・水を流しましょう!
日の出が新しい一日を連れてきた。水平線から覗くそれは力強いもので、見ていると鬱屈とした気持ちにさえ光が差す。瑞祥墓地から沈む陽は見えないが、昇る日はよく見えるのだ。
「眠らない幽霊にとって、夜の半日は中々長いですよね。おとぎ話の幽霊が夜、人々に襲い掛かったりするのは退屈で発狂したからじゃないでしょうか」
「そんな持論展開されても……。それに私たち幽霊の姿って、生きてる人間には見えないって言ってませんでしたか?」
徹の思い付きの話はいとも簡単に否定された。口をへの字に曲げた徹を得意げに見た美咲は「よっ」と立ち上がり、日の出をうっとりと眺めた。
「それにしても、綺麗ですね。綺麗なものを綺麗に見られるようになりました」
その言葉に徹は何かハッとするものを感じ取った。
日の出、海、紅葉の山、髪をなびかせる美咲の後ろ姿。徹はそれを写真に残せないことを密かに恨んだ。
「そうですね。楽にいきましょう」
「生きましょうって、死んでますよ私たち」
「え?」
振り返った美咲の顔がそれは楽しそうで、徹は唖然とした。何せ、四日前の烏谷美咲は自分の墓の前で、死んだ事実を嘆き、涙を流したのだ。
どういう心境の変化があったのかと美咲に訊ねると、とても前向きな回答を得た。
「もう死んじゃったからには、そこは諦めるしかないじゃないですか。なら、出来る限り楽しみたいんです。こんな状態だからこそできる、幽霊ならではの何かを楽しもうって決めたんです!」
徹は何だか恥ずかしくなった。自分は何の目標もなくずっと流されていたが、目の前にいるこの人はそうではないようだ。
「烏谷さんは、すごいですね……」
「その呼び方もやめてください。なんか墓場でカラスって縁起悪そうじゃないですか?」
「えぇ……、じゃあどう呼んでほしいんですか?」
「下の名前で、美咲の方で呼んでください。墓場に咲く一輪の花ですよ!」
「わかりましたよ、美咲さん。」
日は完全に昇り、普通の太陽となった。オレンジに輝く時間は実に短い。
徹は昨日し損ねたことをすべく立ち上がった。水を、飲みたかったのだ。徹が何も言わず歩き出したので、あ……と美咲が後をついてきた。その顔が中々不安そうだったので、彼女の神経が太いのか細いのか、よくわからなくなった。でもあまり勝手なことはしないようにしよう、と徹は思った。
井戸の水をくみ上げるのを黙って見ていた美咲は、自分のお墓の前で徹の行く手を阻んだ。
「そのお水、私のやつにかけてみてくれますか? 私、喉が渇いてるのかよくわからないですけど」
「あぁ、いいですよ」
徹は特に面倒とも思わず、「烏谷」のお墓に丁寧に水をかけた。すると美咲は、ひゃー! と気持ちよさそうな声を上げた。
「そんなに!?」
予想外の反応に、徹はびっくりして顔がほころんだ。
「はい、先輩! なんて言うんでしょう? とにかくすっごく気持ちがいいです! もっとかけてください」
言われるがまま、徹は汲んだ水を全部かけてやった。
「はぁ、生き返れそうな気がする……!」
「ゾンビ誕生の瞬間を僕は見れるのか、悪くないな」
「いや、駄目ですよ。きっと生き返ったら私は先輩のこと見えないですもん。一方的にみられるのはずるいので、見ちゃだめです」
「微妙に会話が噛み合わないんですが」
「気のせいです」
二人で雑談をしつつ、徹は自分の分の水を汲んでお墓まで運んだ。
水をかけようと柄杓を持ったところ、美咲が待ったをかけた。
「え、何?」
「今度は私がかけますよ」
「いや、いいですよ」
美咲は分かってないなあ、とでも言いたげにため息をついた。
「死人が遠慮しないで下さいよ。それに、自分のお墓に自分で水かけるの普通に変です」
そう言い終わる前に、美咲は柄杓を奪い取った。変でも他にかけてくれる人がいないので仕方ないことではないか。……いや。
(もうそうじゃないんだ……)
そう思うと徹の心は晴れやかになった。
「わかったわかった、頼みます」
美咲はよろしい! とばかりに頷くと手際よく水をかけていった。徹の中にじわーっと広がるものがあり(確かに生き返れそう)と思いながら美咲の姿を眺めた。
(なんでこんなに明るいんだろう?)
(美咲さんは死んだことが悲しかった)
(未練があるから成仏できない。僕がそうなら彼女もそうなはず)
(無理してるのかな?)
(だとしたら、どこかで張り詰めて限界を迎えたりするかも)
(かと言って、僕がどうこうできるモノでもないような)
「先輩!」
「いってぇ!」
柄杓で脳天を叩かれて、痛みより驚きで声を上げた。恨み顔で美咲を見上げると、その顔も不満げだった。
「もう、無視するからですよ。ていうか痛いんですか? 幽体ですよ我々」
「OK、柄杓をよこしなさい」
「嫌だ……女の子に乱暴するの……?」
「察しが早くて結構なことだ」
徹が奪い取ろうとすると、桶と柄杓を持った美咲は思いっきりジャンプして七メートルほど浮かび上がった。徹の顔がサァっと青ざめていく。
美咲は徹を見下ろし、柄杓をまるで剣のように向けて大声で勝ち誇った。
「ハッハッハ! 先輩、宙に浮かぶ技を教えたのは失敗でしたね!」
「今すぐ手に持ってるもの放せ! 早く!」
大声で叫んだが、美咲にその意図は伝わらない。
「なぁに言ってるんですか……あれ? あれぇーー!?」
美咲の体が突然落下し始めた。最初はゆっくり、しかしその勢いは徐々に速くなっていく。
(ああ言わんこっちゃない!)
徹は全力で走った。
(間に合わない!)
このままだと美咲が地面に着くのが先だ。徹は地面を思いっきり蹴って、泳ぐように滑空した。障害物をすり抜けて、落下する美咲への最短距離をとる。
(間に合え!!)
美咲はもう地面に衝突寸前だ。徹が両手を精一杯伸ばす。
なんとか指先が美咲に届いた!
一気にその体を手繰り寄せると、自身は美咲をしっかりかかえたまま仰向けになって、石段へと突っ込んだ――
「ぁぁぁぁ……」
徹は今度こそ痛みで呻いた。頭を石段に強打し、背中も打ち付けた。そこに滑空した速度と抱えた美咲と桶、柄杓の重さがエネルギーをかさ増ししていた。
美咲は慌てて徹から離れて、混乱した目で顔を覗きこんだ。
「あ、あの、ああああああ…………」
徹はゆらりと立ち上がり、困惑している美咲の頭に手を置いた。
「大丈夫でしたか? 美咲さん」
「は、はい……。いやそれより先輩こそ――」
「大丈夫ですよ、幽霊の痛みは一過性なんです。それよりすいませんでした。物を持ったまま浮かぶと、物の重力に引っ張られるのかこうやって落ちちゃうんです。それを言うのを完全に忘れてた。ごめんなさい、怖い思いをさせてしまって」
徹は優しい笑みを美咲に向けたつもりだった。しかし実際、それはやつれた笑みで、美咲に罪悪感を抱かせていることに徹は気付かない。
「そんな、先輩が謝ることじゃ……」
徹は肩を落として、桶と柄杓を戻しにトボトボ歩いて行った。美咲はその背中に手を伸ばしたまま動けなかった。
小さな倉庫に物を戻して、徹はうな垂れた。失態だった、教える者の責任を果たせていなかった。幽霊だって痛いものは痛い。あの痛みを美咲に味合わせずに済んだことは不幸中の幸いだったが、助けることが出来たのは単に幸運だと理解していた。彼のなけなしの自尊心はいまや失われた。
いかにも幽霊らしい面持ちで徹が住処に戻ると、墓石の前で美咲が腕組みしながら仁王立ちしていた。
「先輩、私は怒っています」
棘のある声でそう宣言した。
頭を上げた男の顔にまるで生気のないことを見取った美咲は一瞬、目を落とした。しかし、少し息を吸って、徹の目を力強く見つめ返した。
「何に怒ってるかわかりますか?」
「それは――」
「言う必要はありません。その顔を見れば分かってないのは丸わかりです。私は、……。私は先輩がやたらと気遣いすぎているところに怒ってるんです! ここには私たち二人しかいないんですよ? 早く打ち解けたくて、気さくに接してほしくて、だから積極的に私は……。なのに先輩ときたら! そりゃ出会ったばかりですけど。ああ自分でもよくわかんなくなってきた!」
美咲がほとんど癇癪気味なのを見て、徹はどうしたものかと固まってしまった。女性慣れしていない彼は、こういう時咄嗟に行動がとれるタイプではない。
美咲は徹を睨みつけてビシッと指さした。
「とにかく! 罰として、私に敬語使うのをやめてください!」
(………………え?)
と、疑問が頭をよぎったがそれを精査する猶予はない。
「は、はい。わかりました」
「違うでしょ!」
「……ああ、わかったよ!!」
気付けば、両者ともやけだった。よくわからなくなって、ひとまず笑いあった。
しばらくして落ち着いてから、美咲は心配そうに「先輩、本当に身体痛くないですか?」と、徹の後頭部をさすった。
「大丈夫だよ、本当に」
「ありがとうございました、助けてくれて」
「いいって。僕が教え忘れたのがいけないんだし。ごめんね」
「…………」
徹のその言葉に、美咲は何も返さずに俯いた。
一方強く出られた徹の気持ちは少し軽くなっていた。引け目を感じつつも、許されたように思い、その日は何ともなく過ごした。美咲の顔が少し沈んでいることにも気付かず、次の日を迎えた。
***
少し早い朝、空は曇っていて、コバルトブルーが一面に広がっていた。徹は大きく深呼吸した。
(ふぅ。今日こそはしっかり)
烏谷の墓石の方向に目をやるが、そこに彼女の姿はなかった。
(まだ休んでるのかな)
手持ち無沙汰になった徹は墓石に水でもかけようと、桶を携え井戸に向かった。
そして井戸に桶を落とそうとした時だった。
井戸の縁を掴む、真っ白な手を見た。
息を飲んで凍り付き、ピタッと動けなくなる。
目を離すことが出来ずにいると、その白い手に力がこもり、濡れた長い黒髪に覆われた頭部を井戸の中から引きずり上げた。
「ひっ――!」
短い悲鳴を上げて徹は地面にしりもちをついた。井戸からその全身を震わせて、女と思しき図体が姿を現した。全身が濡れている。女は井戸から這い出ると、ピチャリ、ピチャリとかなりゆっくり徹へ歩み寄ってきた。
徹は尻もちをついたまま、ゴキブリのように体を小刻みに動かして後ずさりだ。あわっわ、と情けない声を漏らして、遂に叫んだ。
「幽霊!!」
その言葉が出た途端、女は徹に飛び掛かった――!
「……さい!」
(サイ?)
「……ださい!」
(ダサいなんて、酷いよ)
「起きてください!!」
目を開いた徹の前に、髪を濡らした女の顔があった。一瞬でつながった記憶の回路が次の動作を導く。
「うわぁーー!!」
「やーー!!」
「って、美咲じゃないか!」
「はーもう、そうですよ! 私以外いないでしょ! いいリアクションだなぁと思ってたらまさか気絶するだなんて、幽霊のくせに!」
その時ようやく理解した。辺りは既に明るく、びしょぬれで座り込む美咲、転がる桶、視界の奥に井戸。
「勘弁してよお、本当に焦った」
美咲はペロっと舌を出してわざとらしい笑みを浮かべた。
「いやぁ、すいません。ここまで先輩が耐性無いとは。サデコだって一応幽霊?なんだし、すぐばれるかと思ったんですが」
などと供述した。胡坐をかいた徹は眉に皺を寄せるばかりだ。
「やってくれたな本当に……。もう、なんか」
「じゃあ先輩?」
美咲が徹の手を引っ張った。
「私、昨日のこと水に流しますから、これも水に流してくれますか?」
笑顔の美咲とは対照的に徹は真顔だった。そして、吹っ切れたように笑い出した。
「な、なんですか!?」
「いや、ハハハ、美咲さんには敵わないと思って、アッハハ……。うん! 水に流そう、今回だけはね!」
「はー偉そうにしちゃって! あんなに怖がってたのに」
「水に流したんだから、それは忘れてくれお願いだから!」
美咲の髪では雫がキラリと光を反射し、天然の電飾となっていた。それは、安心したように声を弾ませる美咲を彩っていた。徹はそれを見てまた思う、この姿を写真に残したい。でもそれが出来ないので、徹はその瞬間を大切に胸に抱いた。
美咲「そういえば、私たちってトイレどうするんです?」
徹 「幽霊はトイレ必要ないんだよ」
美咲「じゃあ、<自主規制>出来ないんですね」
徹 「――――!?」