標本商墓堀りニサッタイ行状記
バカマツ標本
標本商にもピンからキリまである。赤松文次、四十五歳、はキリの中のキリである。まっとうな標本商からは、オソマツとかバカマツとか呼ばれて相手にされない。採集の腕は悪くないのだが、いわゆる小悪党、寸借詐欺師に近く、手の届く範囲に小銭やタバコがあれば、それが誰の物であれ、ポケットに入れてしまうといった類いの男である。
ある大手製薬会社から、惑星マカオンでの菌類採集の依頼があった時、バカマツは前金を受け取るや否や、別の三つの製薬会社に連絡を入れた。自分は〇〇製薬に頼まれて、これからマカオンに抗生物質用の菌の採集に行く。おたくはどうか。こうしてバカマツは、四つの会社からまんまと前金をせしめることに成功した。現地に着くと、その辺のぬかるみの泥を四本の試験管に詰めて発送して、仕事を終えた。手慣れたものだった。
こんなやり方が、いつまでも続くわけが無いのはわかりきっている。だがバカマツは、目の前の小銭に手が出てしまうのをどうしても止められない。この男の商道徳は、古代ギリシャの商業の神ヘルメスが、泥棒の神でもあった時代の名残りなのだ。
今、バカマツはエリニュス第三惑星にいる。業界用語でいうと沈澱している。彼がなぜ、依頼も無いのにそんな星に行ったのかは誰にもわからない。結局はよくあるように、運命に導かれてとかいうつまらない理由なのだろう。ここで散財して一文無しになったバカマツは、インチキ標本を観光客に売り付けたり、バーのカウンターから隣の客のタバコをくすねたり、空港の募金箱から金を盗んだりして暮らしている。寝る所なら心配は無い。小さな町を一歩出ればどこまでも原野が続き、雨さえ降らなければ、安宿からかっぱらってきた毛布にくるまって寝ることができる。素人なら何か恐ろしい獣に襲われるのじゃないかと怯えるかもしれない。だが、そこはキリとは言え標本商、この星の生態系ぐらいは、ちゃんと頭に入っている。
実は、バカマツは病気だった。エリニュス型多重人格症候群という病気だった。
金をたっぷり持って、マカオンから用も無いのにこの星へ来たバカマツ、立ち入り禁止の立て札の立つ湿地帯へ、これまた用も無いのに踏み込んだのだ。ここには風土病の原因となる、小さな虫がいた。単にプラニディウムと呼ばれるその虫は、一ミリ程の、シラミそっくりな奴だった。こいつは、普段は卵の状態で水面をふらふら漂っている。卵の寿命は二十年以上と言われている。そして何か動物に触れると、ただちに孵化してプラニディウム型幼生となり、八本の鈎爪で取り付く。この幼生の寿命はわずか三日、大急ぎで宿主の体表を走り回り、潜り込める場所を探す。ほ乳類の場合は大抵、鼻の穴だが、傷口のこともある。体の中に入った幼生は、最初の変態を行う。八本の足が消えて、ネマトーダ型幼生と呼ばれるミミズのような形になる。そして血液の中を泳いで、脳に達するというわけだ。何だかとてつもなく恐ろしい寄生虫のように思えるが、実際はほとんど害は無い。まずプラニディウムの九十九パーセントが、体内に入れず、武運つたなく討ち死にしてしまう。運良く体内に入れた者も、脳に達する前に白血球やら抗体やらで、大方死んでしまう。ほ乳類が宿主でないのは明らかだった。それなのに、エリニュス3の湿地帯が立ち入り禁止になっているのは、やはりごく稀に脳の中にまで入り込む元気な奴がいるからだ。では脳の中に入るとどうなるか。妙なことに、虫はそこで何もできずに死んでしまう。だが、問題はそこからだ。虫の死体を包み込むように、良性の脳腫瘍が形成される。そしてこの腫瘍、しゃべるのだ。独立した一個の脳として。それがエリニュス型多重人格症候群だ。
バカマツは今日も、空港の中をうろついている。人の善さそうな観光客を見つけてはまとわり付く。ガイドを買って出たり(親切心からという素振りで、後で金を要求する。失敗しても飯ぐらいはありつける)、インチキ土産を売り付けたり(一番の傑作はビーチサンダルだ。古タイヤをリサイクルしたビーチサンダルの裏に、ミシュランと彫ったのだ)、それにしつこくまとわり付けば、それだけで金をくれる親切な客もいる。やがて警備員がこちらへ向かって来たので、バカマツは退散する。
「バカマツ君、あなたにはプライドというものは無いの?」
「うるせえよ。俺がこうやって飯の種にありついてっから、おめえだって生きてけるんじゃねえかよ。それにだいたい、何でおめえにバカマツ呼ばわりされなきゃなんねえんだよ」
「バカマツ君、ほら、足下、虫がいるよ」
「おっと。こいつは二千チェンピー、地球なら三万円で売れる」
「でも、地球へ帰るお金が無いんだもんね。笑っちゃうね」
「腫瘍の分際で笑うんじゃねえ」
子供の頃、ホラー漫画で読んだ人面疽を、どうしても思い出してしまう。早く手術をしてこの腫瘍を取り除かないと、今に体を支配されるんじゃないだろうか。
「やめてよ、気持ち悪い想像は。そんなこと、しやしないわよ。私はあなたの良心、日陰の女で満足なの」
この病気で死んだ者はいない。むしろ喜んでいる者が多い。腫瘍を第二の脳として活用するのだ。記憶装置として、演算装置として、そして有益なアドバイスを与えてくれる友人として。それまで平凡な人生を送っていた者が、ベンチャー企業のオーナーや、宇宙船のパイロット、学者になったりした。彼らは皆一様に、この病気が人生を豊かにしてくれた、と誇らし気に語った。だがそれも、元々の資質によるところが大きいのだ。バカマツ君ではそうはいかないのだった。
バカマツは虫採りだけはやめなかった。いつかは金になると思ったし、それに小銭と虫を見れば採らずにはいられない悲しい性でもあった。ベアトリーチェ、それが腫瘍の名前だった! 彼女はいい目をしていた、というのも変だが、確かにバカマツより先に見つけることが多かったのだ。それに採集をしている時は、彼女も文句は言わない。少なくとも、寸借詐欺よりはまっとうな商売だと思っているようだった。
ほとぼりが冷めた頃を見計らって、ベアトリーチェが止めるのも聞かず、再び空港へ行く。
「ベアトリーチェ、警備員が来たら知らせろよな」
「一度、ムショに入るべきね」
バカマツは人込みの中にカモを探す。金を持っていそうな、恰幅のいい六十代の日本人を見つけた。ただちに駆け寄って声をかける。
「あのう、どこかでお会いしたこと、ありませんでしたっけね」
驚いたことに、本当に会ったことのある顔だった。こいつはラッキーだ、誰だったっけ、早く思い出せ、金を借りなくちゃ。ベアトリーチェが教えてくれた。
「お医者様よ。バース記念病院の川藤先生。あなた、この先生の依頼でフローラ3へ行ったじゃない」
「ああ、そうだそうだ、川藤先生だ。お忘れですか、赤松です。標本商の赤松です」
医者は鋭い目つきでバカマツを見て言った。
「おう、確かにバカマツや。なつかしいのう」
その目は全く笑っていない。ベアトリーチェが囁く。
「あなた、この先生から前金をもらっておきながら、フローラ3じゃ雨に祟られて、ろくなもの採れませんでしたって、つまらない虫ばかり渡したのよ」
(そうだった、あの時はついてなかった、時期が悪かった)
「で、何ぞわしに用か」
「先生、フローラ3の時は御期待に添えず、申し訳ありませんでした」
「バカマツ君、あなた、本当はたくさんいいもの採っていて、別のコレクターに高値で売ったのよ。どう、思い出した?」
バカマツの顔が青ざめ、冷や汗が流れる。でもだまってりゃバレるわけの無いことだ。
「バレたに決まってるじゃない、コレクター氏はその標本を学会誌に発表したわ。御丁寧に、あなたに対する謝辞まで付けてね。川藤先生がそれを見たのは間違い無いわね」
そうだった、あの雑誌はコレクター氏が俺にも送ってくれた。俺は自分の名前が印刷されているのを見て、すごくうれしかった。
「あなたって、やっぱりバカマツなのよ。刹那的で、論理的思考ができない、トラップのチーズに飛びつくネズミみたい。たまには結果というものを考えたら?」
バカマツはいきなり川藤先生の腕に縋り付いた。
「先生、先生、許してください。あの時先生には、ろくな標本をお渡しできなかった。それというのも、盗まれたのです、宿で一緒になった同業者に。そいつは最初は親切そうに私に近付いて来て…」
「また、後先考えずにデタラメ言ってる。どんどんほころびが大きくなるわよ」
「黙れ! 」
「何やと! 」
思わず声に出していた。川藤先生が殺気のこもった目で睨んでいる。警備員が気付いて、こちらにやって来る。川藤先生は、何でもない、というように彼らに手を振った。
「こいつ、わしの昔の患者やねん。ちょっと頭のネジゆるんどるだけや」
警備員は、なるほどやっぱり、といった顔で引き揚げた。
「もう、正直に言って、謝っちゃいなさいよ」
バカマツは正直に打ち明けた、と言っても標本横流しの件ではない。エリニュス型多重人格症に罹っていることをだ。この病名を聞いた途端、川藤先生の態度が変わった。優しくなった。やっぱり医者だ、相手が患者となれば、態度も変わる。バカマツは一筋の光明を見出した。
「明日、郡・中央診療所に来い。わしが治したる」
川藤先生はレントゲン写真を無言で見つめている。頭をきれいに剃られたバカマツは、ベッドに横になって不安そうにそれを見ている。目の隅を何かが横切った。
「先生、今、ネズミが走りました」
最近はどこでも、ドブネズミが増えている。ろくでもない奴らに限って、ワープの試練をあっさりクリアーしてしまう。とは言っても、病院にいていいしろものじゃない。バカマツはぐるっと首を回した。大きなゴキブリが天井の隅でヒゲを動かしている。ここは本当に病院か?
川藤先生もちらっと天井を見て、言った。
「ワモンゴキブリや。学名知っとるか?」
バカマツはベアトリーチェの助けを借りなくても、それくらいは知っていた。
「ペリプラネタ・アメリカーナ」
「そや。ペリプラネタ、さまよい歩くゆう意味や。あと百年もしたら、そんな意味、忘れられるやろな。どこの星にでもおる、惑星ゴキブリや、ゆうことになるな」
「あの、お入り用なら地球に行って採ってきますが」
バカマツのスキンヘッドにゲンコツが落ちた。
「痛い、すみません、すみません」
「麻酔が効いたか試したんや。まだみたいやな」
川藤先生は椅子を引いて来て、ベッドの横にどっかと腰を落とし、バカマツの頭を撫で回しながら言った。
「プラニディウムの成虫を見たもんは、誰もおらん。動物実験では、脳に行く前に皆死んでまう。もしかしたら、人間ぐらいの大きな脳を持った、ほんまの宿主がアルキペラゴのどこぞにおるのとちゃうか、ゆう話もある。お前の相方は、何ぞ知らんのか」
「知らないわ」
「ベアトリーチェは知らないそうです」
川藤先生はまじまじとバカマツを見つめた。
「お前、ダンテなんか読むんか」
「ダンテって誰すか?」
「ベアトリーチェゆう名前は、お前の記憶の中にあったはずやが」
「ああ、西日暮里のヌードダンサーの名前っすよ」
ゲンコツが再び落ちた。
「あ……痛くない」
「ぼちぼち、ええやろ」
川藤先生は立ち上がって、トレイから電気ノコギリのようなものを取り出した。人さし指を刃にそっと当て、無気味な笑みを浮かべる。バカマツは、妖刀村正に見入る頭のおかしな殿様を連想した。
「のう、バカマツよ。わしが何で、痔の医者になったかわかるか」
「あれ? 先生、痔の医者だったんすか? こりゃミスったかな」
「痔には急患が無い思たんや。いつでも好きな時に昆虫採集に行ける思たんや」
「先生、申し訳無いんすけど、他の医者紹介してもらえません?」
「やかましわい! おのれは頭もケツも一緒やろがい! 」
電気ノコギリが唸りを上げて振り下ろされ、バカマツのキンカン頭をまっ芯で捉えた。
「さよなら、バカマツ君。ちゃんと更正するのよ。私、いつでもあなたのこと、見守っているからね」
白いドレスを着たベアトリーチェが去って行く。バカマツは初めてその姿を見た。今までは声だけだったのだ。たった一度だけ、ベアトリーチェが振り向いた。その目が涙で濡れていた。そして消えた。
うわあ、こんないい女だったのか。西日暮里の三段腹ダンサーと全然違うじゃねえか。先生、俺が悪かった。行かないでくれ、ベアトリーチェ!
バカマツは今でもエリニュス第三惑星に沈澱している。相変わらず空港で悪さをし、警備員に追いかけられている。そして、時々思い出したように湿地帯へでかけては、ベアトリーチェを探している。
エリニュス型多重人格症の患者で、腫瘍を切り取ってくれという者はめったにいない。だからバカマツの頭から摘出された組織は、医学的にも貴重だった。ラベルに、宿主B・AKAMATSUと書かれたその切片は、通称「バカマツ標本」と呼ばれ、医療関係者の間で高値で取り引きされている。
ラトロデクタス
ニサッタイ・コジュウロウは丘の上の、別荘のような建物を借りている。家具は机と椅子が一つずつ、鉄のベッドが一つ、他には内装も何も無い殺風景な部屋だった。それでも、安宿に泊まり慣れたニサッタイには、広くて一人で使うには勿体無く思えた。彼は今日は屋上で、採集したクモを天日干ししている。
久々のいい天気だ。目の下には広大な廃墟が続く。思った以上に大きく、地上で見る以上に寒々としていた。瓦礫と鉄骨、焼けた木材、その間を、ツル性のヤツデのような植物、スパイダーグラスが這っている。毛むくじゃらで、モス・グリーンのその葉はクモそっくりだった。ここはかつて一世を風靡した海賊カルロスの屋敷跡なのだ。ニサッタイが借りているのは、その焼け残った別館だ。
海賊カルロスは、宇宙での略奪の後はここで疲れた体を休め、村人達に戦利品を分け与え、大勢の女をはべらせて、王様のような暮らしをしていたのだ。だがある日、村人の反乱が起こり、屋敷は火に包まれた。カルロスは子分達とともに焼け死んだと言うことだが、死体は見つかっていない。
ニサッタイの携帯が鳴った。式部からか、と期待したが違った。ベルギー人のコレクターからのメールだった。「ホウセキグモ、全て買い取る。すぐ送れ」ニサッタイは舌打ちして携帯を閉じる。彼がここでクモの採集をしていることをどうして知ったのか、しつこくメールを寄越す。このコレクター、かつては大金持ちだったが今は破産寸前、標本は欲しがるが、とにかく金払いが悪い。もっとも、それは金持ちの頃も同じだったが。
ホウセキグモは、この惑星ラトロデクタス特産の美しい生き物で、分類学者の悩みの種でもあった。糸いぼを持たないという一点を除いて、基本構造が地球のクモの仲間と全く同じなのだ。七百二十光年の距離さえ無ければ、こいつは分類学上はまぎれも無い蛛形綱だった。
ニサッタイは新聞紙の上にホウセキグモを並べていく。大きさは二センチから三センチ程、頭胸部にはカニのように頑丈な八本の足、腹部も硬く、地球のクモのように乾燥させると皺ができるということはない。背面にはわずかに関節構造の名残りがある。その点でも地球のハラフシグモの仲間に似ている。そして、その名の通り、体全体が宝石のように輝く。光の角度によって様々に色を変える構造色、いわゆる玉虫色だ。生息する山脈や谷によって、その斑紋、色彩は多様に変化し、そのために熱狂的なコレクターが多い。また、このクモは有毒でもある。その牙から出る毒は、一ミリグラムでマウス二千匹を殺すことができる。だが咬まれた人間はいない。非常におとなしくて、人間に捕まると噛み付くよりも足を縮めて死んだふりをする。
「連絡乞う。でなければ他から買う」またメールが来た。ああ、そうしてくれ。こいつには、前の分十五万が売り掛けになったままだ。しかし、それを取り戻そうと新しい標本を送ったりしたら、ますます損害を拡大してしまう。十五万はあきらめる、そのかわり、全ての標本商に回状を回してやる。
小柄な男が、小道をこちらにやって来るのが見えた。小屋を貸してくれた村長だ。ニサッタイは屋上から降りて出迎えた。
「クモを採ったので持って来たよ」
村長は黒曜石のような光沢のクモを二匹、煙管の火のように手のひらに乗せて転がしている。そうしている間は、擬死を解いて逃げ出すことは無い。
「これはどうも。一匹二千五百チェンピーで買います」
黒いのは最普通種だが、それでも確実に捌けるのでいい値段を付けた。
「いいよ、あげるよ」村長は笑って言った。
「ありがとうございます。今、お茶を入れます」
また携帯が鳴った。式部ならいいが、と思ったがやっぱりベルギー人だった。「ホウセキグモ、一匹百ドルではどうか」村長がニサッタイの背後から、興味津々といった様子で覗いている。ニサッタイは慌てて携帯を閉じた。小売値がばれたかも。
「世の中には、クモの好きな人もいるんだな」村長はそう言って笑っただけだった。
ニサッタイのいれたフランス風インスタント・コーヒーを飲みながら、村長は感慨深く部屋を見回し、そして呟くように言った。
「カルロスは、クモが嫌いだった」
丘の上の豪邸から村を見下ろす時、カルロスは、中世の封建領主のような満足感に浸っていたのかもしれない。宇宙での荒仕事を終え、時には傷を負って帰ってくる、他所では嫌われ者でも、領地には王を絶対的に信頼している領民が待っていてくれる。この星は唯一、心休まる場所だった。彼は部下に、くれぐれも領民とトラブルを起こさないよう、常に言い聞かせていた。凱旋の日は屋敷に村人達を呼び、戦利品を気前よくばらまいた。いずれ村の若者の中から、気の利いたのを幹部候補として取り立てよう。親衛隊を作るのだ。村の有力者の娘を何人か正式に妻にして、より絆を深める。そう遠くない将来、惑星ラトロデクタスは、このカルロスに率いられる独立国家となる。
この星でカルロスは疲れを癒し、そして、隙だらけだった。宇宙では抜け目の無かった海賊カルロスも、農民にはまんまと欺かれていたのだ。彼は、辺境の開拓農民の荒々しさを知らなかった。彼らは何百年も先祖伝来の痩せた土地にしがみつき、支配者に飼い馴らされてきた農民などでは決してなかった。気性の激しさこそが、彼らをアルキペラゴへ導いたのだ。
いつも笑みを絶やさない、テンウォンという一人の若者がカルロスの気に入られ、屋敷に出入りして身の回りの世話をしていた。小柄で鼻の低い、コマネズミのように働くこの若者が、村の葬式にだけは決して呼ばれないという事実に、カルロスは遂に気付かなかった。テンウォンには、死体を見ると笑い出すという性癖があったのだ。彼は十四歳の時から六年間、タイ・ビルマ国境のジャングルでゲリラとして戦った兵士だった。ある日、先頭を歩いていた男が地雷を踏み、テンウォンは吹き飛ばされた。倒れた彼の上に肉片が浴びせられた。彼自身重傷を負っていたにも拘らず、爆風でばらばらになった戦友の格好が、木の枝に引っ掛かった顔の一部のその表情が、あまりにも滑稽なので大笑いしてしまった。村人の多くがその時、現場でそれを見ていた。
村長のソンミン、七十二歳、は思い悩んでいる。うまい計画が浮かばない。何とかして海賊カルロスの財宝を手に入れる方法は無いものか。村はカルロスのお陰でうるおっていたが、いつまでも続くものじゃない。テンウォンを潜り込ませたが、あいつ、いっこうにいい情報を持って来ない。やはり頭のおかしい男では無理だったか。そう思った時、村の若者が飛び込んで来た。
その夜、カルロスは留守だった。酒場でケンカ騒ぎがあり、村の者がカルロスの部下二人を殺してしまったという。
ソンミンは怒鳴った。
「奴の部下は何人いた。何人が逃げた」
「三人、いや、逃げたのは一人です」
「皆に武器を持たせろ。カルロスの屋敷に行くぞ」
かつてのゲリラのリーダー、ソンミンの決断は速かった。もう考えている暇は無い。時間こそ全てだ。
その頃テンウォンは、屋敷でカルロスの部下達とポーカーをしていた。顔に張り付いたような笑顔は、どんな手の時も変わることは無かった。彼の前にチップが山積みされていた。
「やめだ。この野郎、何かイカサマやってるのに決まってんだ。くそおもしろくもねえ」
カシムというパイロットが、吐き捨てるようにそう言って席を立ち、酒を取りに行った。その通りだった。見抜けないのが悪いのだ。あとの二人は赤い顔でテンウォンを睨みつけている。突然ドアが開いて、血まみれの男が転がり込んできた。男達は椅子を蹴って立ち上がり、反射的に腰の銃に手をかけた。入って来たのが仲間だとわかると、急いで駆け寄る。そいつは口から血の泡を飛ばして喚いた。
「ちくしょう、あいつらみんな、ぶっ殺してやる。銃をよこせ。カルロスが甘やかすから、図に乗ってやがるんだ」
テンウォンは開いたドアの向こうを見ていた。夜目の利く彼には、村長を先頭に村人達が武器を持ってやって来るのがわかった。顔に墨を塗り、姿勢を低く、静かに近付いてくる。では始まったのだ。彼はそっと立ち上がり、仲間の手当てをしている男達の背後に忍び寄る。男の一人の腰から銃を抜き取る。その男が驚いて振り向いたところを、顔面を吹き飛ばした。もう一人の胸に二発打ち込む。そいつが宙を飛んでドアの外へ落ちるまでに、頭に一発。そして、口の回りを血だらけにして床に座っている男の顔に、残り二発を叩き込む。もう笑いをこらえられない。台所から戻ってきたカシムが、酒瓶を持って呆然と立っていた。テンウォンは弾の残っていない銃を彼に向ける。カシムは泣いていた。それがテンウォンには、おかしくてたまらなかった。銃身が揺れて、狙いが定まらない。カチッ、カチッと二度空撃ちした時、ソンミンが入って来て彼の頬を思いきり張った。ようやくテンウォンのこう笑がやんだ。
「テンウォン、屋敷にはあと何人いる」
「あ、ああ、男はこのカシムだけだよ。こいつはいい奴だ」
ソンミンは焦る気持ちを押し殺して、聞いた。
「テンウォン、よく聞け。誰かカルロスに連絡したか?」
テンウォンはようやく落ち着いて、考えてみた。そして、カシムの顔を見た。カシムは首を振った。彼は何丁もの銃を突き付けられている。顔を黒く染めた男達が、銃を手に屋敷の中を駆け回っている。皆、場慣れした連中だった。泣き叫ぶ女達が一ケ所に集められていく。カシムは最初、村人が傭兵を雇ったのだと思った。だがやっと、全員知った顔だと気付いて驚愕した。ソンミンが言った。
「カシム、こんなことになって残念だ。私達はこれまで本当にうまくやってきたのに」
「ただじゃすまないぞ。カルロスが知ったら、お前ら皆殺しだ」
ソンミンの拳がカシムの鼻に飛んだ。老人とは思えない力だった。カシムは鼻血を出して片膝を床についた。
「カシム、もう後戻りできないんだ。君も自分が生き延びることを考えろ」
カシムはようやく、消えそうな声で言った。
「どうすればいい?」
小型シャトルに、定員一杯の十人が乗り込んだ。カシムに操縦させ、テンウォンがその後ろでナイフを握っている。ソンミンはカシムを使って船に乗り込むつもりだった。あなたの部下を傷つけて申し訳無い、とでも言って、テンウォンを差し出す。あまりの出来事に、慌てふためいた気の小さい村長自らやって来た、というふうに受け取ってくれれば、と思った。その後は運を天に任せるしかなかった。人数も火器も、こちらが劣っている。うまくカルロスを人質にできれば、チャンスがあるかもしれなかった。
「何てこった」カシムが地表を映すモニターを見て言った。暗闇の中に、赤い火が浮かんでいた。誰かが屋敷に火を放ったのだ。そうすればカルロスが二度と戻ってこないと思ったのだろう。ソンミンはベトナムが独立した日を思い出した。あの時、二度とフランス人が戻ってこないよう、彼らの別荘を焼き払ったのだ。馬鹿なことをしたもんだ。戦利品を燃やしてしまうなんて。
ソンミンはカシムに聞いた。
「カシム、財宝はどこに隠してる」
テンウォンがカシムの首にナイフを当てたまま、代わりに答えた。
「古い宇宙ステーションがあると言っていた。きっとそこだ」
「そうなのか?」
カシムはこの冷血の殺し屋どもの、あまりの素朴さにとまどった。
「財宝だって? 海賊の財宝だって? 今どきそんなもの信じていたのか。それでこんな馬鹿なことしたってのか」
ソンミンとテンウォンは顔を見合わせた。カシムが続ける。
「銀行だ。全て換金して銀行に預けてある。当たりめえじゃねえか、そんなこと」
ややあって、ソンミンは自嘲ぎみに呟いた。
「どうやら私達は、とんだ田舎者だったようだな」
「これからどうする気だ?」カシムが勝ち誇ったように言った。
ソンミンがきっぱりと言った。
「むろんカルロスを殺す。言ったろう、後戻りはできないと」
カシムはカルロスがどのあたりで仕事をしているのか、正確には知らなかった。EUの貨物船航路を三時間もうろついて、燃料を無駄にしてしまった。村人達は、次第に殺気立ってきた。
「村長、こいつは時間稼ぎしているだけだ」一人が言った。ソンミンもそう思った。
「テンウォン、あと十分以内にカルロスと連絡が取れなかったら、そいつを殺せ」
カシムは振り向かなくても、テンウォンが笑っているのがわかった。
「待ってくれ、頼む、仕事に出ると連絡がつかなくなるのは、よくあるんだから」
海賊船というのは静かな船だ。よほどの緊急時でもない限り、通信を傍受される危険を冒したりはしない。カシムは大急ぎで頭を回転させなければならなかった。相当遠くへ行ったに違いないカルロスと、この広い宇宙で十分以内に連絡をつけるなど、奇跡でも起こらない限り不可能だ。この田舎者どもに、それをどうやって理解させればいいのだろう。だが俺の命がかかっている。かわりに何かを投げ与えねば。カシムは言った。
「ステーションに行ってみよう。あそこなら燃料も食い物もある。酒も、それから金目の物も少しはあるはずだ」
誰も何も言わない。ナイフはずっと首筋に当てられたまま、暖かくなっている。カシムは思いきって舵をきった。十分が過ぎたが、まだ生きていた。カシムは、俺はなんてウソが下手なんだろう、と思った。金目の物が山ほどあると、なぜ言わなかったのだろう。だがそれでよかったのだ。もしそんな見え見えのウソなどついていたら、ソンミンは躊躇なくカシムを殺したに違いなかったから。
カルロス一味が根城にしていたのは、何年も前にソビエト連邦が破棄し、流されてきた老朽宇宙ステーションだった。それは小惑星群の中に巧妙にカモフラージュされていた。
ソンミンは感心して言った。
「これじゃICPOも気が付かないわけだ」
ステーション全体を覆うように、大小の隕石が張り付けられていた。カシムは訝った。前に来た時はこんなじゃなかった。これじゃ一体、どこにシャトルを着ければいいんだ?
裏に回ると海賊船が横付けされているのが見えた。カルロスが戻っていたのだ。カシムは心底ほっとした。するとあそこが発着ポートだ。通信機を手にしたとたん、首筋のナイフに力が込められるのがわかった。カシムはそっと呼びかける。
「カルロス、開けてくれ。下でトラブルがあった。村長が一緒に来てるんだ」
中からは何の応答もない。カシムはぶつぶつ言いながら、ステーションの回りを三周して、作業用エア・ロックを見つけた。あきれたことに、石が挟まって半開きになっていた。ハッチの外側にまで、細かい隕石がびっしりと張られている。もし完全に閉じていたら、そこに入り口があることはわからなかっただろう。村人の一人がおかしそうに言った。
「まるで、トタテグモの巣だな」
カシムはトタテグモを知らない。だがソンミンは知っていた。彼は言った。
「何か妙だ。そこから入るのは、よそう。カシム、船を窓の方へ寄せてくれ。中を覗いてみよう」
「窓ったって、どこなんだ? こんなにしちまうなんて、皆、何を考えてんだろう」
カシムはエア・ロックの位置から見当をつけ、船を寄せる。隕石の隙間から、光が漏れていた。ソンミンが言った。
「テンウォン、お前、宇宙服を着てな、あの窓の石をひっぺがしてこい」
テンウォンは、カシムの首にナイフを当てるのにいいかげん飽きていたので、この新しい仕事を喜んだ。例によってコマネズミのように動いて支度をすると、外へ飛び出していった。
隕石はガラス繊維のようなもので束ねられていた。それをバールでひとつひとつ剥がしていく。おおよその窓の形が見えてきた。中で何かが動いている。繊維の膜が残っていてよく見えない。窓を傷付けないよう、手で丁寧に取り除く。やっと中が見えた。そして、それはシャトルの連中にも見えた。
クモの糸に絡まってもがくカルロスがいた。回りにはいくつもの、人型の白いかたまりが浮かんでいる。カシムが両手で顔を覆って、警笛のような悲鳴をあげた。ソンミンは、これはあんまりひどすぎる、と思った。カルロスに聞こえるはずも無いのに、声に出して言っていた。
「カルロス、動いちゃいけない。そいつはきっと、糸の振動を辿って来る」
雄牛程もある黒いクモが、値踏みするように八つの目でカルロスを見ていた。時々脚で糸をたぐり、獲物の反応を確かめている。
「テンウォン、もういい、戻ってこい」
だがテンウォンは、窓にへばり付いて動こうとしない。あいつ、また笑っているのだろうか。
そうではなかった。テンウォンは感動していたのだ。彼の頬は涙で濡れていた。空中に不規則に張り巡らせたガラスの糸を、ゆっくりと辿るそいつはバレリーナのように美しかった。まん丸い腹には血のように赤い斑点をちりばめ、細くしなやかな足は、ピアニストのように繊細だ。カルロスが何か喚いている。あいつはきっと、クモが嫌いなのだ。あいつは何にもわかっていない。だが俺は今、はっきりとわかったのだ。クモこそは、この世で最も無重力空間に、宇宙に適応した生き物なのだと。
風が吹いて、スパイダーグラスがざわめいた。村長はコーヒーを飲み干すと、ニサッタイに礼を言って立ち上がった。
「ごちそうさま。またクモを採ったら持ってくるよ」
ニサッタイは戸口まで見送る。携帯が鳴った。発信人が誰だかわかると舌打ちして閉じ、屋上での仕事に戻った。
村長テンウォンは手を背中で組んで、丘をゆっくりと下ってゆく。途中、ふと立ち止まって、空を見上げて呟いた。
「カルロスは、クモが嫌いだったんだ」
廃墟の上を風が吹き抜け、スパイダーグラスの葉が一斉に悲しい声をあげた。
キナバル山麓
「アタガワ・ナチュールに、フクちゃんていたじゃん」
「おお、平安美人」
「店やめて、アフリカ行っちゃったね」
「あれ、フッキンの一人娘だぜ」
「フッキンて、あのフッキン? 福俵金太郎? 資産十兆円の?」
「おいおいおいおい!」
「ぶははははは」
「そら、金にがつがつしないはずだわ」
「あいつ、それ知ってたの?」
「気付かないのが、あの男だよな」
「毎度のことながら、むかつくな」
「リーチ。千点棒無いから、これ」
「カマドウマなんか置くな、ってそれ、勝手に跳んできたんじゃねえか」
「商品賭けるの無しな」
「カマドウマ、商品なのか?」
「墓掘りニサッタイは、一匹三千円で売ってた」
「四国の、何とかって島にいる、日本最大のカマドウマな」
「本当? だったら安いじゃん」
「どうせ飼育品だろ。あんなもん、いくらでも殖やせるだろ」
「それはないと思う。悪党ながら、標本のデータに関してはシビアな男だ」
「そうだな、少し仕入れようか。需要があるかなあ」
「日本最大種ってレッテルは、効くんじゃね?」
「お前ら、アホだな。墓掘りニサッタイが安売りしてんだぞ。何かあるに決まっとるわ」
「おそらくこうだな。珍種だと思って、現地の採り子に一匹五百円で買い取るとか言ったんだな。そしたら何万匹も集まっちまった。そんで、在庫かかえてヒーヒー言ってるってところかな」
「うわあ、いやな話だ。標本商は、みんな一度はやるんだよな」
「あいつ、またアルキペラゴ行ってるんだろ。そんじゃ、採り子に金払えなくなって逃げたのか」
「女がいるんだ」
「各惑星にひとりずつ、十人はいるんでないの?」
「いいなあ、港々に女有り、か」
「子供も何人もいるんだろ、仕送りが大変だぜ」
「なんで〝墓掘り〟なんすか?」
「文字通りよ。墓掘って、死体を盗んだんだ」
「マジすか? なんでそんなことしたの?」
「それがさ……例のエイリアンの噂、聞いた?」
「アルキペラゴに出たっていう? その噂の出所はキタマクラだろ」
「いや、ニサッタイがエイリアンと出会ったらしい」
「うわ……最悪」
「地球人がみんなああだと思われたら、俺ら、皆殺しにされるんじゃね?」
「ニサッタイはな、エイリアンと交渉したんだ。お前らの標本をくれ、かわりに人間の標本をやるからって」
「すげ、悪徳商人の鑑」
「それで、墓掘って死体を盗んだの?」
「そう言や、俺の友達がニサッタイに、土葬の習慣のある国をしつこく聞かれたとか言ってたなあ」
「あいつが、満月の晩に墓場をうろついてる姿って、絵になるだろなあ」
「でも結局、標本にできるようなまともな死体は手に入らなかったんだ」
「だろなあ」
「それで、自分で死体を造ることにした」
「マジすか?」
「殺し屋ニサッタイか」
「採集の腕はピカイチだからな。あいつにとっちゃ、人間も昆虫も同じなんだろな」
「捕虫網で女子高生を襲うニサッタイ」
「あいつは地面師だから、落とし穴トラップだな」
「カンボジアの地雷原に、二千からのオサムシトラップを仕掛けたらしいぜ。ここなら獲物を盗まれる心配はねえって」
「ぶははははは」
「それ、俺も聞いた。地雷対策に高下駄はいてったって」
「わははははは」
「エイリアンの死体は手に入ったの?」
「オスとメスの二体。模式標本として、今B・Mの地下資料室に置かれてる。これ、秘密な」
「いくらで売ったんだろ。十億? 二十億?」
「そんなに高く売れたんなら、採り子に追われて逃げ回ったりはしない」
「採り子じゃなくて、警察だろ」
「前橋で女子高生が二人、行方不明になってるじゃん。代わりにエイリアンに渡した標本って、それかな?」
「校門の前に落とし穴掘ったんだな」
「女子校の校門前で、獲物を回収するニサッタイ」
「絵に……ならねえな。ぶはははは」
「ロン。リーチのみ。カマドウマいらない。二千貸し」
「チョウのオヤジ、とうとう標本商から足洗うらしいぜ」
「ケチな割には、貧乏してたよな」
「標本商で金持ちになった奴はいねえよ」
「在庫一掃セールがあるかな?」
「ヘンクツだからな、安売りするかどうか」
「そ、あのオヤジ、売れ残った品を値上げするんだ」
「早く買わねえと、明日はもっと高くなるぞって、な」
「うん。俺、最初二万だったタイタンを、三万六千で買っちまったよ。迷ってるうちにどんどん値上げしていくんだもん。たまらんよ」
「バカだねえ」
「タランチュラ・ホークってどうよ」
「マイアミの?」
「あそこ、品はいいけど高いわ」
「でも、いい女だよ」
「女? タランチュラ・ホークって女なの?」
「身長一八〇、ボン、キュ、ボン、だぞ」
「お前、知ってるの?」
「いや。でも、そんな感じするじゃん」
「何年か前のアニマに写真が載ってたよ。確かに、すげえ美人だったな」
「店、FBIに手入れくらって、国外逃亡してるって聞いたけど」
「ノーテン、みんなノーテンな」
「あーあ、夜が明けちまったよ」
「もう日本に帰ろかな」
「ライト消そうか」
「ろくなもん、来なかったな」
「スクリーンが見えなくなるくらい、ライトトラップに虫が集まったって、いつの時代の話だろ」
「もう、地球じゃ標本商なんてできないね」
「このあたりも五年前は、いいジャングルだったんだけどな」
「ほとんどキャベツ畑とコーヒー園になっちまった」
「本当の自然破壊者はハンターではない。農民である」
「どなたのお言葉?」
「白神山地で空手道場やってるカナダ人」
「さー、帰ろ帰ろ」
マンティコラ
標本商チャムロン・モープライ、三十歳。彼が怪獣マンティコラに取り憑かれたのは、まだタイ北部チェンダオに住んでいた九歳の時だった。子供向けの漫画本に「アルキペラゴの怪物達」という特集が載り、少年チャムロンはその時代がかった挿し絵に魅了されてしまったのだ。左手にサーベル、右手にライフルを持ったラッフルズ卿が、人面獣身の怪獣に立ち向かっていた。それが一体どこの惑星の話だったのか、チャムロンは憶えていない。ただアルキペラゴという言葉と挿し絵だけが、少年の脳に焼き付いてしまった。ボクも大きくなったら冒険家になる、そしてラッフルズのマンティコラをきっと見つけてやる。
その後何度かの引っ越しで、宝物のようにしていたその雑誌はどこかへ消えてしまった。大人になってからチャムロンは、同年代の友人達によくその記事の話をしたのだが、そんな特集を憶えている者はいなかった。世間の波に揉まれるうちに、いつしか冒険家の夢は消えていった。家の手伝いもろくにせずぶらぶらしていたチャムロンを、両親は地元の昆虫標本商に徒弟奉公のような形で就職させる。ボスは中々の蔵書家であり、給料は泣きたくなる程安かったが、チャムロンがその蔵書を自由に手に取るのを許してくれた。ここで彼は、初めて学問のおもしろさを知る。少年の日の夢が再び頭をもたげてきた。アルキペラゴは決して手の届かないはるか彼方の世界ではなかった。三年の間ここで知識と技術を吸収したチャムロンは独立し、遂に地球を離れた。
惑星メナムに店を構えて五年、生来の器用さと豊富な知識のお陰で、商売は順調だった。かつてのボスには大量のアルキペラゴ生物を格安で卸し、恩を返した。ただチャムロンの頭には、どうしてもわりきれない一つの謎が残っていた。ラッフルズ卿がマンティコラと戦った話など、ついにどの資料にも見つけることができなかったのだ。
ある日彼の店に、ヴァルトハイムというドイツ人の昆虫学者がやってきた。赤ら顔で大男、七十年輩のその先生は、かなりの酒好き、話し好きで、チヤムロンをえらく気に入ったらしく大量の標本を買ってくれた。その後もしばしばやって来て標本を買い、ついでに店に上がり込んでチャムロンとっておきのメコン・ウィスキーを片っ端から空けてしまう。差し引きするとどうも赤字のような気がするのだが、なぜかこの先生が来るとうれしくて、チャムロンもついサービスしてしまうのだ。それは得意客というより友人という思いなのだろう。
「我がドイツはとうとう法律で昆虫採集を禁止してしまったぞ」
ヴァルトハイム先生が憤慨して言う。店に来る前にかなり飲んできたのだろう、もう大分出来上がっている。
「でも先生達プロは、許可証がもらえるんでしょ」
「虫を採るのにいちいち書類を作らにゃならん。わしらは何とかできても、昆虫学を支えているのは多くのアマチュアなのだ。昆虫採集の禁止とは、昆虫学の禁止に他ならん。未来を担う子供達はどうなる、我がドイツにおいては遠からず昆虫学者は絶滅する」
チャムロンは相槌を打ちながらも、どうもピンとこない。虫を採っちゃいけない国なんて、想像できない。木一本、土一握りにだって何千何万の昆虫がいる、ドイツの建設業者は昆虫学者より先に絶滅だな。
その日、チャムロンは永年の疑問を思いきってぶつけてみた。
「ねえ先生、ボクは確かに見たんだよ。そりゃあ子供向けのいいかげんな本だったかもしれないけれど、それでも何かの根拠があってのことだと思いたいんだ」
笑われるかと思ったが、先生はまじめな顔で教えてくれた。
「お前の見たのはピーター・スタムフォード・ラッフルズの書いた本が種本になっておる。自称、ラッフルズ卿が愛人に生ませた子、でな、卿から聞いた話としていいかげんな本をでっちあげたのだ。訴訟沙汰になって本は出版停止、大方は回収されたようだ」
チャムロンは何だか落ち込み、聞かなきゃよかったと思った。だがヴァルトハイム先生は、そんなチャムロンを元気付けるように言った。
「まあ、一から十まで嘘ばかりというわけでもない。多少脚色が過ぎてはおるが、真実もある」
「それじゃあ、マンティコラの話は?」
先生はウィスキーをぐっと飲み干して、言った。
「ラッフルズ卿からマンティコラの話を聞いたのは、ピーター以外にもおる」
チャムロンは胃袋がきゅっとなった。
「すると、つまり、それ、どこの星なの?」
ヴァルトハイム先生は立ち上がって、新しいウィスキーを勝手に取りに行く。
「デウカリオンだ。採ってきたら、わしがそいつにお前の名前を付けてやろう」
海に覆われた、惑星デウカリオン。唯一の陸地は六百平方キロ程のピュラー島、タイのプーケット島よりほんのわずか大きい程度だ。地質学者は、この島は二万年前ー─彼らにとってはごく最近ー─の地殻変動でできたものだと言っている。だから陸上の生態系には、見るべきものは殆ど無いというのが定説だ。巨大なツクシのような植物の森があるが、これは浅海性の海草の一種ウミマオウが、長い茎を伸ばして陸地にまで進出し、そこで胞子体を造っているのだ。そのことがわかるまでは、独立した種としてリクマオウと呼ばれていた。海洋生物の調査は何度か行われているが、陸の調査はお座なりだ。チャムロンはそこにわずかな可能性を見てとった。いつだったか、テレビのニュース番組で、リポーターが南米ギアナ高地に立って叫んでいた。「ここには生命のかけらすら見当たりません!」ギアナ高地が珍奇な昆虫の宝庫であることを知っているチャムロンは噴き出した。いないという思い込みに加えて訓練されていない目、そんな人間には、目の前に自分の母親がいたって見つけることはできないだろう。
最高峰、といっても八百メートル足らずだが、そのあたりは専門チームの手で二度調査されている。だがチャムロンの狙いは低地林だ。人はどういうものか高い所に行きたがる。東南アジアも高地はよく調査されているのに、低地は、いつでもできると思われたのか、あまり目を向けられてこなかった。だから低地ジャングルに珍種がいると気付いた時には、もうジャングルは大方消えていたのだ。
今回チャムロンには秘密兵器があった。甥で、元ムエタイ選手のイート君だ。彼には小さい頃から他人の考えが読めるという奇妙な能力があった。指先や眼球の僅かな動きが、まるで語りかけてくるように頭の中に響くのだという。テレパシーではなく、本人によれば手話とかアイ・コンタクトに近いものらしい。その事実を知った時、チャムロンは兄夫婦を説得してイートをムエタイ選手にさせた。相手の考えが読めるならこれは百戦百勝、大儲けができるはずだ。だが残念ながら、右のハイキックが来るのがわかっても、それを躱せるかどうかは別問題だったのだ。結局、通算成績三勝十二敗、気の優しいイート君は、今では養護学校で聾唖者に手話を教えている。
チャムロンは、マンティコラが知性体の可能性があると思っている。だからどうしてもイートが必要なのだ。
「マンティコラというのはね、顔は人間、鮫の歯を持ち、体はライオンでシッポはサソリという、古代インドの伝説の怪獣だよ」
「叔父さん、それ本当ならすごく危険な生き物じゃないか。僕のムエタイを当てにしてるのならお門違いだよ、銃を持って来るべきだったよ」
「あのね、キミのへなちょこキックなんて当てにしてないの。随分損をさせてもらったからね。ボク達が探すのは、マンティコラに似た生き物なの。この島には植物しかないでしょ、だからそいつが肉食獣のわけはない」
イートは叔父の態度に、絶対の自信といったものを読み取ったが、これがあてにならないのはムエタイの件で実証済みだ。
デウカリオンに来て一ヶ月が過ぎた。地表には網の目のようにウミマオウの茎が走り、そこからまっすぐに天に向かってツクシのお化けが伸びて行く。二人はあちこちにバナナやらイモやらばらまき、赤外線センサーのカメラを仕掛けた。が、これまでの所何の成果も上がっていない。チャムロンはそれこそが、マンティコラが知性体である証しだとがんばった。でもイートには、叔父さんの背中が、これじゃとんでもない大赤字だ、と言っているのがよくわかった。動くものの全くいない、しんと静まりかえった森の中をただ歩き回るのに、さすがのチャムロンも飽きがきている。彼の長い採集歴でこんな不漁は始めてのことだった。マンティコラどころか芋虫一匹採れないなんて、これじゃ、あのギアナ高地のリポーターと同じじゃないか。だが、もう帰ろうと言いかけて、チャムロンはイートの様子がおかしいのに気が付いた。じっと森の奥を見つめたまま固まっている。
「どうしたの、何かいた?」チャムロンはちょっとだけ期待して聞いた。
「わからない。ツクシだかスギナだかが、何か言ってるみたいなんだ」
チャムロンはたまげた。甥が植物の言葉までわかるとは想像もしていなかった。チャムロンが何か言う前にイートが答えた。
「植物だって意思表示ぐらいはするんだよ、叔父さん。何かがここを通ったらしいよ。いつ頃かはよくわからないな、最近、と言ってるけど十年前かもしれない。僕らとは時間の認識が違うから」
チャムロンは体が小刻みに震えだした。それが恐怖のせいではないことを、イートに弁解する必要は無い。チャムロンはまなじりを決して森の奥へ入って行く。イートは、叔父がラッフルズに成りきっているのがわかっておかしかった。一時間ばかり歩いて少し開けた所に出た。甘い香りがする。トラップのバナナが発酵する匂いだった。ここへは来たことがあった。何かが通ったというのは自分達のことじゃないのか? チャムロンは思わず後ろを歩くイートを振り返った。イートは黙って首を横に振り、そっと前を指差した。木の間から、地球のそれの二倍はあろうかというライオンの頭が、括り付けられたバナナの匂いを嗅いでいた。チャムロンはその場に凍り付いた。肉食獣ではない、などという自信は粉々に砕け散った。銃を持ってくるんだった。甥っ子のムエタイじゃ勝ち目は無い。だがイートは落ち着いて言った。
「大丈夫、叔父さんの言った通りあれは草食獣だよ」
あれが草食獣だって? チャムロンは目をしばたたいて、もう一度じっくりとそいつを見た。いつか博物館で見たことのある、古代の洞窟ライオンー─そいつは犀程あったー─より大きいじゃないか。見事なたてがみと鋭い眼光、眼光? いや、あれは目じゃないぞ、ただの模様だ。チャムロンが混乱しているとイートが教えてくれた。
「そう、本当の目は鼻の穴の所だよ」
鼻の穴に見えたのが、つぶらな二つの瞳だった。ナマケモノに似ていた。いよいよバナナを食う決心がついたらしく、そいつが木立の間からゆっくりと全身を現した。チャムロンはもう少しで悲鳴を上げそうになった。
ライオンの頭は、二メートル程の竹のような細い首に載っていた。その首は、ピンク色の小豚の肩から生えていた。お尻にはくるっと巻いた小さな尻尾。四本の足の先には、まるで赤いハイヒールのようなかわいい蹄があった。
チャムロンはへたりこんだ。叔父さんの気持ちを気遣うこともなくイートが言う。
「すごくバランスが悪いね。あれで前に倒れないのは、頭が軽いんだね。つまり空っぽだ」
チャムロンは大急ぎで対策を考える。ヴァルトハイム先生はボクの名前を付けてくれると言った。冗談じゃない、こんなブサイクな生き物にボクの名前は付けられない。発見者にだってなっちゃいけない。きっとチャムロンのピーマン豚とか呼ばれて、孫子の代まで恥をさらすことになるんだ。
「叔父さん、とりあえず捕まえようよ。後のことはそれから考えたらいいよ。あ、だめだよ、僕は手伝っただけだからね」
一瞬、イートを発見者にすれば、と思ったのを読まれてしまった。チャムロンは渋々立ち上がってマンティコラ? に近付いていった。そいつはチャムロンをぼーっと見ていたが、さすがに手の届きそうな所まで来ると、以外に素早く後へ下がった。チャムロンが飛びかかる。間一髪、そいつはかろうじて身を躱すと、短い足をちょこまか動かして駆け出した。竹竿の先の大きな頭が前後左右に揺れる。イートは風船を付けた子豚のようだと思った。だがやはりバランスが悪いのだろう、すぐにつまずいて倒れてしまった。そこをチャムロンが首をつかんで押さえつけた。そいつはロバのような鳴き声をあげ、鼻水を、いや、涙を流した。
「助けて、殺さないで、と言ってる」イートがよけいな通訳をしたので、チャムロンは困ってしまった。どんな生物でも新種として記載するには、その元となる模式標本が必要になる。それは公共の場に保管され、いつでも研究者の便宜に応じられなければならない。だがまがりなりにも意思疎通のできる生物を殺すなんてできっこない。チャムロンはイートを連れてきたことを後悔した。
「こいつに言ってやってよ。殺したりしないって」
だけどどうすればいいのだろう。この一匹は動物園に入れるとかして、自然死を待って標本にしてもいい。だが他の個体は? じきにハンターや学者がやってきて採集するようになる。彼らにとってはただのピーマン豚だから気楽に殺すだろう。でもそれがボクには耐えられない、獲物と会話をしてしまったのだから。
イートがチャムロンの気持ちを汲んで言った。
「ワシントン条約に登録すれば?」
「絶滅危惧種ということになればね。でもむつかしいね、ここは全く手付かずの森だから、何万頭もいると思うよ」そう言ってピーマン豚(御本尊に失礼な気がして、もうマンティコラとは呼べなかった)を見る。手で首のすぐ下、たてがみの中をつかんでいる。本当に軽い頭だ。ああ、せめてお前がトリバネアゲハのように美しかったら。イルカのように賢かったら。命にも差別があるんだよ、バカでブサイクじゃ誰も守ってくれないんだ。
「バカでブサイクなのは私のせいじゃない、と言ってるよ」
「そんなの通訳しなくていいの」
とにかく目的は果たしたのだ。あとは学者に任せればいい。標本商としてはそれ以上のことを気に病む必要は無いのだ。チャムロンは心を鬼にして、ピーマン豚を森のはずれのキャンプまで引っ張って行く。最初のうちは諦めがついたのか素直に付いてきたが、次第にぐずつきだし、キャンプの手前で動かなくなった。
「森を出るのが恐いって」イートが言う。
「どうして」
「何かがたくさん吠えている」
チャムロンはちょっと考えて気付いた。
「そりゃ波の音だよ、海の波の音だよ」
「海って何?」
チャムロンは驚いた。海の惑星に住みながら海を知らないなんて、何だか哀れになってくる。故郷を永遠に離れる前に、できるだけのことをしてやろうと思った。
「おいで、キミの星の本当の姿を見せてあげる」
チャムロンはそっと寄り添うようにして、ピーマン豚を波打ち際に連れていった。ピーマン豚は、小さな波が寄せる度、ハイヒールの足で慌ててあとじさりする。
「大丈夫だって。ほら、大きな波が来るよ」
ピーマン豚は懸命に後ろへ逃げようとする。しかし大波がやって来た瞬間、今度は一気に前進してチャムロンの手を振りほどき、そのまま海に飛び込んだ。呆気に取られるチャムロンを尻目に、ピーマン豚は見事な豚掻きで沖に向かって泳いでいった。
「あの頭はきっと浮きなんだね」イートが感心して言った。チャムロンは呆然と、今ははるか沖に浮かんで、たてがみを水になびかせるライオンの頭を見つめていた。そいつはくるりと振り向くと、大きな歯の無い口をあけて叫んだ。
「バーカ」
イートが通訳するまでもなく、チャムロンにもそれはよくわかった。
メナム
「けーっ、お前の話ときたら、一から十まで嘘ばっかりだ」
チャムロンのヨタ話に、ニサッタイ・コジュウロウは床にひっくり返った。メコン・ウィスキーがかなり回っている。
「本当だって、本当。でも誰にも言っちゃだめだよ」
客が来て、チャムロンはそう念を押して出ていった。
ここは惑星メナム、土地の標本商チャムロン・モープライの店の奥。ニサッタイは三日前からここでゴロゴロしている。次の目的地、ラダマンテスへの便がどういうわけか全て欠航になったため、このまま待つか、それともあまり食指の動かない惑星ランシャンファへ行くか迷っていたのだ。
寝転がって天井を見上げていると、博物館の倉庫にいるような錯覚を起こす。四方の壁は、全てラベルの貼られた透明なプラスチックケースで埋まっている。地球のニサッタイの店より遥かによく整理され、そして広い。ケースの幾つかには送り先が書かれている。B・M、スミソニアン、ビショップ、ライデン、パリ自然史博物館…。南方の名は無かった。チャムロンの奴、俺の得意先だから遠慮しているのだろうか。
客、どうやら採り子らしい、との話が聞こえてくる。
「だからさあ、これじゃダメなんだよ。いくら珍しくても、脚が三本も欠けてるじゃない。千五百チェンピーはね、完品での値段なの」
「それはないだろう、お前、ナパの採ったこれと同じ虫を、脚欠けてるのに、千二百で買い取ったじゃないか」
「あれはちゃんと部品が揃ってたから。接着剤でくっつければ、完品になるでしょ」
「じゃあ、脚を持ってくればいいんだな?」
「持ってくればってねえ、……何でもいいってわけじゃないのよ。この個体の脚じゃないと。まあ、最悪でも、同じ種類で同性で、同じ大きさじゃないと。でもその場合は、やっぱり安くなるよ。ボクはお客さんにそのことを言わないといけないし、でないと、インチキ業者のレッテルを貼られちゃうからね」
採り子はまだしばらくぶつぶつ言っていたが、やがて小銭を握って帰っていった。
チャムロンが苦笑しながら戻ってくる。
「ニサッタイ、これ、いる? 式部先生が研究に使うなら、これ、あげるよ」
「お前が直接、式部に売ればいいじゃん。あいつ、大金持ちなんだから」
「ニサッタイの友達ならボクにも友達だ。って、それって、恐れ多いね、あんな偉い先生を……」
「なあにが恐れ多いもんか、あんなブタマン」
チャムロンにはどうも標本商らしからぬ人の良さがあって、ニサッタイは時々心配になってくる。
「ラダマンテスは行かない方がいい」
チャムロンが言った。
「どして」ニサッタイが聞く。
「たぶん、戦争だよ」
「どことどこ」
「国連とアメリカ。アルキペラゴの領有権争い」
戦争でもあれば、その土地の標本は値上がりする。標本商も、政商とまではいかなくても商売人の端くれである以上、多少の政治感覚は必要である。東西ドイツ統合の日、真っ先に東ドイツに駆け込んだ標本商の一人が墓掘りニサッタイだった。東側の物価の安さを利用し、マルクを欲しがる東ドイツの人々の標本や古書、古文献を買い叩いたのだ。それらの中には、到底現存するとは思われていなかった代物が多数含まれていた。
「武力じゃ国連に勝ち目は無いね、やらないね」
「国連は超能力者を集めて対抗するの」
「お前、相変わらず妙な新聞読んでるんだな」
「本当だって。甥のイートは、国連にさらわれそうになったんだよ。今でも逃げ回っているんだから」
「ムエタイの博打で、借金取りに追われてんだよ」
ニサッタイは軽くいなした。しかし、少しでも戦争の匂いがあるのなら、無視するわけにはいかなかった。果たして国連の盟主イギリスは、アメリカと戦うだろうか。三十年前、常任安保理事国グループ、米・英・仏・中・ソは一斉に国連を脱退し、先進国だけから成る新国連を立ち上げようと画策して失敗していた。実は言い出しっぺはイギリスだったが、脱退というのはただのポーズだった。そして、他の四大国が脱退するのを見届けるや、ただちに国連の新しい盟主として君臨したのだ。だからアメリカは今でも、イギリスを裏切り者呼ばわりしている。実際、国連領アルキペラゴには、かつてイギリスを宗主国としていた国の入植者が多い。大英帝国が新しい植民地をうまく手に入れた、といった感も無いでは無い。
夕食にチャムロン得意のトム・ヤム・クンが出た。ベースはインスタントで、何やら色々な節足動物が入っている。ニサッタイは指で一つ一つつまみ上げて分類する。
「ハシリカニバサミ……か? いや、ヒメハシリカニバサミだな。普通種だ。こっちは……コウラボシの後脚か……お前、商売物料理しちまってどうすんの」
「供養だよ。売れないからって捨てるわけにもいかないもの」
「だからって、俺に余った標本食わせるなよ」
とか何とかぶつぶつ言いながらも、マンジュメのように何でも食ってしまう、そんな罰当たりニサッタイを無視して、敬虔な仏教徒チャムロンは、まずスープに向かって合掌した。
一九六二年三月四日、トーマス・スタムフォード・ラッフルズは、灰青色に霞む小さな星を、もう十日間もモニターにキープし続けていた。それは彼が、最後に目に焼き付けておくべく選んだ星、後に彼の名を冠してラフレシアと呼ばれることになる惑星だった。ラフレシア、アルキペラゴへのスターゲート。
「多島海だって? どこからそんな名前が出てきたんだ?」
「昔からそう呼んでいたさ」
ラッフルズは記憶の底を探ってみるが、そんな覚えは無かった。しかし、ヒポカムパス鎖状星団と呼ぶより、案外いいかもしれない。
「OK、アルキペラゴだ。そうだ、私が発見したのはアルキペラゴだ。何か、急に荷物が軽くなったみたいだね」
「君がたいしたことをやってのけた事実に変わりは無い」
「ありがとう。文字通りの自画自賛だが」
エアリエル号には、後にも先にも彼以外の乗員はいない。地球まで三百光年、突然襲った光量子エンジンの半壊という絶望的状況の中でも、ラッフルズは決して取り乱すことは無かった。ただ独り言が増えただけだ。死の間近に迫った孤独な船乗りには、それぐらい許されてもいい。彼が造り上げた想像上のパートナーは、精神のバランスを維持し、有益なアドバイスを与えてくれていた。
「それでは相棒、君はどうやら少しずつ進歩しているようなので、教えてくれないか。あと私にできることは?」
「何も無いとでも?」
「我がエアリエル号は正しく地球に向かっている。私にできたのは、この軌道修正だけだった。千年後にはロンドンに着くだろう。だが食料はあと十日分しか、いや、十日分もある、と言うべきか。どうやって時間を潰せばいいのかな」
「食料ならあるじゃないか」
そう、食料はある。それはよくわかっていた。大量の、生物標本。
「ほとんどがホルマリン浸けだ。今後、生物学者はこういった事態に備えて、アルコール浸けを推奨するようになるだろう、ラッフルズの教訓として」
「ホルム・アルデヒドの中和法ぐらい、知っているくせに」
確かにそれも知っていた。ラッフルズの自問自答は続く。
「なあ、相棒。標本を全て食い尽くしたとしても、何日生きながらえることができると言うんだ。千年後に空っぽの船が地球に着いたんじゃ、私のやったことは全て無意味になるじゃないか」
「時間潰しをしたいなら、エンジンの修理を勧めるね。もう一度マニュアルを見ようよ」
「あれは退屈なんだよ。何度見てもさっぱりわからなくてね」
「長旅に持って行く本は難解な方がいい、というのが君の持論だったよ」
もし自分に不屈の魂というものがあるのなら、今囁きかけるこの相棒こそがそれなのかもしれない。ラッフルズは何度目を通したかわからないマニュアルを、再び開いた。
「だめだ。どうにもならない。ただの記号の羅列で、意味を成さないよ」
エンジンはブラックボックスの集合体であり、理解できる人間は、おそらく地球上に数人しかいないだろう。彼がどんなに過去の記憶を遡ってみても、その知識は見つからない。
「つまり相棒、こればかりは君にも無理ということだ。私に無い知識は、君にも無い」
「エンジンが、まだまがりなりにも動いていることに留意すべきだ」
「その言い方は、まるでケンブリッジ大学の指導教官だね。懐かしいベンジャミン先生にそっくりだ」
「ではベンジャミンと呼んでくれ。先生は付けなくていいよ」
ラッフルズは、この奇妙な、自己との会話に苦笑する。
「ではベンジャミン、教えてくれ。エンジンが動いていることに留意すべき、とは?」
「ブラックボックスは壊れていない。全て正常に機能している」
「なぜそう言い切れる?」
「我々がエンジンを直せる可能性は、唯一、その希望的観測にかかっているからだ」
ラッフルズは、ベンジャミンの言葉の意味をじっくりと考える。やがて彼の青い瞳に、小さな火が灯った。
光量子エンジンの原理は、さほど難しいものではない。真空に高エネルギーのガンマ線を打ち込み、物質と反物質を発生させる。これを亜光速で後方へ噴射して推力を得る。噴射された物質・反物質は一億分の一秒後、再び合体して質量ゼロの真空に戻るが、その際に発生するエネルギーを回収して、次のサイクルに使う。言わば、閉鎖型ロケットエンジンだ。理論的には、無重力空間を移動するのにエネルギーは必要としない。発進に使った分は、減速で相殺される。
ベンジャミンは有能だった。ラッフルズの心から、あらゆる記憶を掘り起こした。十年も前に図書館で開いた科学書の一ページを、写真のように鮮明によみがえらせた。とっくに忘れていた高等数学を自在に操り、応用し、発展させた。その演算能力は、驚くべきものだった。
「これほどたくさんの知識が、私の中に眠っていたのか。若い頃はみんな右から左へ聞き流していたんだ、我ながら呆れるよ。もう一度学校へ行きたくなったよ」
「もし君が私のアドバイスに、多少とも恩義を感じてくれているなら、ラッフルズ君、一つだけ私の頼みを聞いてくれないか」
忙しく工具を動かしながら、ラッフルズは、一体ベンジャミンの頼みとは誰の頼みなのか考えていた。
「いいよ、ベンジャミン、何でも言ってくれ」
「君はアルキペラゴをどうするつもりかな。地球の法律では、発見者の君に所有権があるのだが」
ラッフルズは噴き出しそうになった。
「六十もの恒星系を、私は所有する気は無いよ。大英帝国に委ねるさ」
地球は食料危機にある。アルキペラゴは今のところ唯一、農業が可能と思える貴重な星系だった。
「大英帝国が再び植民地を手に入れ、かつての栄光を取り戻すことが、君の望みではないだろう」
「何が言いたいんだ、ベンジャミン先生」
「……領主は、そこで暮らす鳥や獣達をも所有しているのだろうか?」
かつての指導教官とそっくりの、しわがれた、そしてどこか哀しみをたたえた声がラッフルズの喉から絞り出された。
「自由な命に、所有者などあってはならない。そう思わないか?」
「国連に委託するだと? 何を言ってるんだ、君は」
スピーカーから、ウィルバーフォース枢密院議長の戸惑ったような声が返ってきた。
あれから二ヶ月、エアリエル号は遂に地球周回軌道に到達していた。
「私は約束したんだ。もし無事に地球に戻れたら、アルキペラゴは国連に委託すると」
「アルキペラゴ? 約束? 一体何の話だ」
どうやらラッフルズには、カウンセリングが必要なようだ。
「すまない。きつい旅でちょっと疲れているんだ。ヒポカムパスをずっとそう呼んでいたのでね。いいだろう? そのくらいは。発見者の権利として」
「もちろんだ。君、弁護士が必要になりそうないやな話は、降りてゆっくりシャワーを浴びてからにしよう。それより宇宙旅行の楽しい話を聞かせてくれないか」
枢密院議長は、ラッフルズを子供の頃から知っている。
「ああ、素晴らしい所だよ、アルキペラゴは。生物学に革命をもたらす豊かな生態系だ。標本を早く見せたいよ」
「多少、食べてしまったがね」ベンジャミンが口を出す。
「イギリス料理のまずさが、粗食に耐える偉大な探検家を生んだ、というのは真実だね」
「ああ、調味料は、やはりサンプルに採集しておいた岩塩だけだったものな」
ラッフルズの高らかな笑い声が響いた。
「トーマス、他に誰かいるのか?」
ウィルバーフォースは不安になって聞いた。
「誰もいないよ、すまない。独り言を言う癖がついてしまって。孤独を癒す知恵さ」
「そうか、君が宇宙から、妙な女でも連れて帰ったかと心配したよ」
「私は多少、精神が不安定になってはいるが、おおむね正常だよ。まあ、奇妙に聞こえるかもしれないが、長旅の間に架空のパートナーを創り上げ、昔の先生の名を採ってベンジャミンと呼んでいたんだ。そのベンジャミンと約束したんだ、アルキペラゴは国連に委託すると。…女か、なるほど、女にすべきだったかな」再び笑い声、しかし今度は老人のそれだった。ぞっとしたウィルバーフォースは、思わず国家機密を口走っていた。
「国連は、もう無くなるんだ、トーマス」
ラッフルズの思い入れとは違って、国連というのは不思議な組織だった。世界が民主化に向かう中で、頑に独裁制を維持してきたのだ。だが国連改革が叫ばれ、アジア・アフリカ諸国が力をつけてくると、その維持が論理的に難しくなってくる。そして遂にこの年、常任安保理事国は選挙で選ばれることになった。しかしその裏で、米・英・仏・中・ソの五カ国は揃って国連を脱退し、先進国から成る、新・国連、「先進国首脳会議」を立ち上げようという密約を交わしていたのだ。その主導的役割を果たしていたのが、イギリスだった。人口百万にも満たない小国に、世界政治に口出しされるなど到底我慢できることではない。そうでなくても、宇宙からいくらでも鉱物資源のもたらされる今、発展途上国などただのお荷物ではないか。
「ウィルバーフォース枢密院議長、首相と話をさせてください」
一九六二年五月五日、アメリカとイギリスが勢いよく国連を飛び出した。フランス、ソビエト、中国もこれに続く。世界が騒然とする中、他の先進諸国も次々とこれに倣う。全てを見極めた後、イギリスは大急ぎでUターンして国連に戻り、その盟主となった。アルキペラゴの九十を超える惑星を、ラッフルズが国連に委託した事実をアメリカが知ったのは、その翌日だった。
「ここはいいなあ。俺ももう、地球を引き払おうかな」トム・ヤム・クンを食べ終えたニサッタイは、半ば本気で呟いた。松戸の築二十年の賃貸マンションの一室に固執する理由がどこに有る? 店といっても通販だけだ、どこでやってもおんなじじゃないか。
「メナムはいい星だよ。マイペンライの星だからね。でも、ランシャンファはだめ。没有の星。腹が立つだけ」
また客が来てチャムロンは出て行った。
採り子とのやりとりが聞こえてくる。
「あれ? まだ生きてるじゃない。だめだよ、採ったらすぐ殺さないと。ほら、脚が取れちゃってる。長く生かしておくと、どうしても傷がついちゃうんだよ。せっかくの珍しい虫なのに、これじゃ売れないんだよ。……しょうが無いね、逃がしてあげよう」
チャムロンは虫をそっと地面に置いた。脚の欠けた、子供の靴程のダンゴ虫は、ちょっとよたよたしながらも懸命に逃げて行く。採り子はがっかりして、手ぶらで帰って行った。採り子の姿が見えなくなるや、チャムロンは猛然とダッシュして、今逃がしてやった虫をとっ捕まえた。
ニサッタイは全て見ていた。
「お前、いい商売してるなあ」
タランチュラ・ホーク
マイアミ市、ゴールデンビーチに店を構える標本商、タランチュラ・ホーク。シンボル・マークは巨大グモと戦うベッコウバチ、その派手でキッチュな看板は、通りでよく目立つ。土産物屋と間違えて入ってくる観光客も結構多い。そんなカモを出迎えるのが、アルキペラゴ産のおどろおどろしい怪物達のはく製の列だ。社長は自分では、ちょっとした博物館のつもりなのだが、どう贔屓目に見ても見世物小屋だった。でもそんな雰囲気に呑まれるのか、ここでは一匹三十ドルのマンジュメの干物もよく売れる。もっとも、店売りは大した稼ぎにはならない。収益の大部分を占めるのは通信販売だ。その主力商品はちょっと変わっていて、バクテリアも含めた有毒生物だった。ボツリヌス菌、ゴケグモ、アリゾナサソリ、南米産ヤドクガエルに、ハワイ産スナギンチャク……。ただし、これらいわゆる「生き虫」はペット用ではない。その注文主は主に、製薬会社や大学の研究者達だ。だが昨今流行りのアルキペラゴ関連となると、惑星ウィルビウスを除いてあまり強くはない。注文があれば、他の標本商から仕入れることが多いので、どうしても割高になる。
女社長、黒髪のディアーナ、ディアーナ・A・モランテ、三十二歳。この博物学の黄金時代に、いつまでも地球に縛り付けられているわけにはいかない、うちももっとアルキペラゴに強力な足掛かりを築かねば、という思いを新たにしてアマゾンから戻ってきた。そして、マイアミ国際空港に降り立った途端、税関職員にとっつかまり、別室に連れて行かれた。そこでFBIが二人、手ぐすね引いて待っていた。
サングラスをかけた若い方が、彼女のザックをひっくり返して、中の物を机の上にぶちまけた。年嵩の方は黙って笑みを浮かべて、ディアーナの顔を見つめている。彼女は思う、私の美貌が却ってあらぬ疑いを招くのだわ。統計的に、映画に出てくる悪女は黒髪の美女が多いとかなんとか、どこかの映画評論家が言っていたような気がする。しかしやがて机の上に並べられたのは、疑われて当然の品々だった。酢酸エチル、四塩化炭素、青酸カリ、亜硫酸ガスボンベ、チクロンB。刃渡り五十センチのブラジル製山刀・テルサード。麻薬の包みを思わせる紙包みの昆虫標本、それに洗濯物の山。
「ポイズン・ウーマン……」若い方が呟く。
「ミズ・ディアーナ、アマゾンで化学戦でも?」
年嵩がうれしそうに言った。笑うと歯がきれいだった。
「昆虫採集家なら誰でも持ってる薬品よ。一体、容疑は何なの?」
現地でドイツ人標本商にもらった毒ガス・チクロンBは、誰でも持っているわけではなかったが、そういうことにしておく。若い方はテルサードを蛍光灯にかざして、興味深そうに見ている。この女がこいつを振り回すところは、きっと絵になるだろうな、と思う。
「手広く商売をやっているようだね、ミズ・ディアーナ。君はこの五年間に限っても、大量の有毒物質を他州に送っている。ボツリヌスやダイオキシン……」
「ダイオキシンなんか扱ったことはありません。ボツリヌスは精製された物ではなく、生菌よ。要するに、ただの腐った食品。国立ガン研究所のドクター・パーマーに聞いてちょうだい、彼が依頼人よ」
若い方がテルサードを置き、タバコの葉の入ったポリ袋を開けて、匂いを嗅いだ。
「残念ね、ただの安タバコよ。靴下やズボンに刷り込んで、ヒルを防ぐの。市販の忌避剤より安いし、血止めにもなる、それに、吸える」洗濯物の匂いも嗅ぐ気なら、テルサードでその首を切り落としてやる。
結局それから二時間余りネチネチやられて、ようやく解放された。連中の疑惑が完全に払拭されたとは思えないが、とにかく今は、早く帰ってシャワーを浴びたい。
その夜遅く、ようやく店に帰り着いた不幸なディアーナには、さらなる試練が待っていた。閉店時間をとっくに過ぎているのにシャッターが降りてない。ガラス戸の奥には小さな灯がともっている。いやな予感がして、彼女はバッグからテルサードを出した。
「あなた、そこで何してるの」
メリーランド大学の院生でアルバイトのロレンソが、薄暗い中にポツンと座っていた。
「ああ、社長、お帰りなさい。実はイメルダが逃げました。金を持って、標本もいくらか持って」
するとFBIに密告したのはイメルダか。アマゾンに出発する直前に給料のことでもめたのだ。気がせいていたので、つい言葉がきつくなってしまったのだが、こんなしっぺ返しを食らうとは。
ディアーナは、背中の山のような荷物を降ろすのも忘れて、しばらく呆然と立っていた。
「で、いくらやられたの?」
「七千ドルちょっと」
店は事実上、自転車操業に近い。借金こそ無いが、南米やオーストラリア、ハワイ、ウィルビウスの大勢の採り子達には、確実に送金してやらなければならない。それに加えて、バカ高い家賃、頭が痛くなってきた。
「ロレンソ、ええと、あなたの今月分のお給料だけど……」
「覚悟はできてます」
こいつが私に惚れているのが唯一の救いか。
「あ、でも、いい話もあります」
「何?」
「昨日、大英博物館から電話がありました。来月、ウィルビウスの学術調査をやるので、コーディネイトしてほしいと。アルキペラゴ十二課の主事のマクドナルド氏です。前金、もらえるといいな」
ディアーナはようやく荷物を降ろして、ロレンソからメモを受け取る。
「大丈夫よ、B・Mならお金持ちだし、支度金が出るわ。あなたのお給料分くらいは取ってあげる」
ロレンソを帰らせると、アマゾンで採ってきた標本の整理にかかる。やっとシャワーを浴びることができたのは、午前二時だった。ベッドに入っても、すぐには寝付けなかった。体は疲れきっているのに、頭は冴えている。明け方近くになって、ようやく浅い眠りについた。奇妙な夢を見る。彼女はジャングルの中を逃げていた。二人のFBIがテルサードを振りかざして追ってくる。若い方が、俺はイメルダと結婚するので金がいるんだ、と叫んでいた。
翌朝午前十時、念入りに化粧を整えたディアーナは、おそらくは盗聴されているテレビ電話の前に座る。髪はシャワーの後、わざと乾かしていない。石炭より黒いと言われるこの髪が、彼女の自慢なのだ。
モニターにマクドナルド氏の顔が映る。大抵の男達と同じく、一瞬、目を見開く。どうだ、タランチュラ・ホークがこんな美女とは思わなかっただろう。
B・Mのキュレーター、マクドナルド氏は六十代、白髪の大学教授といった貫禄だ。
「私どもでは来月の十日から二十日間、惑星ウィルビウスのラドロン山近辺で生物・地質調査を行います。国連の入山及び採集許可は既に得ています」
国連の盟主は事実上イギリスなのだから、奇妙な話だ。イギリス政府が、国連に対する影響力を失いつつある、というワシントン・ポストの社説は正しいようだ。
「船は、我が大英博物館の専用機を使います」
我が大英博物館、という言葉がやけに大きく聞こえた。マクドナルド氏は続ける。
「当方の専門家達は、雨期に入る前に調査したいということで、あの、雨期にはまだ間がありますよね」
「そうですね、ラドロン山の緯度でしたら、来月十日はまだ乾期ですが。旅をするには快適ですけど、生物は貧弱な時期ですよ。少しずらした方がよくありません?」
「いえ、当方の専門家はこの時期がよいと申しております」
「そう、まあ、乾期にしか現れない特殊な生物もいますけど…」
逆らっちゃいけない、ディアーナ、何事もスポンサー様のおっしゃる通り。
「そうですわね、雨期の調査なんて、ほんと、もう、どろどろのぐちゃぐちゃで……。で、人数の方はどれくらい?」
「あなたを含めて五名です」
最低でも二十人規模の調査隊を予想していたディアーナは、つい大きな声を出してしまった。
「五名? たったの五名? 天下のB・Mが、たった五名で学術調査ですって?」
今度はマクドナルド氏の方が、あわてて言いつくろった。
「あ、いえ、プロ中のプロを四名出しますから、それに、今回はどちらかと言うと下見でして。まあ、その、うちも最近は緊縮財政で……」
マクドナルド氏も焦ったのか、言わずもがなのことを言ってしまう。ディアーナはもっと焦った。値切られてはたまらない。ロレンソの給料はともかく、家賃分だけでもふんだくらないと。
「おそらくポーターを十人程度、雇うことになります。ポンドでもドルでも結構です。日当は一人一日五ドルから十ドル、これは何もしない日でも拘束料として払ってもらいます。トラックを借りるので、ええと、たぶん一日十ドル前後かな、それと全員の食費、細かいところは現地に行ってみないとわかりませんね、ウィルビウスもかなりのインフレですから」ここで髪を思いきり後ろへ振る。
「で、私のギャラですが、できればドルで……」
「ミス・ディアーナ、こちらとしては、あなたには一日三百ドルで」
「三百五十! 」思わずモニターに顔をくっつけて叫んでしまった。きっと妖怪ゴルゴンのように見えたに違いない。ハイ・スクール時代はそのあだ名で呼ばれていたのだ。
「よろしいでしょう。では三百五十ドルで」
何だ、この余裕。しまった、もっと吹っかけるんだったか。
マクドナルド氏は笑みを浮かべているが、そのこめかみには汗が一筋流れている。
「それでは契約書を送りますので、サインをお願いします。それが済みましたら、ただちにあなたのギャランティー全額を振り込みます」
二通の書類がプリンターから出てくる。ディアーナはざっと目を通してサインし、一通に口座番号を書き込んで送り返す。十分後、銀行から入金を知らせるメールが来た。七千ドル。それでは、悪魔との契約書をよく読んでみるか。
…このエクスペディションで得られた標本及び全ての情報は大英博物館(以下B・Mと略す)に帰属するものとする。発見された事実に関して論文、報告書等を公開する際は、必ず事前にB・Mの許可を得ること。
不慮の事故、病気、死亡に関しては、その損害賠償責任をB・Mに請求することを一切放棄すること……。
さて、この仕事を受けることを、FBIは愛国心の欠如とみなすだろうか?
ケープ・ケネディ空港からシャトルで三十分、メトロガイア軌道駅で、待機していたB・Mの探検船プリンス・チャールズ号に乗り込む。小さいがいい船だ。スミソニアンのは戦艦を改造したものだが、これはどうやら特注らしい。ライム・グリーンに黒のストライプ、銀色のユニオン・ジャックをあしらった楔形の船体、武装は巧妙に隠され、あくまでアカデミックな雰囲気を醸し出している。
長身の男がエア・ロックでディアーナを出迎えた。
「ミス・ダイアナ?」
「ディアーナよ」
「リッグスだ。荷物をこちらに」
三十台後半、髪を短く刈り込み、ガラスのような目をしていた。調査隊員ではなさそうだ、護衛の兵士だろうか。ディアーナはそう思って聞いた。
「いや、これでも学芸員だ。君の部屋へ案内しよう、こっちだ」
彼女のバッグを肩に担ぐと、あまり無駄口をきかないタイプらしく、大股で先を歩いていく。彼女にあてがわれたのは素晴らしい部屋だった。高級ホテルのシングルと変わらない上に、標本製作用の広いデスクとシンク、有毒ガス用のドラフト・チャムバーまであった。ワープ時冷却装置もヘルメットではなく、最新の二十光年保証・全身収容型だ。いつも格安チケットのサマルカンド号で旅をしている身には、プロの学者が本当に羨ましく思えた。いつの日かロレンソが出世したら、スミソニアンの探検船に潜り込ませてもらおう。
ディアーナはホテルに泊まった時の癖で、あっちの引き出しこっちの棚と、開けられる所は全て開けて覗いていく。リッグスはドアの所で辛抱強く待っていたが、とうとう、うんざりしたように言った。
「家捜しが済んだら、一緒に来てくれないか。他の連中を紹介したい」
これまた学芸員とは思えない三人の男が、バーでカードをしていた。
ネヴィル・ブランド、地質担当だそうで、なるほど、上背はそれほどでもないが、岩石のような体格をしている。さぞやたくさんのサンプルを担げるだろう。
アラン・モロー、メンバーの中で一番若い。細身の敏捷そうな男、植物とメカの担当。
ウィル・チャップマン、顔色の悪い、ぶよぶよに太った四十代の男。ニット帽をかぶっているが、間違い無くハゲだ。ディアーナを見ると、彼女のスリー・サイズを計るように、上から下までゆっくりと視線を這わせる。こいつがメディカル・ドクターだ、絶対に病気にならないようにしなければ。汚物から目を背けるようにして彼女が言った。
「それでミスター・リッグス、あなたの御専門は?」
「俺は雑用係だ。時々ハンティングに加わる」
「ディアーナ、ドクが抜けるから、君が入ってリッグスと組めよ」アランがブリッジに誘った。
「わしは、抜けるなどとは言っておらん」チャップマンが言う。
「ドクはテレパスなんだ」ネヴィルがディアーナに腹立たしそうに言った。
「わしはテレパスではない。それにお前らの手など、テレパシーなど無くとも丸見えだわい」
ディアーナはブリッジは下手だ。というより、カードゲームは全て下手だ。もろに顔に出るし、かっとなると暴走するしで、ロレンソでさえ彼女とは組みたがらない。三十を過ぎてからは、少しは自分自身を理解できるようになったので、カードで金を賭けることは無くなった。
「遠慮しとくわ。それにもう、ワープするんじゃないの?」
雑用係のはずのリッグスが命令口調で言う。
「そうだ、部屋に戻って冷却ポッドに入れ。あと十五分だ」
その言葉とほぼ同時に、パイロットからアナウンスが流れた。 「十五分後に突っ込むぞ。しっかりゴムを被せとけよ」
とても大英博物館のパイロットとは思えない。どこかの国の海兵隊なみの下品さだった。
ディアーナはポッドに横たわり、あの奇妙な学芸員達について考えた。B・Mが時として使う、ケンジントン・パイレーツと呼ばれる荒っぽい連中の噂はよく耳にしていた。かなり強引な探検と採集をやるので有名だったが、それなりの自然科学の知識を持った、言わば過激な冒険家集団といったものだ。だが、これから一緒に旅をする連中は、そんなロマンチストなどでは決してない。彼らは兵士だ。彼らの狩るのは人間だ。私は軍事顧問団か何かの手先として、利用されているのだろうか?
たかが家賃のために、慌ててはした金に飛びついてしまったことを、ディアーナは少し後悔した。
ウィルビウス
ヴィジャ・バルボはラドロン山から三百キロの所にある、人口五百人程の村だ。食料とポーターを集められる規模の村は、この先には無い。リッグスはもっとラドロン山の近くの村にシャトルを着けたがったが、ディアーナは頑として聞き入れなかった。小さな村に大金を落とすと、それまでの秩序を破壊し滅ぼしてしまうことがよく有るのだ。
「タランチュラの姐さん、久し振り」
村の広場にシャトルが着陸すると、金物屋のホセが出迎えてくれた。五十代の快活な男で、村長とICPOの駐在員の、二足のわらじだ。ディアーナの後からタラップを降りてくる男達を見ると、ちょっと顔をしかめる。迷彩服の四人、内三人がサブマシンガンを手にしていた。ディアーナは早口でホセに説明した。
「あいつらの狙いはよくわからないの。あくまでB・Mの学芸員と言うなら、そういうことにしといて」
「あのての連中なら、扱い方はわかってるよ。ラドロン山で迷子にならなきゃいいがな」
ホセは笑って、集まっている村人の中から一人の若者を呼び、何やら耳打ちした。若者はすぐに群集の中に戻り、仲間を三人連れてくると、シャトルから荷物を降ろし始める。ホセがディアーナに小声で言った。
「あれはリコだ。体はちっこいが、若い連中のリーダーだ。奴にまかせとけばいい。あまりしゃべらんのが難点だが」
このあたりで「おしゃべり」というのがどれ程すさまじいものか、ディアーナは知っている。あまりしゃべらない、というのは世界標準ではどのレベルなのだろう。
二トントラックが土煙をあげてやって来た。運転手が何か叫んでいる。
「ラジエターに穴があいてんだ、俺はここへ来るまでに十回も川で水汲みしなくちゃなんなかった、従兄弟のエンリケにやっとこさ借りたんだ、あの野郎、来月はこのボロで爆弾池へ釣りに行くから、それまでに絶対返せって、あんな水たまりで何が釣れるって言ったら、クジラぐれえのナマズがいるって、そいつを荷台に積んで帰るんだって、おめえ、ニキータとはどうなったって聞いたら、あのアマ、いつの間にか腹が大きくなって、俺だとしたら計算が合わねえって、おめえ計算できるのか、バカ言え、俺は大学に行こうと思ったこともある、ってそりゃ思うだけなら俺だって思えるさって…」
広場に山積みされた荷物が仕分けされていく。奇妙な機械や、明らかに武器とわかるものもあったが、リコは表情も変えず、よけいな質問もしない。荷物が均等な重さの十個に分けられると、はじめてリコが口を開いた。
「ロペス、ホアン、エミリオ……」
名前を呼ばれた男達は喜んで自分の荷物を選び、パッキングしていく。ディアーナは背負い子を用意していたが、何人かは普段使い慣れた背負いかごを持って来ていた。あぶれた連中がぶつぶつ言っていたが、リコは平然と無視する。ホセは頼もしそうにリコの仕事を見て、言った。
「一人一日五ドルやってくれるか」
「ドルでいいなら十払うわ、大英帝国だもの。あと、炊事と洗濯係が欲しい」
「料理ならマチルダがうまい」
ディアーナはちょっと考える。彼女の覚えているマチルダは、二十七、八の後家だった。だめだ、色っぽすぎる。トラブルの元だ。
「マリアがいい。荷物は持たなくても、日当は皆と同じよ」
マリアは四十過ぎの女で、七人の子供がいる。
出発は明日早朝ということに決まった。六時に集合としておけば、九時には全員集合するという読みだ。荷物が荷台に放り込まれ、幌がかけられる。ラジエターを見ていたアランが言った。
「一人三十キロ程だ。少し軽すぎやしないか。前にネパールで雇った連中は、女でも五十キロは担いだぜ」
ディアーナは意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「山に入ればわかるわ。せいぜい、迷子にならないように、ついて来てね」
翌朝、出発は八時だった。これは奇跡に近い。リコがよほどしっかりした連中を選んだのだろう。それでもリッグスは不満顔だったが。
次の村で一泊して、その翌日は案の定ラジエターがいかれた。アランとネヴィルがぶつくさ言いながら修理する。騙し騙し走って、ラドロン山麓に着いたのは出発から四日目の夕方だった。テントを設営しながら、リッグスは不機嫌さを隠さない。トラックの荷台で揺られているだけの連中に日当を払うのがいやなのだろうか、と最初ディアーナはピントのはずれたことを考えた。自分の財布から出すわけじゃないだろうに。だがようやく彼女も気が付いた。自分は完全にこの土地のペースに順応していたのだ、しかし時間厳守に慣れた兵隊さん達には、お気の毒、きっと耐え難いことなのだ。ディアーナはアマゾン以来の解放された気分だった。それに何といっても、ここにはFBIもCIAもいないのだ。
マリアのいれてくれたお茶を飲みながら、ディアーナは夕暮れの中に暗緑色に沈むラドロン山を見つめる。標高二千三百、裾野の広い、台形の山だ。この惑星ウィルビウスで、特に変わった山というのでもない。だが四人の男達は何か特別の任務を帯びている。それが昆虫採集でないことだけは確かだった。
この星に最初に入植したのは、エメラルドの鉱脈を探す山師達だったと言われている。ディアーナはそれはたぶん、本当だと思う。迷信深い山師達を、文字どおりのエメラルド・フォレストが呼び寄せたのだ。あらゆる木々の葉が金緑色に輝き、風が吹く度、木の葉は大気中に宝石をまき散らすように舞い落ちる。
「きれいだ」
ネヴィルが、その岩石のような無骨な風貌にはおよそ似合わない言葉を呟き、その金属の破片のような葉を、何枚かポケットにしまい込んだ。ディアーナもかつては何度もそうしたことがあった。だが二、三日もすると葉は輝きを失い、茶色く萎れてしまう。その美しさを保存する方法が無いとわかってからは、彼女はそれを、ただ目に焼きつけるだけにしている。
午前八時。ポーター達が出発して二十分が過ぎた。そろそろ腰をあげないと。ディアーナは黒髪を後ろで縛り、テルサードを握る。背中には水と最小限の採集道具を担ぐ。マリアは焚き火で沸かした湯の残りを魔法瓶に入れている。
「さあ、出発! 」ディアーナは景気よく、大声を上げた。サブ・マシンガンを持ち、迷彩服を着た男達は苦笑しながら立ち上がった。ディアーナは派手な黄色のシャツを着ている。黒髪を際立たせる意味もあったが、遭難した時、ひょっとして死んだ時、早く発見してもらいたいからだ。それに、ハンターに間違って撃たれたくない。迷彩服は野鳥の観察か、戦争に行く時か、あるいは安全な都会でのファッションだ。
潅木の間の快適なハイキングは長くは続かない。やがて目の前に高さ二メートルのバリケードのような板塀が現れた。その表面に血管のような脈が走る。これは異様に発達した板根だ。ディアーナはそこに刻まれたテルサードの古い傷痕を読み取り、方角を知る。塀に沿って右に歩き、低くなった所をよじ登り、越える。すぐに次の板根が立ち塞がる。今度はV字に曲がっている。左にとっていくと、木の梯子がかけてある。それを登って向こう側へ飛び下り、次の背丈程のに取っ付く。その下は板で囲まれた小さな池、塀の上を歩いて避ける。降りて、次を登る。こんなことを十数回繰り返し、この左危険、という印の付いた塀の上に立って後ろを振り返った。三人が悪態をつきながらもついてきている。板根で視界を遮られる度に、ディアーナの姿が消えるので怒っているようだ。ぶよぶよのチャップマンが、銃を持たない軽装にも拘らず、やはり遅れていた。魔法瓶を持ったマリアが笑いながら、背中を押してやっていた。彼女に任せておけば大丈夫だろう。リッグスがディアーナの足元に這い上がってきた。アラン、ネヴィルが後に続く。リッグスが言った。
「ディアーナ、こいつは、一体、何なんだ!」
ディアーナは横の方を指差した。百メートル程向こうに一本の木があった。板根は全て、その木の根元から発していた。学名ヌマ・スマラグディヌス、その幼木で樹高およそ百メートル、幹はガジュマルに似て何本もの曲がりくねる蔓を束ね、その頂点でバラソルのように水平に張り出している。葉は樹冠にしか無かった。ディアーナが言った。
「森、というのは、つまり木がたくさんある所ね。私達がこれから行く所はヌマの森よ。樹高三百から五百メートル、ホワイト・ハウスの敷地がすっぽり入る程の太さのが密集しているの。樹冠も一層ではなく、何層もある」そこまで言ってアランに微笑む。「どう、おもしろいでしょ」
植物が専門という触れ込みの男は、ただ黙って首を振っただけだった。チャップマンがようやく追い付いた。マリアが魔法瓶のお茶を飲ませてやる。リッグスは、もはや時間厳守は不可能であることを悟った。
キャノピーが空に斑を描く。斑は次第に大きくなり、やがてキャノピー同士のせめぎ合いが起こる。その接する所に僅かに空間が生まれ、光の網目模様となる。まるで海の底を歩いているようだった。頭上は金緑色のミラーボールを敷き詰めたように美しく輝いているのに、誰もそれを見る余裕は無くなっている。ディアーナでさえ、次第に高く、大きくなっていく目の前の壁を乗り越えるのに必死だった。板根は分岐し、曲がり、絡み合い、メビウスの輪のような複雑な空間を形作っていく。蔓が蛇のようにのたうち、ディアーナは悪態をつきながらテルサードを振るう。ジムで鍛えてはいるが、私ももう年か、と思う。後ろの男達の荒い息遣いが聞こえる。彼らの疲労は、精神的なものであることがディアーナにはわかっていた。閉ざされた視界と、土地感を持たない者の不安だ。彼らは体力的には遥かに彼女にまさっている。だがこの優位をゆずってはならない。がんばれ、おばさん。
上から見れば、傾斜した迷路を行くネズミ、いやテントウムシぐらいかな、とディアーナは思った。こいつらをここに置き去りにしてやったら、どうなるだろうと楽しい想像をする。軌道上の船を使って位置と方角は分かっても、トラックまで辿り着けるかどうか。直接シャトルを降ろそうったって、何とか滑走路に使えそうな平坦地までは二百キロだ、ぷぷっ。
この先危険、の印がまたあった。簡単に越えられそうなのに、彼女が大回りして行くのに気付いたネヴィルが言った。
「あんた、さっきもこの印の所、迂回した、何があるんだ?」
リッグスが聞いた。
「何か、俺達に見せたくない物でもあるのか?」
ディアーナは本当は口もききたくなかったが、教えてやる。
「あれはね、ガンシップの印。ガンシップというのはね…」
「知ってる」アランが口を挟んだ。ディアーナはちょっと驚いて彼の顔を見た。
「対ゲリラ用の攻撃機だ。成層圏から、釘のような弾丸を、何万とジャングルに打ち込む」
ディアーナは、ああ、そういうことなのかと合点がいった。
「そう、それは知らなかったわ。この辺の人達がアルマ・バルコとかガン・シップと呼んでいるのは、ある種の木のこと。乾期になると、てっぺんから、種をまき散らすの。風が吹いたり、誰かが触ったり、ちょっとした刺激でね。両端の尖った、硬い種。当たると、死ぬこともある」
リッグスは興味を覚えたようだ。彼は言った。
「この辺の連中、本物のガン・シップを知ってるんだな。だから、そう呼ぶんだな」
「そうかもね、昔、地主とやり合ったとか、それで、地主が傭兵を雇ったとか、聞いてるわ」
ディアーナは適当に答えた。男達の狙いがそれなら、情報は与えたくない。彼女の知っている村人の大半がゲリラに関わっているからだ。だがリッグスは他人事のように言った。
「こんな所で、ゲリラ戦はやりたくないな」
案外、本音かもしれない。
遠くで雷鳴が鳴り響いた。ネヴィルが不審そうに言った。
「雨になるのか?」
ディアーナは一転、楽しそうに言う。
「木の倒れる音だわ。年を取って自然に倒れるの。騒がしい地球じゃ、まず聞けないわ」
先行して休んでいるポーター達の姿が見えた。さあ、休憩だ。さすがのデイアーナもほっとした。ここでマリアとチャップマンを待とう。リコが近付いてきて、心配そうに聞いた。
「ドクは?」
「マリアが付いてる。心配無いわ」
「迎えに行ってくる。」リコはそう言うと、骨董物の小銃を持って小走りに駆け下りていった。ドクの身を案じているだけではなさそうな緊張が、見て取れた。
ポーター達も不安そうにしている。彼らがおしゃべりをしないというのは不思議な光景だった。ディアーナがわけを尋ねると、一人が言った。
「オンサを見た」
オンサ
「オンサって何だ」
リッグスはもう、学芸員の振りをするのを諦めたらしい。B・Mの人間なら、知らないはずの無いことだったからだ。
オンサは惑星ウィルビウス最大の肉食獣だ。体長四メートル余り、そして体長とほぼ同じ長さの、平たい、蛇のような尾を持つ。全体ヒヨケザルに似るが、頭部はヒョウのよう、サーベル・タイガーを思わせる二本の剃刀のような牙が生えている。
[耳朶ハ無イ。四肢ハソレゾレノ先端ニ六本ノ鋭イ鈎爪ヲ具エル。首ノ横ヨリ尾ノ中程マデ達スル皮膜ヲ持チ、樹間ヲ滑空スル。体表ハ無毛デ、通常ハ流紋斑ヲ装オウ。極メテ稀]
変温動物で、僅かの軟骨以外に骨格を持たない。そのため陸のタコと呼ぶ学者もいるほど柔軟で擬態能力に優れている。一瞬で色を変え、体全体に自在に突起物を生じさせる。標本は幼獣が一体、B・Mにあるだけだ。
土地の者はオンサを、悪魔のように恐れている。狡猾で、決して罠にはかからず、銃で撃たれても死なないとか、あるいは、夜中に家に忍び込み、子供をさらっていくとか。
ディアーナは写真でしかオンサを見たことはない。ある生態写真家が半年もかけて撮影したもので、ナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾った。それは肉食獣の例に違わず、美しく、魅力的な生き物だった。もっとも、トラと同じで、いくら美しくても動物園以外で出会いたくはなかったが。
ディアーナの話を聞いて、兵士達の目の色が変わった。ようやく得意の仕事にありつけるわけだ。
三十分ほどして、マリアがリコの小銃と荷物、魔法瓶を持って到着した。そして笑って言った。
「あの医者はだめだよ。リコには特別手当てを出してやっとくれな」
リコが登ってきた。おそらくは百キロを超えているチャップマンを背負っていた。荷物を放り出すようにチャップマンを降ろすと、その場に座り込んで荒い息をする。ディアーナは手帳を取り出して、マリアとリコの特別手当てをメモした。リッグスは渋い顔で言った。
「ディアーナ、これからはドクのペースに合わせろ。それから、ポーターをあまり先に行かせるな。一緒にいた方がいい」そしてネヴィルに「ドクに付いてろ。倒れたら、お前が担げ」
ディアーナは、ネヴィルには特別手当ては必要無いと思うので、メモはしない。
マリアが砂糖をたっぷり入れたコーヒーをチャップマンに飲ませた。血糖値が上がり、少し元気を取り戻したようだ。ぶつぶつ言い始めた。
「こんな、ひどい所だとは、聞いてなかった。しかも、猛獣がいるっていうじゃないか」
彼のおかげでひどくのんびりとした行軍が始まった。武装した兵士が護衛してくれる上に、何度も休んでおしゃべりができるのでポーター達は喜んでいる。ディアーナは採集し、景色を楽しむ。また雷鳴が轟く。上空、キャノピーの中を、流線形の黒い影がいくつも横切った。水面下の魚の群れのようだ。いや、こちらが水底にいて、水面を見上げているのだ。チャップマンが怯えて言った。
「今のは何だ、オンサなのか?」
「あれはエーゲリア、草食性よ。オンサと同じように皮膜を持ってるの。分類学上は同じ科になってる。肉が必要になったらリコに頼んで撃ってもらうわ。私も食べたことがあるけど、結構いけるわ」
ディアーナは吸虫管で小さな虫を採り、毒瓶に入れた。虫はちょっとの間、たくさんの足をばたばたさせ、もがいて死んだ。チャップマンがそれをじっと見て、にやっと笑い、そして言った。
「ミス・ディアーナ、殺しは好きか」
「え?」
「殺しをやるのは、商売のためだけじゃないだろう。殺しが好きだからだ」
「私が好きなのは狩りよ。殺しじゃない」
「狩りと殺しは同じじゃないか」
ディアーナは違うと思う。それはこの商売に足を踏み入れて以来、何度も自問自答を繰り返してきた問題でもあった。だがそのことをチャップマンのような男と議論したくはなかった。彼から離れるように足早に進む。ネヴィルがチャップマンに付き添っている。彼はこんなのを担ぎたくないと思っていた。倒れるなら、いっそそのまま死んでくれた方がありがたい、とその顔に書いてあった。
四日かかって標高千六百まで辿り着く。幸か不幸かチャップマンは倒れなかったが、山頂までこのペースだとあと三日はかかるだろう。ディアーナはそれでもよかった。期間延長となれば、その分を思いきりB・Mに吹っ掛けてやろうと思っていた。
アランが何か採ったらしく、リッグスに見せてひそひそやっている。なぜ、私に見せないのだろう。普通種だからって、馬鹿にしたりはしないのに。
夕食の後、リッグスが妙なことを言い出した。
「みんな御苦労だった。正直、これほどきついとは思わなかったよ」
苦笑いを浮かべてチャップマンをちらっと見る。
「予定をかなりオーバーしている。プリンス・チャールズ号には次のスケジュールが入っているので、俺の一存で期間を延ばすことはできない。そこでチームを二つに分けようと思う」ここで言葉を切って、
「明日の朝から、ディアーナ、君はリコとマリアを連れて山頂方面の調査をしてくれ。もちろん君のセンスで、好きな場所を選んでくれていい。残りのポーターは帰ってもらう。ああ、賃金は約束の期間の分、ちゃんと払うしボーナスも付けるから。我々イギリス隊は中腹をやる。ドクの体力のことがあるしな」
ディアーナはあっけにとられていた。ポーターはともかく、採集のプロのこの私にまでどこかよそへ行けとは、何という言い種だ。これまで見てきた限り、イギリス隊に何かが採集できるとは思えない。だが怒っているのはディアーナだけだった。ポーター達は笑っている。リコが言った。
「こいつら、墜落した宇宙船を探しにきたんだ」
リッグスの表情が凍り付いた。他のポーター達も口々に言い始めた。
「半年前にこの先に落ちたんだ」
「ありゃ地球の物じゃない」
「空飛ぶ円盤だ。エイリアンが乗ってたんだ」
「あんたら、エイリアンを捕まえに来たんだろ」
「オンサが食っちまったさ」
リッグスが一旦口を開きかけ、そして閉じた。どうやら図星だったらしい。ディアーナはおかしくてたまらない。彼女は言った。
「みんな、落ちた場所知ってるの?」
再び一斉に喋り出す。空中分解したのか、場所は何ケ所かあって、それぞれ正確に知っているようだった。ディアーナは言った。
「じゃあ、ポーターには全員残ってもらう。チームを分ける必要なんて無いわ。あなた達も食事を作ってもらえる方がいいでしょ。もちろん私も残る。四人だけで苦労するより、みんなに手伝ってもらうべきよ。国家機密か何だか知らないけれど、そう、まず成果を上げてからの話だわ」
リッグスはしばらく黙っていたが、かなり無理に笑顔を作って言った。
「わかった。そうしよう」
頭のいい男だった。それに学者でもないのに学術調査の体裁を装うのに、いいかげん、うんざりしていた。このことは秘密にするように、と言いかけて馬鹿馬鹿しくなってやめた。この連中の口にチャックが無いのは、もうよくわかっていた。
キャンプの周囲に赤外線が張り巡らされた。オンサが赤外線を見える可能性も考えて、テグスも張った。音響センサーがあちこちに仕掛けられ、二基のレーダーが設置される。チャップマンを除く三人が、ノクトヴィジョンを着けて交代で見張りに立つ。いろいろ持ってきてるんだ、とディアーナは変に感心する。ポーター達が鍋をがんがん叩き始めた。こうすればオンサが近付かないのだと言う。リッグスが怒ってやめさせた。ディアーナも、こればかりはリッグスに一票を入れる。
周りは堅固なヌマの板根に囲まれ、ビニルシートを被せれば簡単に小屋ができる。ポーター達は森に入って以来、そうやって寝泊まりしている。キャンプしやすいことこの上無い土地なのだが、空を覆うキャノピーに押しつぶされそうで、慣れない人間は閉所恐怖症になりかねない。ディアーナは板根に一つ、穴を開けてやろうとテルサードを振るってみる。近道を作ろうというわけだ。まず正面から打ち込んで跳ね返された。少し斜めに打つと表皮が削れ、黄色味を帯びた木質部が現れた。これはいけそうだと、立続けに何度もテルサードを叩き込む。木屑と汗が飛び散り、この原始的な作業に次第に夢中になる。気が付くとチャップマンがすぐ後ろでにやにやしていた。ディアーナは彼がニット帽をかぶっていないのを初めて見た。スキン・ヘッドに丸い斑点がいくつもあった。入れ墨かと思ったらケーブル端子だとわかって、彼女は思わず後じさった。チャップマンはスーツケース程の大きさの機械を地面に置くと、そこからコードを次々と自分の頭に差し込んでいく。
「これは脳波を増幅するブースターだ。電話と同じ原理だよ。ネヴィルはわしがテレパスだと思って側に寄りたがらんが、そんなものじゃない。受けた脳波を、わしは自分の脳で元のイメージに変換するんだ。実に単純なことだが、あの脳みそ筋肉男には理解できん」
チャップマンはそう言いながら、複雑な配線を手慣れた調子で繋いでいく。ディアーナは気持ちが悪いと思いながらも、ちょっと尊敬する。彼女は未だに、一人ではパソコンと周辺機器をまともに繋げない。
「ほら、これで脳波を受信するんだ」
チャップマンは衛星放送用のような小型のパラボラ・アンテナを広げ、それをディアーナに向けて言った。
「ミス・ディアーナ、君はどんなセッ……」
テルサードが一条の光線のように水平に走り、チャップマンの首が血のシュプールを引いて宙を飛んだ。
チャップマンはその場にへなへなと膝を突いた。元々血色の悪い顔からさらに血の気が引き、息をするのも忘れて目を剥いている。ディアーナはなるほど、これはおもしろい、今度アンテナを私に向けたらどんなイメージを送ってやろうか、ゴルゴンの目で石に変えるのはどうだろう、などと考える。幸い、チャップマンが彼女にアンテナを向けることは、二度と無かった。
翌日から宇宙船探しが始まった。小銃と空カゴしか持たないリコはまるで飛ぶように走るため、ディアーナは何度も「もっとゆっくり!」と叫ばねばならなかった。リッグスは相変わらず遅れるチャップマンを、リコに背負わせようかと本気で考える。重しを付けておかねば、あの若者は風船のように飛んでっちまう。
墜落現場らしき場所に近付く。板根が大きく半円形に抉り取られ、その周囲が焦げていた。その前に立つと、その先の板根の全てに同じ痕があるのが見通せた。水平に近い角度で突っ込んだようだ。アランが地雷探知機のような機械を焦げ痕に当てる。それから首を振って言った。
「こいつは違う。ボーイング社のマグネシウム合金だ」
リッグスは別に落胆するでもなく、リコに言う。
「では次だ。次の場所へ案内してくれ」
一同ぞろぞろと引き返していく途中、座り込んでいるチャップマンと、彼の機械を担いでむすっとしているネヴィルに出会う。チャップマンが情け無さそうに言った。
「違ったのか? せっかくここまで来たのに戻るのか? なあ、わしはネヴィルとここにいるから、見つけたらその小僧を寄越してくれんか」
ネヴィルが言う。
「そうしよう。だが俺はみんなと一緒に行く」
小僧と言われて怒ったのか、リコも珍しく憎まれ口をきいた。
「呼びにきてやるよ、じいさん、オンサに気を付けてな」
オンサというのが利いたのだろう、チャップマンは渋々立ち上がった。
次の場所も違った。アランが何枚かの金属片を見つけて投げ捨てる。リコが拾ってディアーナに見せてくれた。焼け焦げた中に、赤い模様がある。鱗のある動物、おそらくは龍の絵の一部だ。リコはそれを背中のカゴに放り込んだ。
その次の場所、今度は当たりのようだ。焦げた板根に囲まれた小さなクレーターに、アランが慎重に下りていく。ディアーナもちょっとわくわくした。エイリアンの死体があるのだろうか。それともまだ生きていて、どこかからこっちを見ているのだろうか。交渉可能な相手だといいな、もしエイリアンにも標本商がいれば、色々おもしろい物を仕入れられるだろうな。
アランが上がってきた。指先ほどの金属の小片をいくつか、針金を何本かと、ウレタン状の軽そうな塊を回収している。その表情はどこか不審そうだ。彼は考えながら言った。
「本体は、信じられないが、炭酸カルシウムが基本成分だ。資源探査衛星にかからなかったのはそのせいだな。金属はごくわずかだ。大方蒸発したか、最初から無かったか」
「最初から無いとは?」リッグスが聞いた。
「主に有機系の材料を使ってたってことだよ。地球でも研究してるけど、金属より優れた面もある」
ディアーナはそっとリコの顔を窺う。リコがそれに気付いてウィンクした。さっきリコが金属片を背負いカゴに入れた時、もしやと思ったのだ。墜落があってから、彼らは一体何度ぐらい金属を採りにここに足を運んだのだろう。
死にそうな顔をしてチャップマンが到着した。とりあえず水を飲ませて、一息つかせる。
「ドク、あんたの出番だ」リッグスが言う。
チャップマンは座ったまま、頭にコードを差し込んでいく。けだるそうに立ち上がるとパラボラ・アンテナを開き、周囲をざっと探査する。テルサードを握ったディアーナの所にくると、ちょっとアンテナを上にそらせた。機械を調整し、コードをこめかみの別のコンセントに差し込む。そのうち、アンテナの動きが止まった。ディアーナは、まるで野鳥観察家だな、と思った。
「いたぞ」チャップマンが遂に言った。兵士達が緊張してアンテナの向いている方を見つめる。サブ・マシンガンの安全装置がはずされ、銃弾が薬室に送られるガシャッという音が大きく響いた。ディアーナは、チャップマンの口の端から涎が垂れているのを見た。これが正常な状態なのかどうか、彼女には判断がつかない。エイリアンが異常な思考を送ってきたらー─ディアーナがしたようにー─彼はそれを防ぐことができるのだろうか。
チャップマンが夢遊病者のように歩き出した。コードがいっぱいに伸び、地面に置かれた機械が引き摺られる。ネヴィルが気付き、慌てて機械を持ち上げてついて行く。突然チャップマンが駆け出した。これにはネヴィルも意表を突かれた。コードが抜け、機械が地面に落ちる。チャップマンは頭に残ったコードを振りながら走って行く。アンテナを投げ捨て、板根に飛びつくと一気に越えて姿を消した。
「ドクを追え! このままだと死んじまうぞ! 」
リッグスが叫んだ。アランとネヴィルが板根に取り付き、必死に登ろうとしているその上をリコが鳥のように越えて行った。ディアーナはすぐに追うのを諦めた。チャップマンは心臓が止まるまで走り続けるだろう、それを止められるのはリコしかいない。彼女は板根の高い所に立って、二人を探した。二百メートル程先で取っ組み合っているのが見えた。リコがチャップマンに馬乗りになって押さえ付けた。チャップマンは何とか這い出そうとしている。リコがディアーナに前方の木を指差して叫んだ。その木には板根が無かった。ヌマではない。
「セニョリータ! アルマ・バルコ! ガン・シップ!」
その瞬間、チャップマンはリコを撥ね除け、ガン・シップに向かって突進した。リコはもう追わなかった。板根の陰に飛び込んで身を隠した。チャップマンが木に体当たりをする。ディアーナは飛び下りて板根にぴったりと身を寄せた。遥か上空で破裂音がした。リッグス、アラン、ネヴィルは戦場でと同じように、決して音の方を見ること無く反射的にその場に伏せた。空気を切り裂くかん高い音と共に、無数の釘が降り注いだ。ハンマーを叩きつけるような音、地面にめり込む鈍い不気味な音が、永遠に続くかと思われた。
ディアーナはそっと顔を上げた。手と足を見る。血は出ていない。全身に神経を集中するが痛みは無かった。回りを見ると板根にも地面にも、小さな棒杭が立っている。一ヘーベ当たり五本から六本といったところで、比較的小規模な方だった。
「大丈夫か、みんな」リッグスが大声で呼んだ。頬から血が流れていた。アランとネヴィルが立ち上がる。ディアーナはもう一度板根の上に登ってチャップマンを見た。ガン・シップの根元にうつ伏せに倒れている。リコが駆け寄っていった。ディアーナは、もう死んだだろうと思ってゆっくり近付く。もう少し親切にしてやってもよかった、と少し後悔していたら、リコが「生きてる!」と叫んだ。ディアーナは心の中で、チャップマンにか自分自身にかはよくわからないが、くそったれ、と悪態をついた。
種子は親木から離れた所に播かれる。生態学上の当然の結果とはいえ、跳弾にも当たらずチャップマンが全く無傷だったのは悪運の強さ以外の何物でもない。だがおそらく一生分の運動をしてしまったのだろう、筋肉が動かなくなっていた。
「ドク、何があったんだ、エイリアンを見たのか?」リッグスが聞く。
「エイリアンじゃないんだ、わしは、だまされた。あれは、オンサだ。このわしを、笑いおった」
チャツプマンはそれだけ言うと、気を失った。ディアーナは奇妙な気配を感じた。霊感などというものとはおよそ縁は無かったが、彼女はごく自然に数歩離れたヌマの木に目をやった。そこにオンサがいて、こちらを見ているのがわかった。幹の一部が、これから子供を生もうとするように膨らんでゆく。それは茶褐色から鮮やかな金緑色に変化し、やがて流れるようなオレンジのストライプが走った。ディアーナが、それが彼女がいつも、ナショナル・ジォグラフィック誌で見ていた写真と同じ色、同じポーズなのに気付くとオンサが笑った。幹を蹴って空中に躍ると、全身を虹の七色に変化させながらキャノピーの中に消えていった。
その夜、リッグスは船に連絡して山を下りることを伝えた。
ディアーナは妙に寝つけず、テントから出て暗い空を見上げる。キャノピーの隙間に、僅かに星が瞬いている。オンサがすぐ近くにいるのをはっきりと感じる。風が吹き、潮の匂いと波の音が聞こえてきた。いつの間にか空は明るくなり、光の網が躍っていた。彼女はオンサと一緒に珊瑚礁の海を泳いでいた。一匹のサメが二人の横をすり抜けていく。ディアーナはオンサに教えてやる。
「今のはサメよ。強いけど頭はあまりよくないわ」
「ここは水の中なのか?」
「そう、海といって、大きな大きな湖なの」
「下にあるのは花か?」
「いいえ、珊瑚といって、あれでも動物よ。あの甲羅を持ったのはウミガメ、素早く動くのは魚の仲間、たくさんの種類がいるわ」
オンサはディアーナと並んで泳ぎながら、好奇心一杯の目で海の世界を見ていた。
「オンサ、あなたの世界を教えて」
次の瞬間、ディアーナはイルカのように海面に飛び出した。金緑色の飛沫が飛び、彼女は紺碧の空の中にいた。目の下は無限に続くエメラルドの森。キャノピーにオンサの影が落ちると、何千という数のエーゲリアがトビウオのように飛び出し、逃げていく。二人がキャノピーにダイブし、次の層が現れる。ここでもパニックが起こる。あらゆる生き物が狂ったように逃げ惑う。さらに下の層へ。ガン・シップを蹴って爆発させ、再び空へ舞い上がる。ディアーナはまるでシャチだと思った。途端、オンサの背面は黒くなり、白斑が現れる。ディアーナがそのセンスを誉めると、オンサは空を震わせる鷹のような雄叫びを上げた。その声の届く限りのキャノピーが恐怖に駆られる生き物で泡立っていく。オンサ、彼こそはレックス・シルヴァヌス、ヌマの森の王だ。
「タランチュラ・ホーク、狩りは好きか」
「ええ、大好き!」
「俺もだ!」
ヴィジャ・バルボの広場、リコがディアーナの手帳を見ながら、ポーター達に日当を渡していく。チャップマンを交代で背負って降ろした三人とマリア、それに彼自身にボーナスを付ける。リコの分配なら誰も文句は言わないだろう。ディアーナは金物屋のホセに諸経費を払いに行く。
「タランチュラの姐さん、商売になったのかい?」
「まあ、私はね。連中はちょっと気の毒だったけど」
「今頃行ったって、いい物は何も残ってないやね」
ホセは意味深な笑顔を浮かべると、店の奥からフライパンを持って来た。
「こいつはどうだい、あんたも料理はするんだろ」
ディアーナは銀色に光るフライパンを手にとってみる。この材料がどこから来たか、聞くまでもなかった。
「ねえ、これでテルサードは造れない?」
「全然切れないよ。だがフライパンにすると最高だ」
ディアーナは大と小の二つを買った。本当は料理はあまり得意ではなかったけれど、帰ったらこのエイリアンのフライパンで、少しは練習してみるかと思った。
アイジャマ
チャムロンが止めるのも聞かず、ニサッタイがランシャンファへやって来たのは、この星では国連よりも中国政府の影響の方が強いと思ったからだ。国連が全ての船の運行を押さえようとしても、中華系の航空会社は従わないだろう。そう思って、ニサッタイは何度も西星路航空の事務所へ足を運んだのだが、どうにも埒があかなかった。ラダマンテス行きは「没有」の一点張り、理由も何も教えてはくれない。こんな星に沈澱するつもりは無かったのに、結局あきらめて宿を探すことになってしまった。すでにかなりの忍耐力を消耗しているが、実はこれからがもっと大変なのだ。時間は午後三時を回ったところ、気温は四十度、じきにスコールがやって来そうだった。
「だーかーらー、漫画読んでないで仕事しろよ。客が来てんだぞ!」
「私は休憩している。この時間の担当は私ではない」
七軒目の宿、サンマオ飯店。ニサッタイの怒りの声などどこ吹く風、フロント係はくるっと椅子を回して横を向き、漫画に戻ると、もうロダンの彫刻のように動かない。
「だったら担当を呼べ! それくらいできるだろ!」
考える人は動かない。ニサッタイは最後の切り札を出すことにした。以前は結構、効力のあったおまじないだが、今も効くかはわからない。
「貴様、党の上層部に訴えてやる」
タイミング良く外で稲光が走り、雷鳴が轟く。実に劇的ではあったが、この宿に蹴られたら雨の中を駆け回る羽目になる。
フロント係の横顔が、青白く光の中に浮かび上がった。ちょっと怖かった。
「ミーリン!」フロント係が、雷よりも大きな声で叫んだ。漫画を床に叩き付けて立ち上がると、大股に奥の部屋へ向かう。男と女の、中国語での凄まじい怒鳴り合いが聞こえてきた。やがて髪を後ろでひっつめた、仏頂面の小女が出てきてニサッタイを睨みつける。こいつが担当のミーリンちゃんか、どんな漢字をあてるのか、俺の想像どおりなら、それ、絶対に犯罪だぞ。
「多人房」
「没有」
ねえよー、と聞こえる。
「五人房」
「没有」
「四人房」
「没有」
「三人房」
「没有」
「二人房」
「没有」
「一人房」
「…有」
シングルなら空いてますと、なぜ最初に言えないのだろう、情けなくて涙が出そうになる。ニサッタイはここまでで、もう精も根も尽き果てた思いがした。本国では既に市場経済の導入が進んでいるというのに、ここでは先祖帰りしてしまっている。
午後六時、スコールの通り過ぎた後のサウナのような水蒸気の中、あちこちの屋台に灯がともり始める。惑星ランシャンファは、そこの住民はともかく、食い物のうまさでは定評があった。もっとも、素材についてはあまり追及しない方がいい。羊頭狗肉は、アルキペラゴではシャレにもならない。
ニサッタイは漢方薬店を覗いて回った。珍しい物があれば買ってもいいと思ったが、大した物は無かった。マレー産のトビトカゲや、タイのトッケー、蝉の子なんかがどの店にも並んでいる。マンジュメの干物を、不老長寿の霊薬として売っている店まである。
「お兄さん、お兄さん、おい、おい」
薄暗い路地の奥から、若い女が声をかけてきた。二十ワットの裸電球が照らす柔らかい光の中に、アラビアンナイトの挿絵みたいな派手な女がいた。足首を絞ったふかふかの青いズボン、先のとんがった小さな銀色の靴。白のTシャツの上に金糸の刺繍の入った薄紫のチョッキ、腰にはピンクのショール。鳶色の髪をオレンジの絹のスカーフで包み、首からはジャラジャラと安物のプラスチックのネックレスを何本もぶら下げている。占い師かと思ったら、シシカバブの屋台だった。
「お兄さん、昼間、空港事務所で暴れてただろ」
「暴れてなんかいないよ、人違いだ」
「ラダマンテス行きに乗せろって、暴れてたじゃない。方法が無いことも無いよ」
親指で肩越しに、後ろのブロック塀に貼られたポスターを指す。
未知との遭遇ツアー
惑星ラダマンテスでエイリアンと会おう。
一人350$ 人数が定員に達ししだい締め切ります。
天海旅遊社ランシャンファ事務局
「シシカバ食べない?」
よく見ると、二十代前半のウィグルの娘だ。民族衣装を纏ったかなりの美人だった。ただ、緑色がかった灰色の大きな瞳には、どこか豹を思わせるものがあった。
「一本いくらだ」ニサッタイは縁台に腰を下ろした。
「日本円なら百。ドルなら一、チェンピーなら四百。人民元なら……」
そう言ってから、ちょっと周りを見回し、小声で「お兄さん、両替するか?」右手の親指と人差し指をこすり合わせる。全宇宙共通、お馴染みの闇両替のジェスチャー。意外に指が短いのが、何かおかしかった。
「しない。それよりこのシシカバ、ボり過ぎだろう。小指の先くらいのが、一、二、三、……七つ、一串七つ、どうせ羊じゃねえし……マンジュメか?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。羊も山椒も本物だよ。しかもちゃんと石炭を使って焼いてるのは、アルキペラゴじゃうちだけだよ」
そう言えば、どこか懐かしい匂いがすると思ったのは、石炭だったのか。
「まず一本、味見させろ。うまかったらあと十本買ってやる」
娘は渋い顔をしたが、ここで餌をけちって、寄って来たカモに逃げられるわけにはいかなかった。すでに焼き上げて鉄網の隅に置いてあった一串を差し出した。
「うん、まあまあだ。ビールくれ」
娘はポスターの貼られた上海有限公司の塀に凭れて、呆れたようにニサッタイを見つめる。チョッキの内ポケットからタバコを取り出して火を点けると、薄暮の空に向かって煙を吹き上げた。
「あたしはムスリムだよ。飲みたきゃその辺の酒屋で買ってきな」
どうせこの俺が仏教徒だというのと同じくらいの意味だろう、ニサッタイはそう確信して席を起つ。その背中に娘が言う。
「十本焼いとくからね、ちゃんと戻って来いよ」
「逃げやしないって。ラダマンテスの話も聞きたいしな」
酒屋は大方閉まっていた。ようやく、客が来るのに気付いて慌ててシャッターを下ろそうとした、どじな国営友誼商店に飛び込む。力較べのようにしてシャッターをこじ開け、強引にビール二本を手に入れた。閉店時間を過ぎているのに店を閉めていなかったのは、どうせ居眠りをしていたか、漫画でも読んでいたのだろう。まったく公務員て奴らは仕事をしようとしねえ。
戻ると別の客が来ていた。トルコ帽をかぶった、ミスター・スポックそっくりの爺さんだ。ニサッタイの抱えるビールに気付くと、じっと視線を注いで離さなかった。
「あたしの爺ちゃん。飲まさないでね」
両手の短い指の間に、器用に四本ずつ鉄串を挟んで回転させながら、娘が煩わしそうに言った。
老人の目がビールに釘付けになっている。ニサッタイは、つい言ってしまった。
「一杯どうすか」
「ちっ」娘があからさまに舌打ちをした。老人は破顔一笑、ニサッタイの手から一壜ひったくると、歯で簡単に栓を開けてラッパ飲みする。ニサッタイは娘の方をちらっと見るが、栓抜きもコップも出してくれそうにない。老人は「ぷはーっ」と泡を吹き、ニサッタイから残りの一本をもぎ取る。頑丈な歯でこれも開けると、「ほら」と言ってよこした。
「これはわしの孫のアイジャマだ。美人だろ」
「え、ああ、ほんと、お美しいですね」
孫娘、アイジャマがウィグル語で何か毒づく。
「孫は大学を出とるんだ。兄さん、あんたの名は?」
「俺、僕はニサッタイといいます。そうですか、お孫さんは大学を出てらっしゃる、いやー、まさに才色兼備ですなあ、へっへっへっ」
悪徳商人を永くやっていると、こんな台詞が自然に出る。
アイジャマが夜空を仰いで、首を振った。
「シシカバできたよ、ニサッタイ。爺ちゃん、もう帰りな」
「大学といっても、アルキペラゴのインチキ大学じゃないぞ」
この老人はおそらく毎晩のように、こうやって客に孫の自慢をしているのだろう。
「地球の、アメリカの、まさっちゅ大学の、工学部だ。知っとるか。有名な大学だ」
「はいはい、有名ですね。まさっちゅ…大…工…マママ、マサチューセツ工科大学ぅ?」
アイジャマが鼻から煙を吐き出す。ニサッタイは思わず素っ頓狂な声をあげた。
「お前、MIT出て、シシカバ焼いてんのか!」
「爺ちゃん、早く帰れよ。酒の匂いさせてると、また婆ちゃんにおん出されるよ」
老人は動かない。アイジャマはため息をつく。
「孫は天才なんだ。だからタダで入学できた。給料までもらっておった」
「奨学金」アイジャマが訂正する。
「孫には特別な力があるんだ。三歳でコーランを全部読めたんだ。誰も教えとりゃせんのにだぞ。こいつは生まれつき、どこの国のどんな時代の文字も読めるんだ」
ニサッタイはビールを飲みながら、そんな人間の話を前にも聞いたな、と思う。
「ニサッタイ、あんた、何か、本とか手紙とか持っとらんか。こいつに見せてみろ、何でも全部読めるから」
ニサッタイは常にフィールド・ノートを持ち歩いている。ちょっとおもしろそうなので、手品でも見せてもらうつもりで、軽い気持ちでノートを出した。それはこの先一生悔やむことになる、墓掘りニサッタイ一世一代の大ドジであったが。
「日本語だよ。ひどい字で、本人にも読めないことがある」
爺さんはうれしそうに、ノートを開いて孫の顔の前に突き出した。アイジャマは「またか」と言った顔でそれを取り上げると、パラパラとめくった。そして、ぷっと噴き出す。
「爺ちゃん、こいつ、詐欺師だよ。薬にもならない虫の干物売りつけて稼いでるんだ」
ニサッタイはちょっとどきっとした。しかし、いくら何でも詐欺師はないだろう。
「返せ」
「これおもしろい。お兄さん、結構、ユニークな人生じゃないか」
(うるせえ、お前みたいな小娘に、俺の傷だらけの人生の何がわかるか!)
「シンタちゃん、嫁にもらいなよ」
「返せ!」
取り返そうとするニサッタイの手を器用に躱し、アイジャマはノートを読み続ける。緑色の目が光を帯びていた。やがてノートを閉じてニサッタイに返すと、言った。
「〝墓掘り〟ニサッタイ、一緒にラダマンテスへ行こう。ロンポバッタンの謎の、答を見せてやるよ」
インジェク文書
翌朝、サンマオ飯店のロビーにアイジャマがいた。足を組み、銜えタバコをふかしながら中国語のスポーツ新聞を読んでいる。おそらく自分でアレンジした民族衣装なのだろう、ちょっと行儀は悪いが、ニサッタイはグッピーのようだと思った。
テーブルの上に、ツアーのポスターの束があった。
「おはよう、アイジャマ」
「おはよう、ニサッタイ。サイテーの宿だね」
フロント係がジロッと睨む。
「どこか、うまいコーヒー飲める所、知らないか」
「没有」
「やめてくれよ。夢にまで見ちまった。何億って中国人が、メイヨーッて叫びながら俺を袋だたきにするんだ」
「悪どい商売やってるから、そんな夢見るんだね」
闇両替のシシカバ屋に言われたくはなかった。
アイジャマは立ち上がると、ポスターを勝手に壁に貼り始める。フロント係が「こら、そんな物貼るな」とカウンターから出てきた。アイジャマの眼が、蛇のように冷たく光った。
「いいから、マンガ読んでろ、服務員」
フロント係が一瞬棒立ちになる。眼に膜がかかり、口を半開きにすると、回れ右してカウンターの中に戻っていった。
「北星公路にコロンビア人のやってる喫茶店がある。そこへ行くか」
その店は小さかったが、客はよく入っていた。アイジャマはさっそくポスターを壁に貼る。店の主人は知り合いらしく、にやにやしている。
「で、ラダマンテスで何があるんだ?」席に着くと、ニサッタイがきりだした。アイジャマは短い指で、今貼ったポスターを指して言った。
「ここに書いてある通りだよ。エイリアンに遭える」
「お前な、人のこと、詐欺師って言えねえぞ。こういうのはな、みいんな同じこと考えるんだよ。サルにエイリアンの着ぐるみ被せてな、酒でも飲ませてバナナで釣りゃあ、遠目にはそりゃおもしろ……もちろん俺はしないが。やめとけ、悪いことは言わない、爺ちゃんが泣くよ」
アイジャマは軽蔑するようにニサッタイを見る。
「まったく、自分の器でしか人を計れない男だねえ、あんたも」
タバコを取り出し、火を点けると言った。
「あたしは、エイリアンの書き残した物をこの眼で見た」
周りの客が、一斉にこちらを見た。
アイジャマは昨年までMITのメディア・ラボで、地球上の古代から近代までの全言語をデータ・ベース化するというプロジェクトに携わっていた。彼女の言語能力は、奇妙なテレパシーの力を借りなくても十分に天才だったのだ。どの国のどんな言語でも、日常会話程度なら三日でマスターできる。世界中から集まった天才達との仕事は楽しかったが、唯一つ彼女にとって苦痛だったのは、部屋が禁煙だったことだった。周囲の非難のまなざしにも関わらず、頻繁に抜け出しては外のベンチでプカプカやっていた。
「研究は順調ですか」
ギリシャ人の留学生、アンドレアスが節度のある距離を置いて、隣に腰かけた。大柄で、常に礼儀正しい男だ。彼は古代ミュケナイの線文字の研究をしている。アイジャマは以前に彼のラボを手伝ったことがあった。アンドレアスが、クレタ島の粘土版文書の中にアキレウスという文字をみつけて狂喜していた時だった。実はアイジャマは、文字の正確な発音よりも、その意味するところが強く頭に飛び込んでくるのだ。彼女は、そのアキレウスが神話とは何の関係もない、ごく平凡な市民であることをアンドレアスに教えてやった。その文字を書いた人物が、英雄アキレウスの名をつけられた男をどう見ていたかがわかったのだ。
「ええ、順調ですよ。部屋でたばこを吸わせてくれたら、もっと効率が上がるんだけど」
たばこを吸わないアンドレアスは苦笑する。
「うちのラボは禁煙ではありません。気晴らしをしたくなったら、いつでも遊びに来てくださいよ。それに、あなたに手伝ってもらいたい厄介な代物が、またでてきましたから」
アイジャマは横目でそっと、アンドレアスの表情を窺う。穏やかな微笑を浮かべているが、この男にはどこか信用できない所があった。書かれた文字ならどんなものでも読めるアイジャマも、人の心は読めない。ごくわずかな筋肉や瞳孔の動きで、人や動物、時には植物の心まで読める者がいるのをアイジャマは知っている。だが彼女にはその能力は無かった。
「そのうちお邪魔しに行きます。厄介な代物って何ですか?」
「トルコの洞窟で見つかった、奇妙な絵文字です。いえ、僕は絵文字だと思うんだが、何かの小動物の這った跡だという人もいて、まだ公表はしていません」
トルコ系ウィグルのアイジャマは、少し心が動いた。しかしアンドレアスは、もうそれ以上その話題を続けなかった。
「あなた方が今造っているデータ・ベースが完成すると、人類の祖語が解明されるそうですね。本当ですか?」
「どうだか。祖語というものがあれば、の話ですから。カラハリのコイ・サン族の言葉がそうだと言う学者もいますけど」
アイジャマはたばこを携帯灰皿に入れると立ち上がった。アンドレアスも腰を上げると言った。
「僕はこの週末も、ずっとラボにいますから、きっと来てくださいね。うちの教授は、かなりいいバイト料を切ってくれますからね、待ってますよ」
フィッシングなら、中々のものだと思った。トルコの洞窟、絵文字、そしてバイト代。悔しいが自分がこの餌に食いつくのは、わかっていた。
二日後、古代インド・アーリア言語研究部の、埃の舞う資料室。ここはアイジャマにとって、あまり気持ちのいい部屋ではなかった。壁に貼られた拓本や、そこら中に広げられた古文書が、一斉に彼女に向かって叫んでくるのだ。そのほとんどが、トランス状態にある狂人と、デモニッシュな執念に取り憑かれた異常者の声だった。現代人とのその感性の隔たりに、彼女はショックを受け、慣れることができない。
白衣を着た男女が大勢、それぞれの仕事をしている。タバコを吸っている者は一人もいなかった。シンナーのような何か揮発性の薬品の匂いがしたが、委細構わず、アイジャマはタバコに火を点けた。近くで作業していた若い女性の研究員が、眉をしかめて彼女を見る。アイジャマが豹の目で睨み返すと、女はおもしろいくらいうろたえて、目をそらせた。
「お待たせしました。これが例のブツです」
アンドレアスが一辺五十センチ程の木箱を抱えてやって来た。かなり重そうで、デスクの上にそっと置くのに一苦労する。中には箱の大きさにカットされた、石灰岩の板が紙に包まれて入っていた。
アイジャマは無造作に紙を開き、絵文字を一瞥する。名刺程の大きさの、黄色いラベルが貼ってある。
401126 インジェク文書
トゥルンタシュ・ケイブ
インジェク アンカラ トルコ
12 Feb 1989 ジョン・レドモンド
アンドレアスは微笑を浮かべたまま、彼女を見ている。
乾いた赤土と苔、古い植物の根がこびりついた中に、幾つもの円や楕円が重なったへたくそなト音記号のようなものが刻まれている。いや、果たして刻まれたものなのか、石灰岩中の鉱物成分によって偶然に描かれた文様か、何とも判別しがたい代物だった。崖に造られたイワツバメの巣を引き剥がせば、こんな痕が残るかもしれない。
およそ十分、石板を見つめていたアイジャマが大きくため息をついた。顔色が少し青ざめていた。右手のタバコは灰になり、フィルターを焦がして消えていた。
「ごめんなさい。あたしにはわからない。何も伝わってこないの」
アンドレアスに落胆の様子は無かった。
「そうですか。するとやっぱり、動物の這った跡、生痕化石かもしれませんね。あわてて発表しないでよかった」
車で送るというのを断って、アイジャマは歩いて下宿に帰った。はやく一人になりたかったのだ。恐ろしく興奮していたので、風に当たって熱を冷ましたかったのだ。
「あれはレプリカだったよ」
「レプリカじゃ読めない?」
アイジャマの能力は確かにこの眼で見ていたので、つい話に引き込まれてしまったニサッタイが聞いた。
アイジャマはちょっと考える。
「そんなこともないけどね、ただダビングが繰り返されていたら、読み取りにくくなる。手で書き写したとしたら、その書き写した人間の心しか読めない。そいつが何も知らないならどうしようもない。それと印刷物は難しい」
そう言いながら悪戯っぽく笑う。
「手書きのラベルが付いてた。まっ先にそいつの心がわかった」
周りの客が聞き耳を立てているのに気付きながら、声を落とそうともしない。これも客寄せの一環なのだろう。
コーヒーが来た。アイジャマが推薦するだけあって、さすがにいい香りがした。
「つまり、ラベルには嘘が書いてあった?」
「書いた奴はガチガチの武闘派だね。国家安全保障局の役人だよ」
NSAと聞いて、ニサッタイはちょっと引いた。商売に役立ちそうなネタが欲しかっただけだ。いやな予感がしてきた。アイジャマは続ける。
「インジェク文書なんてお笑い種だ。わざわざ根っこや土を着けて偽装してたけど、あれのオリジナルはね、地球の物じゃない。ネペンテスだよ。ラベルがそう叫んでたんだよ」
ネペンテスならニサッタイも行ったことがある。洞窟だらけの星だ。トルコではなくネペンテスの洞窟か。いかにもありそうな話だ。
「で、肝心の絵文字は? 観光客の落書きだったなんて言うなよ」
「NSAがそんなもの、後生大事に保管すると思ってるのかね、この兄さんは」
ニサッタイはコーヒーを啜る。味がよくわからなくなった。NSAは怖い。
「間違いなく、エイリアンの書いた物だったよ」
ニサッタイはそっと店内を見回す。きっとこのバカ女は、これまでも所構わず大声で、こんなことをしゃべり散らかしてきたのだ。仮に話が本当だとしたら、不用心なんてもんじゃない。目付きの悪い男がこちらを窺っているような気配がした。懐に盗聴マイクとブラック・ジャックを忍ばせて。どこだ、どこにいる、あいつか? コーヒーを飲む振りをして、上目遣いにこちらを見ている悪党ヅラ。あ、窓ガラスに映った俺だ。
アイジャマは下宿で一人になると、座禅を組んで精神統一を図る。異教徒のやり方だったので、他人にも家族にも言ったことは無い。だが彼女はそのやり方に習熟している。
あの絵文字から飛び込んできた声は、レプリカとは思えない程リアルだった。おそらくオリジナルからそのまま型を取ったのだ。あまりにも異質で、人間の尺度で考えるなら、矛盾としか言いようのない異次元の思考だった。
アイジャマは十歳の時、ほんの軽い気持ちでコンピューターソフトの声を聞こうとしたことがある。その時、作成者の自己満足的な自意識と共に、この世の物ではない異様な叫びを聞いてパニックになり、以来、二度と試みることはなかった。
今日、ラボで、久々にあの時の恐怖を思い出した。だがもう十歳の子供ではない。恐怖はコントロールできる。この絵文字の作者はコンピューターに似ていたが、ちゃんと感情を持っている。ただ奇妙なのは、彼らが社会生活を営みながら、他者にはほとんど関心を持っていないということだった。
ある心理学者は言っている。猿の知能の発達を促した原因は群れ社会にあると。群れの中での駆け引きと計算、敵が味方になり、味方が敵になる。友情と裏切り。嫌いな奴でもそいつが強ければおべっかを使い、病気にでもなって弱くなればみんなで叩きのめす。この複雑で浅ましい計算こそが、人類の知能を発達させたのだと。実際、単独で生きる者にとって、世界はシンプルだ。敵か味方か、食えるか食えないか。それはストレスとは無縁の無人島の生活だ。そして、このエイリアンは、無人島生活者の群れなのだ。彼らにとって世界は、敵か、どうでもいいものか、の二種類しかない。
「で、絵文字の意味は」
「地図。アルキペラゴの地図。そして時間。時間と距離が、たぶん一つの観念に融合してるから、あんな妙な絵になるんだね」
アイジャマの緑色の瞳が、ニサッタイをまっすぐ見つめていた。
「惑星ラダマンテス。エリュシオン高原。今日から十二日後の日没」
「そうか、ずいぶん急だなあ。あ、俺? その日は無理。法事があるんだ。俺、これでもブディストで、寺の息子だから」
勘弁してくれ、俺は虫を採りたかっただけなんだ。NSAやらCIAやらが封鎖している所へのこのこ顔を出してそんなこと言っても、たぶん、撃たれるね。
「ニサッタイ、あんたも行くんだよ」
「いやだ」
「もうアメリカも国連も、絵文字の謎は解いてる。あたしのような人間は他にいくらもいる」
「だから何なんだよ。そいつらに任せとけばいいじゃねえか。何で俺が、そんなややこしい所へ行かなくちゃならねんだ」
チャムロンが、ラダマンテスで戦争が起こると言っていたのは、あながち嘘じゃなかったんだ。
「ね、運命ってもの、感じない? あんたはこれといった理由も無くラダマンテスに行きたがってた。自分でもそれがなぜかよくわからなかったのね。ところがあたしと出会って大いなる秘密に触れ、自分の本当の役割を理解したの」
「してません。勝手に安っぽいラノベ造るなよ。俺は単に商売になりそうなネタを掴んで…あ、これは内緒」
「知ってるよ、ノート見たから」
「ぐ」
「あんなネタじゃ、まず無理だって。ねえ、お兄さんは推理だけでエイリアンの存在に辿り着くことができた、それはほんと大したもんだわ。ここまで来たら商売気抜きで動こうとは思わない?」
「わては、アキンドだす」
「アキンドにも意地っちゅうもんがおまっしゃろ!」
アイジャマがテーブルをドンッと叩いて関西弁で叫んだ。何なんだ、この女の語学力は。
「エイリアンとの交渉を、大国に秘密裏にやらせておいていいと思ってんの? 彼らの技術を独占させてもいいの? あたしがツアーを組んでるのは、できるだけ大勢の人にこのことを伝えるためなんだよ!」
こいつの目は危ない。睨みつけられたサンマオ飯店のフロント係の様子は、どう見ても普通じゃなかった。もしかして催眠術かもしれないので、ニサッタイは必死に目をそらす。
「へへ、行くったって、船が出ない。ラダマンテス行きは、全部止められてるね」
よっしゃ、掛かった! カモは自分から網に飛び込んだ。
会心の笑みを浮かべた罠師アイジャマが、短い人差し指を天井に向ける。
「軌道駅に、サマルカンド号がいる」
「サマルカンド号!」
モンスーンの船なら、国連だろうがアメリカだろうが中国だろうが、誰の指図も受けないのは確かだった。これで逃げ道は断たれたか? 頭の中で、液晶表示の不吉な赤い文字がせわしなく点滅している。
〝警告、警告、キャッチセールス〟
「金が無い」
「二割引きにしてやる」
「会話の流れからすると、金なんかいらない、じゃないのか?」
「それは、いや」
式部邸
茨城県水戸市、天気のよい日曜日。南方大学教授で付属自然史博物館・アルキペラゴ生物部長の式部仁三郎は、いつものように午前五時に起床、近所を軽くジョギングしながら、あちこちの家の縁の下を覗いて行く。シロアリの害が無いのを確認すると、安心して4LDKの家に戻り、庭で四股を踏んでから朝食にかかる。式部はこれでも、高校時代は相撲部だったのだ。もっとも、大昔に地区大会の二回戦に進んだことがある、式部自身もたまに勝つことがある、といった程度の弱小相撲部である。それでもただひとつ、式部が一生の宝物としている思い出がある。それは先頃関脇で引退した養老山と、地区大会の初戦で当たったことだった。軍配がかえって0・6秒でコロンと投げられたのだが、これは式部にとって、現在持っている八つの博士号よりも大切な勲章であった。
「田中君はね、養老山関はまだ田中君だったんだよ、その田中君はね、僕が左前みつを取りに行くと、こう、ぱっとタイを開いてね、僕の肩越しにマワシを掴み、見事な上手投げ一閃。僕は遂にこらえきれず土俵に落ちたんだ」
納豆をかき混ぜながら式部が話すのを、黙って聞いていた愛妻タエちゃんは、小さく、ふぅーっ、とため息をついた。もう何度も聞いてるしぃ、0・6秒だしぃ、というわけではない。彼女はこの話を聞くのが大好きだった。いつも手に汗握るのだ。ため息は単に彼女の癖だった。
通称、ため息タエちゃん、二十七歳。慶応大学文学部を優秀な成績で卒業した才媛、式部程ではないが小太りで、もっさりしていて、眼の下には生まれつきうっすらと隈がある。要するにタヌキに似ている。そして、悲しくても楽しくてもため息をつく。この癖のために、学生時代のボーイフレンド達は混乱し、彼女の元を去って行った。話が盛り上がったと思ったら、タエちゃんの、この世の終わりのようなため息を聞かされるのだから無理もない。何度も治そうとしたのだが、我慢すればする程その後のため息は大きくなる。ふぅーっ、私はこの器量だし、もう一生独身、負け犬人生まっしぐらなのだわ、と思い定めた時、式部仁三郎と運命の出会いをしたのだった。
大学四年の夏、教育実習で小学校の生徒達を連れて、南方博物館へ行った時だった。案内してくれていた学芸員が、急に声を潜めて彼女に言った。
「あなた、ついてる。今日はめったに見られない珍しいものを見ることができる」
そしてホールの隅を指差した。そこには煤けた信楽焼のタヌキがあった。いや、よく見ると膨らんだバットマンだった。バットマンの仮面を着けた式部だった。
「本物の天才というものを、見たことがありますか? 彼がそうです。こわがらなくてもいい。話しかけてごらんなさい。あの式部仁三郎と話をしたと、孫子の代まで語りぐさになりますよ」
タエちゃんは、飼育係に促されて珍獣に餌をやりに行く子供のように、おずおずと式部に近付いていった。
あの時、どんな話をしたのか、実はタエちゃんの記憶は定かではない。ほんの一言二言話しただけで、大きなブラックホールに吸い込まれてしまったのだ。そして闇の中で途方に暮れていると、どこからか優しい声が彼女を包み込んで、こう言っていたように思う。
「なあんにも気にすることはありません」
「またお隣の縁の下、覗いたのですか? あの奥さん、警察に通報しかねませんよ」ふぅーっ。
「僕は学生の頃、シロアリ退治のアルバイトをしたことがあるんだ」
「ニサッタイさんと一緒にでしょ」はぁーーーっ。
ニサッタイという単語の後にでるため息は本物だ。つまり本来の意味のため息である。だいたい式部家の御曹司である夫には、アルバイトの必要など無かったはずだ。どうせあのニサッタイに、たぶらかされたのに決まっている。どうせあのニサッタイに、バイト代を巻き上げられたのに決まっている。あのニサッタイ……、披露宴で酔っぱらって大声で『おーっ、タヌキみてえな嫁だなあ!』と叫んだあのニサッタイ。ふぅーーっ。
「来週からアルキペラゴに行ってくるよ」
「あのニサッタイ、さん、とですか?」ほぉーっ。
「いや、国連の依頼なんだ。交通費も出るよ」
「国連ですか。あら、トレンチコート、クリーニングに出したままでした。忘れずにとってこなくちゃ」
「トレンチコートはいらない。あれ、暑かったよ。カサブランカは今回はやめよう。涼しそうなところで、チャールトン・ヘストンはどうかなあ、猿の惑星の」
「あれ、衣装とは言いませんよ。それにあなたが着たら、どう見てもフリント・ストーンのジョン・グッドマンですよ」ふぅーっ。
「そうかぁー、そうだよなぁー。うーむ」
「ダイ・ハードはどうでしょう」
「ランニングシャツ? 僕が着ると裸の大将に見えない?」
「国連の人達は、裸の大将を知らないと思いますよ」ふぅーっ。
「うーむ」
はぁーっ。
ふぅーっ。
トップ・ガン
ナリタ基地勤務、四角い顔の航空自衛官、教習隊・佐々木国康三等空佐。視力四・〇。
上官から極秘裏に、アルキペラゴへ行け、と言われた時、佐々木は嬉しさで顔の輪郭がくずれそうになるのを、歯を食いしばって懸命に堪えた。ごつい顎に筋肉が盛り上がった。
「ミノス星系第三惑星・ラダマンテスで、国連軍の旗艦コンドルカンキ号の護衛に当たってもらう。艦長のバイコフは、加藤か君のどちらかを出して欲しいと言ってきたのだが、加藤は新婚早々であるし」
航空自衛隊では独り者と家族持ちとでは、全く扱いが異なる。飛行中、機が操縦不能になった場合、脱出する前に人家の密集地を避けて、何としても海に向かわなければならない。墜落ぎりぎりまでのこの努力の時間が、それぞれに明文化された数字で定められているのだ。そして佐々木は、人家に突っ込むくらいなら、脱出せずに死を選ぶ男だった。
「コンドルカンキ号の護衛ですか。喜んで受けます。ただ、私はてっきり米軍だと」
日本は今でも国連に所属している。と同時にアメリカとも安全保障条約を結んでいる。三十年前、アメリカに続いてフランスが国連脱退を表明した時、何の情報も持っていなかった日本政府は大いに慌てた。記者の質問に時の内閣総理大臣は、こう答えた。
「えー、今後につきましてはー、我が国といたしましてはー、諸外国の対応を見た上でー、決めたいとー……」
あれほど常任理事国入りを望んでいた国家の、この情けない言葉は、世界中に失笑で迎えられた。日本は、いまだに大人について行く十二歳の子供の国だったと。カートゥーンでは、日本はコウモリ呼ばわり。そうなると、もうコウモリはコウモリなりに開き直るしかなく、正々堂々、あっちに付きこっちに付きで今日に至っている。
上官が言う。
「有事においては、我々は日米安保条約の規定に従い、米第七艦隊の指揮下に入る。しかし、今は有事ではない。君は国連軍に派遣された航空自衛官として、国連の指示に従ってもらいたい」
ミノス星系近辺では、アメリカと国連との間で緊張が高まっている、という情報がかなり以前から入っている。
「もし、米軍と戦うことになった場合は?」
「上官の命令に従う。それだけだ。なお、コンドルカンキには国連事務総長も同乗されるが、軍の指揮系統には影響は無い」
何か言いたそうな佐々木を遮って、上官が言った。
「のう、佐々木。日本はコウモリじゃ。国がそういう生き方を選んだ以上、わしらは命張って、コウモリの生き方を、全うさせなならんのじゃ」
すると、俺は捨て駒だ。戦国時代に、家を残すために敵味方に分かれた一族のようなものだ。
「ところで、お前、南方大学の式部教授と知り合いなんか?」
上官の口から、意外な人物の名前が出た。
「は、はい。学会で何度かお目にかかったことがあります。それが何か?」
「コンドルカンキ号に乗船しておられる。お前が来ると聞いて、えらい喜んどられたそうじゃ」
式部先生が国連の船に。一体なぜ。ラダマンテスで何があるのだ?疑問はいくらでも湧いてきたが、佐々木三等空佐の成すべきことは唯一つしかない。彼は腹を括った。俺の任務は、敵が誰であっても命を賭けて式部先生を守ることだ。
上官が、佐々木の肩を叩いて笑顔で言った。
「戦争にはならんよ。時間があったら、向こうで虫採りでもしとってええけんの」
国連
国連というのは、実に奇妙な存在だ。
かつて人は、世界はやがて一つになり、世界連邦といったものができると信じていた。なぜなら人類は絶え間なく進歩するのだから。しかし第二次大戦後、植民地からの独立国を除いても、国家はアメーバが分裂するように増え続け、今や三百を超えようかという勢いだ。世界連邦への布石であったはずの国連さえもが、アルキペラゴという豊かな土地を手に入れてからは、一大覇権主義国家の観を呈していた。
一九七三年九月、国連憲章はこっそりと国連憲法と改められた。アラビア語を六番目の公用語にするという改正のどさくさに、であった。国家とは何か。それを定義するものこそが憲法である。その真意に気付いた法学者達が危惧を表明したが、世間的には注目されることはなかった。そんなわけで、イギリスには現在事実上、二つの政府があり、かなり複雑な政治闘争を繰り広げている。
〈概要〉 首都・ロンドン。多くのNGOがここに事務局を置く、が、名前だけである。第二のケイマン諸島と言われている。
人口、六千万くらい(一九九〇年現在)。国土面積、ざっと見積もって七百億平方キロくらい。
国連人、すなわち無給の国連職員には、よほどの犯罪歴が無い限り誰でもなれる。国連非加盟国の人間でさえかまわない。多少の税金を払って、例の旗の前で「憲法に従います。」と宣誓すればよい。それで投票権といったサービスを受けられる。国政に直接携わらない限り、二重国籍も認められている。本国では現役の情報将校で、NGOモンスーン連合の幹部、などという猛者もけっこういる。もちろん、バレて本国からたたき出されることも多い。今では故国を知らない生まれながらの国連人も増えている。
ナサニエル・フランシスコ・ロブレス、八二歳。元コロムビア人弁護士。一九六二年に新生国連となってからは、七代目の事務総長(事務総長というのはもちろん最高権力者の称号で、伝統的にこの肩書きが使われている)である。皮肉なことに、代々の事務総長の仕事の大半は、国連からイギリスの影響力を排除することだった。イギリス人にだけ与えられたいくつかの特権、中でも土地取得に関する優遇政策が、大量の不在地主を誕生させ、農民達を苦しめていたのだ。決してイギリス人の中から選ばれることのなかった総長達は、土地取得法こそが反政府ゲリラを生む温床になっているとして、かなり強引な農地解放を進めてきたのである。ロンドンでは弁論を用いて、アルキペラゴでは時に武力を用いて。
この戦いは、ロブレスの後、何代も先まで続くだろう。いつかイギリスが、国連の一地方自治体という地位に満足してくれる日が来るだろうか。そして、大英博物館を擁するロンドンが、アルキペラゴの全ての知識と精神文化の中心として、真の意味で国連の首都となる日が。
見果てぬ夢かもしれなかった。その古い戦いは、もうナサニエル・ロブレスの手を離れようとしている。あと半年で任期が終わったら、アルキペラゴのどこかの惑星で余生を送ろう、などとのんびり考えていたのだ。それなのに、地球の運命のかかったとんでもない役割を背負い込む羽目になってしまった。
すでに人生の三分の一をアルキペラゴで過ごした男は、今この時も国連軍の旗艦コンドルカンキ号に乗り込んで、惑星ラダマンテスの上空にいる。そして大量のSF映画を見させられている。
「いったいこれは何なのだ? わしにはついて行けんよ」
「SFの中でも、地球侵略物と呼ばれる類いです」次長が答えた。「私は好きです」
「握手をしようと手を差し伸べた国連事務総長が、いきなりタコみたいな奴に焼き殺されたりするのがか? まあ、アメリカ大統領が体を乗っ取られて、のたうち回るのはおもしろかったが」
「要するに、エイリアンというのは我々の理解の外にある、ということを理解していただければ」
この五十代の元ニューヨーカーの次長は選任されたばかりで、ほとんどを地球の、それも都会で過ごしてきた男だ。若い頃からアルキペラゴで奇妙な生き物を多く見て来たロブレスとは、どうも自然観が違うようだった。だいたい映画の中のモンスター達だって、どこかチグハグだった。無敵の肉食獣なのに、全身をトゲで覆って身を守っていたり、山のようにおおきな怪物が、腹の足しにもなりそうもない、人間みたいな小さな生き物を必死で追ったり(ライオンはいくら腹が減ったって、ゴキブリを追って走ったりはしないだろうに)、ヨダレはダラダラ、目玉はギョロギョロ。
「握手はしないようにしよう」
ロブレスは、そう言って椅子から立ち上がった。
なんにしても戦力が欲しいと思った。エイリアンと交渉するにせよ戦うにせよ、できることならアメリカの強大な軍事力をバックに欲しい。現在、国連非加盟国との対話の窓口は、建前上ではあるが、労働党政権のイギリス政府である。しかしバイコフ艦長は、ロンドンを通してアメリカと交渉することには大反対だった。
「わしに任せろ。優位に交渉を進めてやる」
国連は文民統制国家であり、いくら戦艦の中でも艦長に政治的発言権は無いのだが、つい、あの迫力に気圧されて任せてしまった。
次長が小走りにドアに向かい、誰かから書類を受け取って戻ってきた。
「モンスーン連合のサマルカンド号が、封鎖を無視して、ラダマンテスに向かってます。奴ら、まさか上陸する気では?」
「何と言ってきた?」
「ー─もっと芝目を読め─ー…何です、これ。暗号ですか?」
「いや、先月ランシャンファで、あっちの船長と八ホール回って、ずいぶん巻き上げられた。くそっ」
もしアメリカと一戦交えるとなると、とても勝ち目は無い。せめて何が起こったかを歴史に残したかった。そのためには目撃者が必要だ。それでモンスーンのボスに極秘裏に会って、取引を申し出たのだ。その時は返事はもらえなかった。ボスは頑強に、この事実を世界に公表すべきだと言い張った。
次長が言った。
「行かせていいのですか?」
「ほっとけばいい。まったく、誰も彼も年寄りの言うことを聞こうとせんわ」そう言ってロブレスは、何やら悲しそうな笑みを浮かべた。
「さて、それでは、あの変人達に会ってみるか」
コンドルカンキ号の資料室、天才数学者にして詩人、マルコ・トレンティーノ、二十八歳、は美しい詩を読むように、その文書を何度も読み返した。涙が流れそうだった。蝶が自分の翅の美しさを知らないように、これを書いた者も何も知らないのだ。
「これはラダマンテスの公転周期とその衛星、いや、もっと詩的な表現なんだけど、まいったな。満月の晩、つまり三日後に、エリュシオン高原で、ちぇっ、つまんないな。
我ら台上に集わん、
収穫の赤い月に、
尾毛を解放し…
数多の足と口を…
数多の…呼吸器…?
ああ、ひどいな。韻を踏まなくちゃ。一ヶ月もらえれば、ちゃんとした詩にしてみせます」
「いやいや、十分だよ」ロブレスが言った。
「場所と日付さえわかればいいんだ。惑星ラダマンテス、三日後の日没、エリュシオン高原。ドクター・シキブの読みもまったく同じだった」
事務総長の目線をたどって、マルコは初めて、デスクの向かい側に人が立っているのに気が付いた。と言うより、意識の隅には確かに引っかかっていたのだが、どうも大きなアンフォラか兵馬俑のレプリカくらいに思い込んでいたらしい。マルコより三十センチは背の低い、小太りの男で、小さなマスクを着けて微笑んでいる。いや、マスクが小さいのではなく、顔が大きいのだとわかった。
「こんばんは、クラリス」
レクター博士になりきった式部仁三郎が、にこやかに挨拶した。