7 幼馴染は俺の嫁?
身に覚えのない事象を目の前にした場合、普通はどういう反応をするのだろうか。
例えば、自分の家では見た事のないものが引き出しの奥から出てきたり、例えば、知らない人が突然親しげに声を掛けてきたり。
普通は戸惑う。説明を受けて、それから後付けで反応を示すものだと思う。ならば、俺の今感じている震えは普通ではない。何か懐かしく、なぜか恐ろしい。そんな混沌とした感情が心の内にざわめいている。
「これ、レオン……か?」
俺はとある写真を見て、呟く。
その写真が収められているアルバムは、俺がガキの頃から育ての親が撮ってくれてきた、いわゆる成長アルバム的なものなのだが、その中で今からおよそ十年前、俺の幼稚園時代の卒園式に撮影したと思われるページ内での写真の一角にそれはあった。そしてそれには小さく丁寧な字でこう書かれていた。
『幼稚園で れおんちゃんと』
●○●○●
さめざめと降りしきる雨音だけでも陰鬱な気分にさせるというのに、せっかくの休日を下らない用件で呼びつけられた今日という日は厄日だなと俺は思わずにいられなかった。
「ったく。毎度毎度自分勝手なやつ」
傘を差しながら道中で俺は一人ぼやく。しかし今の鬱憤である対象は、最近悩まされるようになったレオンの事ではなかった。
俺のボロアパートから約三十分ほど電車を乗り継いで、更にもう三十分ほど歩いた先、高級住宅街のひとつにそれは大層な豪邸があるのだが、そこに俺は向かっていた。
朝食をとらずにここまで来てしまったので少し腹はすいているが、俺は絶対に世話にはなるまいと心に誓い、『厚真』と書かれた表札のある豪邸の門に設置されているインターホンを押す。
「椎名です。開けてください」
俺がインターホンに向かってそう言うと、自動で門が開かれた。開かれたその先は相変わらずの整備された芝生が広がり、その中央に赤いレンガで埋められた一本の歩道がある。その歩道の両端を緑の木々が規則的に立ち並び、その間をおよそ五十メートルほど進んだ先にようやく本館の玄関に辿り着く、相変わらず面倒臭い家だ。
俺はガキの頃からこの赤い歩道が嫌いだった。家に着いて更にそこから歩かされるのが本当に面倒に感じていた。だから今住んでいるボロアパートがすごく好きだ。家に着いたらすぐ居間があるのが本当に嬉しい。
「お帰りなさいませ、椎名さま。ご健勝のようで、なによりでございます」
玄関前にシルバーのスーツをシックに着こなし、深々と俺にお辞儀する東条さんを久しぶりに見て、俺は少しほっとした。この家で唯一俺が気を許せる人間に、一番最初に出会えたからだ。
「うん、久しぶり。東条さんも元気そうでよかった」
東条と俺が呼んだ彼は、初老の執事でこの家に昔から仕えている。一見堅そうだが、話してみると実にユーモアで、なによりこの家で一番人間味のある人だ。
「いえいえ、私も迫る年端には勝てませぬゆえ、あちこちにガタがきておりますよ」
白い口ひげと共に頬を緩ませながら、東条さんはニッコリと微笑む。
「そうは見えないけどなぁ」
「ささ、私の事などより、京平さまが応接室でお待ちです。お久しぶりのご対面でしょう。たまにはごゆるりと積もる話でもなさって下さい」
東条さんの気遣いに対し、俺は苦笑いでしか返せなかった。
玄関の大扉を東条さんが開くと、中は無駄に広いエントランスホール。わけのわからない大理石の彫像が立ち並ぶその両端に、二階へと続く歪曲した赤い絨毯の敷かれた階段が二本あり、簡単に言い表すなら結婚式場の入り口のような、まあ典型的な洋館スタイルになっている。
目的の応接室は一階のすぐ右手側の先なので、面倒な階段を昇る必要はない。俺はさっさと用事を済ませて帰りたいが為、足早に応接室へと向かった。
応接室への扉を開けると、回転式のチェアーに腰掛けた体躯のいい男が俺に背を向け座っているのが見える。反射的に体を硬直させてしまったが、ひとまず声を掛ける事にした。
「……おう、親父」
俺が声を掛けた男は実の父である厚真京平。俺のもっとも苦手とする人間だ。京平はくるりとチェアーを回して鋭い眼光で俺の目を見据える。
「椎名、そこへ座れ」
親父がそう指示した椅子に俺は大人しく腰掛けた。
「お前がなぜ呼ばれたかわかるか?」
「……レオン、いや、零麻の事について、だろ」
「そうだ。今日でお前と暮らし始めてひと月を越える。どうなんだ」
相変わらずこの親父は話を端折って言うから、俺はいつも返答に困るんだ。
「別にどうもこうもない。至って普通だよ。普通に暮らしてる」
俺がそっけなく答えると、親父は大きく溜め息をついた。
「そうではない。トラブルはないかと聞いているんだ」
「トラブルなんて何もない。そんなに気にするならカメラでも設置したらどうなんだよ」
「……質問を変えるぞ。お前は零麻を、零麻はお前を愛しているのか?」
まあそういう事が聞きたいんだろうなとはわかっていた。
しかし、俺とレオンのやつが二人で勝手に離婚する予定まで立てているなどと知ったら、この親父は激怒するだろうな。
「わかってはいると思うが、彼女は金宮家の長女だ。どこの馬の骨とも知れない輩においそれと渡せる品ではない。お前がきっちり愛して、お前も愛されるんだ」
相変わらずむかつく親父だ。完全にレオンのやつを商品以外の何物以外に見ていない。
「けど、あいつだって言ってたぞ。気にしてる人がいるってな。現段階でも俺の事を好いているようには見えない。だいたい無理やり同棲させればお互いを愛するようになるなんて、夢見すぎなんだよ」
「……なに?」
親父が怪訝な表情で声を低くした。が、俺は臆せずに続ける。
「いくらレオンが金宮家の長女で特殊な育ち方をしたといっても、あいつも普通の女の子だぞ。そりゃ好きなやつの一人や二人、別に出来るだろうが。俺だって例外じゃねぇ」
「ふむ。気にしてる人、か」
親父は何か勘付いたのか、勝手に一人で納得している。こういうところが特に気に入らない。
「椎名。お前は零麻を初めて見た時、どう思った?」
「はあ? 別に……まあ可愛い子だなとは思ったよ」
「お前は零麻の事をなんて呼ぶんだ?」
「なんだよ、どういう意味だよ!」
「なんて、呼ぶんだ?」
「……レオンだ。あいつがそう呼べって言ったからな」
「零麻が……そうか。で、零麻はお前をなんと呼ぶ?」
「……クズ、だ。変な女だよ。初っ端からいきなりクズ呼ばわりされるなんてな。まぁ今はもう慣れちゃってるし、俺もそれで構わないと思ってるけど」
「はっはっは! クズか。それはいいな」
珍しく、親父のやつが高笑いしている。
「では私もお前の事をクズと呼ぼうか」
「ふざけんな。だいたいなんなんだあいつ。あまりに世間知らず過ぎる。非常識にもほどがあるぞ」
「普通ではないだろうな。お前も聞いているだろう、彼女の育った環境は」
「そりゃ、まあ……。それにしたって、初対面の相手をどうしてクズ呼ばわりなんだ。いつまで経っても名前で俺を呼ばないし」
たまに『あつかましいな』って大きく間違えた名前を言うけど。
「くっくっく。クズとは、実に素晴らしい名前をもらったな。役所に行ってお前の本名にするか」
「マジで勘弁してくれ……」
この親父の場合、本気でやりかねないから怖い。俺がガキの頃に冗談で『将来はパパの跡継ぎになる』とか言ってたら、まだ年端も行かない俺に対して本気の誓約書に印を残させようとしてきたくらいだからな。
「しかし椎名。今日お前の報告は、私に素晴らしい事実を教えてくれたぞ。おかげで安心できそうだ」
満足そうに親父は微笑む。こんな穏やかな親父の表情を見るのは数年ぶりかもしれない。
「どういう意味だよ? 一人で納得してないでたまには俺にもちゃんと説明しろ」
「ふむ」
親父はくるり、と再びチェアーを回し、俺に背を向けておもむろに立ち上がると、応接室内にある電話を手にとって、内線通話で誰かに何かを申し付けていた。ものの数秒ほど、会話を終えると、再び俺の前にあるチェアーに腰掛けた。
「いいか椎名。お前が名前で呼ばれないのは、彼女なりの理由があるんだろう」
「どんな理由だよ?」
「さてな、そこまではわからん。しかし呼ばない、という事実は大きな意味を持つぞ」
さっぱり言ってる意味がわからない。
「まあそれは私が口を出すべき事ではないな」
その含みが何を意味しているのか理解はできないが、親父がこれ以上何かを教えてくれる事はないというのだけはわかった。
と、そこで応接室の扉をノックする音が響く。親父がどうぞと声で招き入れると、東条さんが何かを大事そうに抱えて俺達の前まで持ってきた。加えて、俺達二人分のレモンティーが入ったカップを置いていくと、丁寧に一礼して部屋を出て行った。
「昔のアルバムだ。さっき電話して持ってこさせた。お前の幼少時代を見てみろ」
俺は言われるがまま、分厚いアルバムのページをめくっていった。俺が生まれた日付から丁寧に写真とコメントがついている。これを作ったのは東条さんらしい。なんでも、なかなか日本に帰って来れない俺の母親の為に、俺の成長を記録したものを作っておきたかったそうだ。
ちなみに母親は現在、フランスに滞在している。仕事の都合とからしいが、俺も詳しくはよく知らない。最後に会ったのは何年前だっただろうか、それすらもよく覚えていない。基本的に俺の育ての親は東条さんだったからな。
ページをめくり続けると、赤ん坊時代からよちよち歩きになり幼稚園に入園、とそこまでなんら目を引くような内容はなかった。次のページを開くまでは。
幼稚園時代では特に大きなイベントはなかったのか、それほど枚数の多くない写真の中、一番下に貼ってある写真に俺は目を奪われた。
「これ、は……」
正確には写真に添えられているコメントに目を奪われていた。
『幼稚園で れおんちゃんと』
そこには卒園式と書かれた看板の下で小さな男の子と女の子が二人仲良く手を繋ぎ、並んで笑っていた。そしてなぜだかわからないが、その写真を見ていると俺の体は小刻みに震えてくる。
「これ、レオン……か?」
れおん、という名前は正直珍しいと思う。なので直感的にこの『れおんちゃん』というのが、レオンだと思った。
更に気になった俺は次のページもめくった。しかし、その先からは一枚の写真も貼られておらず、そこで成長アルバムは終わっていたのだ。
突如、それまで黙っていた親父が口を開く。
「椎名。お前は自分が幼い頃、大きな事故にあった事を覚えているか?」
「いや? いつの頃だよ」
「まあ待て。重ねて聞くが、この家での生活で、お前の一番古い記憶はどこだ?」
「小学生時代、かな。小学校二年で九九を覚えるのに苦労して、東条さんと一緒に頑張って覚えようとした事だ」
「そうだろうな」
親父はまるで俺の答えがわかっていたような返答をした。
「それ以前の事は、まるでわからないだろう?」
確かに思い出せない。でも、それは別にただ忘れているだけなんじゃないのか。
「お前は五歳から七歳になるまでの二年間、ずっと脳の後遺症に伏していたのだ」
脳の後遺症? 一体どういう意味だ。そう尋ねようとする前に親父は続けた。
「その写真。卒園式でお前と零麻を撮影したのは東条だ。そしてその帰り道、信号無視のトラックと東条が運転していた車が衝突事故を起こした。その時に当たり所が悪くて、零麻とお前は生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだ。幸い、お前たちは峠を越えたが、頭を強く打っていてな。零麻もお前もすぐには目を覚まさなかった。そんな事故から二週間ほどたったある日、金宮家はどうしても仕事上の都合で遠くに引っ越さなければならなくなり、零麻は意識のないまま、遠くの病院まで移送となった。お前はそれからしばらくして目を覚ましたが、脳に少しだけ障害が残り、なかなかすぐには普通の生活を送る事が困難になっていたのだ。まぁ長いリハビリのおかげで普通に生活を送れるようになったが、事故以前の事はおろか、病院内で過ごした数ヶ月の事すらもお前は覚えていなかった」
という事はつまり、俺とレオンは昔からお互いを知り合っていた、のか。
とてもにわかには信じがたい話だ。
「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだよ」
「お前が過度に脅えるからだ。今も気づいているだろう、その震え」
そうだ。俺はなぜだかこの写真を見て、ずっと震えている。理由が自分でも全くわからない。しかし、怖いのだ。とにかく恐ろしい感情が渦巻いている。
「お前はあの事故以来、事故の日に起きた事象に少しでも触れると、異様に脅えるようになってしまった。多分、事故の恐怖が体に染み付いてしまったのだろう。一種のトラウマと同じだと思う。それで私も東条も黙っていた。幸いだったのは、事故後も東条の事だけは怯えたりしなかった事くらいか。ちなみに東条はその事に責任を感じてお前を写真で撮る事をやめてしまった。もしかしたら写真を撮る事も恐怖に感じてしまうかもしれないと東条が思ったのでな。だからそこでアルバムは終わっている」
よくよく考えてみると、俺は写真を撮った記憶があまりない。確かに写真を撮られるのは昔から好きではなかった。何が嫌なのかは自分でもよくわかってなかったが、無意識的に俺は昔の恐怖感から写真を撮られる事を毛嫌いしていたのだろうか。
「小学校の卒業記念写真撮影の時、お前はものすごく嫌がって校庭を走り回っていたのを覚えているか?」
「ああ。俺はすごい逃げたんだけど、結局先生に捕まっちゃって無理やり撮らされたんだ」
「そうだ。さすがに中学の時はいくらか自制心がついてきていたようだったがな」
「なんで今になって全部教えた?」
「もうお前もだいぶトラウマが和らいでいると判断したからだ。しかしそれでも零麻の事までは言うべきではないと考え、お前には許婚の零麻がどういった関係なのかを伏せておいた。それというのも、もしかしたらトラウマがまたお前を苦しめるかもしれないから、二人は初見という事にしようと東条が提案したからだ」
そうだったのか。そんな事、ちっとも知らなかった。
「実はな、零麻の方もお前とほぼ同じ様な症状だった。事故以前の記憶がないのだと金宮家から教えられていた。なので、双方初見という形で二人を出会わそうと決まったのだ」
「……それで、それを俺に教えてなんだっていうんだよ」
「零麻とお前の婚約は絶対だ。そこまではお前の知るところではない。しかし、当の本人達がまるでお互いを愛せない状況ではさすがに困る。だから教えてやる事にした」
「何を?」
「お前達二人の、命の絆をだ」
「命の絆? なんだソレ」
「事故のあった日。お前は大きな動脈が裂けていて、本当なら輸血しても間に合わないくらいくらいの大出血が起こるはずだった。しかしそれを覆いかぶさるように圧迫していた零麻が居たおかげでお前は一命を取り留めた。そして零麻の方は入院中、一度深夜に心肺停止状態になったのだが、お前が突然泣き叫びそれに気づいたナースがすぐさま医師を呼んだ為に処置が早くて蘇生する事ができた。まあ偶然といえば偶然で片付く話かもしれんが、それではつまらんだろう?」
それが本当なら俺とレオンには何か、見えない縁があるとでもいうのだろうか。確かにアイツは俺の家にやってきた時から傍若無人で、遠慮という言葉とは無縁の存在だとか思っていたが、居心地が悪いと思った事は、これまでに一度もない。それというのもアイツがああやって接してくるから、俺も変に気を使わないでいられるだけだと思っていたけれど。
けれど、そうじゃなくて、何かもっと、根本的にアイツの事を俺は――。
考え込む俺に、親父がもうひとつだけ教えてやろうと言葉を続けた。
「それはな――」
●○●○●
それから俺の城であるボロアパートに到着したのは午後の三時。レオンのやつが小腹を空かせて待っているだろうからと俺は、帰りの途中でうまそうなシュークリームとタイヤキを土産にした。
「おかえり。遅かったわねー」
玄関を開けると、ベッドでゴロゴロしながら俺が昨日買ってきた最新刊のライトノベルを読みふけっているレオンが目に飛び込む。うーん、完全に暇を持て余した主婦ですな。
「あ、ああ……」
俺は正直戸惑っていた。
親父から聞かされた話は事実なんだろうが、それを安易に受け入れられるほど俺の常識は簡単じゃない。
「おやつ買ってきたから食えよ」
「あら、クズのくせに気が利くじゃない。じゃあ紅茶も入れてきて」
うぅーん、やっぱりレオンはレオンですなあ。
俺は言われた通り、インスタントの紅茶を入れて、テーブルに置いた。それを見たレオンが読みかけのライトノベルに栞を挟んで、ベッドから飛び降りる。
「うわあ、おいしそうなシューの匂い! 私の手料理ほどじゃないけどねっ」
確かにあなたのパスタは甘かったです。主にスープが。
「あ、じゃあお礼に今日は私が料理しよっか?」
レオンがほくほく顔でシュークリームをがっつきながら言ったので、俺は丁重にお断りを入れた。あの料理は年一回だけでいい。
「それよりお前、あのラノベまだ俺読んでないんだから絶対内容を言うなよ」
俺はタイヤキをほおばりながら、レオンに注意を促す。
「はいはい。ね、それよりお父さんに何を言われてきたの? やっぱり私達の生活態度の事?」
「あ、うん、まあ」
「やっぱりかー。私もゴールデンウィークの時に親から散々言われたの。クズとうまくやれてるか、揉め事はないか、喧嘩はしてないか、とかね。ま、テキトーにハイハイ言ってごまかしたけど」
「そうか」
「けど、クズとは離婚しちゃうなんて知ったら、なんて言われちゃうんだろ。面倒な事になりそうよね」
「そうだな」
「だいたいなんで勝手に許婚とか決めちゃうのって話よね。完全に私達の人権なんてないようなもんよ」
「まあな」
「……ちょっとクズ。あんた、さっきから私の話聞いてるの?」
「あ、ああ。聞いてるよ。お前も災難だよな、俺なんかと無理やり生活させられるのは」
「災難ってほどじゃないわよ。ただ、親が勝手すぎって言ってるの」
「そう、だな」
親父の話を聞いて、そして、それでも、俺にはレオンが理解できない。
今、ここにいるレオンは本当に俺と幼稚園時代で共に過ごしたレオンなのだろうか。あの話も全部作り話で、実は親父のやつが俺達の結婚を促す為に言った嘘かもしれない。
命の絆、なんて格好いい事を親父は言っていたが、別にどれもただの偶然だし、当時のレオンが俺の事を本心でどう思っていたのかは誰にもわからない。
「ねぇクズ」
「ん?」
「あんたはさ、私と生活するの、イヤ?」
不意にレオンが、今までしなかった初めての質問を俺にぶつけてきた。
「な、なんだよ急に」
「あんたはさ、よく私に言うじゃない。無理やりやらされてって。それはあんただって同じでしょ。だから聞いてるの。イヤ?」
「べ、別に。イヤなんかじゃ、ねぇよ」
「そっか。まあ当然といえば当然よね。私ほどの美少女が一緒に居て嫌がる男がいるわけないもん」
まあ、間違っていない。けど、そういうのは自分で言っちゃ駄目な気がする。
「ちょっと俺、買い忘れたものがあるからもう一回出かけてくるわ」
「そうなの? いってらっしゃい。私はさっきの続き読んでるわね」
なんとなく落ち着かない俺は、特に買う予定のものなどなかったのだが、ただ家から出ていたかった。
●○●○●
夕闇が迫り始めた街中をのんびりと俺はぶらつく。
幸い雨は止んでいたおかげで傘を差す手間が省けたのはよかった。
目的もなく家を出てきたが、そういう時はいつも立ち寄る本屋に行くのが隠れた習慣だった俺は、今日も立ち読みがてらにその書店に向かっている。
それにしてもレオンの事がわからない。
親父はあんな事を言っていたが、それとレオンが俺の名を呼ばない事に何か意味があるのかについてはさっぱり不明だ。
俺とレオンを無理やり婚約させようとしている理由は、実はおおよそ見当がついている。親父が政界に大きなコネクションを得ようとしているのだ。レオンの祖父は知る人ぞ知る、政界では大派閥の大御所で、その息子、つまりレオンの父親もまた大きな権力を持った政治家であり、金宮家と関係が濃くなれば親父の業界も色々と話が通しやすくなるという事なのだろう。以前に東条さんと親父がそんな会話をしていたのをこっそり聞いていたのだ。
わからないのは単純にレオンの事だ。あいつの本心がさっぱりわからない。
だいたい俺とレオンが実は幼馴染だとわかったからとはいえ、それで何がどう変わるわけでもない。そもそもどうして親父はそんな話を俺にしたのか真相は不明だ。
『――零麻は昔の事を覚えているのかもしれん』
不意に親父が最後に教えてくれた言葉を思い出す。
昔の事、というのは俺と共に過ごした幼少時代の事だろうが、さすがに親父もそれ以上の事は教えてくれなかった。
昔の事を覚えている、という事は、一体どういう意味なんだろう。
親父は直接レオンに聞いてみろとか言っていたが、俺にはそれが出来ずにいた。多分、それが出来ればこのもやもやした霧のような心も多少は晴れるのだろうが、その代わりにこの妙な関係が崩されてしまいそうなのが一番嫌だった。
よく考えてみれば別に俺とレオンが昔馴染みの関係だったからとはいえ、それで現状の何が変わるわけでもない。レオンに聞こうが聞くまいが結局はこの生活が続く。だったら深く考えずに聞いてみればいいのだろか。
いや、ダメだ。
レオンが本当に昔の何かを知っていて、しかし黙っているという事はつまり何か意味があるという事。きっとそれが俺に知れてしまうと、この関係に支障をきたすという事なのだと俺は直感的に思った。
俺は今の関係が、嫌いではない。
かなり常識知らずで、典型的なツンデレで、相手をすると疲れる事の多いレオンのやつと過ごしているこの生活が、地味に心地よかったりする。
俺の家族の思い出は、ほとんどを東条さんと過ごした記憶しかない。親父はたまに顔見せに会うくらいだし、母親になど指折りでしか会った記憶しかない。俺は東条さんが優しくて楽しくて好きだったが、それでも彼が執事であるという事は幼い頃からわかっていたし、彼が厚真家からしたらただの他人である事もわかっていた。
俺は家族愛、というものに飢えていたのかもしれない。それで仮初めの許婚とはいえ共に将来を誓ったレオンという存在に心が依りかかっているのかもしれない。
俺はハッとして店内の時計を見やる。かなり考え込んでしまっていたようで、だいぶ時間が過ぎてしまった。そろそろ返って夕食の支度をしないとまたレオンが不貞腐れてしまう。俺は少し足早に家へ戻る事にした。
●○●○●
玄関を開けると、部屋中の明かりをつけっぱなしでレオンのやつは居間で眠っていた。テーブルにはスナック菓子の袋が開けられたまま、両手には読みかけのライトノベルを開き、顔をテーブルにうつ伏せている。その寝顔は実に穏やかであどけない子供のようだ。
「えへへ……」
寝言で笑っているレオンを見て、俺も思わず含み笑いしてしまう。ちょっと可愛い。
と、思ったら口からよだれを垂らしてニヤニヤ笑っている。ちょっと気持ち悪い。
「クズがぁ……三角形だわぁ……」
いや、三角形て。
「一体どんな夢見てんだこいつ……」
俺は呆れた表情で、毛布を一枚取り出しそれをレオンの背にそっと掛けた。
そういえば、こいつは俺の事をずっとクズ呼ばわりしているけど、それにも意味があるとかなんとか親父が言っていたな。いや、名前を呼ばない事に意味がある、って言ってたんだっけ。でもそれだって別に深い意味なんかまるでなくて、ただ単純にこいつがそういうあだ名をつけただけにすぎない。新井だってずっとサル呼ばわりされてるし。
せっかくの日曜日だというのに今日はなんだかすっきりしない休みになってしまった。明日からはまた学校だし、今日は俺も早めに眠ろう。
もう、うだうだ考えるのはやめるか。考えたって何もわかるわけじゃない。明日からまたいつも通り、この仮初めの嫁と過ごす日々は続くんだ。
●○●○●
その晩、俺は夢を見た。
それはひどく懐かしい内容。幼稚園児だった頃の俺と、その隣で微笑む可愛らしい少女。
俺達は園内にひとつしかない子供用のブランコを交代で使い、仲良く遊んでいる。
「はい、こんどはれおんちゃんのばんだよ」
俺はそう言って、彼女をブランコに座らせる。
「○○、おしておしてー」
彼女は俺の名を呼びながら、ブランコを押せとせがむ。俺は一生懸命にその要望に答えブランコを漕いであげた。
夢とは不思議なもので、俺にはこれが第三者の視点から見えている。しかし、どうしても彼女が先ほどから幾度も呼んでいる俺の名前がはっきりと聞き取れない。
「あのね、わたし、しょうらい○○のおよめさんになる!」
俺の押すブランコに揺られながら、彼女は無邪気に言った。
夢の彼女を俺はれおんと呼んでいる。果たしてこのれおんが嫁のレオンなのかはわからない。
夢など所詮記憶から作られた産物。こんな無邪気で素直な子がレオンのはずがない。俺は親父の話を真に受けすぎてこんな夢を見ているのだろう。
「はずかしいから、やめてよ!」
しかし夢の俺は、そんなレオンの言葉を拒否していた。
「それに、そのよびかたもやめてっていつも言ってるじゃん」
呼び方?
彼女は俺をなんと呼んでいたんだろうか。
しかし照れながらも俺は彼女のブランコを押し続けてあげた。
「だって、ふうふになるふたりがみょうじでよびあうのはおかしいよ?」
小さなれおんがそう言う。彼女は姓ではなく名で俺を呼んでいたのか。
「だって、みんなにからかわれるんだもん。あつまって呼んでよ」
そうだ。俺は幼い頃、彼女にあだ名で呼ばれる事を嫌った。彼女はほかに遊ぶ友達がいなかったが、俺にはれおん以外に仲のいい男の子とかがいて、そいつらに冷やかされるのがものすごくイヤだったんだ。
「でも○○はわたしのこと、れおんちゃんってよぶじゃん!」
「それは……」
そう、それはレオンのやつがそう呼べって初めて会った時に……。いや、それは今のレオンがそう言ったんだ。この幼きレオンが言ったわけじゃない。
「だからわたしは変えない、ね?」
そう言いながられおんはニッコリと満面の笑みを浮かべて、子供の俺にではなく、それを第三者の視点から眺めているこの俺に向かって、その名を呼んだ。
●○●○●
「……くそ」
時刻は夜中の二時。中途半端な時間に目覚めてしまった。
相変わらず夢というのは勝手なやつで、曖昧な状態で記憶に残す。
「あいつは俺の事、なんて呼んでたんだ……?」
俺は、俺自身に問い掛けるかのように呟く。が、どうしても思い出せなかった。
「お前は、本当に今でも覚えているのか……?」
俺はいまだ布団で安らかに眠るレオンを見て、一人小さく呟いた。