もう一度聞くけど、処刑されたくなかったら私と結婚してくれませんか?
「お断りします」
「だぁーかぁーらぁーっ!」
頭を抱える仕草で、全身を覆う板金鎧がガチャリと鳴る。
顔すらも兜に覆われて見えないが、それでも困り切っていることは雰囲気からありありと伝わってきた。
「即決しないで! 今の状況を、良く考えて!」
「熟考した上での回答です」
「余計に悪いわ!」
大きなため息をついた全身鎧は、そのまま金属板をガシャガシャいわせながら傍らの椅子に腰かける。鎧の重みで、粗末な椅子もまた悲鳴をあげた。
端から端までほんの10歩も掛からないような、狭い部屋である。
格子の嵌った窓は開け放たれ、明かりと風が入ってくるが、それでも室内の薄暗さや埃っぽさを解消するには至らない。
寝台の毛布やシーツは新しいものに取り換えられているが、長らく使われていなかった部屋だ。全体的に湿気が籠り、陰気さが淀んでいる。
だがそれも仕方がないだろう。何しろこの部屋は今、罪人を閉じ込める為の牢屋として使われているのだから。
「あのね、何度も言っているけど、このままだと貴方、死刑になっちゃうかも知れないの」
狭い部屋の半分を占めているかのような錯覚を与える無骨な板金鎧は、小手に包まれた両手を兜に添えたまま、目の前の囚人に視線を向ける。
兜の狭い隙間の奥の目は、実際はどこを向いているのか定かではないが、恐らく向けているのだろう。
「存じております」
「裁判で何の釈明もせずに、こちらが言ってもいない罪まで認めちゃうから」
「粛々と判決を受け入れます」
「そうやって全肯定しちゃう!」
悲鳴を上げるように嘆く全身鎧を前に、囚人は何てことのないように答え、窓の外を見る。
「違え様もなく、私は罪人ですから」
見上げる先は、抜けるようなきれいな青空だ。
だが、少し視線を落とせば、活気のない灰色の街並みが広がり、かつあちらこちらから、黒い煙が幾筋もたなびくのが見えるだろう。
ここは牢獄。
国を滅ぼした極悪人が閉じ込められている、囚人の塔である。
腐り落ちる直前の、果実に喩えられる国だった。
かつては西方の薔薇とまで称えられた古き国、イルスタイン王国。
王族はとっくに国を治めるのをやめ、耽溺に耽り、その癖王位争いで国を乱す。貴族は民に飢えて死ぬほどの重税を課し、非道を尽くして傍若無人に振るう。
そうなれば、政を担う城の役人だって、上に倣う。
賄賂を取り、私腹を肥やし、権力争いで足を引っ張りあう。自分に利を与える者におべっかを使い、その意に沿うためには法も道理も捻じ曲げる。
そのような有様で、国がまともに動くはずがない。
国はいつ滅んでもおかしくなく、目端の利く者から外へ逃げ出した。
だが、そのようなイルスタイン王国において、泥中の蓮と呼ばれた人物がいた。
アルベルト・フォーレン。
この腐りきった国の、最後の良心と称された男である。
「貴方は自分を卑下し過ぎだよ。国がかろうじて体裁を保っていられたのも、貴方がいたからじゃないか」
「それが国にとって本当に良かったのか分かりませんし、何より私は自分の職務をこなしただけです」
鎧の下から聞こえる声は、微妙に反響してくぐもっているが、それでも目の前の男を説得しようとする必死さがあった。
だが、彼はふいっと視線を逸らす。
清廉とした佇まいは、最後の良心と称された彼に相応しいものだったが、頑ななまでの潔癖さが今は逆に腹立たしい。
アルベルト・フォーレンはこの国の侍従長だった。
時代や国によっては、君主の最も近くに侍る名誉ある職位だが、様々な伝統や制度が崩壊したこの国にとっては、侍従や女官、使用人など、直接政に関わらない、内向きの官吏や下働きを取りまとめる役職に過ぎない。
彼は古くから続くフォーレン家の人間だが、古いだけで金も力もない家柄の彼が、その地位を野心ある者に奪われることなく最後まで侍従長であったのには、理由がある。
イルスタイン王国における侍従長とは、雑務と気苦労ばかりが多く、職権乱用による利権も賄賂による利益もほとんど得られないという、旨味の少ない役職だったからだ。
侮られ、体よく雑用を押し付けられ、便利に使われる。それが、この国における彼の立ち位置だった。
しかも押し付けられる仕事の内容は本来の彼の職務から大幅に外れたものもしばしばあり、連日深夜まで働き詰めの彼が心身を壊さなかったのは、単に本人の責任感のなせる業だったに他ならない。
むしろこの塔に閉じ込められてからの方が、明らかに顔色は良かった。
「それでも、貴方が心ある官吏を保護してくれたことで、この先どれだけの人間が救われるか……!」
正しい者、道理を知る者は、不正をする者にとっては邪魔なだけだ。陥れられ、降格されたり、左遷されたりするならまだマシ。クビを切られたり、命を狙われることさえ、この腐りきった国の中ではざらだった。
そんな中、彼は不遇な目に合った官吏たちを、己の部下に引き入れ留めたり、場合によってはひっそり己の領地に匿ったりもしていた。
「私はただ、自分の為に優秀な人間を手元に置いていただけです」
「その人たちは、将来この国を建て直すのに欠かせない人材だと、貴方が知らなかったとは言わせないよ!」
板金鎧は、声を大にして主張する。
国はここイルスタインだけではない。腐りきった国を建て直すにあたり、中枢が政の何たるかを知らない素人ばかりでは、国は国の形を作るよりも前にあっという間に瓦解し、他国に取り込まれてしまうだろう。
「だとしても、忘れてはいけません」
澄んだ湖面のような水色の瞳に、陰りが浮かぶ。
青く晴れ渡っていた空に薄く雲が掛かる。紗に覆われたように、急に薄暗さを増す室内で、彼は呆れたように溜息をついた。
「私はあなた方、反乱軍……いえ、新政権の敵。旧政権に属する人間なのです。そんな人間にいつまで情けを掛けるつもりなのですか?」
腐敗しきったイルスタイン王国において、誰もがただ絶望に打ちひしがれ、なされるがままだった訳ではない。過ちを正さん、悪政を倒さんと、奮い立つ者たちも確かにいた。
だが、一国を相手取るのは並大抵のことではない。過去幾度となく立ち上がった勢力は、そのことごとくが打ち滅ぼされてきた。
しかし、驕れる人も久しからず。ある一人を旗頭にした此度の反乱はついに成功し、イルスタイン王国は新しく生まれ変わったのだった。
(新しい国を作ろう……! 子供が飢えて泣くことのない国を! 誰もが明日を信じられる国を!)
ひとりのそんな叫びから発生した人々のうねりは、ついには時代の潮流に乗り、真実新しい国を生み出すに至ったのだ。
一方、怠惰に耽っていた王族たちは長年に渡る国の腐敗の責任を取らされ、そのことごとくが処刑された。
また、悪政を布いてきた貴族や官吏も、我が身可愛さに国外へ逃げようとした者たちはその道半ばで怒れる民衆に袋叩きに合い、そうでなくても捕らえられ裁判に掛けられた。
古き王国は滅び、まるで芽吹いた種が若木に育つよう、新しい時代が興りつつあった。
「悪いことをした人間は、確かに罰される必要がある。だけど、貴方は何もしていないじゃないか」
「いいえ。私には旧政権の人間として、責任を取る義務がある」
彼はまっすぐな眼差しで断言する。
そもそも、捕らえられる前からすでに、彼はすべての覚悟を決めていたように見えた。
反乱軍が城を占拠した時も、そうだ。
片付けが追いつかないのか、重要なもの、些細なもの問わず書類の散乱する部屋で、インクや煤に汚れた手は最後までペンを握っていた。
扉の影から心配そうに様子を伺う部下たちにすっと視線を向けると、「こちらへ」と呼びつける。
『頼んでいた荷は、もう結構です。各部屋に運ぶ必要も、片す必要もありません。それからそこの貴方、こちらの書類を。今までのように、渡すべきところへお渡しください』
驚き目を見張る部下たちを尻目に、彼は反乱軍の者たちに向きなおる。そして、やるべきことはすべてやり終えたと言わんばかりに、「どうぞお連れください」とあっさり自身の身柄を引き渡した。
もはやその身、その命の、何も惜しくはないかのように。
腐った王城の一角で、長と名の付く立場にいた。たとえその腐敗を懸命に押し留めようとしていたとは言え、否、押し留められなかったからこそ責任を取る立場にある。
そう唱える彼の理屈は確かに正しいのだろう。
だが、人は理屈だけで動くものではない。
「なら、貴方のその責任を、私にも半分背負わせて欲しい」
「あなたにその権利はありません」
「すなわち、結婚してください」
「嫌です」
椅子から降り、アルベルト・フォーレンの前に跪いた全身鎧は、彼の手を取って結婚を申し込み、容赦なく振られる。
「なんで!? このままだと貴方、死刑になっちゃうかもしれないんだよっ!?」
「あなたと結婚するくらいなら、死んだ方がマシです」
「さすがにそれはひどくない!?」
癖の付いた淡い金髪がばさりと鎧の板金の上に広がった。
悲鳴を上げるように叫んだ全身鎧はその兜を投げ捨てるように脱ぐと、固い小手が彼の肌を傷つけないよう、そっと両手で彼の頬を挟み、顔を間近にのぞき込む。
「わたしは、貴方と結婚する為だけにここまで頑張ってきたのに!」
兜の下から現れた顔は、まだ若い女性のものだった。
奥深い森を思わせる緑の目は、零れ落ちそうなほどぱっちりと大きい。少し低めの鼻、今は不満げに尖った唇は小ぶりで、全体的に幼げな雰囲気はあるが、一方で高貴な顔立ちであるとも分かる。
だが、その左頬から首元、場合によってはさらにその下に掛けて火傷の跡が痛々しく引き攣れているし、右の眉毛を縦断するようにこめかみに向かって走る刀傷は、耳朶の一部を欠けさせている。
無骨な板金鎧から伺える顔だけでもこれなのだ。果たして鎧の下にどれだけの傷が残っているか。
アルベルト・フォーレンは一瞬自分が傷付いたかのように痛ましげに眉を顰めたが、それでも小さく首を振って手を振り払うと、顔を背ける。
「何を馬鹿なことを。立派なお題目を掲げ、反乱軍を率いていたのはあなたではないですか、ミリア姫」
幾度となく失敗してきた反乱が、今回ばかりは成功したのにはいくつかの理由がある。
その一つが、イルスタイン王国四十二代目国王が第八王女ミリア・イルスタインの存在である。
当代のイルスタイン国王は、それまで何代も続いてきたろくでなし同様に、何人もの愛妾を抱え込んだ挙句、手慰みに下女にも手を出すような好色だった。
何の後ろ盾もない下女の腹から産まれたミリアの扱いは、極めていい加減なものであった。
遊戯盤の駒のように好き勝手に扱われた挙句、若干十一の歳で国外へ嫁がされることになったミリア王女は、盤面から弾かれるように道中馬車ごと谷底に落とされ行方不明となる。公式には、王女はそこで命を落としたと記録されていた。
だが、どういう運命の悪戯か。辛うじて命を繋いだ彼女は、そのまま歴史の表舞台から姿を消し、再び盤上に現れた時には反乱の旗頭となっていたのだ。
たとえ下女の腹から産まれていても、彼女は正統なイルスタイン王家の血筋だ。
王家の人間が主導するからこそ、国内外からその意義を認められ、反乱が成功したとも言える。
「あなたがすべきなのは、反乱を主動した者として国を新しく建て直すことです。旧政権の罪人に心を砕き、罪を共に被ることではありません」
「そんなこと知らない。むしろこんなに頑張ったわたしには、ご褒美が与えられるべき」
「あなたは女王となって、この国を治めるという大任が待っているのでしょう?」
「やりたい人が勝手にやればいいじゃん。好きな相手と結婚できないなら、やる意味ないし」
まるで幼い子供のような口調でそっぽを向く彼女に、ついにアルベルトの額にぴきりと青筋が浮かぶ。
「……いい加減わがままを言うんじゃありませんっ! この山猫姫!」
慌てて口を押えても、飛び出した言葉はなかったことにならない。やってしまったと青ざめる彼を前に、ミリアはそれこそ猫のようににんまりと目を細め、ほくそ笑む。
「ようやく呼んでくれたね。……久しぶりだぁ、その名前」
バツが悪そうに視線を逸らす彼とは裏腹に、ミリアは非常に満足げだ。
何しろその名は、彼女が救国の英雄となるよりもずっと前。
王女という呼称以外の何一つ与えられず、浮浪児のように城内を彷徨っていた彼女を初めて人として扱ってくれた恩人が、彼女に与えた呼び名だったからだ。
貴族ではなく、王の一時の気まぐれで手を付けられたミリアの母は、誰の後ろ盾も持たず、誰に顧みられることもなかった。
城の端に部屋を持つことは許されたが、誰かが手を貸したり、世話をしてやることもない。母娘は息をひそめるようにひっそりと暮らしていた。
ミリアが四つの時、母親が姿を消した。
娘を捨てて城から逃げ出したのか、あるいは人知れず殺されたのかは分からない。とにかく、ミリアは独りになった。
独りになったミリアを気に掛けるものはいなかった。
いや、ミリアの存在を知っていた城の使用人たちの中には、ミリアの母親がいなくなったことには気付いていた。
だが、この城は魑魅魍魎が跋扈する万魔殿。王族という肩書がどのような災いを呼ぶのかと思うと、無力な使用人たちはうかつに手出しができなかった。
王女とは名ばかりのミリアは、腹を空かせては厨房で食料をちょろまかし、夜になれば部屋の隅で眠るという、まるで野良猫のような暮らしをしていた。
そんなミリアを初めて気に掛けたのは、ひとりの官吏だった。
登城し始めて間もない彼は、放置された王女の存在を偶然知って大層驚いた。そしてその境遇にひどく腹を立てた。
幼子が、誰からも世話をされず、顧みられず、その存在を無視されている。ぼろぼろの布をまとい、薄汚れた体で、大きな目だけをギョロギョロトとさせた、まるで野生の獣のように生きる子供。それも、これだけの人がいる王城内で!
そんなことに腹を立てられる彼は、まともな人間だった。まともであることが何の利も齎さない腐ったこの国で、そうあることを己に課せる稀有な人間だった。
とは言え、彼もろくな権限を持たない若手官吏だ。不遇な王女の後ろ盾になってやることも、王女として相応しい待遇を与えてやることもできない。
まずは『人間らしい暮らしをさせること』。それが最優先だ。しかし、それは予想以上に難題だった。
「いやだ! お前きらいっ!」
「ま、待ちなさいっ」
まずはボロボロの布切れのようになった服をどうにかしようと手を伸ばせば、予想外の素早さでどこぞの隙間へ逃げられる。
相手は王女とは名ばかりの、齢四つの頃から世話を放棄された野生児だ。王女教育どころか、まともなしつけさえされていない。
仕方なしに、食べ物で釣って捕獲するところから始める。まさにどこの獣だという有様だ。
服を着せ、手掴みで物を食べるのをやめさせ、礼儀作法を身に着けさせる。
仕事の合間を縫っては、根気強くミリア王女の世話をするが、これがなかなか思うようにはいかない。
庶民の子供さえ知っているような、人として当たり前の常識すら抜け落ちている彼女に対して、やがて彼も当たり前のものとして抱いていた王族に対する敬意も畏れも吹っ飛んだ。
「いい加減にしなさいっ、この山猫姫!」
「勉強なんかしないもん。アルのいじわる!」
そう呼び合うようになったのは、いつの頃からか。
警戒心の強い小動物のようだった少女が、彼に懐き、甘えを見せるようになったころか。
あるいは、道徳心、正義感というものから彼女に関わってきた官吏の胸に、愛情や庇護欲が生じてきた頃か。
親子ではなく、かと言って主従という関係でもなく。
腐り、倦み切った王城の片隅で、彼らは少しずつ絆を深めていった。
一方で粘り強い彼の教育も、徐々に実を結ぶ。
彼自身の権限が増えるに従って、本来であれば得られるはずであった王族としての権利や待遇なども、ミリアに与えられるようになっていった。
淡い色の金髪を無造作になびかせる、ぎょろぎょろとした目の痩せぎすの少女は、山猫ではなく立派な猫を被れるようになる。
しかし、まともな貴族子女らしい振る舞いができるようになるということは、利用価値が生じるということでもある。まるで奇跡のように優しい時間は突如として終わりを告げる。
王族としての義務を果たせと告げられた婚姻を断るすべは、何の後ろ盾もない第八王女にも、若手官吏にも持ち合わせていなかった。
「結婚なんてしたくない……」
城の片隅の粗末な部屋ではなく、ようやく与えられた王女に相応しい居室から抜け出してきた彼女は、五年以上に渡り自分の面倒を見てくれた官吏にそうこぼす。
「結婚するんだったら、アルとがいい……」
「何を仰いますのやら」
苦笑しながら彼は少女の淡い金髪を撫でる。ふわふわとした手触りを感じるのも、今日で最後である。
幸せになれと、安易に言うことはできない。
王族として生れ落ちながらも、まともな世話すら受けられず、それでいて良いように利用される羽目になった彼女。
何の後ろ盾も、力もない彼女では、嫁いだ先では己のささやかな望みを口にすることすら難しくなるかも知れない。
(それでも……、)
彼は彼女の頬を両手で挟み、その顔を覗き込む。
零れ落ちそうなほど大きい緑の目にはぎゅっと力がこもり、泣くのを懸命に堪えているのが分かった。
自身の残酷な運命にも、負ける事のなかった彼女だ。
この先は、もう手助けのひとつもしてやれない。
無責任に、幸せを祈ることもできない。ならば、
「どうか、幸せになることを、諦めないで」
彼にできるのは、ただ彼女に不屈の心を持つよう求めることだけだった。
しかし、そうして手放した彼女が、ほんの数日後、悪意とすら呼べない権力闘争に巻き込まれ命を落としたと知った時の彼の気持ちは、誰にも分からない。
ただそれ以降、彼がひと一倍用心深く、それでいてもう二度とその手ですくい上げたものを取りこぼさないように努めていたのは、明らかだった。
塔の上のこの部屋は、ミリアが幼い頃に母親と暮らしていた部屋とは異なる。しかし、見捨てられたような雰囲気はどこか似通ったものを感じられる。長年使用されることなく放置された部屋は、実は長い歴史を持つ王城には少なくない。
「わたしは、アルのことを一度だって忘れたことはなかったよ」
「私はすっかり忘れておりました」
「相変わらず嘘が下手だね。それともわたしが相手だから?」
バツが悪そうな顔で視線を逸らすアルベルトに、ミリアは悪戯っぽく笑いかける。
「別にね、すっかり忘れてくれていても、良かったんだよ。アルが幸せに暮らしていたなら」
でも、そうには見えなかった、と彼女は寂しげにつぶやく。
記憶の中の若手官吏と比べると、顔色は悪く、やつれ切り、目の下には何年も居座り続けた隈が色濃く浮かんでいる。これでもまだ、ここ何日かの獄中生活でマシになった方なのだ。
いったい彼がどのような気持ちで、どのような重圧の中で、侍従長という地位と共にこの王城に居続けたのか。
「わたしはアルのことを助けに来たんだ。塔の中に囚われたお姫様を救い出すように」
「いや、ここに私を閉じ込めたのはあなたですよね」
冷静に問い返すアルベルトに、ミリアはそう言うことではなく、と誤魔化すように咳き込む。
「……ま、まぁ、囚われのアルを見たかった気持ちが、まったくなかったとは言わないけど……」
そんな呟きが聞こえているのかいないのか、彼はちらりと一瞬だけ自分の手元に目を向け、嘆息する。
「だいたい私は哀れな姫君などではなく、ただの罪人なのだと何度言えば……」
「味方をしてくれたよね」
彼はハッとミリアを見て、そして慌てて取り繕うように首を振る。
「何のことやら」
「使用人や下働きのひと経由で、城の内部情報漏らしてくれていたよね。城の警備体制にわざと隙間を作ったり、こちらから送り込んだ内通者に気付かない振りをして、いざという時に逃がしてくれたりした」
城の中には何人も、当然彼の部下の中にも、ミリアたちの仲間はいた。有能で仕事熱心な侍従長が、それに気付いていないはずがない。
反乱を率いていた者たちもまた、自分たちに密かな協力者がいることに気が付いていた。そうでなければ理由の付かない、彼らにとって都合の良いことが多すぎた。危ういところを助けられたことも数知れず。
協力者は決して表には出てこず、その功績を主張することもなかったが、此度の反乱はその者の協力なしには無しえなかったのは間違いない。
アルベルトは気難しそうな顔で眉を顰めているが、その目が僅かに泳いでいることをミリアは気付いていた。彼女は怒ったような声で畳みかける。
「いざとなったら、責任を取って自分で全部終わらせるつもりでいた? 使われていない城の空き部屋のあちこちに、火薬が隠されていたのが見つかっている」
もしそれに火が付けば、この城は王侯貴族もろともに吹き飛んでいたことだろう。そのような手配を気付かれずにできるのは、城内を各室を整え、人員を配備する役割を担うものだけ。
「そんなこと、わたしが許すと思った?」
呆れたようなミリアに、アルベルトは気まずそうに視線を逸らす。
長い時間を掛けて、少しずつ進めていた計画。
いつも爪の隙間に入り込んでいた煤……火薬の粉は、ここ数日間の獄中生活の中で、すっかり洗い流されてしまった。
ミリアは立ち上がると、アルベルトの胸ぐらを掴み上げる。
「わたしは言われたとおり、幸せになるのを諦めなかったよ。だから――アルも幸せになることを、諦めないでよ」
がちゃんと板金鎧が音を立てる。長い戦を耐え抜いてきた鎧は、どこもかしこも傷だらけだ。だが、その役目はようやく終わる。
離れていく手を追いかけるように、アルベルトは彼女の顔を見上げる。
スッと一瞬だけ部屋に影がさす。
窓の外を飛ぶ鳥が横切ったのだ。気付けば、空はまた晴れ渡っていた。
アルベルトは、ミリアの癖のある淡い金髪に恐る恐る手を伸ばす。
ふわふわとした手触りのそれは、まだ彼が若く希望に満ちており、国を、未来を変えられると信じていた頃の、幸せの象徴だった。
撫でられた猫のように、嬉しそうに目を細めるミリアを見ながら、彼は呟く。
「私にもまだ、この国に……あなたに……してさしあげられることが、あるのでしょうか」
ミリアは答えない。その代わり、いたずらっ子のような顔で問いかけた。
「もう一度聞くけど、処刑されたくなかったらわたしと結婚してくれませんか?」
「……幼い頃、あれだけ面倒を見てきた子と結婚するのは、やはり抵抗があるのですが」
「その辺りは頑張って、自分で折り合いをつけください」
ミリアは問答無用でアルベルトの手を掴むと、グイっと引っ張る。
「とりあえず、わたしの仲間にアルを紹介させてよ。みんな、待っているから」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
手を引かれたアルベルトは、つんのめるようにミリアに引きずられていく。
開け放たれた扉からは、階段を下りていく二人分の足音が響いていた。
こうして、囚人の塔から国を滅ぼした極悪人はいなくなった。
新しく生まれ変わった国で、長く宰相として国と女王を支え続けた男が、いつ折り合いをつけて王配となったか。
それは、この国の歴史書を紐解けば、きっと調べることができるだろう。
○最後まで読んでくださって、ありがとうございます!
○感想、いいね、★〜★ ★ ★ ★ ★での評価等を頂けますと、とっても励みになります!
【おまけの裏話】
ミリア・イルスタイン
元はフルアーマーになる予定ではなかった。
反乱の英雄で、のちに女王となる元第八王女。
特殊性癖が芽生えつつあるようだが、矢印はアルベルトにしか向いていないので大丈夫。
馬車で落ちた際に、結婚するならやっぱりアルがいいと思ったのが、すべての始まり。
アルベルト・フォーレン
涼しげな美青年になるはずだったミドルエイジ。
苦労性の元侍従長であり、のちの宰相。
ブラックな職場環境にいたのは自分だけで、部下にはめっちゃ慕われていた。
世話をした幼女と結婚するのはどうしても抵抗があったが、猛攻に負けて落ちる。




