日本死ね
『保育園落ちた。日本死ね』
これを見て、熟年政治家の坂部はニヤリとした。
利用できる、と思った。
このブログは日本のあり方に一石を投じ、
テレビで盛んに取り上げられた。
与党は徐々にではあるが、予算を増やし、
待機児童を減らしているが十分ではなかった。
野党はこれを政権攻撃の手段に使い、
相変わらず代替案もないのに批判を繰り返した。
「でも、間違えだよな。
日本死ね、は」
坂部は呟いた。
「東京死ね、か、神奈川死ね、だろう」
この問題は都市部の問題で、人口が減少している地方には関係なかった。
「これで俺の時代だな」
彼は与党の政治家だった。
実力派と評されていた。
「総理大臣なんて、つまらん」
彼は、現在の総理を引きずり落とし、取って代わろう、
など小さいことは考えていなかった。
「上手くいけば、少子化問題や地方活性化になる。
この問題の元凶は東京だ」
彼は選挙区が割り振られた日本地図を見つめる。
首都圏多くの議員が割り振られていた。
「だから、東京に一極集中し、人が集まってしまう」
彼は密かに仲間を集め始めた。
20年が経った。
東京都は消滅した。
戦争があったのではない。
首都が遷ったのだ。
大阪?
いや、そうではない。
奈良だった。
そこは坂部の地元だった。
奈良なんて、何もないのに?
だからいいのだ。
大阪なんかに首都を移したら、土地や建設費が高くてしょうがない。
政府は、何もない奈良に価値を創造することにした。
政府が行った首都遷都計画は巧みだった。
県内に候補地を3箇所選び競わせ、奈良県に対し、土地の無償提供を求めたのだった。
奈良県は首都になるメリットを考え、膨大な県債を発行し、土地を政府に提供した。
政府は土地の一部を売却し、議事堂など施設の建設費にあてた。
首都になる土地であるため、高額で売れ、建設費の40%をまかなうことができたのだった。
ちょうどその頃、リニア新幹線も奈良に開通した。
東京に本社があった企業は奈良を中心に、滋賀、岐阜、三重に一部移ったが、
日本の経済の中心は東京のままだった。
しかし、東京の人口は激減した。
と言っても、日本最大の都市で800万人を超えていた。
こうして東京の一極集中は解消され、日本経済は上向きを見せたのだった。
50年後、後世の歴史家は驚愕した。
一つのブログが東京都を消滅させたのだと。