第一話 退屈な楽園
余白の殺意
第一話 前編 退屈な楽園
聖与世夫、四十五歳。
肩書きは「無職」だが、現実には資産家と言ったほうが正しい。数年前、偶然目をつけたベンチャー企業が爆発的な成長を遂げ、彼が投じた数百万円は数千万円となり、さらに数億円は数十億円に膨れ上がった。長年勤めたブラック企業を嘲笑うかのように退職し、今では高級マンションで優雅な独身生活を送っている。
しかし、与世夫の胸の奥には、常にぽっかりとした空虚があった。
朝は遅く起き、資産運用の報告をスマホで確認し、気が向けばジムや美術館に足を運ぶ。夜はワインを片手に映画を観る。それは確かに「理想的な自由」だが、なぜか幸福感は長続きしない。
「人間、金さえあれば満たされるってもんでもないか」
そう独り言をつぶやいた矢先だった。
ある晩、近所の図書館で手に取ったミステリー小説の余白に、奇妙な走り書きを見つけた。
――明日の夜十時、東銀座の喫茶〈アルカナ〉。真実を知りたければ来い。
偶然の落書きだろうか。それとも誰かへの暗号だろうか。
退屈を持て余していた与世夫は、久々に胸が高鳴るのを感じた。
「……行ってみるか。どうせ暇だ」
翌日、喫茶〈アルカナ〉に現れた彼を待っていたのは、見知らぬ若い女性――そして血なまぐさい事件の幕開けだった。
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第一話 後編 喫茶〈アルカナ〉の邂逅
夜十時、東銀座の裏通り。雨上がりの舗道にネオンが滲み、古びた木製の看板に「アルカナ」と刻まれていた。
与世夫は扉を押し開け、薄暗い店内に足を踏み入れた。カウンターには無口そうなマスター、客はほとんどいない。奥の席で紅茶を前に座っていたのは、二十代半ばほどの女性だった。
「……来てくれたんですね」
声をかけられ、与世夫は一瞬たじろいだ。彼女は白いブラウスに紺色のカーディガン、目元にはどこか影がある。
まるでこちらの顔を知っていたかのような口ぶりだった。
「俺を……待ってたのか?」
「ええ。あなたしか、このメッセージを見つけないと思っていましたから」
意味が分からず眉をひそめる与世夫に、彼女はバッグから一枚の写真を差し出した。そこには、見覚えのある顔が写っていた。
――与世夫が勤めていた、かつてのブラック企業の元同僚。数年前に退職後、音信不通となっていた男だった。
「この人……昨日、殺されたんです」
与世夫の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
なぜ自分が、その事件に呼び出されたのか。
そして彼女は言った。
「あなたは、“次の標的”です」
次回「第三話:予告された死」