最初の一人
初投稿です。肩の力を抜き、厳しくも温かい目で読んでいただけたら幸いです。
その日も雨だった。
整備が行き届いているとは言い難い車道の欠けた路面に時折足を引っ掛けて転びそうになりながら、僕は我が家へと足を進めていた。風がないことだけは幸いだが、古くなってきたコンクリートの路面に跳ね返る雨や水たまりを踏んで上がる飛沫が学ランの足元を濡らしてる。人気は全くないし、明かりもまばらで数十メートルほど先はほとんど見えない。時たまバスが通ったりもするのだが、今日は運悪く時間に間に合わなかった。母が念のためにと持たせてくれた折りたたみ傘がなければ雨の夜道を走って帰ることになっていただろう。正確には、雨の中を歩いて帰って、なぜせめて走らなかったのかと母に叱られていたことだろう。僕は別段運動が苦手ということはないのだけれど、走るのはあまり好きではなかった。
街灯を伝うように道を進むと、途中でバス停にひとつ出くわすことになるのだが、普段は誰も使っていないようで人を見かけたこともなかった。周りには雑木林と、少し歩いた先に誰かが住んでいると思しき古民家が一軒あるだけで、他には何もない。まるで古民家の住人のために据えられたようなバス停が存在する。そんな奇妙なバス停に今日は人影があった。
雨の中に異様な存在感をもって浮かび上がる真っ赤なレインコート。背格好からして女性だろう。顔はフードで半分ほど隠れており、見え隠れする唇には口紅が塗ってあるように見えた。
一本道なだけに、比較的新しい雨よけの屋根がついたそのバス停を避けて通ることもできず、薄気味悪さもあって、傘の下で小さくなりながら、目を合わせないように通り過ぎることにした。結論から言って、何事もなく通り過ぎるその作戦は突然の強風で折りたたみ傘がひっくり返ってしまったことで失敗に終わってしまった。情けないことに小さく悲鳴まで上げてしまった僕に、レインコートの女性が声をかけてきたのだ。
「君、大丈夫?」
若い女性の綺麗な声だった。高くもなく低くもない、まるで何かの楽器から出たような、引っ掛かりのない澄んだ声音だ。
「大丈夫、大丈夫です」
実際大丈夫ではなかった。ひっくり返った傘の骨を少しひん曲げてしまった上に、手間取ったせいで教科書の入ったカバンにも雨が染みてしまった。母に持たされたこの傘とは、どうやら今日でお別れのようだ。
「とりあえず屋根の下に入るといいよ」
「はい…」
それから少しだけ傘の修理を試みて、帰るまでくらいならなんとかなりそうなくらいに形を整えていると、レインコートの女性がハンカチを貸してくれた。フードの下の顔が先ほどよりはっきりと見え、比較できるほどたくさんの女性の顔を知らない僕の感性でも、彼女は美人だと感じた。こんなところにしっかりと化粧をしてぽつんと立っていたという奇妙さを忘れるなら、若くして母性さえ感じさせる優しそうな顔立ちをしていた。
「ありがとうございました。あの、ハンカチ、結構汚れちゃったんですけど」
こういう時は洗って返すことを提案しておくのが正しいのだろうが、それは彼女にあっさり断られてしまった。返しに来れる保証もなかったので僕はむしろ安心した。
「君はこの近くに住んでる子かな? もう最終のバスも行っちゃったから、歩いて帰るしかないんだね」
「はい、お姉さんは近くの家に住んでいる方ですか?」
彼女は少し迷ったような顔をして、小さく頷いた。
「そうだよ。車があれば家まで送ってあげたんだけどね」
「いえ、ここまできたらあと少しだけですから」
彼女は言葉の優しさとは裏腹に、表情の変化に乏しかった。小さく笑ったりもして、感情が読み取れない程ではないが、ひょっとしたら年下の、難しい年頃の男の子の相手にたいそう気を使っているのかもしれない。申し訳なくなった僕は、雨宿りも程々にバス停をあとにすることにした。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。気をつけてね」
この日の雨は結局朝まで続き、走って帰った僕は結局びしょ濡れで帰ってきた僕を見て少し不機嫌になった母に、学生服をはぎ取られてお風呂に叩き込まれる羽目になった。