12 大人の事情と俺と嫁
がらん、とした空間がもはや当たり前ではなくなっていた俺にとって、今のこの部屋は静かすぎて、広すぎて、つまらなすぎた。
ほんの僅かな期待も、あっさりと裏切られる。
「……やっぱり帰ってこない、か」
夜は九時を回った。
俺と嫁共同の仮住まいであるこのボロアパートに、今は俺しかいない。
突如現れたレオンの父によって、レオンは部活動の退部を言い渡され、強引にレオンをどこかに連れて行ってしまった。
新井も空気を察して「今日の部活動はここまでで終わりにする」といい、あの後すぐに各々解散となった。
俺は、レオンを追いかける事が、できなかった。
体が覚えこんでいるのだ。俺の父に対するそれ同様、レオンの父にも反抗する事は許されない、という事に。
レオンと同居する事になる前、中学時代の頃。
親父から耳にタコが出来る程聞かされた事がある。
『金宮家には絶対逆らうな。もしも共同生活におけるトラブルの発端がお前で、彼奴らの機嫌を損ねる様な事態が起こった場合、私は椎名、お前を容赦なく勘当する』
ガキの俺にとっちゃ厚真家と金宮家の間にどんな複雑な事情があるかまでは知った事じゃないし、知る由もなかったが、親に勘当される、というのはやはり子供としては恐ろしいものだ。特に俺の親父はつまらない冗談など言わない事を重々承知している。
同居生活が始まった頃、レオンが提案した「すぐに離婚すればいい」という内容はあれはあくまでレオンが一方的に押し付けた内容だったし、俺が原因ではないからどうでもいいか、などと安易に考えてた。まぁよくよく考えれば離婚なんかしてしまったら結局俺は親父にどやされるとは思うが。
俺の携帯に親父から連絡が届いてないという事は、まだそれほど事態は深刻ではないのだろう。もしもレオンの父親の機嫌を本気で損ねているのなら、すぐにでも俺の親父に連絡がいっているはずだ。
しかしそれでも俺から親父に連絡を取る事は躊躇われた。余計な事をわざわざ親父に伝える必要もないだろうし、また説教されても敵わない。
それにしてもレオンは一体どこに連れていかれたのだろうか。
金宮家の今の実家は確か九州の長崎だと聞いている。まさかそこまで連れて帰されてしまったのだろうか? そうなってしまうと俺個人ではどうやってもそんな遠くまで行く手段などない。
「あ……そうだ、マヨネーズまた切らしてた」
俺はぼんやり考えながら、冷蔵庫を開けて気づく。
先日、もうすぐ切れそうだから買っておきなさいよとレオンに言われていたっけ。あいつのマヨネーズの消費量半端なさすぎなんだよな……。
遅い夕食を作ろうと思って開けた冷蔵庫だったが、何故か途端にやる気が失せてしまった。
俺はゴロン、とソファーに寝転ぶ。
「……なんなんだよ」
独り、ごちる。
だってあまりにも理不尽が過ぎる。あいつの父親の言っている事は。
いくら大層な家の令嬢だからって学校で友達も作っちゃいけないなんて事あるか。それどころか俺の仲間たちに対して下賤な者とか言いやがるし。
イライラを募り始めてきた頃、携帯が音を鳴らした。
「もしもし」
「おう、俺だ」
いつもの新井とは違う、真剣さを含んだ返事。
「どうした新井」
「厚真、レオンちゃん帰ってるのか?」
「……いや」
「そうか。いいのか?」
「何が?」
「レオンちゃん、追いかけなくて」
「は? 追いかけるったって別にどっかいっちまうわけじゃないだろ」
「じゃあどこに行ったんだよ。前にお前らから聞いてるけど、レオンちゃん、両親とは遠く離れて一人でこっちに上京して厚真んとこで暮らしてたんだろ? そんなレオンちゃんの親父が突然現れて連れて行かれたんならもう実家しかないだろ。レオンちゃんの遠い実家ってどこなんだよ?」
「長崎だよ」
「九州!? ……おい、いいのか厚真?」
「何がだよ?」
「よく考えろよ。あのレオンちゃんの親父さんの言い方。あの様子じゃこの学校すらも辞めさせる気なんじゃないか?」
「いや、まさかそれはないだろ……」
「なんでないって言いきれるんだ。だいたい厚真、お前最後の別れ際にレオンちゃんの親父になんか言われてただろ。なんて言われたんだ」
「……婚約は破棄させてもらうようになる、とか言ってたな」
「ほれみろ! それもう完全にやばいやつだぞ!」
「やばいやつってどういうやつだ」
「厚真、お前は肝心な時はだいたい馬鹿だから俺が説明してやる。いいか、レオンちゃんの親父さんは何が気に入らなくてあんなに怒ってたのかはさっぱりわからんが、現にレオンちゃんを連れて行った。そして、厚真には婚約を破棄させる的な発言。これはもう厚真含む俺たちの周りからレオンちゃんはいなくなるって意味だとしか捉えられないだろう。どう考えても今、間違いなくその九州の実家に連れていかれてるぞ」
「そんなアホな事あるか。だいたい許嫁の関係はあのレオンの親父と俺の親父が勝手に……」
「重ねて言うが厚真、お前は馬鹿だから俺が説明しよう。俺は第三者だからお前らの家系についてはよくはわからんが、その許嫁の関係ってのは単純に金宮家と厚真家の利害関係が一致しているからこそ成り立ってるわけだろ? でも今日のレオンちゃんの親父さんの言い方から察すると、どうも金宮家にとって厚真家の利益性は低いんじゃないのか? そうでなければそんな捨てゼリフを厚真に吐いていくわけがない」
新井の言う事がもし事実なのだとしたら、俺が悪いわけじゃない、という事になるのだろうか。いや、俺は何を考えているんだ。そういう事じゃない。そういう事じゃなくて……。
「そもそも今日レオンちゃんの親父さんは何が目的で学校に来たんだ? あの場は状況的にそういう方向で話を持っていかれちまったが、あの親父さんはあの場を言い訳として利用しただけなんじゃないのか? 端っからレオンちゃんを連れて帰るつもりだったんじゃないのか!?」
「ど、どういう事だ……?」
「馬鹿野郎! いつまで呆けてやがる! 何があったか知らないがお前らそもそもあの学校で三年間過ごした後に結婚させられるはずだったんだろ! それがたった半年足らずでレオンちゃんを連れて帰っちまうって事はお前の知らない何かがあったって事だろうが! お前、自分の親父さんには何か連絡を入れたのか!?」
「い、いや……」
「まずは今すぐ親父さんに電話しろ! そんですぐにレオンちゃんを追いかけろ!」
「いや、でも……レオンを追いかけたって意味ないんじゃないのか?」
「な、何を言ってんだ厚真、お前?」
「レオンも言ってただろ、俺たち結婚したってすぐ離婚しちまう予定だって。あいつだって無理やり俺なんかと結婚させられるのは反対だったはずだ。むしろこれでいいんじゃないのか?」
「あ、厚真。お前それ本気で言ってんのか……?」
「新井の言う通り俺の知らないところで親父たちが何かあったんだとしたら、尚の事俺には無関係だ」
そうだ、俺に非はない。俺が親父に勘当させられる理由もないんだ。
「だいたいレオンも本気で嫌だったらあの場であっさり親父さんに連れていかれたりしないんじゃないか? レオンのやつもわかって着いていったんだ。俺は何も悪くない」
俺は何も悪くない。悪いのは親父たちとレオンだ。
「厚真……、お前本当にさっきから何を言ってんだ……。そういう事じゃないだろ……?」
ああ、そうか。新井は俺の親父の恐ろしさを知らないんだ。俺に非があったら厚真家から勘当させられちまうって事情を知らないもんな。
「俺が悪かったなら謝らないといけないが、俺が何も悪くないなら別にこれ以上コトを大きくする必要はないと思うんだが」
「こッ、こんのクソ大馬鹿野郎ッ!!」
新井は俺の耳をつんざくかのように絶叫した。
「てめぇ厚真! 俺は今心底怒ってるぞ! お前みたいなクズ野郎とは絶交だ!」
ブツっとそこで新井からの電話は切られてしまった。
なんなんだよ、新井のやつ。わけがわからねぇ。
クズ野郎、か……。そんな呼ばれ方はレオン一人だけで十分だ。
と、思った矢先、今度は相原から着信。忙しいやつらだ。
「もしもし、相原か」
「や、厚真くん。……どう?」
「まあ、別に普通」
「普通? 何、普通って?」
電話越しの相原も新井同様、普段とは声色が違う。
「……で、何の用だよ」
「レオンちゃんは?」
「いないよ」
「いいの?」
「はぁー……お前もかよ相原。何がだよ」
「レオンちゃん、追いかけなくていいの?」
「だから俺にはあいつがどこに連れていかれたなんてわからないし、追いかける必要もないだろ!」
「……厚真くん、何言ってるの?」
「相原も知ってんだろ、レオンのやつが言ってたこと。俺とは結婚したってすぐに別れちまうってやつ。あいつも別に俺の事なんかどうとも思っちゃいない。むしろこれでいいんだよ」
「厚真くん、それ本気?」
「何が!? 相原までさっきから何言ってんだよ!?」
「厚真くん、なんでイラついてるの?」
「はぁ!? 別にイラついてなんかねーよ! お前らがさっきから変なことばっかり言うから……」
「お前ら? 私の前にも何か言われたの?」
「ああ! 新井のやつだよ!」
「私と同じこと、新井くんも言ったんだ。だからイラついてるの?」
「そうだよ! お前ら同じ事ばっかり言いやがって、しつけーんだよ!」
「違うでしょ。図星を突かれてるのに動けない自分にイラついてるんでしょ?」
「ず、図星!?」
「うん。厚真くん、もう一回言うよ。なんでレオンちゃんを追いかけないの?」
「……ッ!」
声が出なかった。
相原は俺の答えを待ってる。電話の向こうで。ただ黙して待っている。どんな答えを待ってるんだ? 新井も相原も俺に何を期待しているんだ?
図星? 何が図星なんだ? だって俺は何も悪くないはずだ。昔からそうだ。そうだった。俺が何か粗相をすれば親父はいつだって飛んできて俺に説教をくれた。近くにいなくてもすぐに電話がかかっ
てきた。それがないって事は俺に非はないんだ。だったら俺の何が図星なんだ。
……何を。
……本当に俺は、さっきから何を言っているんだ。
そうじゃない。
気づいてるのに。
さっきから、いや、最初っからわかってるのに。
厚真家の長男の俺じゃない。厚真椎名は最初からわかっていたはずなのにッ!
何を恐れているんだ、俺は。
恐れている……?
親父を?
違う。そうじゃない。
さっきから新井も相原も怒ってくれている。
俺が本当に恐れている理由について、俺よりも早く、正確に気づいて。だから、それを俺の代わりに俺に教えてくれているッ!
そうだ、俺はレオンが。
金宮家の令嬢なんかじゃない。金宮 零麻個人の事が……。
だけど、それを否定されるのが、怖いんだ。
レオンの親父さんでも俺の親父でもない。
彼女自身に!
レオンに否定されてしまうかもしれない事に、恐れている!
俺がレオンを追いかけていって、もし、レオンが俺を完全に拒んでしまったら、俺は俺がどうにかなりそうだったんだ。それに気づいてしまっていた。だから……。
でも、違うんだ。
俺のこの心の霧は、俺自身が動かないと一生解決はしないんだ。
それを、新井と相原は教えてくれていたんだ。
そうだ。俺は、俺がやるべき事は。
「……ありがとう相原」
「厚真くん?」
「悪かった。新井にも代わりに謝っておいてくれ。俺、明日の学校休む」
「……うん!」
俺は最低限の荷物だけを片手間で急ぎ用意し始める。
「場所はどこなの?」
「長崎だ」
「そっか、遠いね」
「そうだな」
「手段はあるの?」
「親父にまず連絡とる」
「わかった。じゃあもう切らないとね」
「ああ。わざわざ悪かった。手間かけさせたな」
「ふふ、別に何もしてないよ。それより」
「ん?」
「がんばれ、厚真椎名!」
相原はそれだけを言って通話を切った。
っへ、馬鹿野郎どもが。お節介すぎなんだよ。
とにかく今、俺がすべき事はただひとつ。
レオンを……追う。
●○●○●
「親父か? 今大丈夫か?」
相原との通話を終えて身支度が整った後、俺はすぐに親父に通話した。今日に限って親父はすぐに俺からの電話に出た。
「……椎名か」
「レオンは今、どこにいる?」
「……ふぅ」
俺の一言だけで親父はすぐに察していたようだった。
「……すまないな、椎名」
「親父……?」
親父が俺に謝罪を述べるなんて事は初めてだ。
「孝明氏だな? 零麻を連れて行ったんだろう?」
「ああ。何か知っているのか?」
「端的に話す。私の傘下である子会社の不祥事がわかり、今厚真コンツェルン全体の株価が暴落している。金宮財閥の方にもその知らせが言ったのだろう。このまま厚真と共有するのは危険だと察知したのかもしれん。それで零麻を連れて行ったんだろう」
新井の言っていた事はドンピシャだった。本当に俺の知らない事が水面下で起きていやがった。
「そんなにやばいのか?」
「どこにでもある話だ。しかし露呈してはまずい話だった。六間市に鶴田商事という子会社があるがあそこのバックは暴力団関係に通じていた。先日、その関係者が捕まりそこから芋づる式で私にも影響が及んだ。鶴田商事は関東連合系の大御所に通じていてな、捕まったのはその幹部だ。鶴田商事は莫大な政治献金をその大御所から引っ張り出して各政界のスポンサーとなっていた。そして金宮家は財閥でありながら政権も強く握っている。……わかるな?」
理由はおおよそわかった。
それより驚かされたのはその捕まった幹部とやらだ。
鶴田商事、というのはつい先日俺とレオンがエレベーターに閉じ込められたあのビルだ。確かにニュースではそこから足がついて犯人逮捕に至ったと聞いてはいたが、それがまさか関東連合系の大御所だったとは思いもよらなかった。
「孝明氏からはまだ何も連絡は来ていないが、じきにお前との許嫁の件も破談にしようとしてくるだろうとは思っていた。しかしまさかこんな早く手を打ってくるとは想定外だった」
「……じゃあレオンは本当に長崎の実家に連れ戻されているんだな?」
「だろうな」
「親父、頼む。俺を今すぐ長崎に連れて行ってくれ」
「行ってどうする? お前如きが何をする気だ?」
「俺はレオンに会わないといけない」
「会う事は無理だろう」
「そんなのわかんねーだろ」
「無理だ。子供の力でどうなる話ではない」
「ああ、俺には親父達の難しい関係なんてわからない。けど、俺とレオンを巻き込むのはもうやめてくれ。俺たちだってイチ個人なんだよ。親父たちが自分勝手な都合で許嫁を決めて、今度は勝手な都合で破談? ふざけんなよ! 俺たちはペットじゃねぇんだ! 俺にも、レオンにも自分たちの意志があるんだよ!」
「……」
親父は電話越しで黙った。言いすぎてしまったか。
でもこんな勝手な話はない。
勝手に許嫁にしておいて、勝手に破談するなんて。そんな話、あってたまるか。
「……東条を迎えに行かせる」
「親父!」
「今からでは飛行機の便は無理だろう。東条は元々長距離ドライバーだ。東条と共に車で長崎へ向かえ」
「ありがとう親父!」
「椎名」
「ん?」
「お前は間違えるな」
「は? なんの事だよ」
「もう切るぞ。東条には伝えておく」
親父はそれだけを言い残すとあっさりと通話を切ってしまった。
なにはともあれこれでレオンの元へ続く切符は手に入れた。
もうここまで言ってしまったんだ。俺はレオンを追いかける。
俺は部屋の中に置き去りにされていた一冊の本を取った。レオンの今一番お気に入りのラノベだ。手土産ってほどじゃないが、この本はまだレオンも読み切っていない。もしも仮に連れ戻す事が無理だとしてもせめてこれくらいは渡してやりたい。
……本当はそんな気位じゃいけない事はわかってる。けど、冷静に考えれば親父の言う事はもっともで、俺がレオンに直接会える確率は、正直低い。
だけど、いや、だからこそあいつに繋がる何かを持っておきたかったのだ。
「……女々しいやつ」
自分に対して、独りごちた。
●○●○●
しばらくすると玄関のチャイムの音が鳴った。
東条さんが到着したのだろう。
俺は意を決して、扉を開く。
「椎名さま、お待たせしました」
厚真家に一番古く仕えている執事であり、俺の一番の理解者でもある東条さんが深々とお辞儀している。
「東条さん、ほんとごめん。俺のつまらない我侭につき合わせちゃって」
すると東条さんは首をゆっくりと、しかし大きく横に振った。
「つまらないなどとはとんでもない。椎名さまの一生を左右されるお方かもしれないのです。あなたさまを我が子同然に愛した私からすれば、これは私にとっても大切な事。それだけではございません」
東条さんは頬をほっこりと綻ばせ、瞳を細めつつ柔らかくほほ笑む。
「何より、京平さまが望んだことですから」
「親父が……?」
「こんなところでいつまでも立ち話をしていても時間が勿体のうございます。話の続きは私の車で致しましょう。さ、椎名さま」
そう言うと東条さんは、彼の愛車でもあり厚真家のお抱え車でもある黒塗りのベンツの前まで俺を案内し、助手席側の扉を開いてくれた。
俺はこくんと静かに頷き、車に乗り込む。
それを確認し終えると東条さんは運転席に乗り込んだ。
「さて、椎名さま。休憩はほぼ挟まずに参りますが、それでも二十時間近くはかかる距離でございます。お疲れになられたら私に遠慮する事なくお休みくださいませ」
「ありがとう」
「では、発車致します」
黒塗りのベンツは一路、長崎を目指して走り出した。