13-すでに、その掌には何も
王宮の謁見室は、かつてないほど静かだった。
聖女ミレーヌの失墜――
それは王国全体を揺るがす信仰の崩壊であり、同時に王太子セドリックの判断力への大きな傷でもあった。
広場に響いた民衆の言葉のなかには、「聖女に踊らされた王家もまた盲目だった」との批判が含まれていた。
否、それは確かに事実だった。
セドリックは、沈黙のまま玉座の脇に立ち尽くしていた。
「……リアナ・フェルディナント」
その名を口にしたとき、胸の奥で、微かな痛みがきしんだ。
あの女は、最初からすべてを見抜いていた。
誰よりも冷静で、誰よりも慎重で、誰よりも――
神の名を騙る偽物に、ひとつずつ確実に引導を渡していた。
そして、自分はどうだった?
(……ただの冷たい女だと、見限った)
ミレーヌの柔らかく甘い言葉にすがり、
リアナの理性を無感情と誤認したまま、切り捨てた。
今となっては、それがいかに浅はかだったかを思い知っている。
*
――――数日後 王宮東庭
リアナは、花の咲き始めたバラのアーチの下を歩いていた。
薄いグレーのドレス。姿勢は優雅で、目にはひとかけらの曇りもなかった。
「リアナ」
呼びかけた声に、彼女は立ち止まる。
振り返ったその視線には、あの頃と同じ微笑――けれど、心はもう別の場所にいた。
「”王太子殿下”、ご機嫌よう」
まるで初対面のような距離感。
セドリックの喉が鳴る。
「君は……すべてを、見抜いていたんだな。
なぜ、それをもっと早く、俺に――」
「それを、あなたが聞いたと思われますか?」
リアナの声は、やわらかく、それでいて酷だった。
「冷たい、感情がない、面白味に欠ける――
あなたは、私の言葉に価値を見出そうとしなかったでしょうね。
きっとあのとき私がどれほど忠告しても、あなたはただ、聖女の言葉に頷いていた」
「それは……俺が……間違っていた。君に、謝りたい」
セドリックの声は、本物だった。
悔いと懺悔が混じり合い、ひざを折りそうなほどに真摯だった。
けれど、リアナはただ静かに、首を横に振った。
「謝罪を受ける義理はありません。
あなたの謝罪は、あなた自身が背負えばいいものです。
私は、もうあなたに何も求めていません。
……そして、あなたにも、私を求める権利はないはずです。」
セドリックの手が、宙を掴むように伸びかけ――止まる。
すでに、そこにいたはずの彼女は、届かない場所にいる。
「……リアナ……」
「では、失礼いたします。“殿下”」
リアナは礼をして、踵を返す。
その背中には、憎しみも怒りもない。
あるのはただ、終わった人間への視線だけだった。
セドリックは、しばらくその場から動けなかった。
王宮の風が、彼の外套を虚しく揺らしていた。
ようやく気づいたのだ。
自分が最も遠ざけていた女こそが、最後に残るただひとりの真実だったと。
だが、すでに遅すぎた。
――――その掌には、何も残されていなかった。




