第三話 失われた血の記憶
第三話 前編 失われた血の記憶
喫茶〈アルカナ〉を出た与世夫は、深夜の銀座の雑踏を歩きながらも、自分の心臓の鼓動が耳の奥で響き続けているのを感じていた。
――聖泰司。
見覚えのない名。しかし「聖」という稀な姓を持つ人物が、同じ会社に在籍していたという事実。それは偶然では済まされない。
「与世夫さん」
隣を歩く氷川凛が低い声で言った。
「あなた、子どもの頃の記憶に空白はありませんか?」
「……どういう意味だ?」
「もし聖泰司が血縁だとすれば、事件の動機は“資産”ではなく“血筋”にあるかもしれない。あなたは自分の家族について、どこまで知っているんです?」
与世夫は思わず足を止めた。
両親の顔は覚えている。だが、小学生の頃に父を病気で失い、母は苦労しながら自分を育ててくれた――その記憶に揺らぎはなかった。
しかし同時に、いくつかの違和感が脳裏をかすめた。
母が決して話したがらなかった「親戚」のこと。
戸籍謄本を取りに行ったとき、役所の職員が一瞬だけ見せた奇妙な表情。
そして……幼い頃、夜中に誰かが窓辺で囁いていた声。
「与世夫……お前には、兄がいるんだ……」
その断片的な記憶が蘇り、背筋がぞっとした。
氷川は真剣な眼差しで言った。
「オルディス商事に在籍していた泰司という人物を、まずは探す必要があります。そして彼が生きているのか、それともすでに……」
言葉を濁した瞬間、与世夫のスマートフォンが震えた。
画面には非通知の着信。恐る恐る応答すると、低い声が耳を貫いた。
「……弟よ。やっと気づいたな」
与世夫の体が硬直した。
「お前は……泰司なのか?」
電話の向こうで、笑い声がこだました。
「明日、銀座五丁目で会おう。予告どおりにな」
通話が途切れると同時に、手の中のスマートフォンが異様なほど冷たく感じられた。
氷川が顔をしかめる。
「……弟、と言った?」
「……ああ。俺に……兄がいたらしい」
与世夫は、自分の人生が音を立てて崩れていくのを感じた。
莫大な資産も、平穏な日々も、すべてはこの“兄の影”によって揺さぶられようとしていた。
第三話 後編 兄の宣告
翌日の夜が、容赦なく訪れた。
銀座五丁目の交差点は、ネオンが雨に濡れた舗道を照らし、人々が行き交う。だが与世夫の心臓は、群衆の喧騒から切り離されたように早鐘を打ち続けていた。
氷川凛が隣で小声をかける。
「もし危険を感じたらすぐに離れてください。私が必ず止めます」
「……あんたは元刑事だろう。今さら俺なんかに首突っ込んで、損するだけだ」
「損得の問題じゃありません。あなたは“狙われる理由”を知らなきゃならない」
その時だった。
人波の向こうから、一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。背広に黒いコートを羽織り、眼鏡の奥から冷徹な光を放つ。昨夜、喫茶〈アルカナ〉で対峙した男――聖泰司。
「……弟よ」
泰司は足を止め、冷笑を浮かべた。
「ずいぶんと裕福そうに見えるな。俺と同じ地獄を這いずり回っていたはずなのに」
「兄さん……本当に、兄なのか」
与世夫は声を震わせた。
泰司は懐から古びた紙を取り出し、与世夫の目の前に突きつけた。
「戸籍抄本だ。お前の名はそこにある。だが俺の名も、確かに刻まれている。……母親はお前にだけ金を残し、俺を捨てた」
与世夫の胸に、幼い日の断片的な記憶が蘇る。母が誰かを泣きながら拒絶していた姿――あれは兄を追い払っていたのか。
「……なぜ今になって現れた?」
「決まっている。俺が欲しいのは“取り戻すこと”だ。奪われた人生を、金と、お前の命で埋め合わせる」
氷川が一歩前に出た。
「待って。あなたが本当に兄だというなら、殺しなんてしなくても――」
だが泰司の目は氷のように冷たく、銃口がすでにコートの下から覗いていた。
「弟の死は、運命だ。予告はただの宣言にすぎない」
その瞬間、群衆のざわめきが遠のき、世界がスローモーションのように歪んだ。
与世夫は初めて悟った。
――金では埋められないものがある。
それは血であり、過去であり、そして復讐の業だった。
次回、第四話 銃声の夜