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第12話 海のシンバル

 車のクラクションが二回、短く鳴った。




 ハッと気づいて周りを見渡す。右手側にはすぐ海が見えた。目の前には青色に変わった歩行者信号がある。横断歩道の手前で呆然と立っていた僕を見かねて、左折車がクラクションを押したようだ。




 渋い顔をした運転手に軽く頭を下げて足早に道路を渡る。反対側に着いてから振り返ると、クラクションを鳴らした車は過ぎ去っていて、信号も赤に変わっていた。




 秋山さんからの取材を終えてから、こくこくと『ピシナム』へと歩いていた。景色が見慣れたものに近づいてくるにつれ、昔を懐かしむ気持ちは強くなっていった。




 二〇一四年の三月十一日を境に、Rは『ピシナム』に姿を見せることはなくなり、五年が経った。




 Rが帰った直後の201号室は、受話器だけがベッドの上に落ちていて、耳当てのところにまだ彼女の熱が残っていた。しかし、そういった彼女の痕跡はルームメイキングを繰り返すにつれ、薄れていった。Rの言葉は、僕を成長させ、そして同じくらい愚かにさせた。




 けれど僕は彼女の言葉の一つ一つを覚えていて、未だにその意味を考え続けている。




 『ピシナム』のホテルマンを続けていたのは、一重にRが帰ってきてくれるのを待っていたからなのかもしれなかった。




 海沿いの海岸が木々で隠れ初めて、上り坂になった。しばらく歩くと、白い箱のような形をした建物が見える。『ピシナム』だ。




 一カ月ぶりに訪れた『ピシナム』は、イルミネーションや電光掲示板の類はすべて撤去され、見た感じだけだったら、そこらのマンションと見分けがつかなかった。




 思い出のなかにあるファッションホテル『ピシナム』は、あんなにギラギラと光り輝いているのに、目の前にある建物はその残骸すらも見当たらない。




「あれ、磯辺さんじゃないですか?」




 立ち入り禁止のロープが張られたホテルの敷地前で呆然としていると、女性の声がして振り返った。


手前の道路脇に車が一台止まっている。運転席のドアが開くと、ブラウンのチェスターコートを羽織った見覚えのある女性が降りてきた。




「秋山さん」


「えー! めっちゃびっくりしました! 一応ホテルの写真も撮っておいた方がいいかもしれないと思ってこっちに寄ったんですけど鍵閉まってますし、帰ろうと思ってたんですよ」


「当然ですよ。閉店してるんですから」




 一気にまくし立てる秋山さんに、思わず笑みがこぼれた。その様子を秋山さんは、キョトンとした様子で僕の顔をまじまじと見つめている。




「なんだか、雰囲気変わりました? さっきは、わたしの顔もあんまり見てくれなかったのに」


「……そうでしたか?」




 そうでしたよ。と、秋山さんは唇を尖らせてから、柔らかく笑いかけてくれた。そういう彼女も先ほどとは、少しまとっている空気が違って見えた。あるいは、僕の見方が変わったのだろうか。


 とても、長い旅をしていた気分だ。




「磯辺さんは、どうしてここへ?」




 ひとしきり笑ったあと、秋山さんは少し声のトーンを落として尋ねてきた。カフェで別れたときとは違い、その瞳には一点を見つめる誠実さがあった。




 僕は『ピシナム』がちゃんと閉店しているかを確かめに来たつもりだった。だけど実はそうではないのかもしれない。




 『ピシナム』に行かなければならない理由が欲しかっただけではないか。




 思えば僕の心の一番深いところは『ピシナム』にあった。




「……三月になると、色々なことを思い出すんです」




 もしもRが目の前にいたら、ちょうど秋山さんと同じくらいの年頃になっているのではないかと考える。


 Rも先輩と僕を重ねて、似たような感情を抱いていたのだろうか。




「『受付さん』」




 ぽつりと、言葉が落ちた。秋山さんの小さな唇から。


 振り向くと、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。


 その目尻には、今にも零れてしまいそうな涙がたまっている。




「どうして」




 口から声が漏れる。


 聴き慣れない呼び方なのに馴染みがあった。胸の中で大きな期待が膨らんだ。その呼び方は、201号室にいた彼女しか知らない呼び方だったからだ。




「君は」




 その続きを言おうとしていると、彼女のさらけだされた手が見えた。寒さに耐える蕾のような手は、可愛らしいピンクとグレーのネイルが、爪に張り付いている。それは、僕の知らない人の手だった。




 鍵を渡す際に見える指先を見て、僕は何度もRのカラダを想像した。僕の頭のなかにいたRは、もっと華奢な少女だった気がした。




「……ごめん、なさい。突然、泣いたりしちゃって」




 秋山さんはコートから取り出したハンカチで目もとをぬぐう。泣いている姿を目にして、ますます確信を得た。Rは、泣きながらエントランスまで降りてきたけれど、秋山さんのような上品な泣き方なんてしなかった。




 鼻を鳴らして、涙を拭く仕草なんか絶対に見せてくれなくて、ありのままの自分を見せつけるようにRは帰っていくのだ。




「あの……、秋山さんは」




 やはり僕は、Rの本当の名前など知らなくて、だからこそRのことを秋山さんになんと言ったらいいか分からなかった。




「磯辺さん、これを」




 秋山さんは、持っていたハンドバックの中から、封筒に入っていない便箋の束を取り出した。




 便箋を受け取ると、思ったよりもずっしりした感触が手に伝わる。その便箋には、見覚えがあった。




『はじめまして。こちらフロントスタッフです』


『本を読みます。あとは、映画も観ます』


『たった少しの時間でも、何もしないと冷えるから』




 あまりに拙くて、敬語を覚えたばかりのような書き方、何度も書き直した消しゴムの跡。それでも、分かり合おうともがいた言葉の数々。




 それは僕の書いた手紙だった。




 どうして、これを貴女が? その問いに、秋山さんは赤くなった目もとをこするのをやめて、自身の胸に右手を当てた。




「わたしは、秋山あきやま千鶴ちづるといいます。……『ちーちゃん』って言ったら、分かりますか?」




 全身に鳥肌が立った。その名前を僕は何度か読んだことがあったからだ。




「二人でSLをよく観に行ってたって、彼女が……」


「……そうですね。わたしはどっちかっていうと、あの子に連れられてたって感じでしたけど」




 そう言って、『ちーちゃん』はクスリと笑う。




「他には、わたしのこと何か言ってましたか?」


「かもしれない星人が、友達にいるんだって言ってました」


「なんですか、それ」




 また、彼女は笑った。しかしその笑みのすべてに、底の見えないブルーが滲んでいた。




「それで……彼女は?」




 結論を急ぐ僕を、秋山さんは曖昧な笑顔で何かをはぐらかした。




「少し、歩きませんか」




 秋山さんの控えめに指示した方向は、誰もいない浜辺だった。




 なんとなく僕らは孤独になりたくて、堤防の壁沿いにできた階段を下りた。




 夏の海岸と違い、打ち上げられた漂流物は清掃されていない。ところどころに、韓国語でラベリングされた瓶や菓子袋が散乱していた。




「本当は、何も言わずに帰るつもりでした。磯辺さんにとって、あの子との思い出は、良いことばかりじゃないんだって気付いたから」


「……ええ」




 半年が経ったら、形あるものも、ないものも、すべて忘れなければなりません。




 あの一言が、秋山さんのなかでずっと引っかかっていたのだろう。




 Rのことは忘れるべきだと考え、そう振る舞ったことも過去にはあった。けれど彼女が思い出の産物になっていくにつれ、僕は人の愛し方を忘れそうになった。




「……あの子は、いつも、先輩にべったりでした」




 先輩というのが、シンバルを叩いていたという青年のことだとすぐにわかった。




「年の近い兄妹のようでしたし、初々しい恋人のようにも見えました」




 ポケットのなかの手に、力が入る。




「だからサンテンイチイチが起こったとき、目の前で先輩が流されたのを目にした彼女を、誰も慰めることができませんでした」


「それは、貴女にもですか」




 僕には分からなかったことが、秋山さんには分かるのではないかと思った。


 しかし彼女は首を横に振る。




「わたしもです。わたしは、家も、家族も無事でしたから。そんなわたしが、あの子を慰めるなんて、そんなこと、できませんよ」




 このやるせなさを、数えきれないくらい味わった。カラダがそれを覚えていた。Rと紙の上で言葉を交わすとき、僕はいつもこの実体のない暗いものと闘っていた。




「『受付さん』にこれを、渡してほしいと頼まれました」




 そうして渡されたのは白い封筒だった。秋山さんが『ピシナム』を取材に来た理由が、これを渡すためだということを話してくれた。




「この、封筒は?」




 封筒は、見覚えのない代物だった。表面には『受付さんへ』と書かれているが、裏には何も書かれてはいない。外からだけではどういったことが書かれているか分からなかった。




「それは」




 秋山さんは、歩くのをやめた。少しだけ僕との間に距離ができた。


 彼女との間に生まれた空白は、どのような手段をもってしても埋められないことを知っていた。それは一五一四キロメートルよりも、もっと遠いものだと。




「あの子の」


「秋山さん……」




 意味もわからないまま秋山さんの名前を呼んだ。本当はここにはいない子の名前を叫びたくて、胸がはちきれそうだった。




 でも僕はまるで『彼女』のことを知らなくて、名前を呼ぶこともできなくて。




 どうしようもなくて、また、「秋山さん」と吐き出した。




 彼女なら、僕の愚かさを許してくれるような気がしたから。




「あの子の……最後の、手紙なんです」




 意味は簡単だった。


 けれど胸に、落ちてこなかった。




 言葉ではなく、石を投げつけられてるのかと錯覚してしまうほど、理解できない痛みの方が先行した。


「いつ、ですか」




 やっと出た言葉は、先細りしていく。




「……三年前です」


「どうして」


「見つかったんです。先輩の遺骨が」




 三年間も、Rのいない世界を生きてきた事実が、自分でも信じられなかった。




 けれど同じくらい、こんな日が来るのではないかと恐れていた。




 気送管ポストを通して感じたRは、まるでペダルから足を離したあとの自転車のようだった。僕はそれがいずれ倒れるものだと知っていた。何もしなかったのは、きっと心のどこかで倒れる瞬間に出くわしたくなかったからだ。Rは、そういう僕の醜い部分も見透かしていた。




 Rがホテルへ訪れなくなったのは、彼女のせいでもなんでもなくて、僕がそう望んでいたからなんじゃないのか。Rの心を繋ぎ止めておきたいという気持ちと同じくらい、僕は彼女の心を疎ましく感じていたんじゃないのか。




「……磯辺さん」




 秋山さんは岩手に帰郷したあとのRのことを話してくれた。




 毎朝、釜石の海岸を歩いていたこと。秋山さんの仕事を手伝っていたこと。震災で泥のついた写真を復元するボランティア活動をしていたこと。




「磯辺さん」




 しかし、その言葉がまったく頭に入ってこない。




 僕の知らない国の言葉で説明されているようだった。口をついて出てくるのは「どうして」という単語だけだった。それだけだった。




 とにかくあらゆる僕という存在を、もう一度だけでいいからRに許してほしかった。もう一度、この瞬間に君の言葉がもらえたのなら、僕はどれほど救われるだろうか。




 それは二度と叶わないことだ。




 なぜなら彼女はもう、一五一四キロメートルよりも、ずっと遠い場所へいってしまった。それがただただ、バラバラになりそうなくらい痛かった。




 便箋と、気送管ポストがあれば、まだRと会えるのではないかという形だけの妄想が膨らんでは、消えた。それを何百、何千と繰り返す。Rがもしも替えのきく人であるなら、もうそれに縋ってしまいたかった。




 それは、僕だけじゃない。Rが、僕と先輩を重ねていたように。Rの足跡を辿るために僕を探していた秋山さんのように。きっとこの連鎖は、『あの日』から永遠に続いているのだ。




 僕だった何かが、目からぼたぼたと落ちた。涙腺が壊れたみたいに止まらなかった。悲しいから落ちたんじゃない。苦しいから泣いているんじゃなかった。Rのことを少しでも理解できたことに、安堵していた。




 彼女はその命をもって、最後に大切なことを教えてくれた。




 ひときわ強い波がきて、僕と秋山さんの足首まで浸かった。波が引くと、歩いてきた足あとも消えていた。




「彼女は、どこで」




 次の言葉は、どうしても喉が出てこなかった。嗚咽をなんとか、押し殺す。片手で目を覆っても、涙は次から次へと溢れてきた。




 カラダが焼けるように熱い。全身が、喪失感という名の真っ黒な炎に包まれている。走り出したい。走って、この灼熱から逃れたいと希った。




 しかし、この火を消してくれる唯一の人はいない。走り向かう場所は、もはやどこにもないのだ。




「……釜石の、リアス式海岸です」




 秋山さんは僕の拙い言葉の意味を汲んでくれた。




 彼女の七十パーセントをさらった海もまた、きっと彼女の一部だったのだ。




 顔を上げると、眼前には何色でもない海が広がっていた。




 岩手からは遠く離れているが、梶栗郷の海にも数字にできないくらい小さなRの一部が、含まれているのだろうか。




 目が離せなかった。海を眺めている間は、一人で立っている気がしなかった。




「読まないん、ですか」




 秋山さんは、僕の手に握りしめられた封筒を見ている。強く握ってしまったせいで、それはくしゃくしゃになっていた。




「……これは、まだ読めません」


「どうしてですか」


「彼女への返事を、僕はまだ、考えているからです」




 秋山さんは知らない。気送管ポストは、一方的に言葉を送り続けることはできないし、ずっと言葉を待ち続けることもできない。




 返信を待たずに手紙を送りつけてきたせっかちなRのために、まずは一万五千人の命を考えなければならない(思えば、彼女はずっと命の話をしていた)。




 Rとのやり取りは、まだ続いている。だから僕は、たとえ彼女がいなくても、孤独ではなかった。




 シュルシュルー。




 静かになった頭のなかには、切なくて懐かしい音色がそそがれていた。それは糸電話みたいにして、一五一四キロメートルにいるRと僕を繋げていた。




「……秋山さん、少し、歩きませんか」


「冷えちゃいますよ」




 彼女は心配そうに、僕の肩についた水滴をはらう。




「少しだけです。一番、端っこまで」




 大人のカラダに取り残されてしまった子どもの僕らは、色々なものを吐き出し、笑みをこぼした。


 波打ち際からまた少し離れて、二人で白い砂の上を歩いた。歩いてできた足跡は、僕らの感情のように後ろにできて、たまに振り返ると見えなくなっていく。




 シュルシュルー。シュルシュルー。




 秋山さんも地平線よりずっと遠くを、泣きそうな顔で見ていた。僕らは、201号室の少女と同じものを探していたのかもしれない。




 シュルシュルー。シュルシュルー。




 だって、こんなにも聴こえる。



君のように

命のように

飛べない僕らも生きている

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