97. 王たる器
夜が明けると共に、「翼ある人」はルートニアから撤退した。シオンの言葉は、センテ・レーバン兵を活気付け、彼らを追い返すまでに至ったのである。
ここまで、負傷者そして光の粒になって姿を消したものは数知れない。本来的なセンテ・レーバン軍の軍力は、諸侯の軍と騎士団を組み合わせてその体系を維持する。しかし、諸侯が騎士団の要請に応じないため、残された騎士団の力だけで、一ヶ月あまり敵の猛攻に耐えてきた。その疲労感と虚脱感は、あまりにも大きかった。
それが、たった一声シオンが言葉をかけただけで、見違えるように奮起した騎士たちは、次から次へと「翼ある人」を切り伏せていった。もっとも、キリク隊の到着なしには、満身創痍のルートニア守備隊だけで勝利することは難しかっただろう。
そうして、迎えた夜明け。東の空に昇る太陽の美しさに、しばし暫し騎士たちは見とれていた。さらに、彼らの高揚感は続く。シオンが目覚めたこと、そしてフェルトが戻ってきたこと。そのニュースは瞬くうちにルートニアの街に広まった。
新国王となったシオンへの信頼はとても篤い。他の国でもそうだが、統治者への信頼が無償で払われるのは、それなくして、自分たちの生活が立ち行かないからである。すべてが中央集権である国家において、その頂点に位置する、例えば、センテ・レーバンであれば国王、ガモーフであれば法王、ダイムガルドであれば皇帝への信頼は、少なくとも自分たちのあらゆる生活に直結し、王はそれを保障し国家の安定を図らなければならない。
しかし、そう上手くは行かないもので、度重なる飢饉などは、確実に国民生活を締め上げながらも、統治者はそれに対する手立てがないままだった。それゆえに、聡明と言われる新国王シオンへの期待感が、信頼の顕れとなったのである。
驚くべきことは、シオンがその信頼を受け止める覚悟があることである。まだ若干十二歳の少女であるが、多くの事を学び、真摯にかつ慈愛をもち、国王にふさわしい少女であることは、誰の眼にも明白だった。それ故に、自分の思い通りにならないと思ったライオットは、自らが宰相府技術院に開発を命じたレパードの魔法装置で、幼い彼女を操ろうとしたのだ。
まったくその事を予見していなかったわけではない。だが、半年前、父が他界し寂しさに打ちひしがれるシオンにとって、唯一心のよりどころであった兄が姿を消したショックはあまりにひどく、ライオットに付け入る隙をあたえてしまった。そのことは、シオンとしても忸怩たる思いである。だからこそ、その汚名を雪ぎたい。それが今なのだと、シオンはその思いで騎士たちを勇気付けた。
だが、その言葉は同時に自分自身を奮起させる言葉であった事を、兄のフェルトはもちろん、彼の仲間たちも、そして騎士たちも知る由もなかった。
一夜の戦闘が終わり、すぐに騎士団長のクロウ・ヴェイルが陣頭指揮を執り、ルートニア防備の再編が行われた。さらに、負傷者の手当て、カレンとともに一路ルートニア外部へと避難した、ストラインやマクギネスを呼び戻し、同盟会議の再開を呼びかけた。その立派に役目を果たす奮迅ぶりは、ひと月ほど前まで、彼がライオット子飼いの親衛騎士であったとは思いもよらない。亡きトライゼンも認める活躍ぶりだろう。
眠っている間、いや……ライオットに操られている間にいろいろなことがあったようだ。その話を兄と、その仲間たちから断片的ではあるが聞かされた。それだけで、世界に迫っている危機を知るには十分だった。分からないことは、すべて想像力で補填してもあまりある。その事実は、あの翼の生えた人間を見れば、明白なのだから。
それよりも、シオンにはもっと驚くべきことがあった。騎士団長のクロウの成長ぶりもそうだし、キリクやカレンなど若い……と言ってもシオンよりは随分年上ではあるが、自分同様に次世代の人間がしっかりと未来のために戦っていることだ。なにより、目覚めたシオンの前に現れた兄の横顔が、半年前とは見違えるように、凛々しくなっていたことは、再会の喜びと相まって、空虚になりかけたシオンの心を目いっぱいに満たした。
そんな兄が何故ダイムガルド軍の制服を着ているのか、兄の仲間の紹介と、そして旅の話、現在、世界を取り巻く事情。メッツェ・カーネリアのこと、ネルという女の子のこと。アストレアの天使のこと。それらを各人の口から聞き終えて、詳細を理解したころには、すっかり翌日のこととなっていた。
「同盟交渉は上手く行っておりません。クロウの申す通り、同盟は不可欠なものです。フェルト殿下が敵軍……いや、ダイムガルド軍に籍を得ている今こそ、その立場を利用し、こちらの要求をかの国に飲ませ、同盟の主導権を握ることが重要かと思われます。聞けば、フェルト殿下はダイムガルド上層部や皇帝と顔見知りとも」
ストラインは、政治家としての立場から、姪であるシオンに懇々と同盟について説いた。同盟に先駆けて、ダイムガルドは領地を欲し、センテ・レーバンは資源を欲している。両者の主張は平行線をたどり、国内の事情が芳しくないセンテ・レーバンは、敏腕外交官であるマクギネス・ハットの論舌に丸め込まれかけていた。
これが初めての公務となる。自分が国王になったことも知らなかったが、少なくとも父の死後、その役目を担うことになるだろうと言うことは、分かっていた。兄は、生まれはどうとしても、そういう立場になりたがらない人だ。だが、いつでも兄として傍にいてくれる。だから、相談したかった。どうするべきか。あまりにも事が大きいため、ストライン一人の言を聞き、その通り裁可を下すと言うわけには行かない。高度に政治的事情が絡まりつつも、現実に危機はすぐ目の前にあって、それと戦うという騎士たちの意志は固い。だが、兄はクロウたち仲間と共に、戦闘の事後処理に追われていた。ある意味、ダイムガルド軍籍にしてセンテ・レーバン王子という不可思議で宙ぶらりんな立場にあるため、忙しさに拍車をかけているのだろう。
ひひは、兄の力を借りるべきではない。センテ・レーバン王国の新国王となった事を自覚し、その覚悟を見せて、天国の父や、兄を安心させたい。自分が立派に国王となることを、見せたい。
「分かりました、ストライン叔父様……直ちに、謁見の間を用意してください。それから、大臣、騎士団長たちを集め、マクギネスさま、お付の方々、セシリアさん、ジャックさん、お兄様をおよびください。同盟は必ず成立させます。この国の、いえ、世界の未来のために」
「はっ、すぐに。しかし、シオン陛下。叔父様というのは、お止め下さい。あなたはこれから、真の意味で国王陛下となられる。私は亡き先代に代わって、陛下を全身全霊お助けいたします」
「ありがとう、叔父さ……ストライン卿。今日から、あなたがライオットに代わり、宰相の地位を引き継ぐ事を認めます。わたしは、まだ十二の娘。分からないことは沢山あります。どうか、力になって下さい」
「ありがたきお言葉。お任せください」
ストラインはそう言うと、要塞内に設けられた、シオンの私室を後にした。残されたシオンは、少しばかり背筋を伸ばして、誰に言うでもなく小さく「がんばります」と口にした。
ルートニアは都市機能を持った要塞であるから、謁見の間を準備するのにそれほど長い時間はかからなかった。戦闘の事後処理に追われるアルサスたちが、気がついたときには、カーペットと玉座の置かれた、まがりなりの謁見の間が完成していた。
すぐさま、マクギネスやセンテ・レーバンの大臣たちに招集がかかる。アルサスたちも、マクギネスの護衛と言う立場から、第二回交渉会議に出席することとなった。センテ・レーバン王子であるアルサスが、フェルトとしてではなく、アルサス・テイル少尉として、その会合に望んだのは本人たっての希望であり、同時にアルサス自身は、ダイムガルドの人間であると言う立場を貫く事を、クロウやマクギネスに承諾させた。
謁見の間には、宰相の地位をライオットより引き継いだストライン、大臣、そして、クロウ、カレン、キリクなどの騎士団長を中心とするセンテ・レーバンの代表たちがすでに、並べられた席に座っていた。部屋の隅には、フランチェスカの姿もある。対するダイムガルドの代表は、外務参事官であるマクギネス、マクギネスが世話係として連れてきた少女たち、少女たちは相変わらず、目深にフードを被っており、その顔はついぞ見ることは出来なかったが、彼女たちに続いて、セシリア、アルサス、ジャックが並び、センテ・レーバン勢と向かいあうように、椅子に腰を下ろした。
「シオン国王陛下のおなりにごいます!」
と、ストラインの声が謁見の間に響き渡ると、真っ白なドレスに身を包んだシオンが、上座に置かれた玉座に現れる。玉座の後ろには、センテ・レーバンの紋章が描かれた国旗が掲げられていた。
アルサスはその光景に、ふと即位式典の事を思い出さずに入られなかったが、妹の王冠に輝く宝石は、ごくありきたりな青い宝石で、シオンの瞳も生気を宿している。
あの時とは違う。ストラインは、王家を守ることを信条とする男であり、及び腰なところはあるが、ライオットのように私利私欲に目のくらむような人物ではない。あの時は、騎士団の多くが、諸侯の反乱や一揆の鎮圧に出かけ不在であったが、今はクロウもカレンもキリクも揃っている。その反対に、ついにシオンが本当の意味で、国王の器を試される時が来たと言うことだ。
「マクギネス・ハット参事官さま。それにお付のみなさま、セシリアさん、ジャックさん……アルサスさん。ダイムガルドより遠路はるばる、センテ・レーバンへ良くぞお越しくださいました」
凛としていて、聞くものの耳を揺らす声。可愛らしい少女の声だが、どこか威風を備えているのは、彼女が齢十二にして王の器にあるということの何よりの証だった。
「ストライン宰相、騎士団のみなさん、大臣のお歴々、わたしがライオットの罠にかかり、多分なご迷惑をおかけした事をお詫びいたします。しかし、今世界は、アストレアの天使によって、滅びの危機を迎えています。ダイムガルド帝国とは、かつて国境を隔てて何度も戦をして来ました。しかし、いまこそ両国は手を取り合う必要があるはずです」
厳かな言葉の数々に、謁見の間は静かになる。
「アストレアの天使が作り上げようとする、新しい世界。それがどれほど、幸せな世界であったとしても、今の世界に生きるわたしたちには、この世界を変えることが出来る可能性がある。メッツェの望んでいるのは、その可能性の芽すら摘み取ろうとしているに過ぎません。だからこそ、わたしたちは、彼に、そして彼女に見せるのです。わたしたちは成長できる生き物であることを」
「しかるに!」
大臣の一人が、シオンの言葉を遮った。
「マクギネスどのは、この機に領地拡大を王国に要求してきた。ダイムガルドは、その成長を拒んでおられるのではありませんかな?」
「何を仰られる。そちらとて、我が国が産出するミスリルの二十パーセントを、向こう五十年間無償提供することを提示してきたではありませぬか!」
大臣の言葉に、憤りをあらわにして、マクギネスが反論を叩きつける。
「二十パーセントごとき、大したことではありますまい。空白地帯の領地と引き換えに出来るものではない。それならば、フェルト殿下、殿下はいかがお考えか!?」
鼻で笑い飛ばした大臣は、その矛先をアルサスに向けた。いち護衛軍人としてマクギネスの後ろにつくアルサスは、少しばかり困ってしまう。政治的なやり取りが得意でない、と言うよりも、自分はあくまでダイムガルドの立場であることを徹底したかったのだが、それを理解してくれる人間は少ないようだ。
「私、アルサス・テイル一個人として、大臣どのに申し上げます。ダイムガルドは、みなさんのお考えのような豊かな国ではありません。灼熱の砂漠に囲まれ、食料も水も配給に頼らなければならない中、それでも国を守るために、沢山の兵器を作り、そのことで雇用を見出してきました。しかしながら、ミスリルの採掘量には限界があります。二十パーセントものミスリルを無償提供すれば、ダイムガルドの民の二十パーセントが餓死するものとお考え下さい。それだけ、ダイムガルド帝国は、細い糸でのみつながれた国なのです。どうか、同盟のために、ダイムガルドの無垢な命を犠牲にすることはお止め下さい」
「フン! たとえ、腹違いとは言え、シオン陛下の兄君にして、この国の王子殿下ともあろうお方が、ダイムガルドの味方をするとは、けしからん!」
アルサスの言い分が気に食わない大臣は、ムスっとした顔で、そっぽを向く。大臣の多くが同じ考えのようで、アルサスに向けられる視線は尖っていた。だが、それに助け舟を出したのはシオンである。
「お兄さ……いえ、アルサスさんの仰るとおりです。未来のために努力は惜しんではいけない。でも、未来のために誰かを犠牲にすることもあってはならない。それこそ、アストレアの天使の思うつぼです。だから……」
シオンは深く深呼吸をすると、一際大きな声で、謁見の間に響き渡るような声で言った。
「センテ・レーバン王国は、すべての要求を破棄し、無条件でダイムガルドとの同盟を結ぶ事を望みます」
俄かに大臣、騎士団長たちにどよめきが起きる。まさかの発言に、よりよい条件で同盟の主導権を握ろうとしていた者たちにとって、それはまさに期待はずれにして、青天の霹靂だった。
「へ、陛下、それはお待ち下さい!」
慌ててストラインがとめるが、シオンの意志が固いことを、彼女の眼が物語っており、思わず閉口してしまった。ところが、そのどよめきを、まるで一条の光が貫くかのように、一つの声が走った。
「ダイムガルド帝国も、無条件で同盟を結びます」
と、口にしたのが明らかにマクギネスでないことは明白だった。歳若い女……いや少女の声。すると、マクギネスが本国から連れてきた、世話係の少女のうち一人が、すっくと立ち上がる。ぴんと背筋を伸ばしたまま、シオンの前まで歩み出ると、少女はおもむろにフードを脱いだ。
思わず、アルサスは息を呑む。出発の時から、どこか見覚えがある、と思っていたのだが、彼女であることにまったく気づかなかった。
「アルサスっ! あのお方はっ!?」
セシリアも顔を見てはじめて少女の正体を知り、愕然としている。そんないくつもの視線の中で、少女は、シオンの前にたおやかに微笑むと自らの名を名乗った。
「申し送れました、シオン、コルネ・レーバン国王陛下。わらわは、ダイムガルド帝国皇帝、アイシャ・マイト・ダイムガルド、と申します」
一時は治まったどよめきが再び、わっ、と巻き起こる。
「マクギネス参事官! どうして、アイシャが……皇帝陛下がここにいるんだ!?」
アルサスがマクギネスに掴みかかる。まさか、皇帝自ら赴いているとは誰が想像しただろう。センテ・レーバンの大臣たちはおろか、アルサスたちも、ましてやマクギネスも知る由もなく、一堂と同じように驚いて、酸欠の金魚のような顔をしていた。
どうやら、アイシャの独断だったようだ、と察しが付いたアルサスはすかさず、セシリアとジャックに目配せをする。三人は、近衛騎士として皇帝を守るべく、式典用のサーベルに手をかけた。
クロウたち騎士団も、尋常ならざる事態を察知して、腰の剣に手をやる。一触即発な緊張感が、謁見の間を包み込んだ。その喧騒を鎮めたのは、またしてもシオンだった。
「みなさん! どうか落ち着いて。アルサスさん、クロウ、剣を納めてください」
と、言うとシオンは玉座から立ち上がり、アイシャの元へと駆け寄った。端から見ても分かるくらい、傍らのストラインが青ざめた顔をしている。同様に、マクギネスも。
「はじめまして、アイシャ陛下」
「はじめまして、シオン陛下」
二人の少女は、そんな大人たちの心配を他所に、手を取り合うとにっこりと微笑んだ。その笑みに、裏表がないことは、誰の眼にも明らかであった。
「だまし討ちのような真似をしてしもうたこと、平にお許し下さい、シオン陛下。マクギネスを信用していなかったわけではありませんが、我がダイムガルドとセンテ・レーバンの軋轢は、何百年にも及ぶもの。もしも、同盟が成らなかった場合、皇帝として、わらわが自らストライン閣下と交渉するつもりで、紛れ込んでおりました。そのことはフランチェスカ・ハイトどのには、前もってお伝えして居ったのです」
シオンに語るアイシャの言葉に、アルサスはフランチェスカの方を振り向いた。フランチェスカがお茶に招かれた際、アイシャからこの事を告げられていたのは、アルサスの知るところではない。フランチェスカはアルサスの視線を受け止めると、小さく苦笑した。
「よかった……アイシャさまが、同じ想いで。ですが、アイシャさま、あなたの方がわたしより年上です。どうぞ、そのような堅苦しい言葉遣いは止めてください」
「ふむ。それもそうじゃが、大臣の眼もありますゆえ」
「そう、ですね。では、アイシャさま、こちらへ」
シオンは、アイシャの手を引くと、二人して玉座に戻った。そして、一堂の方に向き直ると、繋いだ手を高らかに上げる。
「ここに、センテ・レーバン、ダイムガルドの同盟を結ぶ事を宣言します! 両軍は、長い歴史の軋轢を乗り越え、共に手を結んで、わたしたちの世界を、未来を救いましょう!!」
声をそろえて同盟宣言を口にする二人の姿は心なしか、輝いて見えた。アルサスは静まり返った謁見の間に拍手を響かせた。次いでクロウが手を叩く。それにつられて、一人、また一人と同盟の採択に歓喜の拍手を送った。
「シオンさま。軍を整える前に、一つだけお願いがあるのじゃ」
拍手の中で、アイシャがシオンに言う。
「あなたの兄君……アルサスたちがダスカード遺跡より、ハイ・エンシェントから預かった『黄金の鍵』を持参しているのじゃ。その鍵で扉は、このルートニアにある。どうか、その場所まで案内して欲しいのじゃ。きっと、この同盟の力になるものが眠っている……」
「ええ。『アルサスさん』から聞きました。おそらく、それは、この城の地下にある『アーカイブ』と呼ばれる遺跡のことだと思います。直ちに、向かいましょう」
シオンはこくりと頷きながら、アイシャに返した。
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