18.ラフォーレ・アナスタシア
朝、リゼはいつもの様にいつもの席で朝食を取っていた。しかしいつもと違うのは、その対面には沢山に積み重ねられた皿も、大きな丸机に並べられた料理もなく、そこでそれ等を綺麗に平らげる少女も居ないということ。
「……料理の味も少し物足りなく感じるのは、不思議な物だな」
ユイもエルザも昨日の夜からそれぞれに籠って作業をしている。マドカとも昨日の昼から会えていない。命に別状は無いとの事だが、治療院の緊急治療室には滅多な人物でもなければ特別な入室は認められないと断られ、実際に彼女が今どのような状態になっているのかも分からない始末だ。
それでもやれる事が無い以上、リゼはいつもの様にダンジョンに潜り、無茶をしない範囲で依頼をこなし、金を稼ぎ、経験を積むしかない。それがリゼに出来る最善だった。ユイやエルザのように、強さ以外の方面でマドカを助ける事のできる手段は持っていない。それが今は歯痒くて、落ち込んでしまう。
「お前がマドカの教え子だな」
「え?」
そうして物思いに耽っていたリゼの背後から、見知らぬ女性の声が投げかけられた。近付いてくる革靴の音、それまで普段通りに飛び交っていた朝の賑やかしさは一瞬にて消え失せ、周囲の者達もリゼの背後の人物へと目を向けている。
「……マドカの、お姉さん、だろうか?」
「母親だ、そう似ている訳でも無かろう」
「え、若い……」
「悪いか」
「そ、そんなことは!むしろマドカの親類だと直ぐに分かる程には美人で驚いたというか……!」
「ほう、そうか………おい、そこのギルド職員。これで適当な食事を買って来い、釣りは要らん」
「は、はいぃ!!分かりましたぁぁあ!!!!」
普段マドカが座っている対面の席に、同席する事を確認する事もせずドカリと座ると、少し離れた位置でこちらを伺っていたギルド職員に貨幣を投げ付けてそう言う彼女。
あまりに自分勝手が過ぎるその姿に、彼女が本当にあのマドカの母親なのかと疑問に思ってしまったくらいだが、昨夜にエルザとエリーナから聞いていた人物像を考えると正にとその様な人物でもあった。
こうして正面から見てみれば、その整った顔と宝石の様な青い瞳は娘であるマドカと共通しているが、彼女のその髪はマドカの真っ白な物とは似ても似つかぬ灰色。
"灰被姫 ラフォーレ・アナスタシア"
その二つ名に違わぬ容姿に加え、そう名付けられるのも当然な程に数多の障害を物言わぬ灰に変えて来た稀代の暴君。
「も、持って参りました!今日の日替わりセットです!!」
「……釣りは要らないと言ったろ、帰れ」
「痛っ!?す、すみませんでしたぁあ!!」
リゼと同じ朝食用のセットの横に置かれた布袋に入った釣銭を、彼女は持って来てくれた彼に向けて投げ付ける。それを当てられた彼は逃げる様にしてそれを引っ掴んで自分の席に戻って、更に先程まで食べていたプレートを持って遠くの席に逃げて行ったが、きっとこの様に被害に遭ってしまった者はこれまでも多くいたのだろう。彼女がここに現れた時の周囲の反応、それこそがその事実を表している。
「そ、そういえば……!マドカから貴女は今都市の外で龍種の対応をしていると聞いていたのだが、それはもう終わったのだろうか……?」
「終わっていない、帰って来たのは私だけだ」
「だ、大丈夫なのか!?貴女はかなり優秀な探索者と聞いた!その様な人が抜けてしまっても良かったのかい!?」
「知るか、それはマドカの無事を確かめるより大切な事ではない」
「え、えぇ……」
彼女がマドカの事を大切にしている、というのは何となくでなくとも分かる。とは言え、それはもしかすれば龍の対処が間に合わないと言う事態に繋がるのではないだろうか?
あのワイアームと対峙したからこそ分かるのだ。この街の探索者全てが駆り出されても討伐に時間が掛かっている現状というものが、果たしてどれほどの事態であるのかを。
「……向こうの処理ももう終わる、聖の丘への報復はその後だ」
「ええと、向こうの戦況に問題はない……という理解で良いのだろうか」
「私が居なくとも魔女とその弟子が居る、効率は悪かろうが処理に問題は無い。私とてマドカの居るこの世界を滅ぼさせるつもりなど毛頭ないからな」
「な、なるほど……」
だとすれば、一応彼女もまたこの世界を守るという共通の目的を持っていると言えるのだろう。そこだけは良かったというか、彼女の行動方針においてマドカの存在が大き過ぎることに驚くというか。
……ただ、どうにも彼女がリゼを見る目は険しい。それがデフォルトなのか、本当に嫌われているのかは分からないが。
「……腹が立つな、貴様」
「え」
どうやら本当に嫌われていたらしい。
「貴様は弱者だろう、他者の心配をしている余裕があるのか?」
「それ、は……」
「聞けばワイアームとの戦闘の際にもマドカの邪魔にしかなっていなかったそうだな。マドカの教え子故に今回だけは見逃してやろうと思っていたが、自身の弱さを自覚して尚その態度であるというのなら、その肩書きに相応しい存在では無かった様だ」
「っ」
瞬間、それまでとは打って変わって明らかな嫌悪を込めた圧力を向けてくるラフォーレ。思わずフォークを落とすリゼに、まだ食事を終えていない筈の周囲の者達もそそくさと食器を持ってその場を離れていく。
「身も心も脆弱な存在が何故あの子の負担となる。絶対の絶望も知らず、核とした目的も持たず、浮ついた精神しか持たぬ様な愚者が、何故あの子の側に居る」
「それ、は……」
「以前の者達にはまだその資格があった。最初の2人は絶望を知っていた。それまで努力では決して掴めなかった安楽を、努力さえすれば掴めると知ったその瞬間から、死に物狂いで強さを求めた。あれ等は好ましかった、力の強さの本当の意味を知っていた」
「………」
「次に来た2人は貴様よりも身体は脆弱だった。しかし今の様に私を前にしても目すら逸らさぬ程に強靭な精神と目的を持ち、どの様な手段を用いようともそれを成し遂げるという狂気すら抱えていた。そして奴等は今、力とは別の方法で名を挙げている。だが今尚、奴等の目には最初の目的以外は映っていない」
「………」
「貴様には一体何がある。半端な心と覚悟でこの街に踏み込み、あまつさえ自身の未熟故にマドカに怪我を負わせただけでなく、その上で大した心変わりをする事もなく今尚惰弱に浸っている貴様に。一体何故マドカが自身の貴重な時間を消費してまで貴様に付き合う必要がある」
「私、は……」
エルザと話した時に、リゼもそれは自覚していた。しかし彼女はマドカの怪我をリゼだけの原因ではなく、他の者達のミスが複合的に合わさった結果であると言ってくれた。リゼも無意識のうちに、彼女のその言葉に頼っていたし、その言葉で救われた気持ちになっていた。
……だが、マドカがリゼを救う為に怪我をしたのは事実である。どれだけ捉え方を変えようとも、それは変わらない。変えられない、変えてはならない。それから目を逸らすべきではないと。正面から受け止め、徹底的に自信が絶望する程に悩むべきであったと。目の前の女はそう言っている。
それすら出来ぬのであれば、マドカの側に居る事すらも罪であると。女はリゼに対して、何の慈悲もなくその選択を突き付けていた。
「……消えろ、愚鈍。2度と私の目の前に姿を表すな」
「まっ、待ってくれ!!」
今度こそ興味を無くした様にして立ち上がった彼女を、リゼは必死になって引き止める。彼女をここで行かしたとしても、何の問題も無いだろう。せいぜいマドカと一緒に居る所を見られる度に今の様な目線を向けられるだけだ。リゼ自身がもっと強くなれば、それも変わるかもしれない。
けれど、それでもリゼは彼女を引き止めた。
それが果たして正しい意図であったかどうかも、分からないまま。
「私に!鍛錬を付けて欲しい……!」
「なに?」
「私が、私が弱いことなど分かっている!私の考えは未熟だ!目的だって確かにまだ弱い!けれど私は、それでも、マドカの側に……っ、ガッっ!?」
「……もういい、黙れ」
料理が乗った大机が、凄まじい勢いでリゼの腹部に直撃する。それを蹴り飛ばし、彼女ごとに吹き飛ばしたのはラフォーレだ。
机の足は折れ、自身の頼んだ料理も含めて全てが粉々に散乱し、大きなヒビが入った丸机の側でリゼは腹部を抱えて呻いていた。
リゼのVIT(耐久力)はE8。机越しに間接的に受けたというだけなのに、それでも耐え切る事の出来ない破壊力。本当にこの女が魔法使いであるというのが信じられない程の威力だった。
「っうぐぅっ!?」
女は迷惑料と言わんばかりに食堂の受付の方に懐から取り出した10万L分の金貨を投げ付け|4.通りの邪魔となっている蹲ったリゼをもう一度壁に向けて蹴り付ける。彼女にもう容赦という文字は無かった。
2度、3度と壁に打ち付けられ、吐血し、床を汚す。そうして一通り満足した後、血と涙で汚れたリゼのその顔を持ち上げ、女は無理矢理に目線を合わせる。どこまでも冷たく、見下した様な表情で。
「ここで命を奪われなかった事をマドカに感謝しろ、ゴミが。そして早急にあの子の側から消え失せろ。貴様の様な屑があの子の側に居るというだけで虫唾が走る」
「あ……が……」
どれどけ必死に手を伸ばそうとも、彼女はもう止まることは無かった。蹲るリゼには視線すら向ける事なく、ただ不快そうに表情を歪めたまま去っていくラフォーレ。如何にも不機嫌そうな彼女に近付く者は居なかった。事の顛末をギルド長に伝える為に走る者は居ても、彼女の道を妨げる者は誰も居ない。
「リゼさん!?どうしたのですか……!?」
「ユ、イ……」
偶然にもマドカの治療がひと段落し、朝食を取りに来たユイがその場に来なければ、肋骨の骨折と内臓の損傷にまで発展していたリゼの怪我も、ただ事では済まなかったかもしれない。
「なるほど、その様な事が……」
「……どうにも、私はエルザ達から聞いていた話を甘く考え過ぎていたらしい。マドカの母親がまさかあそこまで過激な人物だとは思っていなかった」
「皆さん最初はそう仰られます、私もそうでした。あの方には一切の手加減がありません。止められる人間もマドカさん以外には居りません」
ラフォーレによる攻撃を受けて倒れていたリゼが、偶然通り掛かったユイによってギルドの近くの空き部屋に運び込まれ治療を受けた後、2人は静かなその部屋でゆったりと事の顛末について話していた。
治療をしたとは言え、未だ痛みが残っているリゼは身体を机の上に横たわらせたまま。そんな彼女の話を側で聞くユイは、椅子に座りながら優しく笑い掛ける。
「……それでも、あの方は恐らく、皆さんが言うほど横暴なだけの人では無いと私は思います」
「……?どういうことだろう?」
「あの方はあれでも他人の事をよく見ているんです。気に入った人間であろうと気に入らない人間であろうと問答無用で拳を振るいますが、気に入った方には不器用な優しさを見せてくれます。……まあ、それも一般的にはかなり酷い部類ではあるのですが」
「不器用な優しさ、か……」
そう言われてみれば確かに、彼女はマドカの教え子達についてよく知っている様だった。その言葉ではユイ達のことをしっかりと評価していたし、ギルド職員や食堂に対しても迷惑を掛けた分だけの金を支払うくらいの意識はある。確かに彼女は暴君と言われる程に人間として狂っているのだろうが、その程度の常識や人間味は持ち合わせていた。
……かと言って、それだけであの暴力性が許されるかと言われればそうでもないだろうが、単に純粋な悪人ではないという事だけは確かだ。
「恐らくリゼさんの言葉も、あの方からすれば『"マドカさんの教え子"という立ち位置を簡単に捨てる様な人間』という風に見えてしまったのでしょう」
「なっ!私は別にそんなつもりは……!」
「つまり、ただの行き違いです。ただその行き違いがあまりに大きな勘違いになってしまったのも確かです。その勘違いを抱えたままでは、きっとリゼさんがマドカさんと一緒に居るだけであの方は怒り出すでしょう」
「そんな……」
それほどにリゼはマドカの母親に嫌われてしまった。その怒りを抑えるのはギルド長のエリーナですら難しい。しかしこれをマドカに伝え、マドカの口から誤解を解こうとするのも違うだろう。また惰弱な人間として、怪我をしたマドカに今も尚頼る様な害悪として、ラフォーレからは認識されてしまう。
かと言って『2度と顔を見せるな』と言われた手前、彼女に会いに行くのも殆ど自殺行為の様なもので……
「……今考えても仕方がありません。問題はありません、マドカさんはリゼさんの事を気に入っておられますから。マドカさんがそれほど気にしている方に、ラフォーレさんもそう簡単に手は出せません」
そう言われてしまうと、やはり結局マドカを頼ってしまっている様で落ち込んでしまうリゼ。自分の弱さを分かっていたつもりではあったが、どうやらやはり分かっていたつもりになっていただけの様だった。1人では何もこなせない、生きていく事だって難しい。あらゆる困難をマドカによって遠ざけられ、マドカによって舗装された道を歩いているだけの自分。
ラフォーレの言う通りであった。
きっとユイやエルザ、そしてその前の教え子達がやっていた様な血の滲むような努力を、リゼはまだしていない。その日にマドカに教わった事を反復して学んでいても、それほどに必死にはなれていなかった。
これでは『物語になるような探索者になりたい』という夢なんて決して叶いはしないだろう。憧れた英雄達の様に危機に直面しても、彼等のようにそれを乗り越えることなんて出来ないだろう。なぜならリゼには核となる意思がないから。絶望を乗り越えるための強い衝動がないから。いざ死に直面した時、それでも絶対に死ぬ事が出来ないと足掻く事が出来る為の燃料が存在していない。
そう考えてみれば、自分の祖父はどれだけ燃え盛っていただろうか。彼がリゼの持つ大銃を作り出したと語った直後にまるで燃え尽きた様にポックリと逝ってしまった理由も分かるというものだ。彼はそれを作るためだけに、本当の意味で命を燃やしていたのだから。そしてそれを燃やせるだけの燃料を抱えていたのだから。あれだけ冷たい目で見ていた祖父が、今のリゼには羨ましく思える。自分の人生を捨ててまで注ぎ込めるだけの何かを得た祖父の事が、ただの愚かな人ではない様に思えてしまう。
「……ユイは、何の為にこの街に来たんだ?」
「私がこの街に来た理由、ですか」
「ああ、君が良ければだが……教えて欲しい」
「……そう、ですね」
リゼのそんな頼みにユイは一度目を閉じて考え込む。それを話してもいいか、話してその後にどうなるか、それを彼女は考えている。話すとしてもどこまで話すべきなのかもあるだろう。彼女達2人が何かを抱えているということなど、リゼだってよく知っているのだから。
「……他言無用でお願い出来ますか?」
「約束する、マドカに誓ってもいい」
「……ふふ。なるほど、それなら安心ですね。分かりました、お話しましょう。リゼさんは私にとっても大切な後輩ですから、エルザ様も納得して下さるでしょうし」
そうして彼女は自身の頭からヘッドドレスを取ると、そっと丁寧な所作で立ち上がり、部屋の扉の鍵を閉めた。窓に付けられたカーテンも閉め切り、魔晶灯の明かりをつけていく。
そして……
「人前で外すのはいつぶりでしょうか。それこそおかしな話なのですが、少しだけ恥ずかしくも思いますね」
「え」
ストン、と自身の髪を下ろすユイ。
下ろしたというのは、決して解いた訳ではない。
文字通り、彼女は自分の髪を机の上に落としたのだ。
そうして中から出てきたのは、網の様な被り物で包まれていた同様に黒い短髪。それと同時に雰囲気の変わったユイを前に、リゼは思わず起き上がりそうになり、腹部の痛みと共にまた寝転ぶ。
「ユイ、それは……」
「驚かれましたか?実は私、性別は男なんです。この胸も髪も、全て作り物です。全て戦闘中に外れない様に作られた特注品、元々はエルザ様の御屋敷で性別を隠してメイドをしていました」
「そんな、ことが……」
信じられない。
今はただその一言しかない。
あれだけ女性らしかったユイが男?
今こうして目の前で髪を下ろされても、未だに信じられない。むしろ肩まで伸びたその髪や顔立ちを見るに、今でも女性なのでは無いかと思えてしまうくらいだ。……けれど、今纏っているその雰囲気は、もし男装していれば良く似合う様な質の物でもあって。
「それではお話ししましょうか。私とエルザ様がどうしてこの街に居るのか、そして何を目的にしているのか……少々長い話になってしまいますので、飽きたら飽きたと仰って頂いても構いませんよ」
ユイ・リゼルタ……女装男子。