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第11話 命のふりをしている。

 ドレスの少女の件があってから、Rはまた『ピシナム』に訪れなくなった。




 二月が過ぎ、三月になっていた。梶栗郷の桜も、ちらほらと蕾が色を帯び始めている。ホテルマンにとっては、湿気が少なくて一番ベッドメイキングが決まりやすい季節だった。




 Rが来なくなっても、201号室の部屋だけはいつも念入りにルームメイキングしていた。水曜日は、何度も紅茶を入れ替えて、常に温かい状態にしておいたし、彼女が喜びそうな新しいティーカップも買っておいた。海月の頭をひっくり返したような、かわいいティーカップだ。




 彼女がいない間、考える時間は多くあって、そのほとんどを僕はRのことで費やした。一五一四キロメートルについて、サンテンイチイチについて、考えた。


 震災を考えようとする僕は当事者になれた気がした。


 まるで自分が過去に被災したかのような錯覚すら覚えた。




 けれどそんなことは有り得ないのだ。


 明日にだって僕たちは被災者になるかもしれないけど、東日本大震災の被災者にはなれない。だから、寄り添うこともできない。




 考えれば考えるほど、僕とRの間にある溝は浮彫になっていく。




 そもそも「考える」という発想が、Rにはあり得ないことのように思えた。サンテンイチイチはもはや彼女とは切っても切り離せない、七十パーセントに刻まれているのだから。




 そういった一切を、僕は理解できてなかった。分かるなどと、口が裂けても言えなかった。




 きっと、もどかしさを覚えているのは僕だけではない。Rもそうだ。




 彼女があれだけ言葉を重ねてくれても、きっと僕には彼女の抱える孤独など微塵も理解できていない。そのことに、Rも気付いているに違いなかった。




 言葉が通じるのに、伝わらないことが多すぎた。Rはいったいどれほどの虚無感を、僕から受けたのだろうか。




「マリーさん、お疲れ様です」


「あ、磯辺クンか。おつかれ」




 早番で受付に入っていたマリーさんと十九時に交代すると、ほぼ同時にゲストテレフォンのコールが鳴った。




 マリーさんがまだ受付室にいたため、取ろうか? と目で訊いてきたが、僕が出ますと受話器を耳に当てた。




「金魚の部屋でお願いします」




 Rの声だった。懐かしいとは思ったが驚きはしなかった。それは今日という日に、彼女がここを訪れるという確信があったからだ。




 なぜなら、今日はサンテンイチイチからちょうど三年目の日だったからだ。




「がんばりなさいよ」




 マリーさんも察してくれたのか、僕にささやかなエールを残して受付室を後にする。それから間もなくして、聴き慣れたシンバルの音が遠くから降りてきた。




『受付さん、こんにちは。お久しぶりです』


『久しぶり。受験、お疲れ様』


『ありがとうございます。あんまり勉強は、しませんでしたけど』




 Rは、なんでもないことのように書いている。




『今日は、一人?』


『はい。一人で来ました』




 今日だけは他の誰にも邪魔されたくなかったから、僕にとっては都合が良かった。




『高校はもう春休みに入ったくらいか』


『まだですよ。こっちの春休みはやっぱり遅いですよね。でも三年生は卒業式がありますから、それまでは一応出席しとかないといけないんです』


『そっか。卒業式があるのか』


『そうですよ。三月十七日にあります』




 僕はたびたびRが高校生であることを忘れそうになっていた。




『じゃあ卒業したら、進学するのか』


『しませんよ』


『なら、どうしてセンター試験を』


『あれはみんなが受けてたから』


『じゃあ……卒業した後は』


『岩手に帰ります』




 驚きはしたが、なんとなく、そうなんじゃないかと思っている節があった。




 しかし現実味だけが決定的に欠けていた。カプセルが降りてきて、201号室は変わらずあるというのに。彼女がいなくなるという未来にだけ重さがなかった。




 Rは便箋の下の方に『悩んでいることがあるんです』と書き足していた。




『担任の先生から、卒業式は学校の制服で来なさいって言われたんです』


『いつも着ている制服がそうじゃないのか』




 赤いスカーフに、黒のセーラー、袖口には白いラインが入っている制服。Rが女子高生であることに気が付いた理由でもあった。




『今着ている制服は、前の学校のものなんです。わたしは、この制服のまま、卒業したいんです』




 便箋を触る指から、じんわりと温もりが伝わってくる。彼女の心臓の鼓動さえ聴こえる気がした。




『君は、そのまま卒業式に出ていいんだよ』




 ペンを握る手に力が入る。




『でも、先生に怒られちゃいますよ』


『いいんだよ。君を怒鳴る資格がある人なんか、誰もいない。諦めたら後悔するってわかってることを、わざわざ諦める必要なんてどこにもないんだ』




 いつもは、短い単語を一つ二つ並べるだけが多かった。けれど今日は、何かを伝える努力をしたかった。




 返信が来るのに五分ほどかかった。流れていた時間がプツンと切れる感じが、した。




『今日、防災訓練があったんです』


『確かに、増えたよ。そういう学校が』




 東北大震災以来、三月十一日に防災訓練を実施する学校が増えた。僕が通っていた高校もそうだった。




『みんな、真面目にやってる子なんて一人もいなくて、先生なんか、机の下に隠れもしないで椅子にふんぞり返ってるんです。移動中も、スマホを見て、喋って。みんな、三年前のことなんか、知らないような顔してるんです。ふざけるなって、思いました』




 Rに他意はないだろうけど、まるで自分が責められてるようで、チクリと、小さいが確かな痛みが胸に生まれる。




 再び、返信が来なくなった。八分。僕はずっと時計を見ていた。




『でも、羨ましかった。使い方が合ってるか分からないけど』


『羨ましい? なにが』


『グラウンドにみんな避難して、消防士の人のお話が終わったら、放送が鳴るんです。上靴を洗って、教室に帰って、帰りの準備をしましょうって。


 それが、ほんとに、ほんとに羨ましくて、辛かった。わたしには、いつになったら、そんな放送がかかるんだろう。みんなで帰りましょうって言われるんだろうって』




 脳裏をよぎったのは、一カ月前、Rに連れられてホテルを出ていったドレスの少女だ。




『この前、エントランスで泣いてた女の子、覚えてますか』




 僕とRは言葉を交わし続けたせいか、思考がシンクロしているようだった。彼女は僕が考えていたことをピタリと当ててみせる。




『覚えてるよ。忘れるわけがない』




 あの泣き叫ぶ声は、未だに僕の耳から離れようとしない。


 十分が過ぎたころ、返事が送られてきた。




『海が怖いって言ってたあの子のこと、どう思いました?』


『……大変な子だと思った』




 思ったことを書いた。迷惑だとは思わなかったが、あのドレスの少女に僕は近づくこともためらわれた。




『そんなこと、ないですよ』




 他人行儀な書き方をした僕に、彼女はやわらかい文字で語りかけてくる。




『大変なんてこと、ぜんぜんないんですよ。ああいう子は、避難所にたくさんいました。だから大変だなんてこと、ないんです』




 避難所で生活することの何が悲惨だということを、Rはあえて書いていなかった。そのぶんだけ僕は行間を読み、想像はひとりでに膨らんだ。




『安否確認名簿が市役所の壁が見えなくなるくらい張り出されてるんです。それをもう必死に、穴が空くくらい見てる人が、何人もいた。あの人たちの方がずっと怖かった。でもきっと、わたしも怖くなってた。断水でお風呂に入れないから痒くて、みんなどこかしこカラダを掻いてました。皮膚が剥がれる音がするんです。


 わたしも市役所が閉まるまで、ずっと見てた。あの名簿を探してる間は、希望に触ってるみたいだった。名前がないってわかったら、お父さんに車で隣町の市役所に連れてってもらって、また探しました』




 Rが話す出来事が、僕にはまるで絵空事のように感じてしまった。




『想像、できない』


『想像されたら、嫌ですよ』




 返事はまたしばらくかかった。十分が過ぎて十五分になった。段々と、インターバルは伸びていく。




『地震があった翌日に。就職のインターンを開いた東北の企業があったそうです』


『ああ、聞いたことあるよ。それ』


『人事の人が「今日という日に来たことに意味がある」って言ったのがネットに書き込まれてて、炎上してました』


『いったい何の意味が、あるんだろうね』


『ほんと。何の意味もないですよ』




 Rの文字は段々と小さく、折れて錆びついた釘のようになっていく。




 唐突に備え付けの電話から呼び出し音が鳴った。もしかしたらという期待をして受話器を取ったが、他の部屋に入られたお客様から、追加の避妊具を送ってくれというオーダーだった。ほんの二、三分机を離れた。




 それだけなのに、Rが次第に僕から離れていってしまうような気がしてならなかった。




『君は今、どこにいるの。201号室にいるの。それとも、一五一四キロメートルにいるの』




 僕が握っているのはペンではなかった。Rという名の風船を繋ぎ止める紐だった。




『わたし、ホテルの部屋にいますよ』


『君のカラダだけが残ってても……それは、意味がないことだ』


 空っぽ同士が、言葉のようなものをぶつけ合う。


『そうかも、しれませんね』




 Rは、否定も肯定もしなかった。けれど彼女の心は、今にも一五一四キロメートルへと飛び立とうとしていた。




『一五一四キロメートルに、帰るの?』




 Rからの返事にかかる時間は、そのまま僕と彼女の距離をあらわすかのように伸びていく。




『帰るんじゃありません。戻りたいんです』




 一五一四キロメートルが持つ意味とは、Rにとって単なる距離だけではなく、過ぎ去ってしまった時間も指すのだと、今さらのように知った。




 そしてRの短い反論は、彼女の七十パーセントのなかに僕が入っていないことを意味していた。




 あまりに酷で、止まらなくなった。顔を透明なマグマに焼かれるような、抑えることのできない感情の奔流が、僕を中心にして渦を巻いた。




『君は、そういう人の心を、わざと、考えないやつだ』




 行き先のわからない電車に乗っているような宙ぶらりんの僕から、文字がいくらか振り落とされた。




『じゃあ、受付さんはちゃんと考えてくれてるんですか。そんなの嘘ですよ。だって、わたしのこと、名前も訊いてくれないのに』




 その言葉一つ一つを叩き潰すかのように、彼女の筆圧は濃く、激しくなっていく。




 僕はいつも、鍵を置くときに見える手で、Rという女を想像していた。その偶像が、乱暴に黒塗りされて潰されていく。




 金魚の話を思い出した。先輩がなんで金魚に名前をつけなかったのかという疑問に僕が答えた時のことを。




 Rと分かり合おうとはしたけれど、そのじつ僕は常に分かり合えなかった時のことを考えて怯えていた。一番大切なことを訊かなかった。




 今にもはじけそうなものを、口から出さないように堪えるのは、もはや不可能だった。叫んで、喚き散らせることができればどれほど楽だろうか。




 Rは、僕にとって替えのきかない存在だった。そして、きっと彼女も僕に対して同じように思っているに違いないという傲慢を抱いていた。




『僕は』




 それなのに彼女は、あまりにもあっさりと僕のもとを離れると書いてくる。あの頃に戻りたいと、平気で文字に起こす。




 自分の勘違いと思い上がりが、胸に取り返しがつかないほど大きな穴を穿った。




 口をつぐみ、黙って手を動かすと、どうしてか震えた。




『君が、いなかった前のことを、もう思い出せない』




 それでも僕は、彼女の心を許そうと思った。




 本当に帰りたいんだろうと考えたら、そうせざるを得ないような気がした。




 さっきより一分か二分くらい早く、Rは僕に手紙を送ってくれた。




『受付さん、部屋に来て』




 彼女がずっと年上の女性のように感じられた。


 違う。僕がそうさせていた。




『いやだよ……そんなことは、できない』


『いま、ひとりなんです。誰もいませんよ』


『だから、いやなんだ。会いたくない』


『ベッドにいますから』




 さようならと言われるより、ずっと辛かった。




『できないよ。僕は、人の顔を見るのが苦手だから。きっと、君を目の前にしたら、動けなく、なる』




 初めの頃も似たような内容を送っていた。まるで振り出しに戻ったかのようだった。




『じゃあ、手紙なら、いいですよね。気送管ポストで手紙を送り合って、するんです』




 今までしてきたことと同じはずなのに、そこに含まれる意味がまったく違った。何も理解していないのに、『わかった』と送った。




 僕とRは、互いの特徴を思いつく限り並べることにした。




 まず、背丈はあまり高くないことを書いた。階段を一段登られてしまえばRと身長はさほど変わらなかった。




 次に、胃が弱くて、食が細いことを書いた。あばら骨がくっきり見えるくらい、痩せていることも。でも鎖骨だけは、八の字が逆さになっていて綺麗だと添える。




 目は三白眼で一重瞼だから、小学校ではよく怖がられていたことを書いた。誰も僕の目を見て話そうとしないから、次第に僕も人の顔を見なくなったことを思い出した。




 肌は白い方だった。ベッドシーツみたいに白くて、吹き出物もなかった。でも、耳の裏が、少しだけ赤くなっている。




 そして、手はかたくつめたい。


 きっと刃物で裂いても血なんて出ないだろう。




 便箋いっぱいに書いて送ると、彼女の部屋からカプセルが降りてくる。




 僕は明るすぎる受付室の灯りを落とした。机の上の蛍光灯だけが光っている。ぼうっと、便箋に書かれている文字が浮かんで見えた。




『わたしは、きっと受付さんより頭一つぶん小さいよ。髪は、少し長い。肩より下くらいまで伸びてる……そう、こっちに来てからずっと切ってないんだった』




 呼吸を繰り返すように言葉を交わす。




『胸はあんまり大きくないんです。ごめんなさい。手も、脚も、そんなに長くはありません。ストッキングで隠してますけど、たまに青あざがあったりする。子どもみたいでしょ』




 彼女の息遣いさえも、感じることができた。




『わたしね、本当はカラダを触られるのなんて嫌い。首も、胸も、背中も。どれだけ優しくされたって、みんなの手はわたしよりあつい。あつくて、一番痛い火傷を思い出しそうになるから』




 機織り機にかませた縦糸の、合間を縫って進むシャトルのように、Rと僕の間を埋めていく。




『わたしの手には、いつだって透明なシンバルがあった。それを落とさないようにすることだけで精一杯だった。転んだって、手はつけないし。自分が怪我をしているかなんて気にも留めなかった……』




 君の涙を拭えるのなら、たとえその相手が僕でなくても構わなかった。 


 それでも。


 この手が、同じ泥で汚れていたならば。


 君の部屋の扉を叩く僕を、僕は許せたのだろうか。


 


『わたし、こんなに汚れてる』




 僕は、君を許すと決めたから。


 歯を食いしばり、ペンを握りしめて書き殴る。




『それでも……君は美しいと、僕は、叫ぶよ』


 


 ゆっくり彼女を押し倒すことを思い浮かべ、それをありのままを書いた。




 髪を撫でた。おそらくそれは、壊れてしまいそうなほど華奢な身体だった。いつもガラス越しに見た、腰まである髪の毛。それが、これから伸びていくことを考えると涙が出そうになった。




 彼女のつむじから、強くて甘い匂いがする。




 たぶん、ホテルとおんなじ匂いだった。




『いたい。優しくして、ください』


『まだなにもしてないよ』




 シュルシュルー。シュルシュルー。




『服は脱がさないで、いいんですか?』


『君は、もう裸だろ。さっき、自分で脱いだじゃないか』




 シュルシュルー。シュルシュルー。




『後ろからだと、顔が見えなくて、怖いです』


『見えてるよ。君は、ひっくりかえったような、体勢に、なってる』




 お互いに少しずつズレていて、僕らはそれを許し合った。それが不思議と心地よかった。




『ごめん、なさい。ごめ、ん、なさい』




 便箋が重なる。それは肌だ。重なり合っているなかで、Rだけは繰り返し同じ言葉を送ってきた。おそらくその謝罪は、僕に向けられたものではなかった。一五一四キロメートル先か、もっと遠くに行ってしまった人間に向けた言葉だった。




 僕は次第に、自分が何を抱えているのか分からなくなった。




 終わるタイミングもばらばらだった。僕が果てたあとの数分間、Rはまだ僕ではない誰かの腕で泣いていた。あの五分にも満たない時間、彼女は誰にしがみついていたのだろうか。




 かろうじてカラダを支えていた柱が中心から抜き取られたようだった。




 項垂れるように机へ視線を落とす。僕の顔と並行してペンと、紙があった。




『僕はずっと、幽霊になりたかった』




 岩のように凝り固まった心が、ぼろぼろとその形を失っていく。まるで傷の入ったCDをかけるラジカセのように、かつてこぼした言葉を反芻した。




『どうしてですか』


『僕には、才能がないから』


『なんのことを、言ってるんですか』


『生きる才能がないから』


『そんなこと』


『明日生きている自分を、想像できないから』


『だめですよ』


『ずっと、苦しいんだ。今も』


『受付さん、待って』


『僕は、透明になりたいよ』




 疲れたなんて甘えたことは言いたくないから。死んでしまいたいなんて、彼女の前で言えるほど酷い人間にはなれないから。




 ないものだらけだった。なかでも僕には優しさがなかった。




『受付さん、一万五千人です』




 すねた子どもを優しく叱るように。彼女は数字の書いた紙きれを寄越した。




 Rと文通をして、当時のサンテンイチイチの記事を見ることが多くなった。だから、彼女が送ってきた数字が犠牲者の数だということもおのずと見当がついた。




 残りカスになった僕は、手だけ動かす。




『一万、五千人だ』


『受付さんは、どう、思いました?』


『おぞましい数だと、思った』




 それがたとえ五十や百だろうが、恐ろしいことに変わりない。自分を囲んでいた一万五千人が忽然と姿を消したら、それは孤独よりもずっと残酷なことだ。




 だから『おぞましい』という表現をした。こんな書き方をしたらRは怒るだろうかと、まったく子どもみたいな反省がぼんやり浮かんだ。




 気送管ポストに青いカプセルが落ちてきた。201号室のものだ。じゃりじゃりと、お金の入った音がした。




 カプセルの外から、千円札の上に乗った小さい紙きれが透けて見えていた。




『数じゃないよ、命だよ』




 紙の上に落とされた文字は、彼女の想像力を象徴していた。




 慌ててカプセルの蓋を開け、机の上に中身をぶちまける。小銭が絨毯にこぼれ、お札が机の上にはらりと落ちた。先のメッセージ以外には、何も入っていない。




 おそらく僕は、生きているなかで、これほど深く傷ついたことがなかった。




 二度と彼女と言葉を重ねることがないという確信があった。それだけが僕を動かしていた。




 勢い良く立ったせいで椅子が後ろに倒れる。それにつまずきながら、受話器を取って201号室のダイヤルを押した。




 本当に201号室の電話が鳴っているのか? 耳元の呼び出し音の頼りなさに焦らされる。




 三回目に、コールがピタリと止んだ。




 色々なことを考えていた。しかし喉元まで出かかっていた言い訳は、シャボン玉のようにはじけてしまう。




「…………」


「…………」




 あちらからは何も聞こえない。僕も何も言わない。本当に壁と話しているみたいだった。




「避難、訓練は」




 生まれて初めて声を出したのかと思うほど、喉から漏れ出た音はひび割れていた。苦しかった。言葉の形を模すことさえ、今の僕には難しかった。




「……避難訓練は、以上をもって、終了いたします。生徒のみなさんは、上靴を洗って、すみやかに教室へ移動し、帰りのホームルームの、準備をしましょう。グラウンドに、忘れ物がないように、気をつけてください。放送、いたします。六時間目の避難訓練は終了……しました。生徒の……みなさんは、すみやかに教室へ移動し、帰りの……帰りの、ホームルームの、準備を、しま、しょう……」




 耳に当てている受話器が、自身の体温で熱くなるまで言葉を紡ぎ続けた。僕はRをとっくに許していた。だから彼女も許される日が来ることを心の底から願った。




 ホテルの受付室には、飛べない僕だけが、残った。

あの泥が、いつか透明になるまで

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