9-沈黙の湖に、ひとつ灯が落ちる夜
月が雲間からこぼれ、湖面をうっすらと照らしていた。
王都の北端、貴族も神官も近づかぬ静かなる水鏡の庭。
人払いを済ませ、魔術による気配遮断も完了した場所――
そこに、リアナとライルはいた。
言葉もなく並んで座るその距離は、指先ひとつで届くようで、どこまでも遠く思えた。
湖畔にひとつだけ灯された小さなランタンが、ふたりの横顔をあたたかく染める。
「……こんな風に、誰の目も気にせず呼吸できる場所が、この王都にあるとは思いませんでした」
リアナが呟くと、ライルは薄く笑った。
「誰の目も届かぬ場所を見つけるのが、俺の職業の本質だ。
けれど、誰とそこに行くかは、初めて選んだかもしれない」
リアナはその言葉に、ほんの少しだけ目を見開いた。
そして、そっと視線を落とす。
「……私も、そうかもしれません。
誰かに守られるだけの自分ではなく、誰かと並んで在れる場所に、今いることが――
少し、怖くて、でも……嬉しい」
沈黙が降りる。
だが、それは気まずさではなく、静かに染みわたるような沈黙だった。
ライルが、湖面を見つめながら低く問う。
「お前は……この戦いの先に、何を見る?」
リアナは、迷わず答えた。
「誰にも傷つけられない自分を、手に入れること。
でも、最近は……もう少しだけ、欲が出てきました」
「欲?」
「……それでも私のそばにいてくれる誰かを、選べたらと」
その言葉に、ライルはゆっくりとリアナのほうを向いた。
無言のまま、彼女の手に自分の手を重ねる。
冷たい皮手袋越しではない、生の体温がそこにあった。
「それが、もし――俺だったら、拒むか?」
リアナの息が、小さく吸い込まれた。
心音が、湖に反射する月光のように波打つ。
「……いいえ。
きっと、拒まない。
だって、あなたは……私の仮面が全部落ちたあとも、
目を逸らさず見てくれる人だから。」
ライルの指が、そっとリアナの頬に触れた。
その優しさは、剣でも魔法でもなく、静けさでできていた。
「明日、何が起きても構わない。
だが今夜だけは――お前が自分を赦す時間であってほしい」
その言葉に、リアナは目を閉じた。
ライルはそっと優しくリアナの顎を指先で上げると、小鳥がついばむような口付けをした。
騙し、読まれ、操る世界で――
たったひとつだけ、誰にも奪えないものを、彼女はこの手に得ていた。