07
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ボクは薄い色の空に視線を向けた。色だけじゃなく、秋の空は夏の空よりも薄い気がする。子供が水色の絵の具を塗りたくったような平面的な空だ。その空に羊雲が遠くまで広がっている。
薄っぺらい空もこれはこれで味がある。乾いた秋風は、古書のような匂いがした。
のどかだ、とボクは老人のように呟いた。
ほんのりと肌寒い。ボクは手に持った竹箒を脇に挟みこんで、両の掌に息を吹きかけ擦り合わせた。まったく、なんでボクがこんなことをしなくてはならないのだ、と愚痴る。心の中で愚痴ったつもりが所々、口から零れていたらしく小さな教師はじろりとボクを睨みつけた。
「三日連続で、私の授業で、居眠りしたからよ」
小さな教師――岩淵先生が一言一言区切って、人差し指を立てながらボクに言い聞かせた。
「だけど、その罰で庭掃除はどうかと思いますよ。人権侵害?」
「物騒なこと言わないの。それにお掃除がどうして人権侵害になるの」
岩淵先生はむっとボクを睨めつけた。ボクは曖昧に微笑んで視線を逸らす。小さく溜息をつくと、視界の端で小さなつむじ風がおこった。砂埃がぐるぐる回っている。それがこちらに近づいてきて、ボクの集めた落ち葉を撒き散らした。最低だ。
「せんせー」
ボクは情けない声を出した。
裏庭の掃除は先ほどから一向に終わりそうにない。それはボクの怠慢のせいではなく、ただひとえに秋という季節のせいだ。こんな季節にしかできない落ち葉掃除だが、こんな季節にするもんじゃない。掃いても掃いても、ヒラリヒラリと、次から次へと赤や黄に色を変えた葉が落ちてくる。
それに岩淵先生もボクに付き合い裏庭に居るわけだが、ただのお目付け役としてボクに無責任な応援を投げかけるだけだ。薄っぺらい胸に紙袋を抱いて、足下には水のたっぷり入ったバケツが用意されている。
生徒の罰を出しにして、――という魂胆が見え見えだ。
「もうこれぐらいで良いんじゃないですか? ――焼き芋」
ボクが言うと先生は、なんでそれを、と狼狽した。バレてないと思っていたのか。
「なんでって、ボクにはくれないつもりだったんですね。自分一人でそのお芋さんを食べようと思ってたんですね。先生にとって生徒はただの労働力なんですね」
「―――そんな目で先生を見ないで。ちょっとしたおちゃめじゃない」
「おちゃめって……」
視線が挙動不審だ。本気で紙袋いっぱいの焼き芋を独り占めしようとしていたのか。ボクがじっとりと湿った視線を送り続けると、先生は乾いた笑い声をこぼして紙袋を漁りはじめた。
紙袋の中身は焼き芋をするにはもってこいの大きさのサツマイモだった。それと軍手とマッチと新聞紙とアルミホイル。
ボクが枯れ枝を集めて適当に枯葉を山にしてちぎった新聞紙を紛れ込ませている間に、先生は濡らした新聞紙とアルミホイルでサツマイモを包みはじめた。全部で七つもある。
「ちょっと多くないですか? 二人分にしては」
「大丈夫、美味しいから」
いくら美味しくても満腹になったら食べられないだろう、というツッコミを飲み込んでボクは枯葉に火を放った。小さなマッチの火は途端に燃え広がり、周囲の空気を暖めた。炎が下火になるまでボクと先生は並んで炎に手をかざした。
「あったかいね」
「最近急に寒くなってきましたからね」
「そうそう、そのせいで私の友達も風邪ひいちゃってね。やっぱり季節の変わり目は気をつけなきゃダメよね。おかげでこの前、出かける約束してたのに潰れちゃったんだから」
「デートですか?」
「残念ながらただの買い物。大学の後輩なの、同性のね」
先生は可愛らしい容姿をしているので、男受けはよさそうなのだが浮いた話はないらしい。一部の男子生徒にとっては朗報だろう、幾らで売れるだろうか。色々と考えを廻らせながら、だらだらと世間話をしていると火の勢いは弱まってきていい感じになってきた。
もうそろそろ、お芋を投入しても良いだろう。ボクと先生は赤い絨毯と化した僅かに炎の残る枯葉の上に芋を並べた。そしてその上からまた枯葉をかぶせる。そして再び燃える炎に手をかざした。
「そういえば先生」
「なに?」
「火箸って無いんですか?」
ボクが言うと先生は、あっ、と声を出した。
「無いと困るよね」
「軍手越しでも燃える炭を掻き分けるのは遠慮したいですね」
先生は小走りになって火箸を取りに向かった。小さな後姿が後者の角に消えるとボクは焚き火に視線を戻した。周りの枯葉に火が燃え移らないように気をつけながらも、折りたたんだ新聞紙で風を送る。
一人寂しくそんなことを繰り返していると、しばらくして背後から声が聞こえた。ようやくか、と振り返ってボクはぎょっと固まった。先生は手に持った火箸を振り回してボクにアピールしている。それはいい。その後ろによく知る人影があった。それも二人分。
色を変えたイチョウより深い色の金髪に、気怠るそうな表情。そして気怠るそうながらも、その瞳は狼のよう鋭い。短めのスカートから伸びる細いおみ足で枯葉を踏みつけて進む先輩はボクに気付いて眉根に皺を寄せた、――ように感じた。
そしてその隣で、濡れ羽色の長い髪をしたあっさりとした顔立ちの女性がしなやかに歩いてくる。その姿はさながら姫君のようだった。先輩と先生が従者か護衛のように思える。膝小僧が露出する程度の、規定よりほんの僅かだけ短いスカートが彼女の性格を現している。
「――――、近江先輩……」
ボクのことを好きだと言ってくれた人に、ボクの呟きは聞こえたのだろうか。近江先輩の柔らかな笑みが、少し硬く見えた。
「お待たせー、はい、これ」
「どーも」
先生から火箸をぞんざいに受け取り、そして背後の二人に目をやる。先生は無垢に笑い、ボクの視線に応えた。
「途中であったから、さそったの。ダメだった?」
「そんなことないですよ、先生のお芋ですから。でも、いいんですか? 取り分減りますよ」
ボクは曖昧な笑みを先生に向けた。先生は怒った振りをして、色々と言い訳のようなものを言った。ボクはそれを流すようにあしらい、先輩方に声を掛けた。
「先輩」
「ん」
先輩はぞんざいに返事をした。一瞥だけくれると焚き火のそばに腰を下ろして温まり始めた。
「近江先輩」
ボクよりも二十センチ近く長身の近江先輩の顔を見上げる。口元に微笑を湛えると、先輩も淡い微笑を浮かべた。先輩とこうして会話を交わすのはあの夏の日以来だ。
「久しぶりだね、話すの」
「そうですね、学年も違いますし……近江先輩は忙しいですから。生徒会書記でしたっけ?」
「そう、押し付けられちゃった」
近江先輩は眉根を寄せるようにして、情けない表情を作ってみせた。
「大変ですね。先輩はお人好しだから、いい様に使われないように気をつけてくださいよ」
「そう思うなら、書記補佐として手伝ってくれない?」
「……遠慮させていただきます。ボクは近江先輩と違って利己主義者ですもん」
ボクが肩を竦めて自嘲的に笑うと、近江先輩の青の混じった黒い瞳が細まった。
「嘘吐かない。本当は優しいくせに」
「……――どうでしょうね?」
ボクは卑怯にも視線を逸らした。視界の端に映る近江先輩はどんな表情をしているだろう。ざらりと吹いた風が音を掠って、気まずい静寂が耳に響く。吐き出した息は白く、そしてやはり風に掠われた。
「おい」
焚き木の前に座っていた先輩が、睨み上げるような視線と共にボクに声を掛けてきた。ボクは天の配剤とばかりにその声に飛びついた。
「軍手と、それ、挟むヤツ寄越せ」
「いえ、ボクがやりますよ」
「ん、そか」
気が付けばもう焚き火はその炎を殆ど煙に変えていた。灰や炭に変わった枯葉や枝を掻き分けるとくすんだ銀色が姿を現す。火箸でざっくりと掻き出し、ボクは片手に二重に軍手を嵌めると一番大きいヤツの腹をつかんだ。手に伝わる柔らかさが、その出来栄えを如実に現している。
「いい感じですね」
ためしに一つアルミホイルと新聞紙を剥いて二つに割ってみた。
「わぁ」
女性陣の声が重なった。黄金の色をした焼き芋は、甘い匂いがする。ボクはその湯気を吸い込んで、うっとりと息を吐いた。
「じゃあこれは先輩方に、熱いから気をつけてください」
はい、と差し出す。
「おう」
「うん、あがりがと」
二人は手の中で焼き芋を転がした。ボクは軍手をしてるから大丈夫だけどまだ熱いのかもしれない。
「先生はどれが良いですか?」
「私は、これっ」
岩淵先生が指差したのは同率で一番大きいヤツだった。ボクは先生に見えないように苦笑を湛えて、そのお芋のアルミホイルと新聞紙を剥いた。
「はい、気をつけてくださいね」
「子供じゃないんだから大丈夫だよ」
先生はまるで子供のように顔を綻ばせて両手に余る大きな焼き芋を受け取った。先生は熱い熱いといいながら手の中で転がし、隙を見ては皮を剥いてゆく。器用な人なのか、食い意地が張っているのか。
ボクは手ごろな小ぶりの焼き芋を選んだ。アルミホイルを剥がし、新聞紙を脱がす。ボクは半分に割ると、その匂いにつられるように皮ごとかぶりついた。甘い、が――――熱い。
「うぇ、舌火傷したー」
猫舌のボクは犬のように舌を出して項垂れた。
「人に世話焼いといて、バッカじゃねぇの」
「大丈夫? 気をつけなきゃダメだよ」
冷たい先輩に対して、優しい言葉を掛けてくれる近江先輩。同じ人間なのにどうしてこうも違うのだろう。ボクは恨めしそうに先輩を睨みつけ、女神を見るように近江先輩に媚びた笑顔を浮かべた。先輩はボクと同じように皮ごと豪快に、近江先輩は丁寧の皮を剥いて少しづつパクついている。なんで平気なのだろう。
「熱くないですか?」
ボクはふぅふぅと焼き芋を冷ましながら問いかける。
「お前が猫舌過ぎなだけだろ」
「熱い方が美味しいよ」
「熱いと味を感じる余裕ないです」
温かい、まで温度が下がれば美味しくいただける。ほんのりとした自然な甘みがなんとも心地好い。
「おいしいですね」
「そうだね、バターつける人もいるけど、私はこのままのほうが良いな」
「バターは邪道だ、あと皮を剥くのも」
先輩は近江先輩を睨んだ。近江先輩はその視線を真っ向から受け止めて、微笑で受け流す。
「サツマイモの皮って土っぽい味がしない?」
「土食ったことねぇし」
「やだ、私もないよ。例えだよ、例え」
近江先輩がはにかんでみせると、先輩はばつが悪そうに視線を逸らした。
「でも皮って食物繊維が多くてお肌に良いらしいですよ」
ボクがそう言うと、二人に目を丸くされた。
「お前って、そーゆーの気にするタイプ?」
「そんなのじゃありませんって、女性のための一口メモですよ」
先輩は視線を秋空に向けた後、意地の悪い瞳でボクを見つめた。
「それは、アレか。暗にあたしらの肌はガザガザだと、それに気付けよのこのアマと、そう言いたい訳か」
「…………なんでですか。先輩達、お肌ツルツルじゃないですか、白いし、その、キレイですよ?」
「なっ、――あたしらに聞くなバカ」
白い肌に朱が差し、先輩は視線を逸らした。そして、なぁ、と上ずった声で近江先輩に話を振る。
「えぇっ、私? あ、えー、うれしい、かな? お世辞でも」
ボクはいつもよりも半音高い声で、お世辞じゃないですよ、と微妙な空気をかき混ぜた。先輩の瞳に似せた意地の悪い瞳を作ってみせる。それが功を奏したのか、それとも解決を遅らせたのかは判らないが、とりあえず場の空気は和らいだ。
そして一つ目の焼き芋を食べ終わる頃に示しを合わせたようにボクたちは思い出した。
「いいよね、みんな楽しそうでさ。いいのよ、別に。センセーは大人だから寂しくないし、生徒が幸せならそれでいいのよ」
ダークトーンで呟きながら岩淵先生はいじけていた。もう冷たくなった燃やしカスを枝切れで掻き回している。時折浮かべる微笑は深夜映画に見た外国人女優の物憂げなそれに似ている。
「先生……」
哀れすぎて掛ける言葉が見つからない。ボクと近江先輩は色々と言葉を捜し、先輩は我関せずといった様子で最後に残った一欠けらの焼き芋を口の中に放り込んだ。
「アレだな」
興味なさそうにしていた先輩が、虚空に向かって言葉を零した。
「教師と生徒の差」
「ひ、ひどいよ」
岩淵先生は酷く傷ついた様子だったがボクと近江先輩は思わず、ああ、と呟いた。
「納得しないでよ、近江さんまで――」
先生は傷心を通り越したらしく怒りはじめた。ぷんすか、としか擬音が思い浮かばない子供っぽい怒り方だった。そして自分が今までどれだけ生徒に親身になれるようにしたか語り始めて、仕舞いには近江先輩に慰められていた。
そしてボクたちは少しぬるくなった焼き芋を半分ずつ食べた。だらだらと世間話をして、食べ終わる頃には空は赤く色付き始めていた。
「暗くなる前に帰るのよ。うがいと手洗いは忘れないようにね」
火の始末をして、あらかた片付けると先生は寒い寒いといいながら職員室へ帰っていった。ちなみに余ったお芋もすべて持っていった。いいけどね。
「美味しかったですね、焼き芋」
「そうだね、後はあったかい紅茶とかあったら最高だね」
そうですね、と相槌を打ったボクの顔を近江先輩はじっと見つめた。それから先輩は微笑んだ。今日会った最初の頃よりも柔らかい笑顔だ、と思った。
「近江、時間だ」
先輩の声に近江先輩は振り向いた。一瞬表情を消し、それから下唇を噛んで、少し間を空けてから、うん、と呟いた。
「腹ごしらえもしたし、暗くなる前に行こうか。じゃあ、またね」
「あ、はい」
ボクは気の抜けた返事を返した。なんだろう、近江先輩の顔つきが違って見えた。黒髪の揺れる近江先輩の背も大きく見える。 その背を追うように先輩も歩き出した。
「……先輩?」
先輩はボクの声に振り向くことはなく、背中越しに小さく手を振り、その手でそのまま髪を梳いた。金色の髪が紅葉に滲む。
赤く色付く空に広がっていた羊雲は、変わらず空を覆っていた。しかし秋の風は確実に冷たく乾き始めていた。ボクは二人の背が見えなくなるまで、そちらを見ていた。
よくわからない、と何と無しに呟いた言葉は白い靄になって紅葉の間に吸い込まれる。夕焼けが紅葉をいっそう色濃くする中で、ボクはしばらく突っ立っていた。