僕と彼女は嘘を嘯く
「三月くんって馬鹿よね」
「……なんすかいきなり」
休憩中にデスクでコーヒーを飲んでいると、隣の席からいきなり罵倒された。
こちらも見ず、キーボードを打ちながらまるで今思い付いたから、と言わんばかりの突然さだった。
僕も目をそらして、メールボックスが表示されているディスプレイをただ見つめる。
「経理の灯ちゃん。振ったって噂になってるわよ」
「先輩には関係ない……って噂?」
「えぇ。もう女子社員側ではその話で持ちきり。手まで出したのに責任を取らないとか、灯ちゃん含め八股してる、とか」
「根も葉もない……」
なんだ八股って。どれだけの甲斐性があればそんな激務をこなせるというのか。
「先輩もそれ、信じてるんですか?」
「まさか。だったらこうやって言わないわよ」
「ですよね」
さすが武宮先輩だ。なら何故罵倒から入ったのか気にはなるが。
「で? 実際はどうなの? 振ったの? 振られたの?」
「なんでネガティブ方向前提なんすか……別にそんなんじゃないですよ」
「ふぅん。そんなの、ねぇ」
キーボードの打鍵音が止み、沈黙に呼ばれて振り向くと武宮先輩もまたこちらを見ていた。
「私が馬鹿って言ったのはね」
「はい」
「どちらでもいいけど、やるなら上手くやりなさいってこと」
「…………」
「そりゃあ事実がどうかは私や他の人にはわからないけど、そういう噂がたっているのは事実。まぁ、ぶっちゃけると女子社員側では最近その話で持ちきりでめんどくさいから気を付けろ馬鹿」
「ひでぇ……」
「あと駆け引きは慎重にね。当人同士だけじゃなくて、周りに対しても」
そういう意味での『馬鹿』なのか。
最後の一言は本気半分、冗談半分というのは長い付き合いなのでわかってはいるけど。
「にしても理想が高すぎるんじゃない? 灯ちゃんなんてこの会社のマドンナ的存在なんだから身の程を知りなさい」
「マドンナ的って古い言い方っすね」
「なにか言った?」
「いいえ……まぁ、色々あるんすよ。ほら、深く付き合ってみたら想像とは違う子だった、みたいな」
「深く付き合ったの?」
「言葉の綾です」
なんだか今日の武宮先輩はめんどくさいな。
普段は竹を割ったような性格でそこに人としても上司としても憧れているのに。
「まぁ、なんでこんな話をこのタイミングでしたかと言うと」
「はい」
「明日、買い物に付き合いなさい」
「……はい?」
思わずコーヒーをこぼすところだった。
突拍子もなさすぎるし、なにより。
「明日って土曜っすよね。会社は休み……あ、先輩休日出勤するんですか? だからそれを手伝えってことっすか?」
「出るわけないでしょ。休日にまで仕事を残すほど私は無能じゃないわよ……別に休みでもいいでしょう? それとももう用事入ってる?」
「い、いえいえ。用事なんてないですけど……」
「なら決定ね。時間とか待ち合わせ場所はまた教えるわ」
「は、はぁ……」
なんだろう、急に。
会社ではそれなりに仲良くしているが、休みの日にプライベートで会うなんて初めてだ。
「玉砕記念。気分転換でもしましょう」
「……あの」
言葉が口から出ると同時に休憩終了のチャイムが鳴り響いた。
武宮先輩もパソコンに向き直り、作業を再開する。
他の人もがやがやとオフィスに戻ってきて、どうにも続きを話すような雰囲気ではなくなってしまった。
玉砕記念、ね。
武宮先輩なりに気を使ってくれてるのだろう。
それはとてもありがたいことで。
まだほのかに温かさが残るコーヒーを飲み干し、僕も再び机に向かった。
◆
「おはようございます」
「はい、おはよう」
約束の十五分前には待ち合わせ場所に着くようにしたのだが、武宮先輩はすでにベンチで優雅にコーヒーを飲みながら待っていた。
「……早過ぎないっすか」
「前の用事が早く終わったからね。三月くんこそ早いんじゃない? あまり早すぎるのもどうかと思うわよ」
「今の先輩には言われたくないっす」
あはは、と快活に笑うと武宮先輩は立ち上がった。
「よし、それじゃいこっか。って言っても目的地はすぐそこなんだけど」
「結局どこに行くか聞いてないんですけど……」
「そこよ、そこ」
武宮先輩が指差したのは本当に目と鼻の先のデパートだった。
そういえば最近改装をして新しい店がたくさん増えたとか聞いた。結構なブラントも入っているらしく、妹がきゃあきゃあと騒いでいたのを覚えている。
「らじゃっす。じゃあ行きましょうか」
「あら素直」
「聞いてといてアレですけど、予想の範囲内でしたから。むしろここからどっか移動するなんて言う方が驚きますよ」
「あはは。確かにねぇ」
武宮先輩が凛と歩き出し、その少し後ろを付いていく。
十二月の冷たい風が体に吹き付ける。
きっと夜には街を彩るであろう電飾が寂しく揺れていた。
「なんでも想定内の三月くんに問題」
「……はい」
相変わらずの嫌味である。
「今日の目的はなんでしょう?」
「わかりません」
食い気味に即答した。
意趣返しでもあったが、本当にわからなかったのもある。
あるいは自惚れ。
「……仕事ならはったおしてるわよ」
やや呆れ気味に溜息を吐かれる。
とは言ってもこの程度の冗談の押収はいつものことなので武宮先輩も深くは追求してこずに話を進めてくれた。
「近々ね、灯ちゃんが誕生日らしいのよ。知ってた?」
「ん? ……あぁ、いえ。そうなんですか」
吃驚した。吃驚して思わず間が空いてしまうところだった。
何故ここでその名前が?
武宮先輩は少し嬉しそうに笑う。
「知らなかったの? まぁ、そこで誕生日プレゼントを買おうかな、と思ってね」
「へぇ。先輩と……日坂さんは仲良いんですか?」
「特別仲が良いわけじゃないけど……女の世界は色々めんどくさいのよ」
「あぁ……」
界隈で誕生日の話をしたのにも関わらず、プレゼントを買わなかったら後ろ指を指される、とかそんな感じだろうか。
どちらにせよ深く聞かない方が良さそうだ。
「何を買ったら良いか悩んでてねぇ。そんなさなか、キミという救世主が現れたのよ」
「……なんすかそれ」
幾許か大袈裟な言いふるまいに思わず苦笑。
休みのせいだろうか。今日の武宮先輩はいつもよりもテンションが高い。
「三月くんさ、付き合うまではいかなくても灯ちゃんとはそれなりに仲良くしてたんでしょ?」
「まぁ、それなり、っすね」
「だったらさ、灯ちゃんの好みもなんとなくわかるかなって」
「……だと思いました」
途中からなんとなく予想は出来たので特段驚かずに頷く。
それが面白くなかったのか、武宮先輩はむっとした顔をする。なかなかにレアな表情だった。
「ほらまたそれ。なんでもわかってましたよ、みたいな雰囲気だすのはキミの悪い癖だよ」
「そんなつもりはないんですけどね」
「つもりはなくてもそうなの。気を付けなさい」
「うす」
閑話休題。
「でも女の子に向けたプレゼントを選ぶなんて自信ないっすよ」
「あれ? 今まで散々経験してきたんじゃないの?」
「先輩から見て僕はどう映ってるんですか。全くないとは言いませんけどたかがしれてますよ」
「ふぅん。意外」
「最近はとくにめっきり。妹にすらあげなくなりましたからね」
「むしろ今まであげてたの? あ、歳の離れた妹とか?」
「今年で二十五ですね。一昨年くらいまではあげてましたよ」
「……シスコン?」
ひどい言われようだ。
「まぁそれでも私が一人で選ぶよりは頼りになるでしょう。私、本当こういうのに疎くて」
「プレゼントの鉄則は自分がもらって嬉しいものをあげることですよ」
「……刀?」
「やめましょう」
余計なことを言ってしまったかもしれない。忘れてくれればいいけど。
たまに抜けてるんだよな、この人。
「まぁ、世間一般論で良ければお手伝いしますよ。でもそんなに期待しないでくださいね」
「わかってるわ。頼りにしてるわよ」
「……どっちっすか」
◆
「三月くんって馬鹿よね」
また罵倒された。
アクセサリーを手に取りながら、こちらも見ずに。
いきなり選ばされても困るので、ひとまず先輩にある程度候補を絞ってくれとお願いしたのが気に食わなかったのかもしれないし、待ち合わせ前に昼食を済ませてきたことが不服だったのかもしれない。
「先輩は僕を馬鹿にするのが趣味なんですか」
「うん。楽しい」
まさかそんな素直に答えられるとは。僕も見習わなくてはいけない。
「……で、今度はなんですか」
「なんだと思う?」
「心当たりはありますけど、ちゃんと言ってくれた方が時間的にも労力的にも効率的かと」
「仕事かよ」
そこでようやく武宮先輩はこちらを振り向き、笑顔を見せてくれた。
大人びた彼女が仕事中はあまり見せることのない、屈託のない子どものような笑顔。
「そもそも玉砕記念でここに来てるのよ? それにしては反省の色がないんじゃない?」
「反省って言われても……」
「別に灯ちゃんとのことじゃないわ。そういうことがあったのにも関わらず、私と二人で出掛けちゃってることとかね」
なるほど。
周りから見て勘違いされるような軽率な行動を取るな、ということか。
……理不尽だろう、それは。
「誘ったのは先輩ですよ」
「断ろうと思えばいくらでも断れたでしょ?」
「……まぁ」
そりゃあ可能か不可能かで言えば可能ではあったけど。
僕に気を使って誘ってくれたのがひしひしと伝わってきたのでさすがに断るのは忍びなかったというのが本音。
「私としては助かったけどね。プレゼント選びを手伝ってもらえて」
そう言う武宮先輩の手には二種類のヘアピンがあった。
「ねぇ、このどちらかにしようと思うんだけどどっちがいいかな?」
ヘアピンか。
誕生日プレゼントにしてはちゃちな感じはするけど、下手に高価な物をあげるよりは全然良いだろう。女性なら普段から使う物だし、あって困るということもなさそうだ。
よく見るために一歩踏み出し、先輩の掌を覗き込む。
一つはワンポイントにガラスの花があしらわれた可愛らしいヘアピン。
もう一つはシルバーで三日月を模したシンプルながらも目を引くヘアピン。
どちらも派手過ぎるということはなく、仕事でもプライベートでも使えそうな実用的なデザインだった。この辺りが武宮先輩らしさが出ている気がする。
「三月くんはどっちがいいと思う?」
「そんな期待された目で見られても。その場にいない人に似あうものを見繕えるほど想像力もないんで」
「じゃあほら。私ならどっちが似合うかしら?」
そう言うと武宮先輩は二つのヘアピンを自らの髪にあてがった。
ガラスも透明感があって良い。
三日月も神秘性が出てて良い。
うん。どちらも凄く似合う。
だからと言ってここで「どちらも似合う」なんて言葉は待ち望まれていないのだろう。
だとすれば。
「……先輩なら、三日月の方が似合うと思います」
「なんか妙に間があったけど……まぁいいわ。うん。ならこっちにしましょう」
てっきり選んだ方と逆を選ぶというオチかと思ったがそんなことはなく。
武宮先輩は素直にシルバーのヘアピンを購入したのだった。
ヘアピンを受け取った武宮先輩の顔はやけに嬉しそうで。
それを見られただけでも、今日来た甲斐があったとすら思えるのだった。
◆
買い物も終わり、駅に着くとそのまま解散という雰囲気になった、のだが。
「良かったら途中まで一緒に帰らない?」
「えぇ。いいですよ」
別に断る理由なんてない。
武宮先輩の家がどこなのか寡聞にして知らなかったが少なくとも降りる駅は一緒のようだった。
僕の家の最寄駅に降りると、武宮先輩も後をついてくる。
けれどそれは一瞬のことですぐにいつものように僕の前を歩きはじめた。
「ねぇ」
「はい?」
「今日はありがとう」
「別に礼を言われるようなことはしてませんよ。ただ買い物に付き合っただけです。むしろ礼を言うのはこちらの方です」
「そうかもしれないけど。でも、ありがとう」
まぁ、礼を言われるのは悪くないことだ。僕も続けて「ありがとうございました」とお礼を言った。
改札を抜け、駅を出たところで先導する武宮先輩の足が止まる。
長くしなやかな髪が弧を描きながら、彼女は振り向いた。
「ねぇ」
「はい」
「……実際、灯ちゃんとはどうなの?」
おそらくそれは勇気を振り絞った一言だったのだろう。
その証拠に、普段は威風堂々としている武宮先輩の声が、少しだけ震えていた。
「どうって……」
普段のように、茶化せるような雰囲気でもない。
だから、僕も覚悟を胸に言った。
「日坂さんとは何もないですよ。少なくとも噂になっているような色恋沙汰は。二人で歩いていたのは事実ですけど、もちろん恋人としてではないし、下心があったわけでもありません。どこでどうねじ曲がって振られたとかそういう話になったかはわかりませんが、日坂さんも困ってるんじゃないですかね」
「もし灯ちゃんは困ってるのが、三月くんとは別の理由だったら?」
「別?」
「本人は振ったつもりも振られたつもりもないってこと」
「それは僕と一緒じゃないですか」
「……向こうには、下心があったら?」
察しが悪い僕を見かねてか、先輩は低めの声色で言い直した。
なるほど。
僕は下心がなく、振った振られたの話で困っている。
向こうは下心があって、振った振られたで困っている。
とどのつまり、向こうが僕に気があったらどうするのか、という話だ。
そんなもの、決まっている。
「それは無いから大丈夫ですよ」
「無いって? 灯ちゃんが? それとも……」
「それは想像にお任せします……けどどうであれ僕と日坂さんが付き合ったりすることはないとだけ」
僕の答えに満足したかどうかはわからなかったが、少なくとも納得はしてくれたようで先輩は少しだけ笑みを浮かべた。
そして、今までの話を無かったことにするかのように話題を変えた。
「でも実際、昨日の今日でよく来てくれたと思うわ。急に言いだした私が悪いのだけど」
「まぁ、暇でしたからね。それにいつもお世話になってる先輩の頼みですから、断れないですよ」
「あはは。普段からそれだけ素直だったらいいんだけど。でもちょっと警戒心が無さすぎるんじゃないかしら?」
それは。
言わずもがな男女関係についてなのだろう。
「僕は自分の心に素直になっただけです。素直な気持ちで先輩と買い物に行きたいと思ったから行ったんですよ」
「素直なのは好感が持てるけど……いえ、持てるからこそ、三月くんは馬鹿だと思うのよね」
「……またそれですか」
武宮先輩は鞄から小さな紙包を取り出した。
それには見覚えがある。ショップで買ったあの三日月のヘアピンが包まれているはずだ。
ラッピングもされていないそれを先輩は丁寧に開封して。
「さて問題です。日坂さんの誕生日はいつでしょう?」
「……具体的には知らないです。でも近々なんで――」
「四月一日」
先輩は自らの前髪をシルバーのヘアピンでとめた。
言わずもがな今は十二月で。
その答えに僕は口を閉ざし。
先輩は子供のような無邪気な顔で笑う。
あどけなく、憎めない笑顔で言った。
「ほら、やっぱり馬鹿だ」
◆
「ただいま」
「おかえり、お兄ちゃん。デートにしては早かったね?」
「デートじゃねえよ……ねぇよ」
「なんで二回言ったの?」
家に帰ると妹がだらしない姿でリビングのソファに寝転がっていた。
僕の座るスペースがないので無理矢理押しのける。
「むぎゃ! もー、やめてよー」
「二十五にもなって『むぎゃ』とか言ってんじゃねえ」
いつまでも子ども気分の抜けないとんだマドンナだ。
「で? 武宮さんとはいい感じになった?」
「ご想像にお任せするよ……ていうかさ」
改めて妹の姿を眺める。
「もう会社の人に兄妹だって言わないか? 色々とめんどくせぇよ」
「やだよ。お兄ちゃんと一緒の職場で働いてるなんて言いたくない」
「お前なぁ……。今回の件はお前もめんどくさかっただろ?」
「あぁ、お兄ちゃんと買い物に行ったのを見られてたやつ? 同僚の初ちゃんに聞かれたから『私に気があるみたいで買い物だけ付き合ったけどタイプじゃない』って言っちゃった」
「めんどくさくしたのお前かよ!」
何言ってくれてるんだ、こいつは。
もっと他にいい言い訳があったろうに。
「せめて苗字が一緒なら言いだすきっかけもあるのに……」
僕の苗字、三月は父方の姓で。
妹の苗字は母方の姓で――日坂。
「知らないよ。勝手に別れて勝手に引き取ったお母さんたちに文句いいなよ」
「まぁ、今更いいんだけどさ……」
「で? で? 結局どうなのよ。武宮さんとは! いい感じ? いい感じ?」
「うっざ」
いい感じかどうかはわからないけど。
今日の印象で言えば、僕の中で武宮先輩の評価はかなり上がった。
真面目で、優しくて、それでいてどこか抜けている。
僕が灯と仲が良いと思ったから呼び出したと言ってたけど。
誕生日も知ってるとまでは思わなかったのだろうか?
とっさに知らないふりをしたけど、それは正解だったと思う。
けど、種明かしがちょっと早過ぎるだろう。
駆け引きは、慎重に。
「そういえば武宮先輩の家ってどこか知ってるか?」
「え? 詳しくは知らないけど科倉の方じゃなかった?」
「うちと真反対じゃないか」
「どこ基準で反対かはわかんないけど……まぁ近くじゃないよ」
「ふぅん……そっか」
まったくあの人は。
まぁ、嘘を吐いているのはお互い様ということで。
唯一の家族である日坂灯の顔を眺める。
灯もきょとんとこちらを見返してきて。
その額にでこぴん一発。
「むぎゃ! なにするの!」
「別に」
先輩の、笑顔が浮かんだ。
「やっぱりお前に三日月は似合わないな」