02
02
生暖かい風が吹いた。
ばららららら、と扇風機がどろりと淀んだ夏の空気をかき混ぜる。青臭く、そして湿気を孕んでいる。ボクは小説に栞を挟んで、落としていた視線を上げた。網戸に蛾がくっついている。ボクは裏側からそいつを弾いて、網戸を開けた。
薄い雲が灰色のヴェールのように夜空を覆っている。星のきらめきが霞む。細く弓形になった月が、雲の切れ目から覗いていた。
ボクはしばらく空を眺めてから、特に意味も無く家を出た。夜の散歩、と言えば聞こえはいいが、どちらかといえば深夜徘徊と言ったほうが正しい。
サンダルを履いて、虫除けスプレーを振り撒いて、団扇を片手に装備する。玄関の鍵は掛けない、と言うか、いつも掛かっていない。防犯意識がゼロだと思うが、泥棒が入ったことはない。
特に目的もなく歩く。不眠症の蝉が一匹、声を嗄らして鳴いている。蛙の鳴き声も聞こえる。ジー、と螻蛄の鳴き声も聞こえる。その鳴き声が本当に螻蛄のもなのかは今でも不明だ。友人の一人は蚯蚓の鳴き声だと言ってた。
色んな音が聞こえるのに、静かだと思った。それはたぶん人の造り出した音が無いからだろう。
この町の夜はいつまで経っても慣れない。いや、興味深い、と言うべきだろうか。小学校の途中で越してきたこの町の夜は暗く、先ほどのも述べた通り静かだ。夜を拒むようにネオンを照らす都会とは対照的に、夜を享受するように街灯等の光源が設置されていない。その分、星が明るい。
雲を透かしていても、十分な光源となる。足元には薄い色の影がくっついている。
ボクはしばらくその薄い影をお供に歩き続けた。田畑に囲まれた舗装のしていない道が続く。デコボコとした感触がサンダル越しに感じる。ふと、視線を田畑にやると案山子が立っている。十字を突き立てたような案山子のシルエットは、シュールかつホラーだ。それに最近の案山子はハイカラさんが多い。
金の髪をしたマネキンだったり、青い瞳をしたヘアカット用の顔だったり。それを竹やりで串刺しにしているのだから薄ら寒いものを感じる。トルコ軍の軍勢が攻め来ても戦意を喪失して奇襲をかけやすくなるだろう、と訳のわからないことを考える。
変な方向に思考を張り巡らせるのはボクの悪癖だった。その所為で背後から迫ってくるスクーターに気が付かなかった。薄かったはずの影が色を濃くして道の奥へと伸びている。振り向いたときにはクラクションを鳴らされ、ブレーキをかけあぜ道が削れる音がした。
腰元がヘッドライトに触れるかどうかと言うぎりぎりの急停車。この場合、どちらが悪いかと言えばたぶんボクの方が少し多めに非があると思う。謝ろう、とドライバーに視線を向けて、ボクは思わず言葉を零した。
「……先輩?」
半キャップの下からのぞく双眸に湛えられた鬼火に似た光が薄らいだ。恐らく怒鳴るつもりだったのであろう、胸いっぱいに詰め込んだ空気を吐き出して、お前か、と疲れたように吐き出した。
「こんばんわ、先輩。それと、すみませんでした」
「ん、ああ、次は容赦なく轢くから。まぁ気をつけろ」
さらっと怖いことを言う先輩にボクは曖昧に笑みを浮かべて、はい、と返事をした。
「先輩はこんな時間にどうしたんですか?」
「あたしはバイトだよ」
先輩がバイトをしているのは隣町のファミリィレストランだ。大手チェーンではないので零時には閉店するらしいが、それでもこの町のコンビニよりも営業時間が長い。
「大変ですね」
「ビンボーだからな。……それよりもお前、今日はアレか? 祭り?」
唐突な先輩の言葉に、ボクは首をかしげた。
「そんなイベントはありませんでしたけど……」
「じゃあ、何でそんなかっこしてんのよ」
言われて、ボクは自分の姿に視線を落とす。
殆ど黒い藍色の生地に夜桜模様が裾を彩る浴衣。健康サンダルと団扇。ボクはようやく合点いったという風に、ああ、と声を出した。
「先輩、浴衣イコール祭りの発想は安易過ぎます。寝間着ですよ、これ」
「一言余計だ。渋いっつーか、かっこつけか?」
「先輩も一言余計です。人に見せないもので格好つけても仕方ないでしょう。頂き物だから、使わないともったいないからですよ。それにこの季節は涼しくていいですよ、浴衣」
袖を広げてみせると先輩は、ふうん、と呟きながら品定めするように足元からじろりと頭の先まで見回した。
少しだけ、恥かしい、かも。
「……ま、いいや。あんたはこんな時間に何してるんの?」
感想は無し、か。別に期待はしていなかったけど。
「散歩ですよ」
「暇人め」
「否定はしません」
暇と言うのもそれはそれでツマラナイものだが、先輩みたいに自分の時間は削っている人には羨ましいものなのかもしれない。 先輩は唇の先を吊り上げ憎々しく笑った。碌でもないことを思いついたときの顔だ。
「おい」
「なんですか」
ボクは諦めを滲ませ呟く。
「あたしも一緒に散歩してやろう、後ろに乗れ」
「先輩、スクーターの二人乗りは犯罪です。それにヘルメットもありません」
先輩は自分の被っていたヘルメットを脱いでボクに投げた。辛うじて受け止めて、睨むように先輩を見る。先輩は水に濡れた犬猫みたいに頭を振っていた。ショートカットの短い髪が小さく揺れた。
「どこまで行こうかね」
聞いちゃいない。ボクは諦めてヘルメットを被った。なんだか、先輩の匂いがする。
「じゃあ家まで」
「……あたしはタクシーか」
「人間でしょう」
「わかってるよっ」
先輩の瞳の角度が鋭角になる前にふざけるのはやめよう。
「ま、テキトーに流すか、散歩だしな」
スクーターは歩かないので散走では、などとくだらないことを考える。思わず口にしたら先輩の冷たいツッコミが待っているので口にはしない。先輩は顎をしゃくって、乗れ、と指図した。ボクは小走りにスクーターの後ろに回りこんだ。
スクーターは一人用に造られているので、何と言うか二人で乗るには座席が狭い。
「はよ乗れ」
先輩の声にせかされて、ボクは先輩のすぐ後ろに乗った。拳一つ分、に少し足らないぐらいの隙間を開ける。まぁ、あんまりスピードは出ないだろうから、先輩に抱きつかなくても振り落とされることはないだろう。
「乗った?」
「はい」
「おし、振り落とされんなよ」
加速は非常にゆっくりだった。デコボコとした道なりをそのまま伝えるように、車体が小刻みに揺れる。乗り心地はあんまりよくない。
「なんでこの町は道を舗装しないかねぇ。隣町まで行くとちゃんとしてるのに。それにコンビニが二十四時間営業だ」
「それが普通ですよ。むしろこの町のほうが凄いと思いますよ、ボクは」
「なんでよ」
先輩の言葉にボクは少し考えた。
「それでもみんな平気だから」
「あ?」
先輩は良く判らないといった感じで声を出した。この町にずっと住んでいるのだから、きっとそれが普通なのだろう。だから、ボクの言葉が変に思える。
「夜が暗いのに怖くないから」
「夜が明るかったら気持ち悪るいだろ」
「まったくです」
ボクは小さく笑った。先輩が憮然としているのが後ろからでも判った。たぶん、ボクの笑った意味を取り違えているのだろう。
「ボク、先輩のその考えかた好きですよ。うん、この町の夜のほうがずっとイイです」
「はは、なに言ってるんだかね。この後輩はっ――」
先輩が噛殺すように笑った声が、風に流れてボクの耳に届いた。ボクも小さな笑い声を零すと、がくんとスクーターは加速した。振り落とされはしなかったものの、少し危なかった。ボクは抓むように先輩の裾を握り締めた。風が気持ち好い。
胸を反らすように空を見上げた。薄い雲が空を覆っている。月が覗いていた雲の切れ目はなくなり、ただぼんやりとした星空が広がっている。
「ねぇ、先輩」
「ん、なに」
ボクは小さく深呼吸した。
「もう少し晴れた夜に、また後ろに乗っけてくださいね」
「は――ははっ。ああ、もう少し晴れた日な。今日は二ケツを体験したから、次はノーヘルか?」
「それは遠慮しますよ」
次ぎ乗る時は、もう少し―――
ボクは裾を握る力を強めて、がんばろう、と小さな決心をした。
「さて、どこまで行こうかね」
「何処まででもご随意に。先輩に付き合いますよ」
先輩とボクは法定速度を守りつつ風になった。
空に広がる薄い雲に一筋に切れ目が入り、夜はほんの僅か明るさを増した。