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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ぶれいぶ にゅう わあるど

作者: 谷田貝 和男

「いらっしゃい」

「こんばんは、マコ……、いつものこと、しよ」

 真夜中、滝野川アミはわたしの個室に忍び込んできた。

 全寮制の学校は、生活のすべてが教育だ。消灯時間後に部屋を行き来することは、厳に戒められている。

 しかし、自動監視システムが立ち入らない結界を張ることなど、わたしたちにとっては朝飯前の芸当だった。

 エアリエルをすり抜ける妖精。

 滝野川アミは、わたしより頭ひとつ大きく、はっきりとした目鼻立ちと猫のような口元は目を惹き、茶色のもわもわした柔らかい髪の持ち主だった。

 アミは毎夜、わたしの手の中で従順になる。

 わたしもアミのじゃれつきに応える。

 この身体が、エアリエルによって作られた、かりそめのものであることは知っているのに……。

 エアリエル。

 それは、社会に張り巡らされたヒューマンアシストシステムの総称だ。個人の肉体を体調、それに現れない異変、そして精神状態までも隅々までモニタリングし、メディカルシステムと常にリンクして情報を提供する。

 防犯や健康維持、経済生活にまで関与し、今や個人の生活すべてを規定するものだった、

 つまり、現在自分の視界に映っているのは、リアルの景色だけ、ということだ。

 自分の眼から視神経に入った情報と、エアリエル経由で脳に入った情報は脳内でないまぜにされて、普段は意識されることはない。

 わたしは滝野川アミの耳たぶに装着されたプラグをなでた。

 一見ピアスに見えるそれは、神経に情報を送り込むインターフェイスだ。

 視神経とナノマテリアルを融合させ、シームレスな「知覚」を可能にする。計数管と組み合わせれば、五感はおろか、生物には感知不能だった放射線も、「見る」ことが出来るようになった。

「ああ……」

 反応してぴくりと震える。

 山の中の寄宿舎で、わたしたちは、いつも暇をもてあましていた。

 この学校に入ったのは、1年半前だった。

 界隈で少しは名の通った、全寮制の学校。寄宿舎は、緩やかな坂を登った山の上にある。住んでいるのは五十人ほどの生徒と、舎監。身の回りの世話をする賄いとメイド。みんな顔見知りだ。

 学校と寄宿舎を行き来するだけの繰り返し。休日でも、自主的な学習や部活動への参加が求められている。

 しかし、部活動をしなくても干渉されることはなかった。

 寮で流行っていたのは、たわいないおしゃべり。時間を潰すための読書。そして、身体の慰め。

 同級生や下級生を慰み者にしているのは知っている。

 真夜中に耳を澄ませば、細い声があちらからも、こちらからも聞こえてくる。

 はじめのうち、わたしは知らない振りをしていたが、気がつけば自分も相手を求めるようになっていった。気の進まない上級生の慰み者になるのは、気が進まなかったからだ。

 上級生の相手をするか、同級生同士でくっつくかを選んだ末、わたしは、監視システムの目を盗んで、毎夜毎夜滝野川アミと戯れ事を続けた。

 そんな関係になっている寮生は珍しくないようだった。

「コーヒーはいかが?」

 目覚めた後、アミは熱いコーヒーを淹れ、わたしに差し出す。ひとくちすすった。

 最高級品の醸し出すかぐわしい香りを吸い込んだ。

 しかし、現実にコーヒーを飲んでいるわけではない。菓子、カフェイン含有飲料、エタノール含有飲料のような嗜好品はすべて電子情報として、神経接続による仮想情報として脳の当該中枢を刺激している。

 そもそも、アルコールやカフェインのような習慣性のある物質は、実際に摂取されることはない。

 栄養を補給する食事は別だが、現在は嗜好品の摂取は完全に仮想体験に取って代わられている。

 その食事ですら、いまではチューブで胃に直接流し込む形式なのだ……。

 最高級懐石料理、フランス料理フルコース、満漢全席、どんな山海の佳肴珍味でも再現することは出来るが、いまやそれを味わうものは少なかった。

 いつでも出来るのなら、今それを行う必要もない。

 大多数のひとびとは「食」に次第に興味を失っていった。「食」「睡眠」そして「性」。

 人類は生物的な欲求から解放された。


 一杯飲み干すと、さっきの行為の続きを始めた。

 猿に自慰を教えると、死ぬまで続けるようになるという話を聞いたことがあった。

 あくまで「お話」にしか過ぎなかったが、動物行動学の知見が増えていくうちに、人間以外の動物も自慰や同性愛行為をすることがわかってきた。

 生殖行為に快感が伴うのは生物としての本能だろうが、脳が発達した動物は、「本能」をハックして快感を貪るようになる。

 もはや人間は、そんなことをする必要はないのは、みんな知っているのに。

「マコちゃん、そこ……」

 滝野川アミの分身は、震えている。

 そう、わたしや彼女の身体はエイリアスだから。

 この時代、自らの実体をそのままで外に晒す機会は殆どない。外に出るのは情報で作り上げた分身――エイリアスである。

 生まれながらにライフログを取られ、その情報を基に再構成され、その姿で一生を過ごす。

 寮や学校にいるのも、エイリアスである。

 情報と現実は一体化し、もはや区別を持たない。

 アミの柔らかいところの肌はかさかさして、所々ただれている。

ときおり血がにじんでいる。

 この身体はエイリアス。合成したアバターでしかない。

 どうしてこの身体になってまで、アトピー性皮膚炎を治さないのか。

 滝野川アミは応える。

「かゆみが、あたしの生きている証だもの」

 そして滝野川アミは唐突に言った。

「マコ。あなたは物理的書籍フィジカルブックを読んだことがある?」

「ないわ。そんな骨董品……これがあるじゃない」

 掌を宙にかざし、立体画像を映し出した。「読書」は、こういった行為に置き換えられている。

「あなたは知らないのね」

「なにが?」

「本の内容が知らないうちに書き換わっていることが」

「まさか、あり得ないわ」

物理的書籍フィジカルブックなら、そんなことはない。図書室に行けば、一杯あるのよ。あなたも一回、行った方がいいわ」


 滝野川アミは午前二時に部屋を去り、そして朝が来た。

 普段と変わらないように、朝食をとり、登校した。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 この学校の寄宿舎は他にも三つある。

 登校中、他の生徒と顔を合わせたときは、こうやって挨拶を交わすのだ。

 授業の時間は、退屈だった。

 指名され、タブレットを手に立ち上がった。教科書の言われたところを朗読した、

 それにしても。

 今読んだ、国語の教科書の173ページ。

 ――この一節は、前に読んだときにはなかったような気がする。書き換わっているのは本当なのか。


 図書室へ向かう途中、廊下で滝野川アミとすれ違った。一応学校では、わたしとは、他人の振りをしている。

 突き当たりにある図書室の扉を空けると、

「いらっしゃい」

 寺澤という司書は、愛想よく迎えてくれた。

「あんまり来る人がいないのよ。嬉しいなあ」

「ありがとうございます」

 思わぬ歓待に気をよくして、しばらくすると、放課後の自由時間に、図書室に行くのが楽しみになっていた。

 図書室には、電子書籍でない物理的書籍フィジカルブックが大量に蔵書されていた。

 今日も、棚から読みかけの本を取り出して、栞を挟んであるところを開いた。


 この国におきましては、万事この世とあべこべに事を運びとう存じます。先ず、取引と名の附くものは一切これを許しませぬ、役人は肩書無し、民に読み書きを教えず、貧富の差は因より、人が人を使うなど――とんでもない、すべて御法度、契約とか相続とか、領地、田畑でんぱた、葡萄畑の所有とか――これ、またとんでもない話、金属、穀物、酒、油の類に至るまで、一切使用厳禁、働くなどとは以ての外、男と生まれたからには遊んで暮す、勿論、女にしても同じ事、ただし未通おぼこで穢れを知らず、いや、そもそもこの国には君主なる物が存在しない――

(シェイクスピア『あらし』よりゴンザーローの台詞)


「シェイクスピアは好きなの? 川口マコさん」

 書架から物理的書籍フィジカルブックを手を取って、閲覧スペースに戻ったら、司書の寺澤さんが問うてきた。

「あんまり熱心に読んでいたから」

「はい」

 物理的書籍フィジカルブックを机に置いた。

 掌にすっぽり入るほどの、小型の書籍。カバーは補強してあるが、小口は黄ばんで、表紙が取れそうだ。

 カーテンに和らげられた西日が、テーブルを照らしていた。図書室には、わたしと寺澤さんのほかには、だれもいない。

「こんなに物理的書籍フィジカルブックがいっぱいあるところは、はじめてです」

 棚にずらりと並んだ背表紙を指さす。

 物理的書籍フィジカルブック。電子データではない、物理的媒体に印字された書物だ。データが残っている以上保存する価値のないものとして捨てられたものや、相次ぐアクシデントで失われたものが多数、さらにデータの大半がネットにアーカイブされたので、もう今ではほとんどみることもない。

 それを横目に、寺澤さんはちょっと得意げに言った。

「『最後の過ち』以前のものがこんなに豊富に収納されているのは、おそらくここだけでしょうね」

「すごいです」

 相づちを打つと、にこりと笑った。

「川口さん、興味があるのかな、歴史に」

「ええ」

 わたしは応えた。

「授業で習ったことだけでは、どうも不十分なところが多いのです。かゆいところに手が届かない、というか」

「たとえば?」

「『最後の過ち』について、とか」

 その言葉を出すのはちょっと勇気が要った。

 授業の内容に疑問を持つのは禁じられてはいないが、窮屈になるだけ。頭のいい子なら、現在の環境を当たり前のこととして生きていけば、それが得策なのだと言うことを分かっている。


 最後の過ち。

 この社会ではもう、そうとしか呼ばれないけど、起こったとき、そしてことが終わってしばらくは「東アジア戦争」という呼称だったことを、わたしは授業で教わった。

 勃発の原因については、諸説が入り乱れている。その詳細については、定かでない部分が多いが、終結した当時は、あまりの惨禍にみな呆然とした、という。

 これまでの政治的、社会的な枠組みはすべて変更を余儀なくされた。

 そして、現在の世界の大本になる潮流が始まった。

 わずかな期間で、政治や経済、そして文化。あらゆるものが一変したのだ。

 かつての世界で重要だと思われていたものの大半が、求められなくなった。

 ひとびとは古典文学や宗教でなく、他愛のない刹那的な娯楽で時間を潰すことが推奨されるようになった。

 そして、音楽も芸術もAIによって制作されていた。

 人間のすることは何もなかった。しかし、働かなくても飢えはしないし、退屈もしない。

むろん、「創作」にいそしむひとの一群もいた。

 しかしかれらの「作品」は評価されることはなかった。AIの作る芸術よりも、あからさまに出来が悪いものばかりだからである。

 もっとも、純粋に「創作の喜び」を味わいたいのなら、その限りではない。趣味で絵や漫画、小説、音楽、そういった「創作」をして暇をつぶす。いまや、この社会の空白はそんなもので埋め尽くされてしまったのだ。むろん、「創作者」以外のほかの人々には、何の価値もなく、見向きもされないものばかりだが。


「わたしも、うれしいわ。わかるひとがいるなんて」

 一冊を棚から抜き出し、ページを繰ると、歳月を経た紙の芳香がただよう。わたしは陶然となった。

 紙の上に並ぶ、活字の列。

 この「図書館」は寺澤さんが管理している施設だ。

「外で待ってる子、あなたのお知り合い?」

 ガラス越しに、滝野川アミの姿が見えたので、声をかけた。

「あなたは入らないの?」

「わたしはいいわ」

 滝野川アミは、なぜかこの物理的書籍のある部屋に入ろうとはしない。


「……それにしても、静かですね」

「この部屋には、エアリエルは入ってこれないのよ」

「エアリエルって、シェイクスピアの戯曲からとったのですね。最近気がつきました」

「そうよ」

 寺澤さんは応えた。

「いまじゃあ、だれも気にしないけどね」

 わたしは話しかけた。

「今の視点から読むと、シェイクスピアの時代のひとって、ずいぶんと『濃い』ですね。生き方にしろ、感情にしろ……」

 この時代は、卵子を受精させて発生し、人工子宮から産まれ、育ち、学校に入って教育を受け、卒業し、しかるべき職業に就く。

 しかし、就職しなくても飢えることはない。生活費はベーシックインカムで支給される。労働における報酬は上乗せだ。

 能力に応じて働き、必要に応じて受け取る社会。

 この学校を卒業した生徒は、ボランティアのような作業に就くという。そのなかで「労働の喜び」は確保されている、という。

 しかし教師は、「労働の喜び」というものを、わたしに語ったことはないのだ。

 シェイクスピアの時代から比べると、喜びも、悲しみも、薄くなったように思える。

 人間からセックスは不要になった。フリーセックスではなくセックスフリー――性交渉から自由な社会。それがこの時代だ。

 かつて「性の解放」の理想を追い求めた試みは、失敗だったと総括されている。結局、「性の解放」とは人間の解放ではなく、需要と供給の不均衡でしかないことが明らかになったからだ。

 異性は魅力的な一部の独占状態になり、自分の性的魅力を高く売りつけられる一方で、結婚できない男女の急増が社会問題になってしまった。

 価値観の転換が図られた。

 異性に相手にされなくても、なにも気に病むことはない。もっと有意義なことに、人生のリソースを使えばいいのだ。

 フィクションの中でセックスはありふれているが、実行に移すものはもはや少数派となっていた。推理小説をいくら読んでも殺人を犯さないのと同じ。

 いまや、医学や福祉が普及して、人間の「いのち」は恐ろしく高いものになってしまった。

 人間が人間に対して行うサービスも、通常は非常な高額で、ベーシックインカムで暮らす下層階級には手が出ないものだ。

 それでも、昔よりはましではないのか、とわたしは思う。

 過去の世界は、今に生きるわたしたちでは耐えがたいほどひどい時代だった、ということだ。

 野放図なレッセ・フェールがまかり通り、貧しい物はより貧しくなり、そして弱者がさらに弱いものを踏みつけ、笑いものにする世の中。

 生まれやちょっとした選択のミスで、相容れないクラスタにぶち込まれて、死ぬまで

 いったん向こう側に墜ちたら、這い上がることは出来なくなった。

 社会に出来た裂け目は、際限なく広がっていき、その両岸に取り残された人々は、行き来することはおろか、向こうの存在を見ることすらできなくなってしまった。

 その矛盾は極限に達し、ついには崩壊したのが「最後の過ち」である。社会全体に回復不能かと思われるようなダメージを与え、その反省から生まれたのが今の社会だ。これが学校で習う、公的な歴史である。

 間違いなく、自分はその恩恵を受けている。否定する理由は、どこにもないはずだ。

「川口さん」

 滝野川アミが声をかけてきた。

「先に帰るね」

 わたしは図書館にひとり取り残される。

「仕事が一段落ついたわ。こっちにいらっしゃい」

 招かれ、司書室に足を踏み入れた。きっと、棚に並べられていない、もっと古い物理的書籍フィジカルブックがあるのだろうか。


 気がついたら、寺澤さんが後ろに立っていた。

 肩に手を回す。

 耳元に口を寄せる。

「知りたくない?」

 吐息がかかる。

「……!」

 ただならぬ気配に、身をすくめる。

「真実を」

 そのとき、なにかがはじけた。

 エアリエルが作っていたアバターが消え、寺澤の前に現実の肉体がさらけ出された。

誰にも――滝野川アミにも見せたことはないのに。

 激しい羞恥心がこみ上げてきた。

「な、なにをするんですか」

 顎に寺澤さんの指が触れた。

「教えてあげる!」

「……!」

 本能的な恐怖感に、わたしは身をすくめた。そのとき、寺澤の顔が急接近する。

 唇が触れた。

 そのとき、わたしの脳裏で、なにかがはじける。

 脳内の回路に、大量の情報が強引に流れ込んできたのだ。

(なに?)

 光の粒が次第に像を結んできた。

 過去のニュース画面、のようだ。


 アナウンサーがニュースを読んでいる。

「先年発効した完全自由貿易協定によりいっさいの制限が撤廃された結果、周辺国からの農産物の輸入が増大。食糧自給率は低下の一途をたどっています」


 寺澤の右手が制服の上から、わたしの胸をまさぐる。ふくらみの上から円をえがいて手を回し、その径はしだいに小さくなってくる。


「みなさん、予防注射は百害あって一利なしです。人間の身体に備わっている抵抗力を強化する自然食品を食べましょう」

「住民の高齢化によって、山間部では限界集落が次々に消えています。かつては山の幸の宝庫だった山林は、人手が入ることがなくなったので、見る影もなく荒れ果ててしまいました」


 ソファの上に押し倒される。


「一般言語意味論の実装により、AIは飛躍的に進歩しました。人間と遜色ない情報処理能力をもつAIが実現するのです」


「……やめてください」

 わたしは弱々しく抵抗した。


「総人口に対する高齢者の割合が、50%を突破しました。消費税による補填も限界に達し、もはや年金制度破綻は必至とみられています……」


「うそばっか」

 寺澤はその手をわたしの足の付け根に伸ばし、茂みに指を這わせた。

「濡れてるじゃない」

「……」


「結婚する男女の減少、出生率の低下はなおも続き、人口の6割が生涯未婚で過ごすとみられています。このままでは、人口減少はゆゆしき事態に達するでしょう」


 尻でわたしの身体を押さえつけたまま、寺澤は上着を脱いだ。

 地味なスーツの下から、思いの外豊満な肉体が現れた。

 左の胸元にある、ほくろが目に焼き付く。


「ベーシックインカムの支給に関する法案が、衆院参院で可決されました。これに伴い翌年から、生活に必要とみなされる一定額が、国民ひとりひとりに毎月支給されることになります。解説委員の松本さん、この法案について解説をお願いします」

「可決された背景には、年金制度と国家財政の破綻があります。税金で公務員を雇って国民にサービスを与えるのは困難になったから、いっそのことお金だけを与えて、福祉の一切を国民個人に丸投げしてしまおうということですね……」


「あなたも脱ぎなさい」

 ブレザーのボタンが外され、前がはだける。

 そしてシャツの第2ボタンも外され、間から手が入ってきた。


「ベーシックインカム導入の理由にはもうひとつありまして、それは生産性の飛躍的な向上です。少ない人員でより多くの仕事をこなすようになったことで、大量の人々が職にあぶれることになってしまいました。この状況を解決するために、仕事にありつけない人にも最低限の収入保障をすることで、生活不安の解消を図ることになったわけです」

国民は生まれたときから、一定額のベーシックインカムを支給されます。

公的なものとしては廃止された年金、社会保険制度は民間のそれに代替され、各自で加入しますが、その原資にはベーシックインカムが充てられることが想定されます。


「火星植民船が出発しました。今後は本格的なテラフォーミングに向けての調査が行われると推測されます」


 寺澤はゆっくりと、指先でわたしの乳首を弄び始めた。

「固くなってる」

「やめて……」

 力なく首を振った。


「日本海沿岸の原発がアジア連合のミサイルで攻撃されました。被害の程度は不明ですが、周辺住民に避難命令が出ています」

「見渡す限り、焼け野原です。ここにかつて大都市があったとは、想像もつきません。総人口は東アジア戦争前の三分の二になってしまいました」


 もう片方の手は、スカートをたくし上げる。

 下着の上から股間をなでられた。

 汗が噴き出る。

 律動。


「地球と月とのラグランジュポイントに太陽光発電衛星が完成、宇宙空間からの送電が開始されました。発電衛星一基で、総出力は五億キロワットに達すると計算されており、クリーンな電力が天候に影響されずに豊富に供給されることによって、地球上のエネルギー問題の抜本的な解決になると思われます」


「どう? 気持ちいいでしょ」

「……はい」

 わたしは頷いた。

「もっと、してください」


「残留農薬、遺伝子組み換え、化学物質、放射能……市販の野菜には危険がいっぱいです。信頼できる契約農家でつくりました有機野菜をお届けするネットワークです」


「ああ、変な気持ち……」

 玉のような汗が肌に浮く。

 首筋を寺澤の舌が這う。


「高齢化で住民が消え、うち捨てられた限界集落に、再び人が住むようになりました。自然の中の暮らしを求めて、都会から移り住んできたひとたちです。

インタビュー『ぼろぼろになった農家を、自分で修繕して住んでいます。畑を耕して自給自足です』『だいじょうぶですよ、ロボットがありますから。それに、これほどネットが発達すれば、別に都会に住む必要はないんですよね』


 寺澤さんの指は布の内側に入り込んで、敏感なところをさすった。

「足を開いて」

 わたしは言うことにしたがった。

 パンツがはぐられて、下げられていく。


「万能メイドロボット、100万台突破を記念した限定モデルが発売されます。2000年代の人気声優、山下琴音ちゃんの声をサンプリングしたモデルです。もちろん、あんなことやこんなことも可能ですよ。今回は替えのバッテリと、ヴァギナもつけて、お値段なんと10000新円!」


「あ!」

 割れ目の中に指が入った。

 粘膜がまさぐられていく。


「自然農法、代替治療の老人ホームで老後を送りましょう。穏やかな老後には土を耕し生きる生活こそ相応しい」


 背筋が弓なりにしない、足先までぴんと張り詰める。

「ひい……いっ」


「育児休暇の廃止と引き替えに、赤ちゃんを人工子宮で養育することに補助金が出るようになりました。これからは働く女性のキャリアを中断せずとも、子宝が授かることが可能になります」

「このナノニューロインターフェイスを生体プラグに接続すれば、あなたの五感はあなたから解き放たれます。ありとあらゆる快感があなたのもの!」


「女性と男性が同等になるためには、ハンディキャップをなくさなければ」

 集会で語る女性。彼女は拉致され、集団レイプを受けていた。

「わたしのような被害者をもう出さないためにも、ノーセックス社会を実現しましょう」


 わたしはもう、快感の虜になっていた。

 目の焦点が焦点が定まらず、口をだらしなく半開きにしていた。

「ああ……寺澤先生……」


「人工知能プログラムとの結婚式が行われました。昨年の限定的市民権賦与に伴って許可された正式な結婚で、『知能』を持つと認定されたプログラムと、エイリアスを使って『人間』として生活を送り、交際したとのことです」


「いいのお……」


「完全栄養チューブの食道挿入こそ未来の食事。もう自分で食料を摂る必要はなくなります。食事にかかる時間、費用が大幅に節約され、あなたの人生はより有意義なものになるのです!」


「ここ、勃起してる」

 実際に使うことのない器官が刺激される。

 エイリアスは必要なかった。


「性の解放から、性からの解放へ! フリーセックスからセックスフリーへ」

「もうセックスはいらないのです」

「国勢調査により、総人口と人格承認されたAIの『人口』が逆転したことが判明しました。仮想世界と拡張現実の境目がなくなる」


 敏感なつぼみを唇で抓まれる。

「あ!」

 そのたびに激しくのけぞった。


「人間は働かなくてはいけませんよ。ベーシックインカムをもらって無為徒食し、ゆりかごから墓場まで機械のお守りをうけるなんて、なんの人生ですか。わたしたちはもっと人間らしく生きて、死にたい……」

「人間らしいとは何ですか?」

「日々を労働とともに送り、感謝しながら

「働けないひとはどうしますか?」

「そんな、ソフィストのような屁理屈には答えません」


 突き上げるような快感が次々に襲ってくる。

 脳天まで達すると、つづいて、支えがなくなって果てしなく落ちていくような感触。


「仮想空間の中で一生を送るひとたちが増えています。これだけ仮想現実が発達すれば、もはや肉体を現実世界に置いておく必要はない。それに生活費も安上がりになります」


「自立型エネルギーシステムによる、分散型生活。これぞ人類がたどり着いた究極のシステムです。環境に負荷をかけることなく文明の成果を得ることが出来る」


「エアリエルシステムの完成によって『自我』はすでに過去のものになります」


 脱力。

 わたしは荒い息を吐いて、くずおれた。


「――――――」

「…………」

「……」


 気がついたら、わたしは、しんなりとなって肢体をベッドに投げ出し、うつろな眼を天井に向けていた。

「……どうしちゃったの」

 すべてが終わって、わたしは我に返った。

 上半身には一糸まとわず、下半身はショーツが足元まで下ろされたあられもない姿で、ソファに横たわっている

 まだ顔は火照っている。

 傍らには、寺澤さんが半身を起こしていた。彼女も一糸まとわぬ姿だ。

「……なんなんですか」

「あなたに見せてあげたのよ。真実を」

「これが真実なんですか……」

「私は肉体的書籍フィジカルブックだから」

「?」

「脳内のナノインターフェイスに侵入して、情報を直接脳内に送り込むことが出来る。むしろ、肉体的読書フィジカル・リーディングとでも呼ぶべきかしら」

「……どうして、わたしに?」

「あなたには素質がある。わたしたちの仲間になりなさい」

 仲間? 何をすればいいんだろう?

 その場では、何も言えなかった。

「待ってるわ」

 服を着直しながらも、もやもやした気分のままだった。

 物理的書籍フィジカルブックで暗唱できるまでに読み込んでいたシェイクスピアの一節を思い出した。「あらし」でゴンザーローが朗々と唱える台詞。

「何でも彼でも自然が恵んでくれます。人間は汗水垂らして勤める必要無し、反乱、窃盗は勿論の事、剣、槍、匕首、鉄砲、その他、危ない道具はすべて御免を蒙ります。自然の恵みは限り無く、手を加えずして五穀は豊穣、吾が罪無き民草を養うてくれます」


 限り無い恵みを与えてくれるエアリアルは、永遠なのか。すべての仕事を妖精にやらせている魔術師プロスペローのような存在だというのか。

 いつまでも、考えは、まとまらなかった。

 その日以来、図書館から、足が遠のいてしまった。

 寺澤さんと会ったとき、何を言っていいのか、分からなくなってしまったのだ。

 教室でいつものように授業を聞いていても、上の空で時間は流れている。

 滝野川アミはあの日以来、わたしの部屋を訪ねてくることはなくなった。

 それでも当たり前のように、時間は流れていった。

 しばらく経った頃。

 いつものように夜が更けていくと、滝野川アミからエアリエルを経由してメッセージが入っていた。

「話したいことがあるから、あとで来てくれない?」

 寮で話せばいいのに、とも思ったが、彼女の言うことに従うことにした。

 そして、放課後。

 指定された校舎の裏で、滝野川アミは待っていた。

「どうしたの?」

 彼女はにっこり笑って、こういった。

「わたしはきのう、死にました」

「……どういうこと!?」

 疑問を投げかけると彼女は、はぐらかすように、ふたたびほほえむ。

「いまあなたとしゃべっているのは、わたしのエイリアスに実装されていたバックアップシステム。実体としてのわたしの生命が終わると、自動的に作動するようになっている。そのアプリケーションが起動した」

 一陣の風。しかし滝野川アミの髪はなびかない。

「どうして死んだの? 病気? それとも事故?」

「わたしは妊娠していたの。人工授精して、受胎した。死んだときは、六ヶ月目だった」

「待って。何を言っているのか、分からないわ……それに、妊娠ですって? どうやって?」

 子供を自分の身体に宿して、それを産む。

 そんなおぞましいことは、ついぞ考えたこともない。子供は配偶者から採取された精子と卵子を受精させ、人工子宮で育てられるもの。

 いちど好奇心で、妊娠の疑似体験をしたことがある。自分の下腹部の中で、自分ではない生命が蠢いている。胎児が動いたり、内側から腹を蹴られたりする感触は、ぞっとしないものだった。

 わたしの混乱をよそに、滝野川の話は続いた。

「わたしの肉体はここにいないの。産まれてからずっと、総合医療センターの特殊病棟にいる。わたしは外界で生きられない重度の奇形を持って生まれ、命が続く限り、高度の生命維持措置を続けなければならなかった。むろん、妊娠なんてとんでもない」

「なんですって」

「わたしは自然受精、自然妊娠でこの世に生を受けた。わたしの両親は自然と共に生きることを是とするコミューンに住んでいた。ふたりは理想を共有し、愛をはぐくみ、そして結ばれた」

「そんなことが……」

 たしかに、エアリアルの庇護を離れて、自然のなかに作られたコミューンやそこで暮らすひとびとがいるとは、小耳に挟んだことがある。しかし、まさか彼女がそうだったなんて。

「胎児だったときの検査で、重度の身体障害が判明した。でも、わたしの両親は中絶を望まなかった。わたしがこの世に産まれることを選択したのよ。でも、持って生まれた肉体のままで生きることは困難だった。

 健全なのは中枢神経系だけだった。人工心肺と栄養補給チューブにつながれ、自分では身動き一つ出来ない。この生命維持カプセルの中にいたまま、エイリアスだけを外界に解き放って、健常者の子供と混ざって育ち、遊び、学校に通い、友達を作っていた――あなたのような」

「今まで、秘密にしていたの?」

 わたしは蒼白になった。その情報が滝野川に通じたかは、わからない。

「どうやってエアリエルをだましたの?」

 すぐに思いついた疑問を口に出す。

「寺澤さんよ。寺澤さんから精子を入手して、受精した。エアリエルには偽造のライフデータを送り込んだ。それに気がついたときには、もはや中絶不能な状態にまで育っていたから、お医者さんの驚いた顔ったら、なかったわ」

 彼女はいたずらっぽく笑った。

「わたしは外界に実体を持ち出すことが出来ない。だからあの部屋には入れなかったのよ。その代わり、寺澤さんがわたしに教えてくれたのよ」

「なんですって?」

「寺澤さんに会って、わたしは変わった。わたしはこんな身体だから真実を知ることは出来なかったけど、川口さん、あなたなら出来る」

 映像に乱れが走る。

「ようやく、あなたにだけは告白できた……最後になるけど、あなたみたいな友達ができてよかった。ありがとう」

〈再生終了〉

「待って……」

 そして、すっと、滝野川のエイリアスは目の前から消えた。

 あとは、空虚があるだけだった。

 寮に帰ると、「滝野川アミ」の名札は取り外されていた。

 通りがかった寮生のひとりに訊いてみた。

「滝野川さんっていたでしょ? どうしたの?」

「退寮したみたいよ」

 興味なさげに答えた。


 世界にひとり取り残されたような気がした。

 心にぽっかりと、穴が空いてしまったようだった。

 そんな大事なことを……。

 どうして、わたしだけには告白したのだろう。

 そして彼女は何を考えていたのだろう。妊娠を決断したのだろう。

 頭の中でいろんなものがぐるぐる回り続けてた。

 なにもまとまりがつかないまま、気がつくと、図書館へ足が自然に向いていた。

「川口さん、待っていたわ」

「寺澤先生」

「その気になった?」

 わたしは寺澤さんに、いきさつを話した。

「先生は、滝野川さんのことを知っていたのですか?」

 彼女は頷いた。

「わたしも、コミューンで生まれ育ったのよ」

「ええっ」

「彼女の両親とわたしは、同じコミューンの村人だった。彼女が産まれた頃からよく知っていたわ」

「この学園に入れたのも、わたしよ」

 寺澤さんの顔を見た。

「わたしは、彼女が求めていたことをしてあげただけ。死はその結果に過ぎない」

「……」

「かつて、胎児を母体の子宮に宿していた時代、妊娠中の事故や出産に伴って母親や胎児が死ぬことはよくあった。残念だけど、それは自然の摂理。生物としてのヒトが数限りなく繰り返してきたことよ」

 わたしは意を決して語りかけた。

「……わたし、知りたいんです」

「なにを?」

「彼女がどうしてそう思ったか……寺澤さん、あなたは、秘密を知っているはず。どうしてこの学校に来たのか。この世界の秘密は何なのか」

 寺澤さんは満足したような微笑みを浮かべた。そして言った。

「分かったわ。あなたの知りたいところに、案内してあげましょう…」


 その日、わたしは帰宅時間を過ぎても寮に帰らず、図書室で待っていた。

 イレギュラーな行動を取るとエアリエルの警戒システムに引っかかって通報されるが、それを欺瞞する手順は、心得ている。そうでなければ、この学園でうまくやることは出来ない。

 夕方、寺澤さんは仕事を済ませて、司書室を出てきた。

「待たせたわね。思いは定まったの?」

 わたしは頷いた。

「ついていらっしゃい」

 校門をくぐり、わたしと寺澤さんは駐車場に止めてあったヴィークルに乗り込む。

 自動操縦のヴィークルは、速度を上げていく。

「川口さん。あなたのような女の子をわたしは何人も見てきたわ」

 ビッグデータの処理と人工衛星と組み合わさったこのシステムがまだ生きているのは、奇跡のようだった。

「……わたしで、何人目なんですか?」

 寺澤さんは答えなかった。

「アバターを外しなさい」

 言われて、身体を覆っているホログラフィを切り、生身の身体を剥き出しにした。

「あなた、その姿もきれいよ」

「お世辞はいいです」

 都市を離れるにつれ、道路はしだいに荒れていった。アスファルトはひび割れ、路面の表記はすでに読み取れず、石や木の葉が路面を覆っている。

 国民に直接金を配るベーシックインカムの施行とともに、「採算に合わない」大半の公共事業が社会保障制度とともに廃止されたので、修理するものがいなくなってしまったのだ。

 各所に整備不良で通行不能な箇所があるので、あちらこちらの迂回路をたどり、目的地を目指しているようだ。

 ヴィークルはさらに進み、山の麓で停まった。

「ついたの?」

「まだ、ここから鉄道に乗り換える」

「鉄道? そんなものがまだあるの?」

 交通機関としては過去の遺物だった。知識としては持っているが、実際に乗ったことはないものだ。

 荒れ果てた小屋のようなところに入っていく。

 傍らには、二本の鉄製のレールが平行に延びていた。土を盛って作ったプラットフォームには、列車が横付けされている。

 やっと動いているような、ディーゼルエンジン駆動の機関車のうしろに、玩具のような客車が二両引っ張られている。

「いつの時代のものなの。まだ残っていたなんて」

 「運転」を必要としない全自動車と、必要なときにクルマを呼び出せるオンデマンド配車システムの普及で、輸送密度の低い公共交通機関は消え去った、はずだった。

「趣味よ」

 寺澤は言う。

「鉄道好きな有志が集って、趣味で運営しているのよ。うち捨てられた廃線を整備しなおし、保存車両を稼働可能な状態にまでレストアして、不定期に運行している」

 それにしては、あまりにも大規模だ。

「乗りなさい、出発するよ」

 「車掌」が促す。

 わたしたちは、扉を手で開け、二両目の客車に乗り込んだ。ボックスシートに席をとる。

 出発間際、機関車はカンカン! とベルをならした。

 がらがらがら……と音を立てて、編成は動き出す。かなり大きいが、耳障りではない。石油が燃える匂いが室内に漂う。

 規則正しい振動が尻に伝わってくる。

 景色が流れ去る。窓から、鉄さびと油の混ざった臭いが、流れ込んでくる。

 丈の長い草が、線路ギリギリまで生い茂っている。

 列車はトンネルに入り、ひやりとした空気に変わった。

 トンネルを抜けると、眼下は見渡す限りの水面だった。

 コンクリートで作られた高架橋は、この単線には不釣り合いなほど立派で、行く手に果てしなく続いているようだった。

 ビルの残骸が水面から飛び出ている。

 水の透明度は高いようだが、それでも底は見えない。

 水面から飛び出る建物の鉄骨や構造物は、巨大動物の屍体の肋骨のようだ。

「こんなにはっきり見えるのは、珍しいです」

「車掌」は言った。

 それから三〇分も走った後に、列車は開けた地にたどり着いた。途中、駅はなかった。

 広場には、何本もの引き込み線が平行している。

 蒸気機関車が留置され、プロペラを取り付けた車両を引き連れていた。

発電風車の羽根に似ているけど、あれほどスマートではない。記憶の片隅にあった「扇風機」に似ている。

「キマロキ編成」と呼ばれる豪雪地帯で除雪に使われる編成だった。

「ロータリー車。線路に積もった雪を吹き飛ばして、列車の正常な運行を保つ」

「ここは豪雪地帯なんですか?」

「雪なんか降らないわ。あちこちから集めたのよ。ガラクタになる前に」

「博物館」

「そんなご大層なものじゃない。玩具を集めて並べてあるだけよ」

 引き込み線には、大型の電気機関車が、寝台車を引き連れてたたずんでいた。

 その隣では、大都市で使われていた通勤電車。貨車がそのうしろに並んでいる。

 ヤードには、様々な鉄道車両がとりとめなく留置されている。

 漂う匂いに気がつき、窓を閉めた。

「なんか、変な臭いがするわ」

「昔の鉄道車両の便所は、用を足して便器傍らのペダルを踏むと、排泄物を受けたところの床が抜けて、線路の上にそれが落ちるようになっていた。だから、こんな臭いが漂うこともよくあったのよ」

「……」

 ヤードの外れには土を盛って作られたホームがあり、線路はそこで途切れていた。

駅名標はボロボロになって読めない。

 ホームに降り立つと、迎えのものが来ていた。

 エアリエルからメッセージが届く。

「電波が届いていないので、エアリエルはサービスを停止します」

 なにかが身体から抜けていくようだ。それが

「ようこそいらっしゃいました」

 案内されて、山道を歩き出す。

 人家も街灯もないので、もう真っ暗だ。

 エアリエルの加護の及ばない地に赴くのは。はじめてだった。

 それはほとんど、本能的な恐怖感である。

 道の果てに灯りが見える。

 山の尾根では、風力発電の風車が、くろぐろと巨大なシルエットになってそびえていた。

「ついたわ」

「ここが……」

「ようこそ」

 数人が出迎えて、手を挙げて歓迎の姿勢を見せる。

 そこは、住民にうち捨てられた集落を自らの手で開拓し直した村だった。

「家もみんなぼろぼろだったけど、自分たちで修繕したのよ」

 彼は誇らしげに言った。

 こんなコミューンがいくつも都市の周囲に作られている。その数は近年になっていよいよ増え、人間らしい暮らしに目覚めてコミューンに参集するひとびとは続々と増えている。

「コミューンが都市を包囲するのだ」

 寺澤さんは言った。

 空には星が瞬いていた。

 かつて人類は、あの星にまで手が届く技術を有していたという。

 それらはもはや失われて久しいが、代わりに得たものは大きい……はずだ。

 空には、ひときわ白く輝く光点があった。

「火星だ」

 誰かが言う。

 ホワイト・マーズ。

 かつて人間は、火星に人を送り込める文明を持っていた。その力で、火星を人の住める大地に変えようとした。

 しかし、その試みは失敗に終わった。

 大量のエネルギーとマンパワーをつぎ込み、いったんは火星表面に海がよみがえったのだが、やがて冷え切り、凍りついた。大気の水蒸気は雪になって地表に降り積もり、そのまま根雪になった。

 赤い星だった火星は、白く輝く星になった。氷に包まれた惑星をもう一度温め直す余力は、現在の人類にはなかった。

 そもそも、現在の人類は、宇宙へ出ていく経済的、社会的な余力もモチベーションも失っているのだ――。

 そんなことを想っていると、

「あら」

 寺澤さんは消えていた。


「こちらへ」

 村人のひとりに、宿泊施設へ案内された。

 外見は平屋の建物で、内部は廊下を挟んで個室が並んでいる。

 わたしにあてがわれた個室は、ベッドと書き物机しかない殺風景なところだった。あの寮と似たようなものだ。

 ベッドに寝転んで想う。

 しかし、滝野川アミはいないのだ――。


 夜が明けて。

 床を出ると、共同の食堂に案内された。

 朝食は、牛乳とシリアル。それに粗挽きの小麦で作られたパン。バターとジャムが少々。

 すべて付属の農場で育てられ、製造されたものだと言うが、わたしにはさほどありがたいと思わなかった。

「どう? チューブじゃない食事は」

「おいしいです」

 わたしはおざなりに答えた。

 それでも残さずに食べると、集落に隣接した畑に案内された。

「みなさんはもう、仕事にかかってますよ」

 たしかに、畑には村人が総出で、雑草を抜いたり、育ちかけの作物についた虫を捕ったりしている。その中には、昨日顔を合わせた村の人もいる。

「……このにおいは」

 妙なにおいが漂っている。その生々しさで、彼女の五感は地上に引きずり下ろされた。

 土のにおいとは違う。

 さっき、列車で漂っていた、あの臭いだ。

 案内者が小屋を指さして、言った。

「あそこでは家畜を飼っている」

 異臭の原因は、それかも知れない。

 しかし――。

 男が問うてきた。

「どうですか、この村は」

 わたしは、疑問をぶつけた。

「あなた方は、滝野川さんが死んで、悲しくないのですか?」

「滝野川さん? 確かに、彼女は死にました。しかし、それは自然の摂理の一部なのです。彼女は、自らが望んだ『生』を生ききったのです」

「そうなんですか」

 わたしはうつむいていた。

「……まだわからないようですね」

 男は硬い表情をした。

「よろしい。あなたに洗礼を施してあげましょう。そうすればきっと、あなたも考えが変わる」

 白い木綿で出来た上っ張りを渡される。

「それに着替えなさい」

 言われたとおりに着替えると、引っ張られるように、村の中央部に連れて行かれた。

 そこはちょっとした広場になっている。

「なに、これ?」

 すさまじい刺激臭が鼻を打つ。

 鼻だけでなく眼にも強烈な刺激が飛び込む。涙がにじみ目が開けていられないほどだ。

「……なんなの?」

 大きなタンクのようなものが土に埋まっている。そこの七割くらいには、黄土色のどろりとしたものが、たまっていた。

 異臭のおおもとのようだ。

「……まさか、これって」

 顔がこわばる。異臭だけではない。

「肥溜め……」

 知識でしかなかったものが目の前にある。

 有機肥料とは、これだったのか。

「あなたも、やりなさい」

 強引に首根っこを押さえつけられた。

「いやあっ!」

「どうした」

「仲間になりたくないのか」

「いやよ……」

「現在の人間に出来る、人間にしか出来ない、ただひとつのことって、なんだと思う?」

「ものを食べて……うんこを作ることよ」

 わたしは何も言えなかった。

 誰かが叫んだ。

「人間が人間として生むことの出来る至上の価値、それは糞をひることだ!」

「糞をひれ!」

「糞をひれ!」

 皆は口々に唱和する。

 合唱に変わっていった。

「有機は、糞だ!」

「これこそ真実だよ」

 群衆の、誰かがこんなことを口にした。

「なにやら、じゃこのようなものが蠢いておりますぞ」

「おお、蟯虫ですな」

「すばらしい」

 感動に打ち震えた。

「わたしは回虫を飼っております」

「左様。回虫の卵は人糞を肥やしとする有機野菜に

体内に入り、肺の中で成長し、気管を這い上って口から消化器へとまわりまわって、再び腸に入るのです

「寄生虫は長きにわたり人類の友、でありますぞ」

 男はしれっと宣う。

 それは想像を絶する、あまりにおぞましい光景だった。

 すべてを悟った。

「……なにをやっているのよ」

「これこそ、人間の最も人間らしい行為」

「はあ?」

 呆れた声を出した。

「かまととぶってるんじゃないわよ」

 女が叫ぶ。

「わたしは御免こうむる」

 わたしは返した。

「あなたからみれば狂気かも知れないが、わたしたちにとっては美しい真実だ」

「あなたの真実に同意する気はない」

「わたしたちからみれば、あなたたちの生活こそ、狂気の沙汰」

 冷や汗が吹き出てきた。

 向こうも焦っているようだった。

「あなたが受け入れさえすれば、あの哀れな下層階級から抜け出せる。人間が真に人間として生きられるのだ。それなのに、何故? 何故なの?」

「あなたがたには永遠に分からないでしょうね」

「……近寄らないで!」

 糞まみれの手を差し出され、顔をしかめた。

「いやです……文明とは消毒である、と誰かが言ってましたっけ。」

「ならば、文明を否定しましょう」

 返された。

「消毒されて清潔な世界に生きることが出来るようになった。しかしそのかわり、われわれは、苦痛を受ける権利すら失ったのだ」

「したいひとは勝手にすればいい。でも、それを強要する権利は、だれにもない」

「いまだ目覚めないひとびとに、よき道を教えるのだ」

「そんな傲慢!」

「人間の五感は当てにはならない。そうよ、あなたがたがいい例じゃない」

「しかし、人間こそ万物の尺度だ」

 苛立ってきた。

「わたしは、ここの人間にはならない」

「強情だね」

 薄ら笑いを浮かべている。

 吐き捨てた。

「……汚らしい」

「きみらのほうが本質的に汚らしいんだ。文明とその副産物に毒されてしまって、それにすがらなければ生きられない、ひ弱な現代人はね」

「でも、いやです」

「情けないな」

 ギャラリーのだれかが、あきれたように言う。

「いずれ、きみにもわかる」

 話を続ける。

「科学技術の発達に伴い、人間の倫理は更新されてきた。それは認めなくてはならない。しかし、いつまでも続けていいのだろうか。どこかで立ち止まるべきだった。わたしたちは、調和した人間らしい生き方だと信ずるから、ふさわしい環境を求めた。今更ながらではあるけどね」

「そういったロマン主義こそ無効で、自分たちの心地よい世界を勝手に措定した、ナンセンスなものに過ぎないのではないですか?」

「ふん」

 怪訝な顔をしている。

「ロマン主義とは、見たいものしか見ないことなのですか」

「そんなことはない」

 誰かが叫んだ。やけっぱちのように響いた。

「だれかにとっての美しい真実は、ほかのだれかにとっての、破廉恥で醜悪な欺瞞だ」

「きれいはきたない。きたないはきれい、ということ?」

 わたしはせせら笑った。

「そんなのは劇の台詞でしかないわ」

「どうすればいい?」

「知りませんよ。わたしは御免被る、というだけです」

 わたしは吐き捨てた。

「だけどこれだけは言えます。今のわたしのほうが、よほど人間らしい。土にへばりついて、うんこを食べているあなたがたは、人間らしくない」

 そして、にらみつけた。

「そうよ。糞喰らえ!」

 踵を返した。

「残念だわ」

 群衆から声が聞こえる。

 わたしは顔を歪めた。

「分かるものですか!」

 何を話しても無駄だ。

「もういいわ!」

 わたしは叫んだ。

 わたしは皆の前に立ちつくし、叫んだ。

「ああ、なんと馬鹿げたことだ。ひとは長い歴史を通してずっと、食料――ウンコの原料を手に入れるために、殺し、傷つけ、奪い、だまし、悲しみ、自らをすり減らし、しなくていい我慢をし、夢をあきらめ、あまつさえ、その上前をはねられてきたのだ

 人類が数限りなく繰り返してきたナンセンスな振る舞いに終止符を打つ。すばらしい新世界であることを、わたしは確信した。

 ――ならば、もうこんなところに用はなかった。


「川口さん」

 声をかけられた。

 そこには、寺澤さんが立っていた。

「寺澤さん、あなたは

「寺澤先生……先生も、あのくそったれの一員だったとはね」

 わたしはにらみつけた。

「返してよ。滝野川アミを。データを、エイリアスを、あの、かさかさの肌を……全部、わたしのものだったんだから!」

 寺澤さんは悲しい顔をした。

「あなたも、失敗だったようね」

「あたりまえでしょう」

「わたしの役目は、記録を保持するためのデバイス。『学校』という偽りのシステムのなかで疑問を持ったものに知識をおしえ、真の人類の文明を再興させる。そのための人材が必要だった。でも……だれもいない。この村に住み着いて『自然と暮らす』と宣う出来損ないばかり」

 すこし悲しそうな顔をした。

「学校で理解してくれそうなのは、川口マコさん、あなただけだったのに……」

 寺澤さんはさびしそうにほほえんだ。

「……帰るわ、学校へ。図書室で、あなたのような子を待つわ。いつものように」

 そう寺澤さんは語った。

「あなたは好きにしなさい」


 わたしは寺澤さんに背を向け、駆けた。

 でこぼこの山道を、走って走って走りまくった。

 懸命に走ったが、追ってくるものはいなかった。

 所詮わたしはかれらにとって、追う価値もない存在、なのかもしれない。

(ここならば)

 ようやく、エアリエルの範囲に入ったようだ。

 エアリエルに包まれる感触がニューロシステムに行き渡ると、もどってきたという安堵感が身を包む。

 脳内のニューロンが統合システムにリンクする。体内の要所に埋め込まれたセンサーがモニターされ、平常値と比較される。

〈すべて異常ありません。リンクを許可します〉

 わたしの精神は、この卑しい世界を拒否する。

 汚れきって危険にまみれた「自然」より、清浄な文明世界の方が、よほどいいだろう。

 このまま精神を、エアリエルのシステムと同一化させてみよう。それはたやすいことだ。完全にエアリエル――空気の精霊になり、現実とネットの間をさすらい続けるだろう。

 そうだ、どこで生きようが、わたしの自由なのだ。

 卑しい地上に縛られるより、それも、いいかもしれない。

 さようなら――永遠にさようなら。

 ああ、すばらしい、懐かしい――この新しい世界が目の前に。

(了)


※作中引用元

シェイクスピア 福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫)


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