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無題掌編  作者: mm
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 その日、ボクは朝から体調が悪かった。

 杭を打ち込まれるような頭痛に目を覚まし、鉛のように重たい体は冷たく、だというのに汗だくだった。ボクは登校時間ぎりぎりまで寝たままで、母が父の住む前の町に出て行っていることを思い出し、ようやく体を起こした。

 歪む視界と肌に纏わりつく寝間着に眉根を寄せて大きな溜息を吐く。それから、どうしただろうか。

 ボクは泥を詰め込んだような意識の中で思い出そうとした。ああ、そうだ。その後はシャワーを浴びて、飴玉を一つ口に含んで学校に向かったのだ。いつもと同じ道のりを倍の時間を掛けて、二時間目の授業の半ばに教室に滑り込んだ。教師の小言を聞き流し、机に突っ伏した。教師が何か言っていた気もするが、顔を起こした記憶は無い。記憶の無いまま、今に至る。

 ボクは消毒液の匂いがする布団の中に居た。白い天井を、蛍光灯の白い光が照らしている。保健室だ。

 気持ちが悪い。口の中が酸っぱいのは記憶のない時分に吐いたからだろうか。冷え切った手足とは裏腹に、頭の中には熱が篭っている。この感じ、久し振りだ。

 ボクは元から体の強い方ではない。病弱、と呼ぶほどではないが小さい背と細っこい体に見合った分の健康しか詰め込んでいないのだ。風邪を引くことは人並みにしかないが、引いたら引いたで高熱が出る。そしてそういう時は大概頭が働かないから無理をする。母がいれば無理にでもベッドに押し込んでくれるのだが、間の悪いことに母は居ない。

 喉が渇いた。保険医はいないのだろうか。むしろ、今は何時だ。お腹がすいた。帰りたい。熱い。寒い。気持ち悪い。喉が痛い。

 ボクは幽鬼に取り付かれたように、のそりと消毒くさいベッドから這い出た。爪先にスリッパの感触を確かめて、冷たいそれに足を通す。ベッドを囲むカーテンをめくり上げ、よたよたとした足取りで隔離された場所から出ると、いっそう消毒の臭いが鼻についた。

 清潔感溢れる保健室をボクは余り好きになれない。この場所に居ると自分が重病人のように思えるのだ。

 ボクはきょろきょろと、しかし亀のようにゆっくりと辺りを見回した。保険医が居ない。生徒が一人寝ているというのに、いったい何処をほっつき歩いているのだ。ボクは重い頭で考えながら、清潔そうなコップを探した。

「使っていいのかな……」

 ボクは薄い青色のコップを手にとった。底が深く、あまり病人向けではないが綺麗そうだった。洗えば使えるだろう、と思って洗面台に向かったら何処からともなく呼び止められた。

 ボクは、ふぇ、と空気の漏れたような声を漏らして辺りを見回した。

「スルーすんな、いま目ぇ合っただろ」

 古い型の茶色のソファーに先輩が座っていた。じろりと下から睨み上げてくる。本気で気付かなかった。

「先輩、体調悪いですか?」

 先輩は唇の端を歪めるだけでボクの問いには答えなかった。

「そのコップやめた方がいいな。そっちの棚にあるの使え」

 先輩は言いながらソファを立ってボクの方に近づいてくる。そしてボクからコップを奪い取るとそのまま伏せて、別のコップを手に取りすすぎ洗いをして水――白湯を汲んでくれた。

「ありがとうございます」

 ボクはとろんとした目で先輩を見やって礼を言った。先輩は、おう、と返事を返した。それからボクの服を掴むと半ば無理やりソファに座らせて、先輩もその横に座った。

 ずずっと白湯を啜って一息吐き出す。締め切った室内に在ってボクの息が白くなったのは白湯の所為か、それとも体温の所為か。ボクはもう一口、白湯を口に含んだ。

「先輩は、どうしてここにいるんです?」

 さっきも同じような質問をした気がするがボクはもう一度たずねた。先輩は応えず、その代わりにボクに体温計を差し出してきた。ボクは少し不満に思いながらもそれを受け取り脇に挟んだ。

「お前って平熱だとどれくらい?」

「三十五度五分前後ぐらい、かな……」

 ボクが半疑問系で言うと先輩は、爬虫類か、とよく判らないツッコミをくれた。ボクが小首を傾げると先輩はうんざりしたような顔をした、と思う。

 耳につく電子音せかされて、ボクは脇から体温計を引き抜いた。ボクがそれをじっと見つめると、先輩も横から覗き込む。

「三十八度六分……」

 呟いたのは先輩だったが、先輩らしからぬほど小さい声だった。するりと手が伸びてきて先輩はボクの額に触れた。こういうのは熱を計る前にやるのではないだろうか、と考えながらもその冷たい掌は心地好かった。

「熱いな、どうする? また寝るか?」

「や……」

 子供のようにボクは断った。先輩はしばらくボクの額に手を当てたままにして、それから立ち上がった。ボクは遠ざかる冷たさを求めるように、先輩の背を視線で追った。先輩は薬品棚を漁っている。その仕草が妙に手馴れているようにみえた。

 戻ってきた先輩は薬ビンを持っていた。

「熱冷まし、飲めよ」

「でも、お腹空っぽですよ。あと苦いのキライです」

 先輩は、子供か、と呟くと再びボクから離れた。そして保険医の机の横にある小さな冷蔵庫を勝手に漁りコンビニの袋を取り出した。その中からフルーツゼリーを取り出してボクにくれた。ボクは先輩とゼリーを交互に見た。

「あたしが買ってきたやつだ。気にせず食べろ」

「……スプーン」

 先輩はくっと喉の奥を鳴らした。珍しいものを見るような目つきでボクを見ると、コンビニでついてきたのであろうプラスティックの簡易スプーンを放ってきた。

「なんですか?」

 ボクは礼を言うよりも先にその視線について訊いた。ぺりぺりと蓋をはがしているボクの横に先輩はどっかと座った。

「んー、なんでもない」

 なんでもないという割りに先輩の瞳は意地悪く光っている。その意地の悪い瞳にゼリーを食べるさまを観察された。ボクは小動物のようにちまちまゼリーを食べ終える間に、ちらちらと先輩の視線を気にした。なんだか、こそばゆい。

「ほら、薬。白湯まだ余ってるよな?」

 ボクはスプーンを咥えたまま、こくこくと頷いた。先輩は確実に口元に笑みを作った。

「糖衣だから苦くないぞ、これ。……ん、三粒な」

 受け取った三粒の薬をボクは掌に乗せて、まず白湯を口に含み、それから飲み込んだ。

 一瞬だけ、意識が覚醒した。口に広がる苦味は、まるでその辺の雑草を適当に調合したように強烈だった。ボクは余った白湯で、一気にそれの苦味を喉の奥に押し込んだ。

 ボクは涙の浮かんだ瞳で先輩を睨みつけた。先輩は肩を揺らし、笑い声を堪えるように低く喉を鳴らしている。引き攣るような呼吸を数回するとようやく落ち着いたのか、ボクと同じように涙の浮かんだ瞳の端を親指の腹で拭った。

「病人からかって楽しいですか?」

「ん、お前をからかうのは楽しいな」

 先輩は言ってから、チェシャ猫のように笑った。断言されてしまうと、ボクはどう返して良いのか判らず、ただ黙って睨みつけるしかなかった。先輩は意に介した様子もなく、薬ビンを棚に戻し、ボクの食べ終わったゼリーの容器を片付けてくれた。おまけに再び白湯をついでくれた。

「先輩、優しいですね。今日」

「今日だけか……」

 先輩は肩を竦める。そして、しかたがない、とでも言うふうに呟いた。

「まぁ、病人だしな」

「やっぱり今日だけじゃないですか」

「うるさい」

 先輩はどっかと腰を下ろして、ボクの目の前にコップを置いた。ボクは硬く冷たくなった指先を融かすように温かいコップを両手に包んだ。舐めるように口をつけて、白い息を吐き出す。

 学校の中は冷たい静寂に満ちていた。一つも声が聞こえてこなくて、カチカチと時間を刻む音だけが耳につく。

「先輩、もしかして、ボクずっと寝てました?」

「何を今更、もう放課後だっつの」

「帰らなきゃ」

 ボクはまるで幽霊に取り付かれたかのように呟いた。

「家に電話して迎えに来てもらったら?」

「今、家に誰もいないんです」

「あー、じゃあどうするよ」

「大丈夫です。薬も飲んだし」

 ボクはすくりと立ち上がった。立ち上がったはいいが地面に足が着いていないような違和感がある。心なしが景色が揺れている気もする。

「そんなに早く薬が効くかよ。ふらついてるぞ」

 先輩も立ち上がり、言いながらボクの額に手を置いた。まだ熱いな、と溜め息とともに呟く。先輩は何か迷っているようだった。小さく唇が動いているが、ボクには聞き取れない。

「なぁ、ちょっとあたしの手ぇ握れ」

 ボクに向き直って先輩は手を差し出す。健康なボクならば、なんでですか、と突っ込みを入れただろうが今のボクはそうするのが当然のように差し出された先輩の手を握った。冷たくて気持ち良い。

「ぎゅっと握れ」

 言われるままにボクは手に力を入れた。たぶん全力で握っているのだけど、先輩は痛がる様子も見せなかった。

「ま、これなら落ちないよな。あたしが送るわ」

 その言葉の意味をイマイチ理解できずボクが首を傾げても、先輩は気にした様子もなく身支度をし始めた。

「あのボクの鞄」

「お前んとこの担任が持ってきたよ」

 予想していたように先輩は言って、右手をぷらぷらと揺らす。ボクの鞄だ。先輩は当然のようにそれを持ってくれた。付いて来い、と手振りで示すと背を向けてさっさと出て行ってしまう。電気を消して廊下に出ると、ひんやりとした空気が漂っている。先輩はすぐそこで待っていてくれた。

「この前、秋が来たと思ったらもう冬ですね」

「ああ、寒いな」

 言葉とともに濃緑のブルゾンが投げつけられた。ボクは顔面に受け止め、ずるずると顔を這うように落ちるそれを腕に抱いた。

「女モンだけどな、お前なら違和感ないだろ」

「だけど――」

「いちいち、うるさい」

 先輩は歩き出して、ボクはその背を追った。いつもなら小走りにならないと並べないのだけど、先輩はゆっくり歩いてくれた。

 歩きながらブルゾンを着る。少しだけ大きい、けど、温かい。それに先輩の匂いがする。ボクがまるで酔ったようにぼんやりとした気分でいると先輩は、裏口行くぞ、と言った。

 ボクは言われるままに玄関で靴に履き替え、土足のままで廊下を歩く。教員用の裏口から校舎の外に出ると、いっそう寒く感じた。濃い闇があたりを包み込んでいる。先輩がぶるっと震えた。

 やっぱり先輩も寒いのかな。

「あれ、……?」

 風が吹いて、先輩の姿を見失った。吐き出した白い息が風に攫われるように、先輩も闇に溶けてしまったように思えた。ぞくり、と背筋が凍る。なんでこんなにも不安なんだろう。

 ボクが知らず自分の体を抱きしめていると、少し、ほんの少しだけ離れた場所で赤い光が点滅した。それがブレーキランプだと気付くのに僅かに時間が掛かったが、ボクは灯りに誘われる虫のようにフラフラとそちらに近づいていた。

「先輩、学校に乗ってきたらダメですよ」

「今日はいっぺん帰ってんだよ。後ろ乗れ」

 ボクは先輩からヘルメットを受け取り、先輩の後ろに乗った。顎下の留め金がうまく嵌らず苦戦していると、先輩が振り向いた。

「重症だな。ガッコ来んなよ」

 先輩の手が伸びてきて手早く留め金を固定した。ボクは小さく、ありがとうございます、と呟いた。呟いたつもりだったが、声にならず金魚のように口が動いただけだった。すると今日三度目の先輩の掌を額に感じた。

「あんま変わってないと思うけど、薬の効きはじめたのか。ちゃんと掴まれよ」

 ボクは首が落ちたように頷いてシートに指先を食い込ませた。エンジンの振動がまるで地震のように感じる。クンッ――、と加速してボクは首を後ろに大きく引っ張られた。慌てて、腕に力を入れる。

「病人が遠慮すんなよ……」

 思ったより速度は出ていなかったのか先輩の声が聞ききとれた。ボクは俯いていて、ちょうど拳一つ分のぞいているシートが瞳に映る。

「それにさ、背中に隙間あると寒いんだよ」

「……はい」

 かすれるような声で呟き、ボクは隙間を詰めた。風に流れる先輩の髪が鼻先をくすぐる。ああ、また、頭が揺れる。

「ひきょーだよなぁ……」

 そんなことないですよ。先輩はこんなにも優しいじゃないですか。

 もう口すら、喉すら動かない。ひどく頭が重い。

 ボクはまるで女の子がそうするように、先輩の背に頭を預けた。

 体を切り裂くような冷たい風が心地好い。でも、それよりも火照った体になお温かく感じるこの背中が、何よりも、ボクを安心させる。

 ああ、やっぱりボクは先輩のことが――――


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