06
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珍しいことをすると雨が降るという。しかし、珍しいことが起こる予兆として雨が降ることはあるのだろうか。
雲ひとつない真っ青な空が陰りだしたのは昨日の夕方だった。夜が急いたように辺りは暗くなり、海を逆さにしたような大雨が降りそそいだ。断続的な雨音が途絶えたのは何時だろうか、目が覚めて窓の開けると真白な太陽が青藍の空に浮かんでいた。
それまでは普通だった。気温が上がり、夏特有のじめじめとした暑さに閉口していた。
しかし夕方、どことなく秋を感じさせる風とともに先輩はボクの前に姿を現した。キャミソールに似た黒のワンピースを着て、右手にはコンビニの袋を持っていた。
暇か、と聞かれたので頷いた。ちょっと付き合え、と言われて先輩と並んで歩く。
雨上がりの空気に混じった土の匂いのせいだろうか、ほんの少しだけ昨日までの暑さが薄れたような気がする。
ヒグラシの独特の声身混じって、その中でなお奇妙なツクツクボウシの声が聞こえる。空が茜に色付く時間が早い。
ざぁ、と風が凪いで先輩の髪が揺れた。夏の初めには肩に触れる程度の髪が、今では肩甲骨の近くまで伸びている。そして金の髪は変わらずに根元まで金色だった。日本人の顔に金色の髪は似合わない、と思っていたけど要は慣れの問題らしい。今の先輩に金の髪は良く似合っている。夕焼けにも映える。
「先輩、髪伸びましたね」
「んー、そうだな」
先輩はうなじに掛かる髪をかきあげて、風に流した。
「今まで短かったからな、これらか寒くなるし」
「良いですね、大人っぽくて」
先輩は前髪をよじって、ぴんと弾く。そして軽く笑った。
「テキトーな感想だな。お前も伸びたけど、ロン毛にすんの? それともボーズ?」
「何でその二択なんですか。まぁ、伸びたことを確かですけど」
先輩に倣ってボクも前髪を一房摘む。それを、つつっと伸ばしてゆくと鼻先近くまで毛先がくる。かと思えば途中脱落した髪も何本も有る。
「前から思ってたけどスゲー不揃いな、お前の髪」
「自分で切ってますからね」
指でハサミを作ってちょきちょきと髪を切る仕草を見せると、先輩は目を見開いた。そして、マジ、と聞いてくる。
「マジです」
「え、ビンボーだっけ、お前ン家?」
「床屋さん行くぐらいのお金ならもらえますけどね。他人に髪触られるのが好きじゃないんですよ、だから自分で」
先輩は、へぇ、と呟くと次の瞬間にはボクの髪を乱暴に撫で回した。
「反応が薄い」
「なら止めてください」
軽く手で払うと先輩は大人しく従ってくれた。自分で言うのもなんだが、櫛通りの良い髪は絡まることなく先輩の指をするりと送り出した。軽く首を振って、それから手櫛で髪を撫で付ける。そんなことをしていたせいで、水溜りに足を突っ込んだ。右足がびちゃびちゃだ
「あーあ、何やってんだよ」
他人事のように言うが半分ぐらいは先輩のせいです。ボクは片足で立って、サンダルを脱いだ。振り下ろして水を切る。足に着いた水滴もぶらぶらやって吹き飛ばす。今が冬でなくて良かった。
「ヌレヌレだな」
「言い方がやらしいですよ先輩」
先輩はチェシャ猫ような笑みを浮かべた。
ボクが若干湿ったサンダルを履きなおすと再び歩き始める。
世界はオレンジのフィルムを透して見たように色付いて、ボクたちの影は巨人のように遥か向こうまで伸びていた。その伸びた先は学校へ向いている。先輩の口から行き先は聞いていないけど、なんとなく判る。
「そういえば、今日はスクーターじゃないんですね」
「ん、まぁ、いかんだろ。原付の二ケツは、犯罪だし」
「手遅れな気もしますけどね」
「まったくだな」
先輩は素知らぬ顔をして、そんなことを言い放った。ボクがチラリと横目で先輩を牽制すると、目が合って睨み返された。荒んだ会話と視線の応酬をしていると学校にだいぶ近付いていた。あたりもオレンジからダークブルーに色を変えている。
ボクと先輩は当然のように裏門に回り学校に入った。学校には誰も居ないようだった。用務員も事務員も宿直の先生も、誰も居ないのにもかかわらず窓の鍵は開きっぱなしだ。なんてずさんな学校なんだ。
「そう言えば先輩、スリッパどうします?」
横を向いて先輩に話しかけると、先輩は既に窓のサッシに足を掛け、忍び込んでいる最中だった。猫のように音もなく着地する。ただ風を切る音だけが聞こえた。
「早く来いよ」
ボクは短く溜息を吐き出して先輩に続いた。心の中でこの辺の廊下掃除を担当しているクラスに詫びておく。
廊下は不思議な冷たさが満ちていた。サンダルを越しでも足の裏が冷たい。ぺたぺたと響くサンダル特有の足音は微笑ましくも、不気味にも聞こえた。
「今更な気もしますが、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「学校に何をしに来たんですか?」
先輩は真面目な顔をして、散歩、と言い放った。散歩の途中に学校に来てはいけない決まりが有るわけではないが、流石に苦しいと思う。ボクは、そうですか、と溜息と一緒に言葉を吐き出す。
ボクと先輩は階段をだらだらと上がっていた。先輩は二段ほど前を歩いて、ボクはその斜め後ろを歩いている。先輩の手にぶら下っているコンビに袋はずっしりと重さを感じさせた。
「先輩」
「ん?」
「袋、持ちましょうか?」
「いいよ、別に、重くねぇし」
すげなく断られてしまった。それを持つかわりに、中身を覗き見しようと思ったのに。ボクが改めて、真っ向から袋の中身を聞こうとしたら、どこかで破裂音鳴り響いてボクの声を遮った。和太鼓を叩いたような、腹に響く音だ。
「うわっ、急げっ」
「―――え」
先輩はスカートの裾をはためかせ、飛ぶように階段を上がっていた。ボクもワンテンポ遅れて追う。階段で段差が有るので、こう、なんというか、ちょうど目の前に先輩の臀部が有るのだ。丈の短い先輩のスカートからはちらちらと純白の園が見え隠れして目のやり場に困る、が逸らそうとは思わない。だって男の子だもん。
犬のように短い間隔で息を吐いて一段飛ばしで階段を駆け上がる。半ばまで上っていたこともあって一番上の踊り場にはすぐ着いた。ボクと先輩は一緒に大きく息を吸って、そして屋上への扉を開けた。
錆び付いた鉄の擦れる音が、土の匂いがする風に運ばれる。灰色のタイルが広がり、緑色のフェンスが通せんぼをする。そして濃紺の空に、闇を切り裂く花が咲いた。一拍遅れて、破裂音が鼓膜を振るわせる。
先輩は、スゲーだろ、と悪戯が成功した子供のように笑った。先輩は、光に誘われるようにフェンスへ近づくボクの腕を引いて、給水塔に上った。学校で一番高い場所でボクと先輩は肩を並べて、夜空を照らす花を眺めた。
「この花火、隣町のですか?」
「ああ、バイト先のな、同僚に教えてもらった」
先輩は禁煙パイポを咥えていた。もう煙草を吸う習慣がなくなっていたと思っていたから、少し意外だった。
「まだ禁煙中ですか?」
「ダークチョコレート味だ」
前に吸っていたミント味とは違い先輩はビターなその味を気に入ったらしい。一息吸うと口から離し、煙を吐き出すようにゆっくりと息を吐き出す。そしてまた咥える。
「なに見てんだよ、それとも吸いたいとか?」
先輩は指の間に挟んだパイポをふらふらと揺すった。
「要りませんよ。苦いの嫌いですから」
「子供だな」
「さぁ、どうでしょう?」
ボクは軽く肩を竦めてはぐらかした。先輩は、なに言ってんだ、というような目つきでボクを見て呆れたように笑った。そして何かを思い出したようにコンビニの袋を漁りはじめる。
「はい」
差し出された銀色の缶は二十歳未満は買えない代物だった。カシスオレンジ、とポップな字体のアルファベットがボクの手の中に納まった。思わず受け取ってしまった。
「先輩……」
「夏ももう終わりだ、こんぐらい見逃せよ」
カシュっと炭酸が弾けた。先輩が手に持っているのはブラックビールらしい。コマーシャルみたいにごくりごくりと音が聞こえ、先輩の白い喉が微かに脈動しているのが判った。
「夏が終わるから見逃せって、どんな理論ですか。まったく」
「少しぐらい羽目を外せってことだよ」
「羽目なら外しましたよ。授業もサボったし、スクーターの二人乗りにノーヘル――」
「あと飲酒な」
先輩はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて言った。ボクは諦めてプルタブをひいた。炭酸が弾け微かにカシスが香る。あまりアルコールの匂いはしなかったが、一滴喉に通すとほんのりとアルコールが感じられた。
「ジュースみたいですね」
そう言ってボクはもう一口飲んだ。美味い、というわけではないが不味くもない。癖になるのもなんとなくわかる。
「花見酒ってのも良いよなぁ」
「確かに、そうですね」
まさしく滅びの美学を体現するような、それも特大の、とても美しい花だ。いくつも幾つも打ち上げられ、瞬き一つの間に花弁を散らす。花見酒なんて、先輩も風流なことを言ものだ。
ボクと先輩は会話を切り上げて、しばらく空に咲く大輪の花に見惚れた。ちびちびと舐めるように飲んでいるボクの酒が半分ほどに減った時、柳と呼ばれる花火が打ち上げられた。ボクには、ざらりと夜空に枝をしならせる枝垂桜や藤の花に見えた。
「いい場所ですね」
遮るものは何も無い。地上に落ちる僅かな灯りに、それでなお暗く広がる夜空は花火を映すキャンパスとしてこれ以上のものはない。それに、それに――――
ボクはくっと酒を喉に滑らせた。
「ああ、あたしのお気に入りだからな」
先輩もビールを呷っている。ボクとは逆の先輩の隣には五〇〇ミリリットルと三五〇ミリリットルの空き缶が転がっていた。つまり、今飲んでいるのは三本目ということで、少し酒臭い。
「先輩、飲みすぎです」
「んー、ヘーキだよ、これぐらい」
そう言って先輩は缶の残りを飲み干した。
自分で平気と言うだけあって先輩は酔っているようには見えない。呂律もしっかりしているし、目は、まぁ多少トロンとしているが淀んではいない。正気を保っている。先輩は喉の奥で笑って、新しい缶を取り出そうとしていた。
「ダメですって」
ボクが軽く止めると先輩は意外にも大人しく従ってくれた。従ってくれたと思ったら、ボクの手の中にあった残り僅かの缶々を強奪された。
あ、と声を発する間もなく先輩は飲み口に口付けして中身を一気に飲み干した。
「これで終いな、もう飲まない」
ボクがいろんな意味で唖然としていると、先輩は空の缶を振って中身が無いことをアピールした。片手で軽く握りつぶして脇に放る。
「……若いうちから、あんまりお酒飲んだらダメですよ」
「ああ、まったくだ。そもそも酒の力に頼ろうとしたのが拙かったな。それに決意も揺らぐし……」
ボクが不思議そうな顔をすると先輩は、なんでもない、と小さく笑った。そしてシャワーを浴びた後みたいにざっくりと前髪をかき上げた。花火の閃光に照らされた顔は大人っぽくて、穏やかだった。
「いい場所ですよね」
「さっきも聞いたよ。それとも酔ってんの?」
ボクは曖昧な笑みを浮かべて、何も答えなかった。先輩も軽く肩を竦めただけで、視線を空に戻した。
中ぐらいの花火が連続で打ち上げられ空を明るく照らす。霞草みたいな小さな花火も星に混ざるように打ち上げられている。
「ラストスパートですね」
「だな、いっちょベタなことでもしてみるか」
ボクと先輩は顔を見合わせ少し笑いあい、たーまやー、と一緒になって叫んだ。空に呆れるほど大きな花が咲いて、その破裂音はボクらの声を掻き消した。
「ホント良い場所……」
先輩の隣。
幾百の流れ星が落ちて消えるように舞い散る炎の花弁を眺めながら、ボクは余韻の中でぼんやりした。
「よし、――帰るか」
「はい」
先輩は立ち上がって、エスコートするように手を差し出してくれた。その手に触れると、先輩の細くしなやかな指先はしっかりとボクの手を握り締めて引き上げてくれる。柔らかで、暖かな手だ。
先輩が給水塔の梯子を降りている間、ボクは先輩の捨て置いた空き缶を拾い、ぼうっと町を見下ろした。
風が吹いた。雨上がりの土の匂いがする風でも、夏の蒸し暑い風でもない。お酒に火照ったボクの体を抱きしめたのは、寂しげな匂いのする秋の風だった。