幸せのハーモニー
* * * * * * * ◆
淡い白色。
もやがかかった意識の中、私は頭の中を絞るような頭痛とともに目を覚ました。
「……ん」
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。私は頭を抑えながらソファに横たわった体を起こす。
「あ。先輩、おはようございます」
すると机に向かって宿題をしていたらしい藍子がこちらに振り返る。
「……藍子。今何時?」
「21時になったとこです!」
「ちょっとそよ子! 私が聞かれたのに!」
「……ああ、二人ともありがと。助かるよ」
やんややんやと騒ぐ二人をよそに。
私はぼやけた頭のまま考える。
一体どこからどこまでが夢で、私はいつから眠っていたのか。はっきりすることが少ないけれど。
「あー、ちょっと二人とも。聞きたいことがあるんだけど」
二人の音が止み、くるりとこちらへ振り返る。今になって気が付いたが、私がソファを独占していたせいかそよ子が地べたに座っている。後で何かしてあげよう——という考えとともに。
渇いた喉にペットボトルの水を流し込んでから、問う。
「二人は私の名前って覚えてるよね?」
後輩たちは互いに顔を見合わせる。
「詩音センパイ」
「詩音先輩」
「——ああ、おけ。ありがとね」
そう、そうなのだ。
思い出した。
私は詩音。
『私』を繋ぐ音の大事なカケラ。
けれどそれでも、最後の音は見つからない。
* * * * * * * ◆
「……そよ子、遅いですね」
「何買うか悩んでるのかもね。あの子、結構お菓子にはこだわるし」
「ああ、言われてみれば」
寝ている間に夜も更け。すっかり門限の時間を過ぎてしまったので、私は諦めてソファに倒れていた。横は藍子が座って——陣取っており、そのくせ時々肩が触れそうになるとびくびくするのが面白い。
そよ子はというと。私が何か奢ろう、と言うと「センパイはもう少し寝てていいですよ!」と返されたので、財布だけ渡して後は任せることにした。
先輩が後輩に買出しを任せて良いものか、と思うところはあったけれど、それ以上に体がまだ思うようには動かなかった。
「まあそろそろ帰ってくるでしょ。あんまり遅くなるようだったら様子見に行こう」
「分かりました」
時間が時間ということもある。
この二人は私のように門限はないが、だからといってあんまり遅くに帰すのはこの子たちが危険だし、家族にも心配をかけるだろう。
後で見送りだけはしてあげないと。
「……ああ、あの人もそんな感じだったか」
思い返せば私の先輩もそうだった。
外も中も変わってる人だったけど、それでも後輩のことは大事に思ってくれていた。私が話をする時は、ちゃんと隣で聞いてくれていた。
「……あの、先輩」
「ん、どうしたの」
細い声に呼ばれて見れば、藍子はもじもじとこちらを見つめている。
何か言いたいことでもあるのだろうか。
「…………自由って、なんでしょう」
「ふふ、思春期だね」
「すみません。変な質問して……」
「いやいや、いいよ」
何だか私も似たようなことを考えていたなぁ、と思い出す。
「藍子はどう思うの?」
「え。えっと……そうですね。自分の好きなものには正直、といいますか。正々堂々とした魅力に溢れていて、その魅力で私たちを引き込んで、……まさしく先輩のような方でしょうか」
後半はかなり彼女の色眼鏡が入っていた気がするけれど、そうか。
私が自由、か。
「照れるね」
それはまさしく、私が尊敬する先輩に近づいている気がして。
「……ねえ、藍子はさ。私と初めて会った時の自分の顔を覚えてる?」
「私の顔ですか? ……ああ、今に比べると野暮ったさがあったと思います」
「や、そういう意味じゃなくてね」
私は覚えている。
多分あの人も、覚えている。
「そよ子もだけど、あの日の藍子は物足りなさそうな顔してたんだ。やりたいことはあるのに、それが思うようにやれなくて曇ってる……そんな感じ」
「そうなんですか?」
「うん。だから二人と初めて音合わせした時さ、すごくいい目をしてたんだ。あれ、前に言わなかったっけ。好きなことやってる時が一番いい顔になるんだって」
元々二人は音楽をやっていたそうだけど。私の歌を聴いている時や、演奏している時。彼女らはとても嬉しそうにしていた。
前と後で、声色がまるっきり変わったことを私は覚えている。
「自由っていうのは多分、そういうこと。好きなことができるのならそれが自由だよ」
「……なるほど」
目の前で納得し、綻んだ表情を見せる後輩。過去の私はこんな表情をしていただろうか。
分からない、と答えていただろうか。
「ところで、どうしてそんな話を?」
「ああ、えっとですね——」
藍子は軽く咳払いし、こちらに向き直る。
「そろそろ進路を決める時期なので」
「ああ、もう二年生だもんね」
「はい。私は進学と決めているのですが、その……」
「……音楽もあるから、悩んでる?」
「……はい。そよ子に聞いたら、あの子は自分のやりたいようにやる! って言ってました」
なるほど彼女らしい。
同時に少しだけ、懐かしい感覚を覚える。
「……音楽、って言っても色んな選択肢があるんじゃない? エスカレーターで登ってもいいし、外部受験、サークル、就職。それ以外。どの道に進んだってやりたいことはやれるよ」
「そうですね。ただ、私は……」
「うん?」
「本当は私自身、何が一番やりたいのか。それを周りの人たちが納得してくれるかどうかが、不安で……」
「……」
すぐに返事はできなかった。
私自身も見知った体験だからだ。
だからペットボトルの水を一口飲んで、考える。
「……藍子とそよ子って、長い付き合いなんだっけ」
「え。あ、そうですね。家が近所だったので、かなり幼い頃から」
「そうなんだ。……私にも、小さい時から仲の良い友達がいてね。玲奈と美沙って言うんだけど」
一体何の話だろう、と首を傾げる藍子。彼女に軽く微笑みかける。
「私がやりたいことを話したらね、どんな反応したと思う?」
「……応援してくれた?」
「……だったら良かったけどね。あいつら、笑ったんだよ。そんなの無理だって、ね」
「——は、そんなこと」
彼女は一瞬で表情を固くする。声色は重くなり、暗い色が立ち込める。
けれどそんな彼女を抑え、私は語る。
「藍子。私もね、怒ったんだ。胸倉を掴んで。よく知りもしないのに適当に決めつけんなって」
「……」
付け加えて言うのなら、その話――私がやりたいことの話をしたのは玲奈と美沙だけではない。
両親にも私は話し、しかし同じ反応を返された。
できるわけがない、それよりもやるべきことがある。やらなきゃいけない。
それが普通で、それが当たり前で。
どうしたってあの人たちの壁は私の声を邪魔した。
分かってくれない。聞いてくれない。
知ったような口を聞いて、知ったような言葉で私に善意を押し付けた。
それが嫌で、私は逃げた。
塞ぎ込んだんだ。誰よりも自由を求めて。
だから私は——記憶を失っていた、のかもしれない。
今となってはあれが夢なのかそうでないのか、分からないけれど。
「それじゃあ、先輩は……?」
「ああ、大丈夫。私の答えは出てるから」
正しくは先程出た、というべきか。
思い返せばずっと先輩に教えられていたというのに。それを後輩たちに教えていたというのに。
「ねえ藍子。好きなことがあるなら、——やりなよ、自由にさ。自分がどれだけ真剣で、どれだけ好きなのか。全力で伝えるの」
単純な話だったのだ。
知らないものを知れというのは無理な話だ。
私がどれだけ歌が好きだと言っても、みんなは知らないのだから。今まで話してこなかったのだから。
「全力で、伝える……?」
「そ。全力でぶつかって、全力で笑って、楽しんで、悲しんで、悔しがって。それでも私は好きなんだって」
それが自分の意思。心の音だ。
「藍子もさ、自分が好きなことを確かめてみなよ。それで、それを両親とか、友達に伝えるの。何回も何回も、分からないのが分かるまで。そしたら笑えるよ、明日も明後日も明々後日も」
「先輩……」
いつの間にか、つい熱くなって彼女の肩を掴んでいたらしい。顔を赤く染めた蘭子が固まっている。
「ごめん、つい熱くなった」
「い、いえ——それが先輩の好き、なんですよね」
「……うん。これが私の好きだよ」
私は自由に歌う私が好きだ。
隣の誰かが自由に歌えないのなら、一緒に歌う。先輩とか、後輩とか。好きな人のために。
「分かりづらい話になったかな」
「……本音を言うと、少し。あ、ああああでも全然! 先輩の言うことですから、後でしっかり確認しておきます!」
申し訳なさと、感謝と。
織り交ぜた曖昧な笑みを私は浮かべる。
私はちゃんと先輩をやれているだろうかと、時々不安になる。
私は周りに恵まれている。けれど、だからこそ忘れてはいけない。それに甘えていてはいけない。思うことがあるのなら、ちゃんと伝えておきたい。先輩のように。
「……ねえ、藍子」
「は、はい……?」
「話があるんだけど」
「は」
再び彼女の肩を掴み、私はゆっくりと——。
「——センパイっ! いろいろ買ってきました!」
「えぇっ!?」
寸前で、勢い良く飛び出してくるそよ子。彼女は大きな袋を両手に駆けてくる。
「ああおかえり、そよ子。遅かったね」
「あー、なんていうかレジが混んでたので」
「……」
隣で藍子が無言の訴えをしている気がするけれど、あえて見ないことにする。
口には出さないけど、多分そよ子は途中から聞いていたんじゃないかと思う。確認するとややこしいので口には出さないけど。
「そよ子、さすがにこの量は買い過ぎでは……? 先輩のお金でこんなに……」
「いや、全部そよの自腹だよ。センパイのサイフ借りたのはお菓子一つだけだし」
それはそれで問題じゃないだろうか。
袋の中には大きなペットボトルの飲み物に、袋菓子。取り皿に割り箸紙コップ……のみならず、何故かおにぎりやお弁当、惣菜まで入っている。
「そよ子、さすがに買い過ぎ。これどうするの?」
「え、あー。今日泊まる感じかなって。センパイこの頃元気なさそうに見えたんで」
内心どきりとする。
藍子は分からないけれど、少なくともそよ子には私がそう見えていた、のだろうか。
「何を言ってるんですか。体調が悪かったらここには来ないで家で休んでいた方が良いでしょう」
「それもそっか!」
それもそう、なんだろうか。
「まあ? も、もし先輩がここに泊まるのでしたら、わたしもぜひお供させていただきますが」
「いや二人とも、ってかみんな明日学校だから。私も泊まる気はないし」
えー、と不満の声が返ってくる。ここでやっぱり今泊まると言ったら喜ぶだろうか。言わないけど。
「……また今度ね。さすがに平日に私たちだけってのはまずいでしょ」
「え、先輩。本当にやるんですか?」
「よぉーし! いつですかいつですか!?」
「今度は今度。ほら、そよ子はお金払ってあげるから、そのご飯類を冷蔵庫にしまう。それと——」
私はふと、藍子を見つめる。
「あの、先輩。何か……?」
私の口から、くすりと笑いがこぼれ出た。
「……いや」
私はやるべきこととか、やらなきゃいけないこととか、そういうのは嫌いだ。
自由でいたい。自分の好きなことをやっていたい。
けれど、だから。
「――。二人とも。パーティーやるよ、明日。それ使ってさ」
再び驚きの声と、歓喜の声と。
二人に向き直って、私は告げる。
「だから明日もここに集合ね。みんなで歌って、ご飯食べて……それが終わったら私から重大発表があるから、よろしく」
* * * * * * * *
私は歌が好きだ。
私を構成するすべての音は、私にとって大事なもの。
私が失い、一度は手をかけ殺したものもある。けれど、悩みも葛藤も、大きな壁と本心も。好きも嫌いも何もかも。全てが私の心の音だ。
幼なじみの玲奈と美沙。私のファンだと言ってくれた先輩。大事な後輩のそよ子と藍子。そして詩音。私の本音。
始まりと終わり。どの人も、どの音も欠けてはならないものだった。
ドレミファソラシド。音階のどれが欠けても歌から色が失われるように。
生かすも殺すも、すべては私次第。
「――――っ」
喉が乾く。
手に汗がにじむ。
門限に遅れてしまっていることはこの際どうでも良くて。それよりも目の前の壁に緊張する。私が口にしようとしていることの重要性は、誰よりも分かっていて。
多分歌っている時のように伸びやかに言えはしない。
たどたどしくなるだろう。
でも私は。
ゆっくりと扉を開ける——。
「ただいま。遅くなってごめんなさい。それと————」
「私は、自由に歌う私が好きなの」
お読みいただきありがとうございました。
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また、22時前に活動報告にて簡単な解説・補足等をする予定です。
興味があればそちらもお読みいただければと思います。
それでは改めて、ここまでお読みいただきありがとうございました。