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13 重い想いと俺と嫁


 俺は今、夢を見ている。この夢は儚い。


 夢が儚い、などと自身で理解できるのはこれが自分で夢だと理解しているからだ。


 親の決めたレールにただ従って生きてきた俺と女の子は、どこかの公園のブランコで腰かけていた。俺たちは互いの境遇が似ていた。


 女の子の表情は暗くモヤが掛かってハッキリと窺い知れないが、酷く悲しそうな雰囲気だけを感じ取る事ができる。


「もう、会えないよ」


 女の子は沈んだ口調で言った。


 俺は心で幾度となく叫んでいた。そんなことはない、俺が一生守るからついてきてほしい。心でそう思っていても叫べない。夢のくせに思っている事すら言えないなんてお笑い種だ。


「だから、これは餞別」


 そう言いながら女の子は俺に今まで見せた事のない表情で、潤んだ瞳で、俺にそっと口づけを交わした。俺はその口づけを受けた瞬間、ああこれが最初で最後のキスなんだ、と思い胸が張り裂けそうな気持ちと共に両目を見開いたままただ、涙を流していた。


 そして女の子は目の前から消滅していった。


「大丈夫ですか? 椎名さま」

「……ん」


 東条さんの声で現実世界に戻る。


 いつの間にか東条さんの運転する車内、その助手席で眠っていたようだ。


「これを」


 東条さんは正面を向いたまま、右手で俺にハンカチを差し出す。


「あ、うん。大丈夫」


 夢で流した涙だけは現実でも流れていたようで、気恥ずかしさからハンカチを受け取る事は拒み、腕でぐいっと涙の跡をぬぐった。


 東条さんは何も言わず、差し出したハンカチを自身のスーツの内ポケットに戻す。


「俺、結構寝てた?」

「あっちを出た頃、無理して私に付き合って起きていましたからね、お疲れだったようです。十時間近くは眠っていたと思います」

「そっか、ごめん」

「それより窓の外をご覧ください。絶景ですよ」


 東条さんに言われた俺は助手席から周囲の景色を見やる。


 今は大きな橋を渡っているところだったようで、水辺の周りに様々な明かりが色鮮やかに煌めき、見たことのない素晴らしい夜景を目にして、俺は瞬間心奪われた。


「もうしばらくすると目的の長崎市に着きます」


 車内の時計を確認する。夜の九時をちょうど過ぎたところだ。


 東条さんはほんとに寝ずにずっと運転してきたのか。


「金宮邸に直接伺いますが、それでよろしいですか?」

「うん」


 俺には他に考えられる選択肢もない。東条さんの言葉にこくんと頷く。


「ねぇ、東条さん」

「はい」

「やっぱり直接行っても会わせてはもらえない、かな?」

「……難しそうでございます。椎名さまがお休みになっていた頃、一度京平さまから連絡がありました。どうやら金宮 孝明氏から正式に許嫁の件は無しにしてくれとの申し出だったようです。加えて零麻さまは本日限りで六間高校を退学し、地元……この長崎で別の高校へ編入させるようです」

「……すごい展開が早いな」

「孝明氏は行動派ですから」

「……俺の親父もだけど、あいつの親父も勝手だな。よくレオンは癇癪を起さないな」

「ここだけの話ですが、零麻さまは実は昔、幾度も家出をしてらっしゃいます。ですが、その度に孝明氏に連れ戻されていたようです。その上、そういった事を零麻さまが行う度に孝明氏の零麻さまに対する束縛は強くなっていったとの事です」


 当然といえば当然か。レオンのあの勝ち気な性格だ。大人しくしろっていう方が無理がある。


「椎名さま、まだ金宮邸までは距離があります。少しだけ昔話を致しましょうか」

「昔話?」

「金宮家がまだ厚真家の周辺、関東に住んでいた頃でございます。あなたさまのお父上である京平さまと孝明氏は幼い頃からの親友でした。親友でありながら二人は共に同じ女性を愛してしまったのです。結果から申してしまいますと、その女性は結局孝明氏の奥方となり、京平さまは別の方と結ばれました。京平さまは今でもちゃんと椎名さまのお母上を愛しております。しかし京平さまは若き頃の自分の無念を悔いてもおられるのです」

「無念?」

「言い方は悪いですが、京平さまは逃げたのです。孝明氏と共に一度は愛したその女性から。なぜなら京平さまも椎名さま同様、親……つまり椎名さまのお祖父さまになりますね、に、婚約相手を定められていたのです。お祖父さまはとても厳格な方でございました。京平さまに対し、お祖父さまが決めた相手と結婚されないのなら厚真家から勘当すると言われ、京平さまはその恐怖から逃げてしまわれたのです」

「そんな事が……」

「京平さまは自分が椎名さまに対して、お祖父さまと同じ事をしていらっしゃる事を実に悔いています。しかし京平さまは厚真コンツェルンを束ねるお方。いつしか、自分の全てを椎名さまに譲る為には椎名さまを厳しく育てなければという思いが勝ってしまったのでしょう。それでも、椎名さまが本気で愛せる方が現れるのなら、京平さまはそれを許そうとお考えになっていたようです」

「だけどなんで俺とレオンが許嫁に?」

「……理由は二つでございます。ひとつは京平さまの未練でございましょう」

「未練?」

「孝明氏の奥方に気持ちを伝える事が出来なかった京平さまはせめて、その子供を自分の子供と結ばせたいとお考えになったようです」


 それだけでも十分勝手すぎる、と思ったがあえて口にはしなかった。


「もうひとつは力でございます。当時、金宮家はバブルが弾けたショックで相当な危機に陥っていました。それを金銭で全面的にフォローしたのが厚真家でございます。その恩を利用し京平さまは孝明氏に子供同士を許嫁にしようと提案なさいました。京平さまは先を見越しておられました。当時の段階で金銭面さえクリアしてしまえば金宮家は政界に更なる発展をしていくと読んだのです。現に今はその通りになりました」

「親父は政界にも手を伸ばしたいって事か……」

「そういう事でございます。長話が過ぎましたね」


 あの恐ろしい親父がまさか、自分の好きだった女の人の事でそこまで躍起になるとは思わなかった。


 しかしもっと勝手なのはレオンの親父だ。


 どこまでが事実かは今の俺には聞いた話でしか理解できないが、昔助けてもらった恩などどこ吹く風か、自分に不利な影響を察知した途端俺とレオンの婚約を破棄するなんて。


「椎名さま。見えてまいりました」


 広い街路樹通りを抜けたあたりで、東条さんがひとつの明かりを指差した。


「あそこが金宮邸でございます」


 俺はごくり、と唾を飲んだ。


 本当にここまで来てしまった。しかし本当に俺はレオンに会えるのか。門前払いされるだけで何も得るものはないんじゃないのか。不安が増長していく。


 車はゆっくりと速度を落とし、大きな邸門の前で停止した。


「……椎名さま、これを」


 東条さんはそう言うと、やや大き目な紙袋を後部座席から取り出し俺に手渡した。


「少々非常識な時間帯での急な訪問にございます。手ぶらというわけにはいくますまい」

「……ありがとう」

「ご検討をお祈りします」


 俺は東条さんの目を見て小さく頷き、車から降りた。



        ●○●○●



 優に豪邸と見てとれる邸門から続く長く大きな外壁は、その圧迫感だけでレオンとは会わせまいとする雰囲気を漂わせた。


 一度だけ大きく深呼吸をし、意を決して俺は邸門のインターフォンを鳴らす。


 やや間をあけてから、インターフォン越しにマイクのノイズが入り出した。


「はい」


 マイク越しの声は女性で、若々しい感じだ。


「あ、あの、俺、厚真椎名って言います。その、レオ、零麻さんに会わせてもらいたくてお訪ねしました」

「厚真椎名さま、でございますね。少々お待ちください」


 心臓の鼓動は早く、強く鳴っている。


 この少しの間が俺にはとても長く感じられた。


「厚真椎名さま、申し訳ございません。零麻様はすでにお休みになられていますので今日はお引き取り下さい」


 予想通りの拒絶であった。


 多分この女中さんらしき人は確認をしてきたのだろう。しかしレオンではなく父親の孝明に確認してきているはずだ。このまま引き下がってはレオンには何も伝わらず帰るだけになってしまう。


「あ、あの! ちょっとだけでいいんです! どうしても渡したい物があって……。レオン、いや、零麻さんの大切な物を俺の家に忘れてしまっていたみたいだから! お願いします!」

「……少々お待ちください」


 再び女中らしき声はその場を離れたようだった。


 が、今度は先ほどよりも早くに戻ってきた。


「そのようなものはないそうなので、どうぞお引き取り下さい」


 明らかな拒絶。


 これはもう間違いない、すぐ傍でレオンの父親がいるのだと直感した。


 どうする、困った。だがこのまま帰るわけにはいかない。しかし言い訳に利用したこのラノベをただ置いていっても間違いなくレオンには届かない。


「お、お願いします! 一目だけでいい! レオンに会わせてください!」


 妙案など浮かぶはずもなく、俺はただインターフォン越しに叫ぶ。


「厚真椎名さま、申し訳ございません。お引き取り下さい」


 しかし相手からは同じ返ししかない。


 それでも俺は可能な限り声に出す。それしか出来ない。


「お願いします! どうしてもこれを届けたいんだ!」

「必要ございません。お引き取り下さい」

「頼む! 会いたいんだ! レオンに!」

「申し訳ございません、お引き取りを」

「会わせてくれ! 頼むよ! レオンに……俺はどうしても伝えなくちゃならない事があるんだよッ!」

「申し訳ございません、どうかお引き取りを」

「頼むって! これは俺とレオンの問題なんだよ! 俺の親父もレオンのお父さんも関係ないんだ!」

「お引き取り下さい」

「なんでだよ……俺はただ会いたいだけなんだよ! 会わせてくれよ!」

「申し訳ありません厚真椎名さま。どうかお引き取り願います」


 いい加減痺れを切らしたのか、インターフォンはそれを最後にブツっと切れてしまった。


「くそ……どうすりゃ……いいんだよ」


 俺はその場で膝から崩れ落ちるしかなかった。


 やはり俺みたいなガキの力ではどうすることもできない。痛烈に感じさせられた。


 勢いでここまで来た。東条さんに大変な迷惑をかけてまでここまで来てみた。道中には、一種のヒロイックな感情にも陥って、到着してしまえばなんとかなると勝手に思い込んでいた。


 しかし、やはり現実は甘くなかった。


 俺のような小僧の言い分など聞く耳すら持ってもらえない。


「レオン……お前は……」


 お前は今、どう思っているんだ。


 静まり返る夜は、何も答えてはくれなかった。



        ●○●○●



 どのくらいその場で沈んでいただろうか。


 ここで待っていてもドラマやアニメの様な奇跡的な展開なんか起こりうるはずもない。


 そうだ、これが現実なのだ。


 もはや手だては何もない。


 帰るしかないのか。


 ――そんな風に思い始めていたその時。


 ピリリっと携帯が音を鳴らした。この音はメールの着信音だ。


 俺は呆けた意識のまま携帯をポケットから取り出す。


 相手の名前がない。というよりアドレスしか載っていない。件名もない。


 不審に思いながらメールを開く。


「……これは!」


 俺は少しだけその内容に戸惑ったが、すぐに思考は再起した。


 いつまでもこんな所で腐っている場合ではない!


 俺は、急ぎ東条さんが待っている車の助手席に乗り込む。


「椎名さま……」


 東条さんは掛ける言葉が見つからない、といった表情で俺の名を呼んだ。


 失敗に終わったと思ったのだろう。が、違う。俺には最後のチャンスがある。先のメールだ。


「東条さん! すぐに裏手へ回ってくれ!」


 金宮邸は外壁ぐるっと一周が道路で囲まれている。走るより車で道沿いに裏手へ行く方が早い。


「かしこまりました」


 東条さんは俺の言葉に何かをすぐ察したようで、すぐに車を出した。


 最後の希望。ラストチャンス。


 確かに現実は甘くない。


 しかし事実は小説よりも奇なり、だ。


 実際に起こりえた、僅かな道しるべ。


 それが先のメールの内容。


『裏 勝手口 あけてある』


 アドレスしか記載されていないメール。つまり俺の知っている誰かではない。


 しかし俺のアドレスを知っている者。これは間違いなくレオンだ。


 レオンは携帯を持っていない。しかしこれはレオンが誰かの携帯を利用して俺に送ってきたメールに間違いない。この状況で他の可能性はまずないはずだ。


 レオンは気づいていたんだ。俺が訪ねてきていた事に。


 でもきっとすぐに金宮家の誰かにバレてしまうだろう。だからこれは本当に僅かなチャンス。


「椎名さま、少し離れたここに車は停めておきます」

「わかった、いってくる!」


 東条さんはニッコリと優しく微笑み頷いた。


 俺は車から飛び出して勝手口の方へ走った。


 白い外壁の途中、ポツンと小さく茶色の木製扉が窺える。あれが勝手口だろう。


 俺は必要以上に周囲を気にしながらその勝手口の扉へ手を伸ばした。


「……よし」


 確かに鍵は開いている。


 俺はゆっくりと扉を開き、中へと足を踏み入れた。


 裏庭のようになっているのか、中は整えられた木々が生い茂っている。


 勝手口の扉からは石畳のようになっている道筋が、邸宅へ向かって伸びている。


 俺は周辺を見まわしながらその道をゆっくり進んだ。


「いて!」


 途中、何かが側頭部に飛んできて当たった。


 落ちたのは小さな軽石。


 投げられた方を俺が見ると、そこには見慣れたあいつがいた。


「クズ、こっち」


 レオンだ。


 整えられた繁みの中で身を潜めるようにあいつはいた。


 たった一日とちょっと会えなかっただけなのに、無性に懐かしく感じるあの顔を見れた。


「レオン!」


 俺は思わず声を上げて名を呼んでしまう。


「しー! 早く、こっち!」


 レオンが手招きをする。


 俺は走ってレオンの元へと駆け寄った。


「レオン、俺は……」

「とりあえず私の部屋きて。ここじゃ女中さんに見つかっちゃう」


 俺はこくんと頷いてレオンに導かれるまま、その後についていった。



        ●○●○●



 レオンの部屋は邸宅2Fに位置している。


 すごいというか呆れたというか、レオンのやつは縄のロープを自身の部屋の窓から垂らして降りてきていたので、俺とレオンはそのロープを使って部屋まで登った。


 窓から女の子の部屋に入る、なんてシチュエーションはそうそうないはずだ。我ながら今、自分が行っている行為が可笑しくなってきた。


 部屋の中は電気スタンドから溢れるほんの少しの明かりに照らされている。そこはまさに女の子の部屋、といった感じにピンク色の星柄カーテンとピンクの絨毯、それに大小様々なぬいぐるみが無数に置かれていた。


 また、女の子独特の匂い、というものだろうか。何とも言えない良い匂いがした。まぁそれはただのアロマオイルの匂いだったのだが。


「しっかしお前、その縄は一体どうしたんだ?」


 俺は部屋を見回しながら言った。


「パパに黙って遊び行くとき、昔からよく使ってるの」


 窓から垂れているロープを回収しながらレオンが答える。


 そういえば東条さんが言っていたな。何度も家出してたって。これを使ってたのか。


 レオンは縄を回収し終え、窓を閉めた。


「あんたって案外バカなのね……」


 レオンはベッドに腰を下ろしながら呆れるように言った。


 俺は適当な座布団をひとつとり、そこへ座り込む。


「うるせーよ。だって、仕方ないだろ」

「ほんとバカ。だいたいこんな時間に女の子の家に訪ねるやつなんていないわよ」

「しょうがねーだろ……」

「っていうかこんな所までよくこれたわね」

「東条さんっていうウチの執事さんが運転してきてくれたんだ」

「ええ!? 運転って……ここまで車で来たの!?」

「ああ、いてもたってもいられなくってな」

「あきれた……あんたってほんとバカね」

「これを……届けたかった」


 俺は立ち上がり、手荷物の中にある一冊のライトノベルを手に取った。


「お前、読みかけだったろ」

「あ、うん」


 俺はそれを手渡そうとレオンの元へ歩み寄る。


「うわっ!」

「きゃっ!?」


 しかし部屋の中は薄暗く、俺は何かに足を引っかけ思わず躓き、レオンに覆いかぶさるような恰好になってしまった。


 レオンの顔が、目の前にまで接近していた。


 俺もレオンも、薄暗い部屋の中ですら見てわかるくらいに顔を紅潮させている。


「……わ、わるい」

「へ、へいき」


 お互いそれだけを言って、動かずに黙す。


 しかし。


「!?」


 レオンは突然動いた。目を瞑りながら。


 俺の目の前にいたはずのレオンはすでに眼前にまでに。


 瞳を閉じたまま。


 同時に柔らかく、熱のこもった唇が、俺の口元に触れている。


 ――生まれて初めてのキスだった。


 永遠なのかと思うほどにその時間は長く感じられた。


 ほどなくして、ゆっくりとレオンは唇を離す。 


「レ、レオン……?」

「……続きよ」

「続き……?」

「……劇の」


 ああ、そうか。


 レオンが父親に連れ去られるあの日、確か部活でそんなシーンを演じていた事を思い出す。


「レオン、俺はお前と一緒にまた住みたい」


 俺は考えるより早く、その言葉が出ていた。


 しかしレオンは首を横に振る。


「無理。パパたちが言ってたでしょ……。私たちの許嫁は終わったの」

「知ってる。だけど、そんなの関係ないだろ」

「無理よ……」


 レオンは俺から目を反らす。


「レオン、俺も親父から勘当されるかもしれないし、そんな事で怖がっていた時もあった。だけど……」


 俺がそこまで言いかけたその時。


 コンコンっという部屋の扉を叩く音が響く。


「パパだわ!」


 俺とレオンは飛び上がり、その場で身構えた。


「どうしよう、クズ! どっかに隠れて!」

「ど、どっかってどこだよ!?」


 俺たちがそんな問答をしていると扉越しから声が届いてきた。


「零麻、寝ているのか? 話がある、鍵を開けなさい」


 幸い施錠してあった為、突然入られる事はなかったが、このままでは時間の問題だ。


 しかし、もう俺は決めていた。だから次に起こした行動は考えるより早く、体が動いていた。


「レオン、縄を外に出すぞ!」

「え、クズ!?」


 まだ縄はベッドの足に括りつけられたままだったので、俺はそれを窓の外へ勢いよく放り投げる。


「行こう、レオン!」

「い、いくって……」

「レオン。聞いてくれ!」


 戸惑うレオンに俺は意を決した。


 迷いなんて、もはやない。


「零麻? 何かしているのか?」


 扉越しにレオンの父親の声が響く。


 そんな事は知った事か。


 今、この時しかないんだ。


「俺はレオン!」


 窓に垂らされたロープに捕まりつつ、片方の腕をレオンへ向かって伸ばした。


 手を差し伸べて、そして言った。


「お前が好きだ!」

「……ッ!!」


 レオンが絶句したまま瞳を見開く。


「考えたんだ、東条さんの運転する車の中でずっと。俺はレオンと一緒にいたい。だけど、家庭の事情で大層な理由がある。一緒に居てはいけなくなった理由がある。でも、でもそんなの関係ないだろ!? 俺は、厚真椎名は! レオンが好きだ! 金宮 零麻が好きなんだよ! レオン、お前が俺の事を何とも思えないならこの手を取らなくてもいい! 十秒だけ、待つ!」


 人生初の告白は、なんとも不恰好で、なんとも余裕のないものになった。いや、余裕がなかったからこそ俺は言えたんだと思う。


「零麻!? おい、そこに誰かいるのか!? ここを開けなさい!」


 俺の叫ぶ声が聞こえたのだろう、レオンの父親が扉越しに声を荒げている。


 レオンが俺の手を取らない選択をする可能性も僅かに頭をよぎった。


 が。




「バカシイ!」




 レオンは初めてその名を呼びながら。


 瞳にわずかな涙を浮かべて。


 十など数える必要もない。瞬間に俺の手を掴んだ。


 ――ああ、そうだ。


 俺、『シイ』って呼ばれてたんだ。


 ガキの頃、シイって呼ばれていたんだ。コイツに。


 どうして、そう呼ばれてたのかも、どうして、そう呼ばなくなったのかも、やっとわかった。


 ようやく、何もかもわかったよ。


 記憶がフラッシュバックされていく。



        ●○●○●



 そう、あれは幼稚園の頃だ。


 俺は親父に言われていた。金宮 零麻ちゃんと仲良くしなさいって。だけどまだ俺もガキだ。幼稚園で女の子なんかと仲良く出来ないってつまらないプライドを持っていた。


「初めまして。わたし、かなみや れお。あつま しいなくんだよね?」


 幼稚園でレオンに初めて出会ったのは、俺が独りでブランコで遊んでいた時だ。


「うん」

「いっしょにあそぼう? ブランコわたしものせて!」


 そうだ。


 レオンは小さな頃から活発で、元気な子だった。


 だけど反対に俺は内気で、独りでブランコ遊びするのが好きな大人しいやつだった。だからこいつにブランコを取られるのが嫌だったんだ。


「やだ。ブランコいっこしかないもん」

「じゃあこうたいでやろうよ」

「やだよ、あっちいけよ!」


 俺はそんな風に冷たくあしらってしまったんだ。


 レオンは悲しそうな顔をしてとぼとぼ離れて行った。でもそんなレオンに年長組の子供たちが集まって行って、こう言ってたんだ。


「おまえ、あんなやつのところいくなよ! あいつひとりぼっちできもちわりーやつだから近づくとおまえもあつま菌のなかまにするぞ!」


 年長組の男の子たちは日ごろから俺の事を嫌ってた。それというのもやはりブランコの取り合いで俺がぶったり蹴ったりして年長組の子を泣かせてしまったせいだ。


「なによ、あつま菌ってばっかじゃないの!」


 だけど、レオンは逆にそう言って、また俺の元へ戻ってきたんだ。それでブランコをこいでた俺を突然突き飛ばしたんだ。


 びっくりした俺はポカンとしていた。そしたらレオンはブランコを奪ってこう言ったんだ。


「これでわたしのだもん!」


 そんなことしてくるやつなんか居なかったから、俺は突き飛ばされておいてなんだか可笑しくなっちまったんだ。女のくせに変なやつだ、って。


「あははは! れおんちゃんってへんなの!」


 俺は服が泥だらけになりながら、笑って言った。


「なによそのへんな呼びかたー?」

「だって、らいおんみたいにきょうぼうなんだもん。れおとらいおん、合体してれおんだよ!」


 そうだ。


 俺が、初めてそう呼んだんだ。れおん、て。


「れおん、か。へへ、かっこいいね! じゃあわたしはあつまくんのこと、シイって呼ぶ!」

「シイ?」

「おとなしいおとこのこだから、おとなシイ!」

「えーなんだよそれー」


 そんな風にして、それから彼女は毎日俺の事をシイって呼んでくっついて回ってきた。


 それを見た周りの子たちが俺の事をからかうから、俺はちょっとその呼び名が好きじゃなかったんだ。


 レオンは活発だったが、俺以外の子と遊ぼうとはしなかった。


 今思えば当時から父親に俺以外の子と遊んじゃダメだ、とでも言われていたのだろうと思う。


 何日も経って、いつの間にか俺たちは二人だけでブランコで遊ぶようになっていた。


 そんな時、突然レオンのやつが言ったんだ。


「あのね、わたし、しょうらいシイのおよめさんになる!」

「はずかしいからやめてよ! それにその呼びかたもやめてよ!」


 シイって呼ばれるのが本当に嫌だった理由は、実はからかわれるだけではなかった。


 大人しいって由来からつけられた事が気に入らなかったんだ。


 俺は親父に散々言われていた。女性を守れるくらい心も体も強くなれ、と。だから強気なレオンから弱々しいやつって思われるのが格好悪くてイヤだったんだ。多分、そのくらいの頃からレオンの事が、もう好きだったんだと思う。


「でも、シイはわたしのこと、れおんちゃんってよぶじゃん!」


 それはレオンがかっこいいって言ってくれたからだ。


 俺は、俺が作ったあだ名が我ながらかっこいいと思ったし、レオンもそれを喜んでくれていたのが何よりも嬉しかったんだ。


「だから、わたしは変えない、ね?」


 だけど、その後、俺とレオンは事故を起してから会う事はなくなった。


 俺はレオンの存在も、思い出も忘れ去っていた。


 そう……だ。


 親父から、聞いている。俺は聞いているじゃないかッ!


『お前が名前で呼ばれないのは彼女なりの理由がある』


 原因は、きっと、これだったんだ。


 レオンはずっと、全てを覚えていた。


 しかし当の俺は全てを忘れるどころか、逆に事故のトラウマが強く根付いていた。


 その事を聞かされていたんだ、レオンは。だから。


 だからレオンは……。


 レオンは……。レオンは……。


 レオンは俺を、こんなクズ野郎を気遣って、名前で呼ぶのを避けていた!


 俺がトラウマに怯えてしまうかもしれない事を危惧して!


 俺は、とんでもない思い違いをしていた。


 何も覚えてない俺と少しでも打ち解けたくて、俺の家に来た時、あんな傍若無人っぷりをわざとやってみせて。


 だけど、レオンはどうしても気になった。だから、俺に言った。


『レオンって呼びなさい』


 って。


 その時、ああ、そうだ。思い出した。その時、俺こう言ったんだ。


「なんだかその呼び名、怖いな」


 って。


 俺は意図して言ったんじゃない。だけどレオンにとったらきっとショックだったはずだ。同時にレオンは察したんだ。俺がまだトラウマに蝕まれている可能性があるかもしれない、と。だから、俺の事を呼ばなかった。俺の名前を呼べなかったんだッ!


 俺は記憶の復帰と共に、レオンに対する罪悪感で一杯になっていった。

 


        ●○●○●



「東条さん、悪い、すぐ出してくれ!」


 金宮邸から逃げるように、俺とレオンは東条さんの待つ車に乗り込んだ。


「椎名さまに零麻さま!?」


 いつも冷静な東条さんもまさかレオンが来るとは想定していなかったのだろう、さすがに驚きを隠せない表情だったが、


「椎名さま、その選択でよろしいのですね?」


 途端に重々しい顔つきになり、俺の目を見てそう告げた。


 しかし俺は東条さんの目をまっすぐに見つめて、大きくしっかりと頷いた。


「零麻さまもよろしいのですね?」


 レオンも同じく、黙って頷いた。


「……かしこまりました。では」


 東条さんは車のエンジンをかけ、黒塗りのベンツは走り出す。


 俺とレオンは後部座席で二人並んで、離れていく金宮邸を見つめた。


「レオン」


 俺はレオンの目を見ないで名を呼んだ。


「……なに」


 レオンも俺とは視線を合わせずに返事をする。


「俺、案外行動的だろ?」


 皮肉っぽく俺ははにかんで、レオンにその顔を向けた。


「……呆れるくらい、ね」


 レオンは俺の顔を直視できないのか、逆方向にそっぽ向いてしまった。


「大人シイだけじゃ、守れないから、な」

「……ッ!」


 ハっとした表情でレオンは俺の方を向いた。


「あんた、思い出した……の?」


 俺は優しくほほ笑んで頷き、


「さっき、だ」


 と、言った。


「その……大丈夫、なの……?」


 レオンは不安そうな表情で俺の顔を見る。


 俺は静かに頷いて、レオンの頭を撫でた。


「ごめん、お前ばかりに気を使わせた」

「……ぅ」


 レオンは目を瞑って、途端に涙を流す。


「うわぁぁぁぁぁあああんッ!」


 そして俺に飛びつき、泣き崩れた。


 俺も気づけば涙を流して、レオンを抱きしめていた。


「シイが……! シイが事故の……ぐす! 事故のせいで私の事……ひっく、なにも、覚えてないって聞いてて……私、私……は……!」

「すまん、本当にすまなかった」

「だから……っわ、わたし、も……何も覚えてないフリ、しようと……して、だけど、レオンって呼び方教えたら……思い出してくれるかなって……!」

「ああ、わかってる。今ならわかるよレオン。本当にごめんな」

「けど、シイ……っが、わ、私の呼び名怖がったから……、わた、私……ッ!」

「大丈夫。もう、大丈夫だ」

「シイは、まだ事故の事、で、あの時の事、ぐす、が、怖いのかと思って……うわあぁぁぁぁぁっ!」


 レオンはしばらくの間、溜まりに溜まったものを吐き出すかの如く、ずっと泣き叫んでいた。


 俺もそんなレオンの心情が呼応するかのように、同じく涙が止まらなかった。


 俺たちは今までの隙間を埋めるかのように、強くお互いを抱きしめ合っていた。


 今思い返せばこの数か月の間、レオンは幾度となく俺にヒントやメッセージを出していた。俺たちの幼い頃の絆も、彼女自身の想いも。


 俺はその度に気付かないフリをしていた。何故か避けていたんだ。きっと心のどこかでトラウマに自然と触れてしまうのが怖かったのだろう。


 しかし、それより恐ろしかったのは、レオンがまたいなくなってしまう事だった。


 離れた時間はたった一日だったが、俺が動かなければ二度と会う事はなかったはずだ。






 自身の想いをハッキリと自覚した今、もう二度とレオンを離すまいと誓った。





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