10
10
空が高い。薄い水色が遠くまで広がって、そのずっと奥のほうには紫煙の雲が渦巻いて浮かんでいた。吐き出した息は濃い靄に変わり、ボクの弱さのようにいつまでも纏わりついてくる。甘ったれの子供のように、ボクはサヨナラしたはずの最低な自分を捨てきれずにいた。
近江先輩との約束が果たされないまま、二学期が終わろうとしている。足下に聞こえる鐘の音を踏みつけて、ボクは屋上でひとり青春していた。肌を切り裂く停滞した冷たい空気を掻き分けて、ボクはフェンス近付き指をかけた。掌に金網が食い込むが、すっかり冷えたボクの体は痛みすら認識しない。
視界の端に映る体育館に、ぞろぞろと生徒達が吸い込まれていく。その表情を見ることはかなわないが、浮ついた雰囲気がここまで漂ってくる。ときおり聞こえる先生方の怒号に混じって、人ごみから助けを求める岩淵先生の微かな声が切ない。
なにはともあれ平和そのものだ。意味も無く腹立たしくなるぐらいに。
「あああぁぁァ―――っ」
鬱屈した精神を、腐りきった根性を、喉の奥に詰まり約束の言葉を塞ぐ弱さを、嫌いな自分の全部を吐き出すようにボクは吼えた。フェンスの向こう側に吐き捨てた、――つもりだった。
ばたん、と鉄の扉が閉まる音がボクの神経を無遠慮に撫でた。悪戯が見つかった子供のように肩を震わせて、ボクは勢いよく振り返った。その姿を見て、ボクは口元に誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべた。
「先輩……サボりですか?」
紅葉の残滓を思わせる、ほんのりと赤みを帯びた黄金の髪は出会った頃からからずいぶんと伸びた。狼に似た鋭い瞳は、いつものように半眼でボクを睨みつける。軍用毛布を裂いたような深緑のマフラーを口元からずらして、先輩は牙を剥くように小さな笑みを浮かべた。
「ああ、そうだよ。お前と違ってホームルームには出たがな」
「なんのことですか?」
「朝からココに居たろ。少なくともあたしが登校してくる頃には」
「下から、見えます?」
ボクは瞳をそらすように、フェンスの外に視線を投げた。あまり大きな学校ではないが、それでも下までは距離がある。人が居る、と言うことぐらいは判るかもしれないが、ボクだと判断できるだろうか。髪の色が他の生徒と違う先輩ならともかく。ボクのそんな考えを読み取ったように、先輩が言葉を付け加えた。
「お前ちびっこいからな、むしろ判りやすい」
「そんなものですか?」
「そんなもんだよ」
口答えは許さない、と言うような視線とともに断言された。そんなにちっちゃいかな、と久しぶりに自分の背のことを気にしてみる。見えるわけでもないが、上目遣いに自分の頭を見ようとすると、視界に空が広がった。少し色が濃くなったように感じる。
「それで、お前は何でこんな所に居るんだよ」
「なんで――」
ボクは口を噤んで小さく考え込んだ。感覚的に自分の中では説明がつくのだが、言語化するのは難しい、――と言うか、先輩のこと考えてました、なんて言えない。言わなければなのいのだが、言えない。
「――でしょうね?」
ボクは小さく笑みを浮かべて逃げた。
「先輩はどうしたんですか? まさかボクに会いに来てくれたとか?」
言ってから最低の言葉だと思った。でも出したものはどうしようもない。
先輩は半眼で、そして小さく白い息を吐き出した。軍人とか、モデルみたいに凛と背筋を伸ばしてボクに詰め寄ってくる。一歩踏み出せば胸に抱かれるほど近くで、ボクは先輩の顔を見上げた。
「…………」
「先輩?」
深い色の瞳、とボクが先輩の瞳から眼を離せないでいると、顔の中心に痛みが走った。先輩の細い指先がボクの鼻を摘んでいる。
なにするんですか、と鼻声で言うボクの抗議に先輩は一言、懲罰、と言葉を返してきた。ボクは仄かに温かさの残る鼻の頭を撫でて、先輩を睨みつけた。
「じゃあ、先輩は何でここに来たんですか」
「あたしが来たらダメか?」
「そんなことはないですけど……」
ごにょごにょ、と言葉の尻尾を濁す。ボクは音にならない言葉を吐き出すように、はぁ、と手に息をかけ、ついでに鼻も啜り、亀が首を引っ込めるように肩をすくめた。
「寒いな、平気か」
「平気ですけど……?」
ボクはゆっくりと小首を傾げた。斜めに映る先輩の指先にボクは、また抓られるのか、と身をこわばらせた。しかし先輩の指先はボクの鼻を素通りして、そっと頬に触れた。
「お前、病み上がりだろ。冷たいし、いつも以上に白いぞ」
先輩の指先がボクの頬を撫でている。そう認識できるまで一体どれ程の時間を要しただろうか。ボクの呼吸は一瞬止まり、瞳は大きく見開いて、そして怯えるように体を震わせた。触れられた頬が、血が流れるように熱い。
「頬、赤くなった。ついでに鼻先も。まるでトナカイだな」
先輩は唇の端を吊り上げて、からかうような口調で言った。
先輩の所為ですよ、と言おうとしたが声にならなかった。呼吸が震えているのが、微かに喉に伝わる。この感じ、ひどく懐かしい。ダメ、と思ってもどうしようもない、切なさ。
見上げる先輩。視界の全てが、滲む。瞳が蕩けるほど熱く、その熱はゆっくりと、くすぐるように頬を伝う。
「ちょ――お前、何で泣くんだよ」
焦ったような先輩の声が遠くに聞こえる。ボクはぐずぐずと鼻を啜り、肩を揺らして、頬を濡らす雫を拭うこともなく、ただ先輩の顔を見上げた。
「泣くなっ、泣くなよ。ああ、もう」
滲む景色の中で、それでもやはり先輩は浮かび上がっていた。少し悲しそうな、困った顔をして髪をかき回している。
「ごめん、そんなにヤだったか? それとも鼻摘んだの痛かったか?」
「う……せんぱい」
ボクはその声を絞り出すので精一杯で、だから濡れた犬のように首を振った。
先輩に触れられるのは嫌じゃない。痛いときもあるが、心地好いときもある。緊張するし、恥ずかしくも思う。子供扱いされているようで寂しくなるときもあるけど、それでもやはり、どこか安心してしまう。
「ホントどうしたんだよ。情緒不安定か?」
子供をあやすような、しかし慣れない手つきで先輩はボクの髪を撫でた。それから乱暴な手付きでボクの頬を拭って、もう一度、泣くなよ、と言い聞かすように呟いた。
「な?」
「…………うん」
急に込み上げてきた恥ずかしさを誤魔化すようにはにかみながら、ボクは頷いた。先輩は乱暴にボクの髪をかき回す。
「泣いたり笑ったり忙しいヤツだな。あーあ、もう、目ぇ赤いぞ。まるであたしが泣かしたみたいじゃないか」
「先輩の、所為です」
すんすん、と鼻を啜り上げる合間にようやく言えた。ボクが不安なのも、嬉しいのも、せんぶ先輩の所為だ。
「何でだよ。やっぱり鼻、痛かったか?」
先輩はボクの髪をかき回していた手をどけて、ボクの鼻先を撫でるようにつついた。なんだか凄く子供扱いされている気がする。
ボクは鼻の頭に触れて、先輩にくしゃくしゃにされた髪の毛を撫で付けた。上目遣いに睨むが先輩は意に介した様子がない。それどころかニィと笑みを深めた。
「先輩」
「なによ」
ボクは大きく深呼吸した。吐き出した白い靄に視界が奪われる。
首筋が熱を持っている。心臓の音がやけに大きい。近江先輩もこんな感じだったのだろうか。それならば、やはりボクも赤くなって震えているのだろうか。ボクは掌に爪を立てるように、ぎゅっと拳を握り、姿勢を正し、浅く息を吸い込む。
ゆっくりと空気が動き出し、白い靄を遠くへ流していった。ボクは先輩の瞳をじっと見つめながら、吐き出した。
「先輩のことが好きです」
先輩はぱちぱちと大きく瞬きした。初めて見る表情だ、とボクは場違いにも嬉しく思った。
「んー」
先輩は小さく言葉を零した。ボクがじっと見つめていると先輩は視線を逸らした。切り裂くような冷たさでも色を変えなかった白い頬がうっすらと色付いている。先輩がこくんと頷いて、金の髪がきらきらと流れる。
「ん、ありがと」
その言葉は靄のように風に流されることなく、しかっりとボクの耳に届いた。
嬉しいけど、少し不満だと思うのは、ボクが欲張りだからなのだろうか。もっと、ちゃんとした言葉でききたいな、と。だけどきっとこういうことを聞くのはマナー違反なのだろう。でも、やっぱり聞きたい。ボクは自分の欲望に抗えなかった。
「先輩、先輩」
ボクが呼びかけると先輩はようやく、しかし、ちらりとボクを見てくれた。
「先輩は、ボクのこと好きですか?」
「なっ――、そんなの聞くか? ふつう。バカップルじゃあるまいし」
上目遣いと言えば聞こえが良いが、先輩は三白眼で鬼のような瞳でボクを睨みつけた。ボクは、うっ、と怯む。なんだか急に恥ずかしさを思い出してしまう。だけど男の子には引けない時があるのだ。
「先輩のこと好きなんですから、普通じゃありませんよ。じょーちょうふあんてい、ですしね」
火照る頬を誤魔化すようにボクは先輩の真似をし、唇の端を吊り上げて意地の悪い笑みを作った。先輩は頬を赤くしたまま、じっと息を詰めた。眉間に皺が寄り、時間が立つにつれ深くなっていく。それから首筋まで真っ赤に染めて、ぷはっ、と大きく息を吐き出した。
「二度と言わないからな」
「はい。でも、それで、安心できます」
先輩は小さい声で、あたしはそんなに信頼ないのか、と小さく呟いた。それからゆっくり深く息を吸い込んで、ボクの瞳を見た。
「あたしは、お前のことが――――好きだ。たぶん、ずっと」
先輩の凛とした声に、その言葉に、ボクはまた泣きそうになった。だけどボクは笑う。だって泣いてしまったら先輩に顔が見えない。ボクは笑ったのだが、先輩はなんだか仏頂面だ。だからボクは言うのだ。恥ずかしいけど、もう一度。
「ボクも先輩にこと好きです。きっと、ずっと」
「ん、……知ってる」
先輩は少しだけ照れたようにはにかんで、ボクの髪を撫でた。
今日日の高校生にしてはあまりにも奥手な触れ合いかもしれないが、ボクたちはそれで幸せなのだ。
「なに笑ってんのさ、気持ち悪い」
「幸せなんです」
「それって女の子の台詞じゃないか?」
「じゃあ先輩、言ってください」
「絶対イヤ」
「えー」
不満を呟いたボクの顔は笑っていて、睨む先輩の顔もやはり笑っている。
足元から鐘の音が二度鳴っても、ボクらはいつもみたく笑い合って、いつも通りのとろんとした日常を謳歌した。
冬の冷たさを理由にすることなく、少し二人の距離を近づけて。
おしまい




