボール投げだ。
クラスメイト達が気だるそうな表情でグラウンドにまとまりなく並んでいる。
「うえ~、体力測定とかマジだるいんだけど……仮病使って見学しよっかな」
夢愛がジャージの裾を掴みながら悪態をつく。
「私も正直体育は苦手だけど……ほら、蘭ちゃんは気合ばっちりみたいだよ」
紬が私のいる方へ指を指す。
「ふっ、ふっ……よし!」
紬の言うとおり私はやる気に満ちていた。
(せっかく白雨様に認識阻害の術を掛けてもらったんだ。どこまで出来るか、試してみたい……!)
ストレッチを済ませた私は教師のホイッスルが鳴る方へと駆け込んだ。授業開始の合図だ。
「よし、みんな集まってるな。早速体力測定を始めるぞ。まずは百メートル! 相野、喜多見、長谷川、藤宮、準備しろー」
「「はいっ」」
夢愛と紬がスタートラインに並ぶ。
「へへ、一緒じゃーん紬! 負けないからね~?」
夢愛は先程とは打って変わってやる気満々だ。
「夢愛ちゃん、急にスイッチ入ったね……お手柔らかに……」
一方紬は自信が無いようだった。
教師がスタートピストルを天高く掲げる――
「位置について……用意……」
パァン!
乾いた爆発音が青空に響き渡った。
夢愛が大きな歩幅で豪快に先頭を駆け抜ける。
紬も脇を閉めた独特なフォームその後を追いかけるが、夢愛はおろか、他の生徒ともみるみる距離を離されていく。
「紬ぃー! 頑張ってーっ!!」
私は口元に両手を添えて、大声で紬に声援を送る。
声圧で周囲に小さな風が吹き荒れ、待機していたクラスメイトが仰け反った。
夢愛を先頭に、クラスメイト達がゴール地点を駆け抜ける。
「喜多見! 十四秒八三! ……藤宮! 二十秒一七!」
教師がストップウォッチのボタンを押しながら記録を発表していく。
「おっしゃーっ一位! 余裕ー!」
夢愛がスタート地点にいる私に向けてピースサインを送る。
「ハァッ! ハァッ! ……夢愛ちゃん……流石だね……!」
紬が肩で荒い息をしながら夢愛を称える。
流石夢愛、なかなかの記録だ。
私はゴール地点の二人に向けて両手を大きく振った。
「次! 石川、清水、竹田、虎井!」
「「はいっ」」
次はいよいよ私の番だ。みんなには悪いけど、正直眼中にない。どうせ普通の記録なんて出ない。
獲物を狙う猛獣のように、他の誰よりも姿勢を低く構えスタートの合図を待つ。
「位置について……用意……」
パァン!
私はスタートの合図とともに目いっぱい地面を蹴り上げた──
バゴォォォン!!
スタート地点がグラウンドの砂を巻き上げて爆発した。
「「キャァァァァ!」」
クラスメイト達は爆風に吹き飛ばされ尻もちをつく。
私はクラスメイトに目もくれず地雷原を駆け抜けるように地面を吹き飛ばしながら一直線に突き進む。
「あの馬鹿……」
女子の体力測定の向かいでサッカーの授業を受けている漣が、その様子を見てため息交じりに吐き捨てた。
「ゴォール! 先生! タイムは!?」
私が豪快に地面を削りながら停止し、教師の元へ駆け寄る。
教師が青ざめた顔で私を睨みつけた。
「な……測れる訳ないだろ、あんなの! 虎井! 記録なし!」
「えぇぇぇぇ!? そんなのないですよー!」
せっかく頑張ったのに、記録無しだなんてあんまりだ。
私はムスッと頬を膨らませた。
次はソフトボール投げだ。今度こそ記録を残してみせる。
私はボールに爪を食い込ませ、ロックしたまま大きく振りかぶり全身を回転させるように身体をしならせる。
ビュゥゥゥッ!!
ボールは風を切り裂きながら空に向かって飛んでいき、そのまま雲を突き抜けていった──
「……あれ……ボール落ちてこなくない?」
グラウンドに数秒の沈黙が流れた。
あまりの光景にクラスメイト達がざわつき始める。
「と……虎井……計測不能、記録無し……」
「嘘だぁぁぁぁ!」
私の悲痛な叫び声が、学校中に響き渡った。
体力測定を終えた私たちは更衣室で着替えをしていた。
「……もう! 確かにちょっと張り切り過ぎたかもだけど、全部記録無しって納得いかないー!」
私はブーブー文句を言いながら汗をぬぐい、Tシャツを脱いでいく。
「いや、あれはしゃーない! 実力出しすぎだって!」
夢愛がゲラゲラ笑いながらジャージのファスナーを降ろす。
「えーっ、夢愛までそういうの〜?」
「まあまあ……来週再計測だし、今度はほどほどにね?」
紬が制服に袖を通しながら私をなだめる。
私たちが和気あいあいと着替えを進めていく中、クラスメイト達がヒソヒソと話をしている声が遠くから聞こえてきた。
「……ねえ……なんかさ、圧感じない……?」
「わかる……空気が重いような……」
「なんかちょっと……動物園っぽい臭いしない……?」
「……!」
ワイシャツに袖を通す私の手が、止まった。
ボタンを握ったまま、指が動かない。
心臓の音が、やけにうるさい。
「ん? 蘭どうした?」
夢愛が声を掛けたが、私は何も言わずに手早くワイシャツのボタンを留め、そのまま制服を掴んで更衣室を飛び出した。
私は校門を全速力で通り抜ける。獣のような速さで自宅へと向かった。
往復の時間なんて考えなかった。
風が、濡れた頬を即座に乾かす。
程なくして私は自宅の前に到着した。
母はパートに出ているので、この時間は誰もいない。
ドアの鍵を開けて玄関にカバンを放り投げる。
そのまま着ていた制服を乱雑に脱ぎ捨てながら、私は風呂場へと駆け込んだ。
シャーッ……
(間違えた……完ッ全に間違えた……! なんであんな事しちゃったんだろう……!)
頭からシャワーを被りながら私は何度も先ほどの出来事を思い返しながら猛省した。
私はもう普通の人間なんかじゃない。わかっていたはずなのに……
忘れかけていた白雨の忠告が頭をよぎった。
(……もう、戻らないとな……)
私はシャンプーを手に取り、いつもより力強く頭を洗い流した──
◇ ◇ ◇
昼休みの屋上。
紬と夢愛、そして漣がいつものように食事をしている。
「蘭ちゃん……遅いね。いつもだったらもう来てるのに」
紬がトマトを箸でつまみながら呟いた。
『小僧よ~わしはずーっと教室で待っていて腹が減ったぞ。今日は何をよこしてくれるのじゃっ』
白雨が小さく跳ねながら漣に食べ物をねだる。
バン!
私は入り口の扉を開けて屋上に到着した。
髪の毛は風に吹かれて半乾き状態で、いつもよりボサボサとはねていた。
「ごめんごめん! 遅くなっちゃった~」
私は笑顔を取り繕って紬の隣に座り込む。
「蘭! 一体どこ行ってたのさ~探したよ~?」
夢愛が私の肩をポンと叩く。
「ちょっと……お家に。ほら、汗かいちゃったからシャワー浴びてきた」
私はタッパーの蓋を開けながら俯いた。
「え、この短時間でお家に行ってきたの? さすが蘭ちゃん、すごい速さだね」
「……」
紬の何気ない一言が決め手となってしまった。
私の中でせき止められていた感情が、溢れ出す。涙がポロポロと落ちていく。
「……うわぁぁぁん、私、失敗しちゃったぁ……体力測定、本気出すんじゃなかったよぉ~……クラスのみんなを怖がらせちゃったし、私たぶん臭いって思われたぁ……」
一度涙が溢れだすと、止まらない──私は顔を抑えて赤ん坊のように泣きじゃくった。
「蘭ちゃん……」
私の突然の号泣に紬はたじろいでいた。
束の間の沈黙──その沈黙を破ったのは夢愛だった。
「蘭……なーに言ってんだよ!」
夢愛がそういうと私の胸に抱きついた。
「グズッ……ゆ、夢愛?」
「今日の蘭、すっげーカッコよかったよ! マジで! 確かにちょっとやりすぎだったカモだけど、力のコントロールはもうほぼ完璧じゃん? やりすぎたなーって思ったら次抑えればイイだけ! 白雨様の力もあるんだし、みんなそこまで気にしてないって!」
「それに……こーんな可愛いウチのプリティタイガー蘭が臭いワケないじゃーん! ウチは蘭の匂い大好きだよ! お日様みたいで落ち着くんだも~ん! 蘭吸いさせて! 蘭吸い!」
夢愛はそういうと私の首元にスリスリと顔をうずめた。
「うん……私も蘭ちゃんが大好き! 姿は変わっても蘭ちゃんは蘭ちゃんだもの! 来週の再計測、私も付き添うよ!」
紬が私の手を強く握りしめた。
結局、全速力で学校に戻ったせいでシャンプーの香りなど吹き飛び、汗もかいてしまっていたが、二人はそんな事は全く気に留めていなかった。
二人の存在が、私の心の支えだ。二人がいるから私は前を向ける。
「うう……二人とも、ありがと……フゥ! なんか泣いたらちょっとスッキリしたかも。……お腹すいたぁ」
私は涙を拭い、ワイシャツのボタンを全て外して弁当を食べる事にした。
底の深いタッパーにぎちぎちに詰め込まれた白飯と豚肉をえぐり取るように箸で掴み、頬張っていく。
その姿に漣は呆れたように、しかし少し安堵したような表情で私を見る。
「……立ち直ったのはいいが……お前、女子としてそれはどうなんだ? ま、メソメソしてるよりはマシだけどな」
「……仕方ないでしょ! たくさん食べないと満足できないんだから! それに、特注サイズの制服がまだ届いてないんだもん! ……これダメにしちゃったら、おしまいなんだからね!」
私は夢愛にモフられながら構わず弁当をかき込んでいく。
「蘭ちゃん……元気になって本当に良かった。そういえば今日はバイトなんだっけ?」
「ん……そうそう! 今日はバイトなんだ! お店の復旧工事も終わったみたいだし、久しぶりに頑張ってくるよ」
私は丁寧にタッパーの底に張り付いた米粒をつまみながら答えた。
「……ごちそうさま! みんな、ホントありがとね! それじゃ、午後の授業も頑張るかぁー」
うんと伸びをして、私はタッパーの蓋を閉じた。
正直少し不安はあったが、二人の言う通りクラスメイトはいつも通りで誰も私の事を怖がったり避けたりはしなかった。本当に良かった。
午後の授業を終え、私は軽い足取りでバイト先へと向かっていった――
◇ ◇ ◇
「居酒屋 酔いどれ」は復旧工事が終了し、営業を再開していた。
暖簾の先にはいつもと変わらぬ活気がそこにあった。
「店長、おはようございます」
「おお、蘭ちゃん! おはよう。どうだい、すっかり元通りだろ!」
店長は両手を広げて店内を見渡した。
「はい! 店長も元気になったみたいで、良かったです!」
店が壊れてしまったのは私のせいだ。バイトの私に出来ることは限られているが、少しでも役に立ちたい。
いつも以上に気合が入る。
店は今日も大賑わいだった。あちこちから景気のいい笑い声が聞こえてくる。
「お、蘭ちゃん久しぶりだねぇ! なんか前よりも立派になったか?」
「お久しぶりです松田さん! ちょっと、最近トレーニング再開したんで!」
「蘭ちゃん六番さんに生二つね!」
「はいっただいま!」
私は、とにかく全力で働いた。
料理を届け、酒を運ぶ。ここは本当に居心地が良い。
ノリの良い客はいつも私を笑顔にさせてくれるし、「ありがとう」の言葉は心をあたたかくしてくれる。
「誰か、タンク持ってってくれないか?」
「私やりまーす!」
私は即座に名乗り出てビールサーバーのタンクに手を掛けた。
「ん……軽っ」
タンクが発泡スチロールのように軽い。私は片手で軽々と二十リットルのビールタンクを持ち上げ、ビールサーバーへと向かった。
「え、すごいな蘭ちゃん! ホント頼もしいよ!」
店長が目を丸くした。今の私には、このくらいどうという事はない。慣れた手捌きでタンクを交換し、私はホールへと戻った。
時計の針が退勤時間を指し示す。時間を忘れてしまうほど忙しくも充実した復帰初日だった。
「え、もうこんな時間? それでは、お先に失礼します!」
スタッフルームへ駆け込む私の背中を店長が呼び止める。
「蘭ちゃんお疲れ! ……久しぶりに食べてくかい?」
「いいんですかぁぁ?」
踵を返した。私のお腹はもう限界だった。
既に準備を終えていたらしい。厨房の奥に座ると店長がすぐにまかないを振るってくれた。
「いただきます! ……んん〜ッ!美味しい!!」
店長がこしらえたのは山盛りの焼き鳥丼だった。
炭火でじっくり炙られた鶏肉と長ネギに、濃いめの甘だれがたっぷり掛けられており、白飯との相性は抜群だ。
箸が止まらない――気づいた時にはもうどんぶりの底が見えていた。
「蘭ちゃん、いつにも増してイイ〜食べっぷりだなぁ!」
店長は満足げな表情で大きく頷いた。
「やっぱり店長の焼き鳥は世界一ですよっ! ごちそうさまでしたー! お疲れ様です!」
私は手早く食器を洗い流し、店の暖簾をくぐり抜けた。
冷たい夜風が出迎える──夜の涼しさが夏の終わりを告げるようで、少し寂しい気持ちになる。
私がカバンを肩に掛けなおすと、目の前に人影が立っている事に気が付いた。
「あ……漣」
「やっと食い終わったか。待たせやがって」
『ほほ、なかなかの働きぶりだったようじゃのう』
店の入り口で待っていたのは漣と白雨だった。
「わざわざバイト先まで監視ですか? 封印師は大変だね~」
私は目を細め、意地悪く答えてみせた。
「呑気な奴だ……いいから、さっさと帰るぞ」
漣は私の言葉などお構いなしにポケットに手を入れたまま歩き出した。
「ちょっと、待ってよー!」
思い返せば漣と二人で歩くのは初めてだった。正確には二人と一匹だけど。
こういう時、どんな話をしたらいいのだろう。頭の中でシミュレーションをするが、満足のいく答えは出ない。
「え、えーと……外、だいぶ涼しくなったね」
「ああ、そうだな」
──沈黙が流れる。なんだこの空気は。気まずくて仕方がない。
目のやり場に困った私はキョロキョロと辺りを見回しながら漣の背中をついていく。
しばらく歩くと、狭い路地から小さな影が動いているのを私は横目で捉えた。
「ん……?」
『小娘よ、何かあったか?』
「今何か動いたような……うえ、虫!?」
小さな影の正体はムカデだった。それも、一匹や二匹ではない。
十匹以上の大群が路地からゾロゾロと這い出て来たのだ。
「き、気持ち悪ぅぅっ!! なにこれ!? なんでこんなにたくさん!?」
全身の毛が文字通り逆立った。こんな不気味な光景は初めてだ。
「確かに……妙だな。白雨様」
『ふむ……確信は持てぬが、楔の気配のようなものを感じるぞ』
白雨が鼻をスンと鳴らした。
「ってことは……行くんですか! この路地に?」
「当たり前だろ。楔が見つかるかもしれねえんだ」
「~っ! わかったよ、行くよ!」
私はスマートフォンを取り出し、母にメッセージを送りながら漣の後を追いかけた。
路地は街灯りがほとんど届かず、闇そのものだった。
先へ進むと野良猫の集団とすれ違った。彼らも何かから逃げ出すように光の方へと駆け抜けていった。
何かがおかしい──空気が重くなっていく。
吐き気にも似た感情が胸の底から込み上げてくる。早くこの路地を抜け出したい……
『……どうやら、あそこのようじゃ。楔の気配を感じるぞ』
白雨が尻尾を伸ばす。私は息を呑んだ。
狭い路地の先にあったのは、広い空き地だった。半年前まではいくつか店があったのだが、今はその面影は全くない。
「……! 白雨様、あれって!」
視線の先にいたのは人影──ではなく、一匹のネズミだった。
しかし様子がおかしい。
巻いてあるのだ。古ぼけた縄のようなものがネズミの体を突き破りながらがんじがらめに巻き付いていた。
『これは……業虎の「尾」が眠る捕縄じゃ! まさか、人間以外の者にも憑りつくというのか!』
捕縄が捻じれるようにネズミの体内へと消えていく。
すると突然ネズミが白目をむいて痙攣しはじめた。「何か」が、出る──
ネズミの体が引き裂かれ、太い枝のようなものが飛び出した。
一本、二本……小さな体からあり得ない質量の枝がヌルリと伸びていく。
これは、脚だ。八本の鋭い脚の根元がボコボコと形を変えていく。
現れたのは、歪んだ鬼の顔を張り付けたような姿の巨大な蜘蛛の化け物だった。
『土蜘蛛じゃ……! 奴が楔に眠る妖の正体! おぬしら、油断するでないぞ!』
「はいっ!」
「わかってます!」
今の姿になって初めての戦闘だ。この化け物相手にどこまで闘えるのだろう。
私は拳を固めて身構えた。
土蜘蛛の鬼のような鋭い眼が、ギロリとこちらを睨みつけた。独特な腐敗臭と緊張感が全身をピリつかせる。
漣がすかさずバンドから札を抜き取った。
「『酉ノ空烈』!」
羽根の斬撃が土蜘蛛目掛けて雨のように降り注ぐ。
土蜘蛛は腹部から白い糸を射出し、隣のビルの壁に向かって飛び上がった。
羽根が虚しく地面に突き刺さる。
「チィッ……! ならばこれで──」
漣が次の札に手を掛けたその時だった――土蜘蛛が再び腹部から糸の塊を射出した。
糸が空中で蜘蛛の巣状に広がりながら漣目掛けて飛び込んでいく。
『小僧!』
「危ないっ!」
私は急加速して漣の腕を掴み、後方へと地面を蹴り上げた。
蜘蛛の巣は地面に着弾した。
間一髪蜘蛛の巣を避け、私と漣は地面に転がり込んだ。
「漣……大丈夫?」
「くそッ……捕縛狙いか……」
漣が土埃を払いながら立ち上がる。
私は安堵し額の汗を拭った。
土蜘蛛はカサカサと体の向きを変えると腹を膨らませながら前方に突き出した。何か仕掛けるつもりだ。
「漣!」
「わかってる!」
土蜘蛛の腹部から糸が射出される。
速い──しかし予備動作でこの攻撃は予測できた。
私たちは左右に分かれて糸を難なく回避した。
射出された糸に引き込まれるように土蜘蛛が空き地の端から端まで高速で移動する。
そして再び糸を吐く──パターン化された移動だ。
私たちは糸の攻撃を躱し続けた。しかし、敵の動きに慣れ始めた時には、もう遅かった。
「これって……もしかして……!」
『奴の策にかかってしまったようじゃのう……!』
辺り一面が巨大な蜘蛛の巣のように、糸が張り巡らされていた。
私たちは完全に糸の結界に閉じ込められてしまった。
一歩でも動けば、粘着性の糸の餌食となってしまうだろう。
「まずいよ漣……! アイツの思い通りにさせちやった……!」
「心配するな、俺には飛び道具がある。奴の行動パターンは、もう読めた!」
漣はニヤリと笑みを浮かべて札を構えた。
「そこだッ『酉ノ空烈』!」
羽根が土蜘蛛目掛けて飛んでいく。
しかし土蜘蛛は糸から体を切り離し、重力に任せて地面に向かって落下した。
「何ぃ!? 下だと!」
鎌のような脚で地面に食らいつくと、ザクザクと地面を掘り起こし土蜘蛛はあっという間に地中へと消えてしまった。
……出てこない。冷たい夜風が虚しく吹き込んでいく。
「逃げた……?」
『それは違うぞ小娘……! 奴の気配は消えておらん! 地中からわしらを襲う気じゃ!』
白雨が全身の毛を逆立てて叫んだ。
『恐らく……この糸に触れた瞬間、振動で居場所を悟られるじゃろう……不用意に糸に触れてはいかん!』
「しかし、白雨様……! このまま立っているだけではいずれ狙われてしまいます! なんとかしなければ!」
漣は次の札を構えるが、術を発動できずにやきもきしている。
一体どこに潜んでいるんだ。いつ襲ってくる? どちらが狙われる? どうしたらいい……
「……だったら誘い出せばいい。いいか蘭! 俺が蜘蛛の巣を切る! その隙に現れる土蜘蛛を、お前がぶっ飛ばせ!」
漣が囮を買って出た。危険な作戦だが、これに賭けるしかない。
「……わかった! やってみよう」
私は両手の鉤爪に意識を集中させた。
「来るなら来い……『酉ノ空烈』!」
漣の羽根が、目の前の糸に鋭く突き刺さった──しかし、
「何ッ! 切れないだと!?」
羽根が刺さった糸は大きくしなるも、ゴムのように伸び、そのまま勢いを吸収してしまった。
「そんな! ……!?」
その時、私の鼻が、地中を這い回る土蜘蛛の強烈な土と腐敗の臭いを捉えた。
漣のすぐ下まで迫ってきている。
「漣!!」
私が叫ぶと同時に地面を突き破り、土蜘蛛が漣の足元から姿を現した。
私は蜘蛛の巣に自ら突っ込み、身体に糸を纏いながら強引に漣を突き飛ばした。
ズアッッ
土蜘蛛の鎌のような脚が私の両腕を切り裂き、血飛沫が舞う──
「ぐあっ! ……ら、蘭!」
漣が咳き込みながらゆっくりと上半身を起こす。
「ぐっ……!」
鋭い痛みが全身に伝わっていく――私は上半身を大量の糸に巻きつかれながら地面に倒れ込んだ。
仕留めそこなった土蜘蛛は、再び地中に身を潜めた。
「わ、私は大丈夫……! でも、次がまた来るッ!」
「しかし……酉ノ空烈は奴の糸には効かなかった……!」
漣は札をクシャリと握りしめた。
先程の振動で私たちの居場所は完全にバレている。
漣の術で糸は切れなかった。
しかし、私は「嗅覚」で土蜘蛛の位置を暴くことが出来た。
この身体さえ動けば……!
纏わりついた糸は粘着性のあるゴムのように身体にしっかりと張り付いている。
私は全身の筋肉に力を込める。
ギチギチと鈍い音を立てて糸が引き伸ばされ、腕の傷から流れた血で赤く染まっていく。
「ぐぉぉぉぉ……!」
地中にいる土蜘蛛の姿を私の嗅覚が完全に捉えた。私の真下を通り過ぎようとしている。今しかない──
「ここだァァァァ!!」
私は咆哮と共に強引に糸を引きちぎり、血だらけの腕を思い切り地面へ振り下ろした。
バコォォォォン!!
すり鉢状に地面がバラバラに砕け散り、凄まじい衝撃波が土煙と共に吹き荒れる。
地中に潜んでいた土蜘蛛が、衝撃に顔を歪ませながら地上へと弾き出された。
『よくやったぞ小娘! 小僧! 止めじゃ!』
「うぉぉぉ『辰ノ火焔』ー!!」
漣が札を力強く掲げ燃え盛る龍を呼び寄せた。
宙を舞い無防備な土蜘蛛に向けて、龍が口を大きく広げて喰らいつく。
焔が唸りを上げて天高く伸びていく。
土蜘蛛の脚部が黒い炭に変わり、端から炎を噴き出した。
『ゲェェェェ……!』
土蜘蛛が音とも声ともわからぬ断末魔を上げて、そのまま燃え尽きた。
「ハァ……ハァ……やったか……」
漣が肩で息をしながら札の炎をかき消した。
『よくやったぞおぬしら……! 奴は完全に停止した!』
白雨が漣の肩の上で私たちに語り掛けた。
周囲に焦げた臭いが立ち込める。重苦しい空気が晴れて冷たい夜風が炎の残り熱をかき消していく。
丸焦げになった土蜘蛛の身体が灰のように崩れ落ち、中からネズミと汚れた捕縄が現れた。
「これが……五つ目の楔……」
私は横たわるネズミの傍に落ちている捕縄を拾い上げた。
炎の熱とは違う生物のような生温かさが私の手から全身へと伝わっていき、身の毛がよだつ。
胃の底が満たされるような妙な感覚に嫌悪感を覚えた。
「勝手に触るな! ……今から浄化する」
「わ! ……ごめん」
私は捕縄を手放した。
漣は札を抜き取り術を唱えていく。
「……『浄化封印』」
捕縄は力を失い汚れが溶けるように消えていった。
禍々しい気配は、もうない。
「ありがと……まさかネズミに憑りつくなんて……思いもしなかったよ」
「ああ……だが、これであと二つだ。最後まで、気を抜くなよ」
漣が捕縄をカバンへ放り込んだ。
「それと……」
漣が突然言葉を詰まらせながら私の方へ振り返った。
「さっきは……すまなかったな。怪我の具合はどうだ?」
「漣……!」
漣はそういうと気まずそうにすぐに駅の方へと歩き出した。
あの漣が素直に謝るなんて……私は思わず目を丸くした。
腕の傷は業虎の再生力ですっかり塞がり、痛みはほとんど無くなっていた。
そして何より、心があたたかい。
「私はもう大丈夫だよ! 私の方こそ、ありがとねっ」
私は漣の背中を追いかけ、ポンと肩を叩いた。
「おわっ! ……てめぇわざと強く叩いただろ!」
「いやいや! ちゃんと加減したって~!」
漣は私を睨みつけたが、その表情は穏やかだった。
終電時間が迫っている。
私たちは急ぎ足で改めて帰路に就いた。
先程よりも少しだけ漣と距離が近くなっていた事に、お互い気づいてはいなかった。
設定情報⑨
白雨
千年前、封印師の葛葉一族と共に悪に堕ちた妖を討伐していた九尾の神獣。
世の安寧を司る存在で、癒しの術を得意とする。
千年前の業虎との闘いで命を落とした葛葉一族を蘇らせ、石となって永い眠りについていた。
現世では力の大半を失っており、エネルギーの消耗が少ない小さな姿で蘭たちのサポートをする。
現世の食べ物に大変惚れ込んでおり、特にフライドポテトは大好物。




