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無題掌編  作者: mm
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 色濃いオレンジの光があたりを埋め尽くして、整然と並んだ本棚の影が幾つも連なって壁に寄りかかっている。

 長い黒髪をふわりと回転させて近江先輩がこちらを向いた。逆光になってその表情は見えない。それでもボクには近江先輩が微かに笑ったように感じられた。

「来てくれたんだ」

「お呼ばれしましたからね」

 ボクが軽く肩を竦めて近づくとようやく近江先輩の表情が窺える。

「うん、そうだね」

 近江先輩は口元に手を当てて上品に笑っていた。

 近江先輩に声を掛けられたのはホームルーム開始直前だった。ボクは何時もの通りホームルーム二分前ぐらいに下駄箱に着いた。流石にこの時間帯になると生徒の数も大幅に減り、細っこいボクでも落ち着いて靴を履き替えることが出来るのだ。そのことを近江先輩は知っていたのかはわからないが、待ち構えていたようにそこにいた。

 遅刻するよ、と軽くボクを嗜めて、近江先輩もですよ、と言葉を返すと小さく笑った。それから放課後に図書室へ来るように言うとボクの返事も聞かず走っていってしまった。その近江先輩の真意を考えていたせいでボクは授業に身が入らなかったのだ。

「――久しぶりだね」

「まぁ一週間も学校休んでましたから」

 風邪を引いて、熱を出して、そのまま一週間ボクはベッドに縛り付けられていた。初日を除き、空白のようにも思える空虚な一週間だった。

「それもだけど、そうじゃないよ。こうやって図書館で、二人だけでお話しするの。約五ヶ月、――約半年もだよ」

「そんなに、ですか?」

 それがつい先日のことのように感じるのは、あの夏の日を先ほどまで思い出していたからだろうか。それとも手を差し出せば抱きしめることが出来るほど傍に近江先輩がいるからだろうか。

「ズルイなぁ、キミは。私は凄く長く感じたのに」

 近江先輩はからかうような笑みを浮かべた。あの人がたまに浮かべる表情によく似ている。ボクは気の利いた返しが思い浮かばず、そんなことないですよ、と平静を装った。近江先輩は、それならいいわ、と歌うように言う。

「ねぇ、あの日のこと、覚えてる?」

 あの日、と決して明確ではない尋ね方だったが、ボクらにはそれで十分だった。

 しかし、何でそんなことを訊くのだろうか。

「忘れられませんよ」

「……そう、ごめんね」

 ボクは知らず伏せていた視線を上げて、近江先輩の顔を見上げる。

「なんで、謝るんですか」

「私ね、こう見えてもけっこうモテるんだ。告白されたことも少なくないのよ」

 近江先輩はボクの質問には答えず、照れたように笑いながら言った。こう見えても、と先輩は言うがどこから見ても近江先輩はモテると思う。

「あまりいい気分じゃないよね。好きって言ってくれる人に、ごめんなさい、って言うの」

 だからごめんね、と近江先輩は再びボクに謝った。

「あやまらないでくださいよ」

「ううん、ダメ。だってこれからまたキミに嫌な思いさせちゃうもん」

 そう言って近江先輩は姿勢を正した。西日に縁取られたシルエットが半歩ボクに近づき、それから浅く息を吸う。年齢平均を大幅に上回る胸が膨らみ、そして吐き出した。

「私はキミのことが好き。今でも、ずっと」

 ボクは息を飲んで、近江先輩を見上げた。まるで走馬灯のようにあの日の記憶が甦る。

 あれは夏の始まりだった。ボクが個人的な所用で図書室に入り浸っていた頃、近江先輩が生徒会書記ではなく図書委員だった頃。

 図書室にはボクと近江先輩しか居なかった。ボクは辞書を広げて書き物をしていて、近江先輩は貸し出しカウンターから出てボクの対面で小説を読んでいた。真剣に読んでいるようで、実は上の空だったことをボクは後で気付く。

 ボクは書き物が一段落して顔を上げた。すると近江先輩と視線が合って、近江先輩はすぐに視線をそらした。一瞬の間が空いて、ボクは彼女の読んでいた本についていて尋ねた。先輩と後輩の、いや、友人としての他愛のない会話だ。

 日が落ちかけていた。ボクと近江先輩しか居ない図書室は静かに朱色に染まっていく。

 先輩が読んでいたのはチープな恋愛小説だった。面白いですか、と聞いたら、まぁまぁ、と返事が返ってきた。たぶん友達に押し付けられるように勧めらて、お人好しな近江先輩は断りきれなかったのだろう。

 穏やかな時間が流れていた。西日に目を細めるように近江先輩は笑い、ボクも軽く唇を吊り上げる。

 ――キミのことが好き。

 その言葉は唐突だったと思う。近江先輩は自分が言い出したのにもかかわらず固まっていた。首筋から耳まで真っ赤になって、視線をきょろきょろと彷徨わせて、でも最終的にボクをじっと見つめた。もうすでに涙目で、下唇を噛んで、それから短く息を吸って、再び先ほどと同じ言葉を繰り返した。

 ごめんなさい。

 ついて出た言葉はそんな言葉だった。悩んで、迷って出した言葉ではない。軽率で、軽薄な、思わず零れたような言葉だ。

 近江先輩は震えていた。捨てられた子犬みたいに小さく震えて、まだ赤さの残る顔で小さく微笑んで、ボクに謝った。その声は震えていなかった。むしろ明るささえ感じて、卑怯なボクは押し黙って、そして近江先輩は何も言わず出て行った。いや、何か言ったのかもしれないが、ボクは覚えていない。

 ボクがそんなことを思い出したのは、きっとあの夏の日に似た色の夕日のせいだ。

 近江先輩はあの日と同じように首筋から耳までを真っ赤に染めていた。ボクが空気も読まず、可愛い、と思ったのは告げられた言葉を理解するのに時間が掛かったからだ。

 ボクは口を開きかけて、また噤んだ。今ボクは、たしかにあの日と同じ言葉を繰り返そうとしていた。条件反射のように、ただ冷たく。最低なことをするな、とボクは自分に言い聞かせた。

 しかし何と言えばいいのだろう。ボクは自分の文章構成力の無さと、そして人生経験の少なさを呪った。どうすれば近江先輩を傷つけずにすむのだろう。

 近江先輩はじっとボクを見つめていた。決して夕日のせいではなく肌を色付かせ、深い色の瞳でボクを見つめていた。あの日と違う瞳だった。あの日のように揺れることなく、かといって石のように動かないわけでもない。その瞳を見つめていたら、自然と言葉が零れた。

 ごめんなさい、――――と。

 頭を下げなかったのは近江先輩の瞳に見惚れていたからだ。深い色の瞳が、波紋を打ったように違う色を見せた。泣き出す前兆のそれではなく、ほっとしたような、緊張が途切れたような、安堵からのそれにみえた。近江先輩は微笑んでいた。

「あー、やっぱりダメかぁ」

 近江先輩は、予想道りでむしろ気が抜けた、というような感じに呟いた。

 ボクは少しばかり呆気に取られてどう声をかけていいのか判らなかった。えっと、と呟いた声が西日に吸い込まれる。吸い込まれたと思っていたけど近江先輩に届いたらしく、ごめんね、と呟いた。

「え、いえ……」

 ボクが気の抜けた返事を返すと近江先輩は、こっちおいで、とボクの腕を取って西日のよく当たる机に誘った。あの日のように近江先輩は夕日を背にしてボクの対面に座る。

 近江先輩の頬は元の色を取り戻しつつあったが、夕日に染められてやはり赤いままだった。おっかなびっくり、覗き込むように近江先輩を見たら目が合った。はにかむように笑いかけられて、ボクは照れて視線をそらした。

「そんなに緊張しないでよ。フったりフラれたりの仲じゃない」

「殺伐としてますよ、その仲」

 思わず突っ込みを入れると近江先輩は、うんうん、と頷いた。

「やっぱりキミはその方が良いよ。かわいい」

「なにを言うんですか」

 ボクはウンザリしたように吐き出した。子供のような体格と、超劣勢の父の遺伝子と、名前から付随するイメージを総合した、かわいい、という形容詞をボクはあまり好きになれない。ふてくされるボクを見て近江先輩はもう一度、かわいい、と笑った。

「近江先輩、性格変わりましたね」

 時間で言えば三分くらい前から。

「そりゃね、二回も、それも同じ人に失恋すればちょっとは吹っ切れるよ」

「ちょっとですか?」

「そう、ほんのちょっとの差よ」

 近江先輩は子供のように笑っていたかと思ったら急に女性の顔になって微笑んだ。それから少しだけボクに顔を近づけて、ダメかな、と訊いてきた。

「そんなことないですよ。今の近江先輩も好きですよ」

 小首をかしげながら言ってみると、近江先輩は驚いたように目を見開いて固まった。それから、え、と言葉を零し、色の戻った顔がまた赤く色付いた。紅葉の見ごろまであと一週間と言った所か。ボクが訳のわからないイメージに結び付けていると、近江先輩は困ったような顔で笑っていた。

「その台詞は、さっき言ってもらいたかったな」

「あー、ごめんさい?」

 ボクが謝ると近江先輩は傷付いたような、しかし笑みも含めた顔を作った。

「あやまらないでよ、三分前の古傷が痛むから」

「あ、えー……」

 思わず謝ろうとしたボクは中途半端に口を開いたまま中途半端な笑顔で誤魔化そうとした。近江先輩は、危なかったね、と意地の悪い笑みを浮かべる。ぎらり、と近江先輩の瞳が光ったような気がした。逆光のせいにしておこう。

「ねぇ、ちょっとさ、聞いていい? 後学のために」

「何をです?」

「私がフラれた理由」

 ボクは息を呑み、咽た。けほけほ、と空気を吐き出し涙が滲んだ瞳を拭う。瞳を大きくして近江先輩を見ると、彼女は心配そうにボクを覗き込んでいた。ボクはゆっくり息を吐き出して呼吸を整える。

「あ、言いたくないならいいのよ。予想はついてるから」

「予想……? でも、それなら何で」

 ボクはどきりとしながらも聞き返した。近江先輩は少し考えるそぶりを見せ、それからちょっと寂しそうな顔をしてみせた。

「キミには教えたくないな」

「それ、少しズルくないですか」

「ずるくないよ。正当な権利だよ、ほら黙秘権とか」

「じゃあ、ボクも黙秘権を行使します」

 えー、と近江先輩は非難がましい声を上げた。しかし、にぃ、と深い笑みを作るとちょいちょいと手招きをする。ボクは警戒しながらも机に身を乗り出して顔を近江先輩に近付けた。すると、そっと耳元に唇を寄せられ、呟かれた。

 あのひとの名前を。

「なっ――――、なんで知ってんですか?」

 ボクはひどく狼狽した。悪戯が成功した子供みたいにくすくす笑う近江先輩を睨みつける。近江先輩はひとしきり笑うと、ああ、と疲れたように呟き目尻の涙を拭った。

「判らない方がどうかしてるよ。あ、でも羨ましい当の本人は気付いてないみたいだけど」

「それって絶望的ってことですか?」

「そんなことないよ。でも言わなきゃ伝わらないことは確かだね」

 ボクは言葉を捜して、しかし押し黙った。血がすっと冷たくなる。いつもは心地好いと感じるのに、今は酷く寒い。

「……羨ましいな、キミにそんな顔させるなんて」

「え」

 近江先輩はじっとボクの瞳を見つめた。腕を伸ばして、指先がボクの頬に触れた。冷たいわ、と笑う。

「ねぇ、私と約束しない。あの子に告白するって。そうしなきゃ、キミたちずっと進展なさそうだし」

 頬から指先を滑らして、そして机の上に投げたしていたボクの手に触れた。そのまま指を絡め、約束だよ、と。

「強引ですね」

 ボクは少しだけ笑った。

「これぐらいしないとね、私にチャンス回ってこないもん」

 絡めた指先を解いて、近江先輩は立ち上がった。ボクの顔を覗きこむように腰を屈めて呟く。

「フられたらお姉さんのところにおいで、慰めてあげるから」

 一瞬、視線が交差してボクたちは笑いあった。ボクも近江先輩も珍しく歯をむき出しにて、悪巧みを思いついたように笑う。

「がんばってね」

「近江先輩のお世話にならない程度に」

 近江先輩は苦笑して、子供にするようにボクの頭をぽんぽんと撫でて背を向けた。黒髪が殆ど沈んだ太陽に赤く染められる。ゆらりと揺れるそれが図書室の扉をくぐって見えなくなった。

 ボクは白い息と一緒に弱い自分を吐き出した。

 空いた隙間に近江先輩との約束を詰め込んで、ボクは最低な自分にサヨナラを告げた。



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