15.強化種ワイアーム
最初は本当にそんなつもりはなかった。
『龍の飛翔』と呼ばれるオルテミス近海の海岸付近から、毎年の様に強大な龍が出現する現象。これの対処の為に自分達のクランからも多くの探索者が駆り出され、残されたのはクランの維持に必要な最低限の人数だけ。
それでも都市最大規模のクランである『聖の丘』は街の警備も担当しているため、他のクランよりも街に残った人数は多かった。
彼等3人もそうして残された、比較的探索者になって新しい部類の者達であり、その3人ともが『聖の丘』のトップである『レンド・ハルマントン』という男に憧れてここに入って来た同志であり同期でもあった。
それこそ、最初は順調だった。
貸し出されたスフィアと装備を見に纏い、3人で順調に到達階層を進め、街の警備の担当時間の合間を縫って真面目に探索についての勉強を行い、期待の新人として持て囃された。
しかし問題は10階層の階層主であるレッドドラゴン討伐を視野に入れ始めた頃。
この『龍の巣穴』と呼ばれるダンジョンの難易度は特定の階層ごとに跳ね上がる。その最初の跳ね上がりこそがこの10階層であり、レッドドラゴン。
3人でどれだけ試行錯誤を重ねて挑んでも撤退するしか無く、かと言って今更9階層以下のモンスター相手では苦戦する事もなくレベルも大して上がらない。人数を増やして挑めば倒せたかもしれないし、何だったらレッドドラゴンの討伐だけ先輩に頼み、十分なレベルに上がるまで11階層以降で鍛錬を積むという方法だってあるにはあった。
けれど、3人はそれだけはしたくなかった。
自分達の憧れた『レンド・ハルマントン』という探索者は、初期の頃はクランにすらも入らず、たったの3人で20階層まで到達したと聞いた。そんなところを"聖の丘"に勧誘され、順調に団長にまで上り詰めたとも。なればこそ、彼に憧れた3人は、3人の力だけで同じ事を成し遂げたかったし、それを成し遂げれば未だまともに会話したことすらない『レンド・ハルマントン』に注目して貰えると思ったからだ。
「どうすれば3人で勝てると思う?」
「やっぱスフィアだろ、他のやり方だと時間がかかる」
「けど宝箱は滅多に見つからないし、階層主は連続して何度も狩るべきじゃないって言われてるだろ?」
時間を掛けて鍛錬を詰めば、確かにいつかは勝てるかもしれない。けれど、都市最大規模のこの『聖の丘』には当然ながら今も多くの有望な探索者が仲間入りする為の試験を受けているのだ。時間を掛けてしまえば彼等は直ぐに追い付いて来てしまい、自分達から『期待の新人』という肩書きすらも奪っていってしまう。同じ事をした自分達だからこそ、それが分かった。だから焦った。
そして他の探索者達が街の外に出ている今こそ、実力の差を広げるチャンスだとも思ったのだ。
「……連続じゃなければ、いいんだよな?」
「それは……そうかも、しれないが」
「連続って言っても、2回とか3回くらいなら大丈夫だよな……?俺達は偶然その日に頼まれ事をしていて、行きと帰りに2回ずつ戦った。これなら別に普通の事だろ?」
「……まあ、な。それにもし強化種が出て来たとしても、所詮はワイアームの強化種だろ?どうにでもなるって」
「あ、あくまで偶然だからな!それに2回までだ!それ以上は絶対に狩らない!これは譲らないからな!」
男3人、そうして計画を立てて、ギルドの受付に『薬草の採取を頼まれた』と嘘を伝えてダンジョンに潜った。本来ならば街の警備をしなければならない時間なのにも関わらず、2時間くらいで戻るからと自分達に言い訳をして5階層まで入って行った。
そしてその結果……
「み、見ろよこれ!スフィアが落ちた!しかも『狂撃のスフィア』だ!滅茶苦茶レアな奴だぞ!」
「ま、まじかよ!この街でも150,000Lはするレア物じゃねぇか!さっきも『回避のスフィア』が落ちたし……こ、これなら勝てるんじゃ!」
「ま、待て!最低でも『挑発のスフィア』は欲しい!それが手に入るまでは続けよう!な!」
続きに続いた幸運に、いつのまにか歯止めが掛からなくなっていた。2回と決めていた回数はいつの間にか3回、4回と増えて行き……インターバル確保のために『薬草を採取する為の行きと帰りに戦う』という建前も興奮のあまり忘れてしまう。
新しいスフィア、珍しいドロップ品。
倒せば倒すだけ何かが手に入る。
階層主を連続して倒してしまうと強化種が出てくる可能性があるという事は知っていた。
けれど、今ここで止めればもう2度とこんな幸運には恵まれないのではないか。続けていれば幸運もまた続くのではないか。そんな根拠の無い考えに頭を支配されてしまえば、いつの間にか真面目さを欲望が上回ってしまっていた。あと一度だけ、あと一度だけ、それを何度も繰り返してしまっていた。
……そして。
「ひぃっ!?」
「な、なんだよこいつ!?ま、待てよ!俺達まだ6体くらいしか狩ってないだろ!?それなのにこんな、こんな……!」
「逃げろ!逃げるんだ!勝てる訳がない!ふざけんな!強化種がこんな奴だなんて聞いてな……がっ!?」
「うわぁぁあああ!!!!」
欲望の悪魔は現れた。
……ああ、そうだとも。
この姿を見て悪魔以外にどう形容すればいいというのだろうか。
倒れ伏した2人の探索者、そして今こうして目の前で咀嚼されている恐らく探索者であったろう血肉の塊。そんなものを目の前に突き付けられて、リゼは身体を硬直させる。
ワイアーム。
今思えばあの龍は本当に可愛らしいものだった。
身体は大きく速度はあっても、所詮はリゼが1人でも倒せた程度の龍種。恐らく他の探索者であっても、しっかりとした情報収集を行い、対処を考え、事前に決めていた事柄をしっかりと行える程度の力があれば、同じ事は簡単に成し遂げられた筈だ。
エルザやユイと戦った時の様に集団戦闘の練習台にもなり、そういう意味では本当に浅層に居るのに相応しい相手とも言える類の龍。理不尽など何処にも無く、ある程度レベルが上がればマドカの様に剣の一振りで倒せる存在。
しかし同じ名前を冠していたとしても、今こうして目の前で飛んでいる龍というのは全くの別物である。
見た目こそはワイアームに似ていたとしても、大きさはその3倍以上はあり、黒色の体表は元より遥かに高い硬度を持ち、全ての気穴から弱毒を帯びた紫色の空気が噴出されている。
そして何より違うのが、その威圧感と存在感であった。目の前で立っているだけでも急激に重力が増した様な感覚に囚われ、手足の震えが止まらず、心臓は脈打ち、額や首筋から多量の汗が流れ出て行く。
目を向けられただけで身体は無意識の内に背後へ下り、しかし逃げようと動いた瞬間に次の獲物となり同様に肉塊へと変えられてしまうイメージを頭に植え付けられる。
その濃密な魔力を帯びたオーラの様なものは、魔力に疎いリゼでさえも気付くのだ。強化種などという言葉は知っていても、その実を誤解していたとしか言いようがない。強化種などという言葉は本当に生温かった。あれは正しく……
「リゼ!走りなさい!」
「っ!」
背後から背中を強く叩かれる。
そして震えていた自身の右手を誰かに引かれて、自然と身体も走り出す。
叩いたのはエルザだった。
手を引いてくれたのはユイだった。
自分よりも経験のある2人が、率先して自分を動かしてくれた。彼等もまた額から汗を流し、あの強大な威圧感に当てられているにも関わらず。
「まずは倒れてる馬鹿達を回収!その後は直ぐに撤退してマドカの邪魔にならない様に動くわ!ユイ!私を担ぎなさい!リゼ!貴女はあの2人を持つの!出来るわね!」
「あ、ああ……!や、やる、やるとも……!」
その赤い瞳を普段以上に赤く光らせ、エルザが必死の形相で指示を出す。ユイに担がれた彼女はその赤い瞳をジッとワイアームの方へと向け、ユイはエルザを担ぎながら始まったワイアームとマドカの戦闘の余波を避ける様に迂回しつつ、倒れている探索者達の元へと直走る。
『ゴァァァアアァァァァアア!!!!!!!!』
「っ!!せぇやぁ!!」
「マ、マドカ……」
必死に走るその横で繰り広げられている光景は、リゼが思わず立ち止まってしまいそうになる程に衝撃的な物だった。
その巨体に見合わず凄まじい速度を持って天井や壁面、床面までを大きく抉りながら体当たりを繰り返すワイアームと、その全てをワイアームを超える脅威的な速度で空間を縦横無尽に使い避けながら反撃を行うマドカの姿。恐らくエルザやユイには、マドカとワイアームの激しい攻防は殆ど認識出来ていない。彼等の間にどの様な駆け引きがあり、どの様にして互いの攻撃に対応しているのかを、全く理解出来ていないに違いない。
ワイアームが気穴からの噴出を集中させる事で実現した超高速の体当たりを、マドカは『回避のスフィア』を用いて避け、直後にマドカが発動した『水斬のスフィア』による激しい水流の伴った斬撃を、噴出する気穴を切り替える事でワイアームは軽減し受け止める。放たれた不可視の空気弾もマドカはまるで見えているかの様にワイアームの身体を足場に跳躍すると、今度は天井を足場に跳ね飛び、頭部の破壊を狙って斬り込むのだ。
いくらマドカが斬り込もうともワイアームは気穴を駆使して威力を軽減し、その鋼の様な龍鱗を用いて無効化する。
いくらワイアームが攻撃を加えようとも、マドカはその悉くを回避し、空中で無防備を晒したように見えても、鞄から取り出したロープや小型魔晶爆弾、そして『回避のスフィア』を用いて潜り抜ける。
僅か10秒の間の攻防でさえも、その中には数十を超える命の駆け引きが存在していた。その速度や威力もさることながら、なにより彼等の認識能力や思考速度の方がリゼには信じがたかった。これこそが本物の上級探索者の戦闘なのかと、唖然とした。こんなことが龍種にも出来るのかと、恐怖した。戦慄した。こんな物を見せられてしまえば自分達が行なっていた通常のワイアームとの戦いなど、本当に"おままごと"に過ぎないと、そう思わずにはいられない様な光景だった。
「っ、目的はそっちですか……!」
そうしてリゼがユイに連れられて意識を失い血塗れになっている2人の男性探索者達の元に着き、彼等を両脇に抱え立ち上がったその瞬間、マドカの方からそんな正しく想定外というような言葉が聞こえて来る。
直後に木霊する爆発音。
そして何かが崩落し、背後でエルザが狼狽える声。
……振り向けば、4階層へと繋がる階段が存在する階段が入口ごと破壊され、埋められてしまっていた。
ワイアームの空気弾、それが着弾したのだ。
マドカとワイアームの戦闘。
一見彼等は互角に戦っている様に見えて、実際にはマドカの方が押されている。有効打が無いだけではなく、体力の違いもあり、なによりユイのマスクがあったとしてもワイアームの毒は最も近くで戦っているマドカを徐々に侵食し始めているからだ。
そんな中でワイアームは更に欲を張って入口の一つを破壊し、一度マドカを退けると、今度は自分自身も6階層へと繋がる出口の方へと立ち塞がる。
完全に彼は自分達を逃すつもりが無かった。それこそただの1人でさえも、全てを喰らわなければ納得しないとでもいうかの様に。
「ふぅ……さて、どうしましょうか」
「っ、私のスフィアは……!」
使ったことのない魔法のスフィア。
まだ指示もされていない。
何をしろとも言われていない。
だから何も出来ない。
マドカは既にかなり消耗し、肩で息をしているというのに、ワイアームは未だ翼や気穴に損傷はあれど、大きな傷はない。それでもまだマドカやエルザは自分に指示を出してくれない。
リゼには今何もできることはないということか。
介入する事さえも許されていない。
圧倒的な力量の差。
今無意味に出て行ったとしても、本当に無惨に殺されるだけ。
「……エルザ様、5秒だけ時間を稼げますか?その間にマドカさんに解毒と体力の回復を行います」
「そうね……出来ると思うけれど、あの図体だもの。きっともう一つ荷物が増える事になるわよ?」
「構いません、今のままではどうにもなりませんから」
次元の違う戦闘と、それでもどうにもならないこの危機的状況に、ただ立ち尽くす事しか出来ないリゼ。
しかし今度はそんな彼女の前に、実力的にはリゼとそう変わらない筈の2人の先達が立つ。彼女達とて分かっている筈なのに、自分達の実力ではどうにもならないと。それなのに2人の目にはリゼとは違い、何か確信のような物が燃えている事に気付いてしまう。こんな状況であっても、あんな化け物が相手でも、自分達には出来ることがあるとでも言っている様に。
「な、何をして……」
「リゼ、私の身体もお願い」
「行きます」
「待っ……!」
ユイがマドカに向けて走り出す。彼女はその右手に橙色の液体の入った小瓶を手に持っており、一方でエルザは自身の両目を大きく見開いてワイアームに視線を向けていた。杖も持たず、魔法すら発動しようとしていないのに。
『ゴァァァアアァァァァアア!!!!』
「マドカさん、解毒を……!『誠心支援』」
「時間稼ぎは任せなさい!『鮮血紅眼』!」
走り出したユイと振り向いたマドカの隙を突く様に最高速度での体当たりを敢行したワイアームが、直後にほぼ直角に突進方向を変えて壁に直撃する。
瞬間、背後のリゼに向けて崩れ落ちるエルザ。
一方で走り出したユイはマドカに解毒ポーションを投げると、彼女がそれを飲み始めると同時に微小に青く輝いた両手をマドカの背中に当てて静止した。
悪かった顔色を取り戻し、少しずつ息が元に戻り始めたマドカ。一方で明らかな疲労の色を浮かべ始め、フラフラとした足取りでその場を離れてリゼ達の元へと戻り始めるユイ。
2人が何をしたのか。
詳しい事まではよく分からないが、リゼでも何となく予想がつく。恐らくエルザには一時的に攻撃の方向を変える様なスキルが存在しており、一方でユイには自身の体力を他人に分け与える様なスキルがあったのだろう。それと解毒ポーションを用いる事で、マドカの状態を万全に近い状態まで戻したという事だ。
……それでも2人の疲労はこの一瞬で凄まじい事になっているのか、もう立ち上がる事すらも困難な様子に、リゼは無理矢理に3人を抱え、ユイを先導しながらワイアームの空気弾によって落ちて来た瓦礫の影へとその身を隠す。
エルザによって壁へ衝突させられたワイアームは、想定外の動きによって身を守る行動すらできなかったのか、思っていたよりも大きなダメージを負っていた。とは言え、他所から空気を吸い込む必要がなく、自身の体内で生成されている毒を含んだ空気を排出する事が出来るワイアームの強化種。あらゆる攻撃が空気の鎧によって軽減されてしまうその性質上、大抵の魔法は無効化されてしまうのが現状だ。
恐らく有効打になり得るのは、雷属性と光属性の魔法。それとも重量をもった大槌などによる攻撃。
スフィアを変える時間はない。
リゼの持つ大銃でもまだ重量が足りないだろう。
そんな武器がこの場に無い以上、マドカは自身の持つ金色と銀色のその2本の剣と既存のスフィアだけでどうにかするしかないのだが。
「……銃?いや、そうか!この銃ならもしかしなくとも!」
そうしてリゼは漸く思い出した。
というか冷静になり、視野が僅かに回復した。
自分の持つ武器の、本来の使い方に目が向いたのだ。
この大銃はその大きさこそ特徴的だが、それに見合うだけの破壊力だって当然に持っている。それは打撃武器としての破壊力ではなく、純粋な銃撃としての破壊力だ。これを使えば当然ワイアームの空気の鎧など関係なく当てられるだろうし、あの硬い鱗さえも容易に貫きダメージを与えられるだろう。
ダンジョンに持って来た銃弾は2発。
しかしリゼとて狙撃は慣れたもの。1発さえあれば、あれほどの巨体には十分に当てられる。
「ユイ!すまないがここは任せる!」
「リゼさん?一体どこに……!」
もしここを狙われてしまえばどうしようもならず全滅する。しかし自分だけがこうして場所を離れて狙えば、仮にユイ達が狙われても狙撃することができ、リゼが狙われても犠牲はリゼだけだ。
リゼは大銃の中に弾が入っていることを確かに確認し、ワイアームの視界にわざと入る様な形で場所を移動する。しかしワイアームは再びマドカと戦闘を開始し始めているため、本当にその視界に入ったのかは分からなかった。
それでもともかく、リゼがやる事は一つだ。
スキルでもなんでも使って、とにかくこの弾丸を1発ワイアームに当てる。1発当てるだけでも形勢逆転の目にはなる、少なくともそれをマドカは確実に活かしてくれるだろう。エルザとユイは既に自分のなすべきことを成した、ならばリゼも自分に出来る事をするまでだ。
「っ、くぅ……!」
マドカがワイアームに吹き飛ばされる。
しかし直前に防御行動を取っていた為かダメージは少なく、むしろ意図的にそれを喰らい距離を取った様にも見えた。
マドカがユイ達の近くに着地する。
ワイアームがマドカに追い討ちを掛けようと迫る。
……狙うなら今しかない。
スキルを発動させる。
照準を合わせる。
自分の感覚のままに狙いを定める。
山の中で何度も繰り返した行為だ。
この大銃での狙撃の経験は少なくとも、この銃以上に手に馴染む物も存在しない。
確実に当てられる自信がリゼにはあった。
敵に致命的なダメージを与えられる確信も存在していた。なぜなら彼女はそれでも、祖父の銃作りの腕前を信じていたから。
「リゼさん!!逃げて!!」
「え……」
しかしその瞬間、何の前触れもなく岩影で狙いを定めていたリゼの身体が大きく後ろへと吹き飛んだ。
空気弾ではない、ワイアームの頭を狙っていたのにそんな挙動は一切無かった。それに体当たりでもない、そもそも距離が離れていたのだし仮にそうだとしても全く視認できないなどと言う事は決してあり得ない。
(だとしたら……)
スローで見える世界の中で、ワイアームの空気穴のいくつかが内部から破裂した様に損傷しているのが見える。てっきりそれはマドカが損傷させた物だとばかり思っていた。しかしそのうちの一つ、今も表皮がヒラヒラと揺れているその気穴は正しくリゼの方を向いている。まるで自分目掛けて砲撃でも行ったかのように。
(気穴を使った、空気弾……!そんな事が!)
必ずしも口から吐き出して来る訳ではない。
気穴を損傷させるという代償さえ払えば、強化ワイアームは全身の気穴からもそれを打ち出す事が出来たのだ。それに気付いていたのは実際に何発か不意打ちに気付き捌いていたマドカだけで、彼等の戦いを見れた気になっていたリゼでは、やはりその全てを把握出来ていた訳ではなかったのだ。
『ゴァァァア!!!!!』
マドカを狙うふりをしておきながら、実際には最初からリゼを狙っていたワイアーム。知能でさえも本来のワイアームを遥かに上回る厄介な相手。それが今凄まじい勢いで牙を剥いて襲い掛かってくる。
格上の敵の空気弾は尋常ならざる威力を誇り、所詮はLv.8しかないリゼの身体は今や立ち上がれない程の多大なダメージを負っていた。目でしか追えない突進に対し、這って動く事すら危うい今のリゼが出来る事はもう殆どない。大銃は自分より少し離れた場所へと飛んで行った、ポーションは鞄の中で割れてしまっている。唯一ある武器はマドカから手渡された小杖と赤のスフィア群だけだった。
……そういえば、それを何故手渡されたのかも未だわからないまま。あの聡明な彼女が何故防御系のスフィアだけではなく魔法系のスフィアまでも自分に持たせたのか。それすら分からないのなら聞くべきだったかもしれない、反応からしてユイとエルザはその理由を知っていたようだったから。
(まさか、本になるどころか……たった4日で、死ぬ、とは……)
情けない。
本当に申し訳ない。
あれだけマドカが気を回してくれたというのに。
あれだけ大口も叩いたというのに。
それなのに自分はこうして、無様を晒して死ぬしか無い。
近付く死の気配に息が荒れる。
這って逃げようとする自分の背後から猛烈な風を切る音が聞こえて来る。
思いの外、死というものは恐ろしかった。
思わず涙を流して、歯をカチカチと震えさせてしまうくらいに。それが恐ろしいものだとは当然知っていた筈なのに。いざ自分があの肉塊のようになってしまうと考えた時、リゼからはそれまでの勇しさが嘘のように消えてしまい、ただ震えてその瞬間を待つ事しか出来なかった。
「お祖父ちゃん……」
未だ年相応の未熟な精神で、どれだけ冷めようとも最後には唯一の家族であった祖父に助けを求めてしまったのは。情けない事なのか、それとも喜ばしい事なのか。ただ、何をどう言ったとしても、今のリゼにとって拠り所となるべきものが亡くなってしまった祖父しかいなかったと言う事実。それを自覚してしまえば、自分の心を蝕む闇はより一層に勢いを増してしまって……
「リゼさん!!」
リゼの身体を衝撃が襲う。
夥しい鮮血が宙を舞う。
……けれど、不思議と痛みは無かった。
むしろ暖かさと安心感がそこにはあって、衝撃は背後からではなく横からやって来て、ゴロゴロと地面を転がる自分は、それでも誰かに抱かれていて。
「マド、カ……?」
「あ、あはは……間一髪でしたね。間に合って良かった」
少し顔色を悪くしながらそう言う彼女。
しかし顔を合わせたのも束の間、彼女は直ぐにまたリゼを置いてフラフラと立ち上がり、崩れ落ちる。
「マドカ!……これは!」
「えと、牙が掠ってしまったみたいです。毒も入ってますね、ちょっと動きません」
「そんな……!」
彼女の左足に刻み付けられた大きな裂傷。その痛々しさに加えて次第に青黒く変色し始める様子は、それだけで見ている者に恐怖を与える様な悍ましさがあった。
完全に立ち上がれなくなってしまったマドカ、彼女自身も急激に体力を落としている様にも見える。その傷が一体誰のせいで付けられてしまったのか、そんな事少し考えなくとも分かる。
「わたしの、せいで……」
「反省会は後ですよ、リゼさん。やるなら今しかありません、少し離れて魔法の準備をして下さい」
「え……」
しかし自己嫌悪で頭の中が滅茶苦茶になっているリゼとは反対に、傷を受け今も痛みに耐えているであろうマドカの方はむしろ冷静にそう指示を出した。
確かにワイアームは2度にわたる壁への衝突で目を回しているし、何かを成すのであれば今しか無いだろう。だがこの状況で果たして何を成すことが出来るのだろうか。頼みのマドカすら立てない状況だと言うのに、大銃も離れた所に飛んでいってしまったのに、何をどうすれば。
「リゼさん、私に向けて『炎弾のスフィア』を最大火力で可能な限り連続で放って下さい。既にエルザさんにも同じタイミングで放つ様にお願いしてありますが、エルザさんも2度のスキルの行使で既に限界が近いので」
「!?な、なにを言って……!」
「時間がありません、今はただ私のことを信じて下さい。それ以外に方法が無いんです、お願いします」
「マドカ……」
「お願いします」
自分に向けて火炎の弾丸を当てろというマドカ。
その顔は決して恐怖や猛毒で混乱しているという訳でもなく、彼女はただ真面目にそう言っている。
果たしてその言葉を信じてもいいのか。
そんなことをして本当に大丈夫なのか。
けれど今はそれを考える時間すらも与えてくれない。ワイアームが頭を振るって混乱から抜け出そうとしている。マドカの状態もこうしている間に刻一刻と悪くなっている。
これ以上リゼが無駄な時間を浪費して悩み、彼女の負担になるという事は、この場の状況の何もかもが許してはくれなかった。どれだけ考えたところでリゼに出来ることなどマドカを信じること以外には存在しないという事は、この場にいる誰もが理解できる事だ。
「……分かった、マドカを信じる」
「ありがとうございます、リゼさん。……大丈夫ですよ、私こう見えて、結構強い方なんですから」
そう言ってニコリと笑い掛けてくれるマドカに、リゼはその彼女から受け取っていた小杖を構えてスフィアの方へと手を向けた。そのタイミングと時を同じくして、遠くの方でユイに抱えられたエルザがフルフルと震える手で杖をマドカに向けている事も分かった。
ワイアームを睨み付ける彼女の小さな背中、今からリゼはその小さな背中に向けて魔法を叩き込まなければならない。やりたくない。けれど、やらなければならない。恩人の背に火を放たなければ、この状況を打破する事が出来ない。そんな彼女の言葉を信じないなど、それは何より彼女を裏切る行為だから。
「……っ!!『炎弾』!!」
「っ」
「『炎弾』!!!」
自分の目の前が炎で真っ赤に染まる程の最大火力の魔法の連打。エルザから放たれる炎弾も相まって、マドカの身体が完全に火に包まれ見えなくなっているのに、リゼはそれでも彼女に言われた通りに自分にできる限りの全力で初めて使った魔法による攻撃を行い続ける。
スフィアを使った際に消費されるのは体力ではなく精神力だ。使い消費すればするほどに心は疲労し、脆弱になり、簡単な事で心が折れてしまう原因にもなる。
強化ワイアームにトドメを刺されそうになったあの瞬間から、リゼの心はもうとっくにボロボロだった。それなのに今、こうして頼まれたとはいえ、自分の恩人に向けて火を放っている。その事実にリゼの心は最早限界を迎え、疲労のあまり崩れ落ちたその時には、彼女はあまりにみっともなく涙を流して蹲ってしまっていた。
朦朧とする意識の中で子供の様に泣きじゃくるリゼ。未だ炎の中から出て来る事もなく、物音ひとつすら立てる事のないマドカ。
……死んでしまった。
そう思った。
自分が殺してしまった。
そう思ってしまった。
「ありがとうございます、信じてくれて」
「!!」
そうして、火炎の柱の中から発せられた、彼女のその言葉を聞くまでは。
「マド、カ……?」
「大丈夫ですよ、リゼさん。私、負けませんから」
瞬間、それまで轟々と燃え盛っていた火炎の塊が一瞬にして凄まじい水流の元に斬り伏せられる。急激な消火によって真っ白な煙が漂う中、少しの息苦しさと共に見えて来たのは、自身の身長の3倍以上にまで膨れ上がった水流を金と銀の混じった大剣に宿し、未だ膝を突きながらもリゼの方に変わらぬ微笑みを向けるマドカの姿。
マドカの金と銀の二本の剣は互いに重ね合わせる事で1本の大剣となり、明らかに尋常では無い勢いと量の水流によって、強化種のワイアームでさえも恐怖に慄かせる。
「『属性強化』」
「!?」
そして、彼女の水斬はそれだけでは終わらなかった。
マドカが腰の秘石に付けているのは青のスフィアが2つと、無色のスフィアが1つ。『回避のスフィア』『水斬のスフィア』は使っていたが、彼女はここに来て3つ目のスフィアを解禁したのだ。
それまででも十分に凄まじかった水流が、ワイアームの気穴から噴き出される風すらも塗り潰す様な脅威的な嵐となってマドカの大剣の周囲を伝い始める。大雨の様な水飛沫によってこの広い空間が僅かな隙間すら残さぬ程に水に濡れ、あれほどに恐ろしかったワイアームの威圧感さえも容易く塗り替えていく。
「さ、いきますよ。……『滝水斬』」
『ガ……ァ……ガァアアアアアアア!!!!!!!!』
「これを確実に当てるためだけに一体いくつ翼と気穴を破壊したと思ってるんですか?……避けられませんよ、終わりです」
マドカの誇るその最高の一振りは、本物の龍種の身体すらもまるでケーキの様に容易く引き裂いた。
背後の壁が爆散する。
リゼやエルザ達に向けて大量の雨が降り注ぐ。
暴風によって一瞬身体が浮きそうになり、実際そのまま飛ばされそうになったエルザを、ユイが必死になって抱き止めていた。
ワイアームの大きな身体の1/3が肉片すら残らず血塊となり、6階層の階段に向けて水と共に流れていく。残された体部はその場に落下し、灰となって崩れ始める。
殆ど闇雲になって突っ込んできたワイアームは、恐らく自身の死すらもまともに感知できぬままにその命を奪われたのだろう。それが幸か不幸かと言われれば分からないが、少なくともあれ程の強者が問答無用で命を奪われる程の力を、たった1人の少女が行使したということだけは事実であった。……彼女の一撃はそれほどに、桁の違うものであった。
「え、えへへ……か、勝てまし、た……」
「マドカ!!」
倒れたマドカの元へ走る。
リゼがフラフラの身体を必死に動かして彼女を抱き寄せた時、その意識は既に無かった。
それでも、生きている。
死んではいない。
それだけで十分だった。
本当に、いまは、それだけで……
強化種について……ダンジョン内にて特定の条件を満たすと生まれる非常に強力な個体であり、安定した討伐には上級探索者が2パーティ以上必要とされている。1階層の強化種ワイバーンでさえも上級探索者が単独で討伐出来るものではないため、スフィア目的で討伐を挑むのはあまりに危険性が高い。また同個体の強化種の中にも強さにバラ付きがあり、今回のワイアームはかなり強い方であった