92. カシオッペイアの夜空
「あなた方は、アルサスの事をご存知なのですか?」
と言ったのは、セシリアだった。警戒心を隠すように、神妙な問いかけは、カレンによって撥ね付けられる。
「まず、そちらが名を名乗るのが、礼儀ではありませんか?」
普段大人しく口数の少ないカレンにしては珍しく、棘のある言い方だ。年の変わらぬ二人の間に、言い知れぬ空気が漂っていることをアルサスは感じた。かたや、センテ・レーバン騎士団長の一人、かたや、ダイムガルド軍の騎士。立場の違いがそうさせるのだ。
「これは、失礼しました。わたしは、ダイムガルド帝国陸軍近衛騎士団小隊長、セシリア・ライン大尉。こっちは、わたしの部下、ジャック・ハイト軍曹。そちらの、フランチェスカどのとは、遠い親戚に当たるそうです。それから、アルサス・テイル少尉も、わたしの部下です」
「なっ!」
セシリアの自己紹介に、カレンがあからさまに不快感を示した。その不快感が何であるか分からないセシリアはきょとんとし、ジャックはきつくカレンをにらみつけた。
「無礼ですっ! そちらに居られる方は、アルサス……いえ、フェルト・テイル・レーバン第一王子ですっ!!」
カレンの言葉に、二人のダイムガルド人は一瞬ぽかんとして、すぐさま後ろを振り返った。いくつもの視線がアルサスに集中し、傍らの魔法使いの少年もアルサスの顔を見上げた。
「本当か、アルサス?」
セシリアの問いかけに、戸惑いを隠せないアルサスは首を左右に振った。分からない、と言う合図だ。本当に分からない。ルウと言う少年も、フランチェスカと共に現れた二人の騎士も、なにも覚えていないのだ。
「人違いじゃねえのか? だって、こいつが着ていた騎士の鎧には確かに『アルサス・テイル』と刻まれていた。俺も確認したから間違いねえ」
再び、小剣の付いた長細い箱を構えた、ジャックが言う。だが、今度はクロウが首を左右に振る番だった。
「アルサスは、フェルトがある目的のために、自分に与えた名前です。アルサスは、この国に伝わる伝説の王の名をもじったもの。この国は、武力によって統制した国ですから、子どもにそのような名前をつける親はひとりもいません。だから、アルサスと名乗っている時点で、彼がフェルトであることは間違いありません。それに、ガルナックで着用していた鎧に、アルサスの名を刻んだことは、僕が一番良く知っています。その名を忘れぬようにと、フェルトが自らに課した戒めです」
淡々と言うクロウなる騎士団長は、再会を喜びたいのをぐっと我慢しているようにも見えた。
「マジかよ……」
ジャックが呟く。信頼を得かけた仲間がよりにもよって、敵の親玉だとは思いも寄らなかったのだろう。
「ま、待ってよ。たしかに、ぼくは記憶がない。自分が誰なのかも分からない。でも、だからと言って、この国の王子様だなんて、突飛なこと言われても困る」
思わず弁解の言葉を吐き出したアルサスは、余計クロウに確信を与えてしまったのか、クロウは少しばかり顔をほころばせると、
「懐かしいな。旅に出る前の君の喋り方……」
と言った。だが、やはり思い出すことは出来ない。この喋り方とて、意識せずに飛び出してくるものであり、懐かしいなどと言う感慨は、何処にも湧いてこない。
「話は、フランチェスカさんから聞いている。でも、何も思い出せない。君のことも、フランチェスカさんのことも、君たちの言う、ネルという女の子のことも。このひと月あまり、ずっと何か大切な事を忘れているような気はしていた。でも、今のぼくは、ダイムガルドの軍人だ。セシリアとジャック、それにマーカスに助けてもらった命を、ダイムガルドのために使おうと決めたんだ。ぼくはもう、ダイムガルド人だと思ってる」
アルサスが言うと、クロウたちは神妙な顔をして、眉間にしわを寄せた。
「殿下……」
やや睫を伏せて、カレンが呟く。
「よく言ったぜ、センテ・レーバン人。いや、アルサス少尉どの、見直した! 聞いての通りだ、こいつは俺たちの大事な仲間だ、手出しするなら、ダイムガルド軍の名において、黙っちゃいないぜ!!」
意気揚々と、ジャックがバヨネットを構えた。併せてセシリアもバヨネットを構える。
「彼がフェルト・テイルである確たる証拠はない以上、わたしたちはアルサスを貴様たちに手渡したりはしないっ!!」
「武器を下ろしてください!」
そういいながらも、ダイムガルドの新兵器を目の前にして、カレンは腰に携えた双剣に手をやった。一触即発。セシリアたちが引き金を引くのが早いか、カレンの双剣が飛刀となって、セシリアたちの胸を貫くのが早いか。客間は一瞬で凍りついた冷たい緊張感に包まれてしまった。
「本当に、君は何もかも忘れてしまったのかい? 君が何者であるかそれ以前に、僕のことも、ルウくんのことも、フランチェスカさんのことも。ネルさんのことさえも」
クロウは悲しげな顔をして、問いかけた。
「ホントに、ホントに、ネルお姉ちゃんのことも忘れちゃったの? 記憶がないなんて、冗談だよね?」
アルサスの傍らで、ルウが懇願するような顔つきで言う。記憶のある自分、すなわち、フェルト・テイルは冗談をよく口にするような男だったのだろうか。それすら思い出せないまま、アルサスは「ごめん」と少年に言った。
少年は潤んだ瞳で、アルサスを睨み付けると、
「アルサスのばかーっ!」
と一声叫んで、緊張した空気の真ん中をすり抜けると、客間を飛び出した。
「ルウ、何処へ行くのっ!?」
フランチェスカの呼び止める声は、ルウの背中を追いかけたが、少年はそれを無視して姿を消してしまった。残された場の空気は、見事に引っ掻き回されてしまったようだ。
「セシリア大尉、武器を下ろして。わたしたちは、アルサスに危害を加えるつもりはないわ。だって、彼は私たちの仲間でもあるんだもの」
落ち着いたフランチェスカの声音に、セシリアがバヨネットを降ろす。
「ならば、名に用でしょうか? 交渉がうまく進まず、我々を始末に来ましたか?」
「そんなことはないわ。でも、確かに交渉は上手く行っていない……。せめて、アルサスが記憶を取り戻してくれれば、フェルト殿下として、シオンさまの名代を務められ、同盟交渉を取りまとめられると思ったのよ」
フランチェスカが言う。しかし、ジャックは舌打ちしながら、「こんなところに閉じ込めておいて、今さら信用できるかよ」と毒づいた。
「同盟交渉、上手く行っていないって本当ですか?」
ジャックの毒を他所に、尋ねたのは、アルサスだった。クロウは、アルサスにこくりと頷くと、カレンを諌め、同盟交渉の現況を語り始めた。
記憶がない。しかし、確かに声も、顔も、瞳の色も、自分の知るアルサス・テイルであることだけには自信がある。口を開けばつい喧嘩腰になってしまうことか多いが、本気でアルサスのことを憎んだりはしていない。むしろ、ルウにとってアルサスは信頼できる兄のような存在だった。
もちろん、王子である事を隠していたり、旅の本当の目的がネルを殺すことだったと言うことも隠していたり、そういうことには多少腹も立った。しかし、暴走するガムウの手からルミナスを守るため戦ったり、旅の間、時折心が折れそうになるたび、みんなを元気付けていたのは、他ならぬアルサスだ。そんなアルサスも、ルウの事を信頼してくれていた。誰かから、無償の信頼を寄せられることは、子どもであっても嬉しいことで、特に、魔法使いの神童ともてはやされ、他人に疎外感を感じていたルウにとって、掛け値なしの信頼は、友情の証でもあった。
だから、アルサスのことは大好きだ。もちろん、ネルもフランチェスカも同じだ。楽しい旅とは言いがたくても、四人でガモーフの地を歩いたことは、かけがえのない思い出でもある。
しかし、突然の旅の仲間の解散と、そして戦争。アルサスは、本名であるフェルトに戻り、戦いの中生死すら分からなくなってしまった。だが、ルウもクロウもフランチェスカも、アルサスにかかわるすべての人が、彼の死など信じていなかった。
そうして、数ヶ月を経て、帰ってきたアルサスはアルサスではなかった。言い換えるなら、フェルトでもなかったのだ。そのショックはとても大きかった。
何も覚えていない。自分が誰かも、旅のことも。だが、一番許せなかったのは、ネルの事を覚えていなかったことだ。
「ホントに、ネルお姉ちゃんのことも忘れちゃったの?」
そう問いかけても、アルサスは困ったような顔をして視線を逸らし、「ごめん」と言った。本人も何に謝っているのか分からないのだろう。自分の知るアルサスなら、そんな顔はしなかったと、思う。「ぼく」と呼ぶことも、外国の軍隊の服も、見知らぬセシリアとジャックという人への信頼も、ルウはすべてが裏切られたような気持ちになった。
「アルサスのばかーっ!」
喉の奥からこれでもかと言わんばかりの声で、アルサスを罵ったルウは、フランチェスカが止めるのも無視して、クロウとカレンの脇を通り過ぎ、客間から逃げ出した。迷路のような廊下を走りぬけ、城の屋上にあるテラスへと駆け上る。
「どうしたんだ、少年」
見張りの騎士が、半べそをかいたルウを認めて、そう気にかけてくれたのだが、なんでもないとぶっきら棒に答え、夜空を見上げる。思うよりも、星空は美しく輝き、涙も乾いていく。天上に輝くのは、魔法文字の形をした星座だ。ガモーフとセンテ・レーバンでは呼び名も、その星座が持つ意味も違う。ちょうど、山型が二つ連なったような形のそれを、ガモーフでは「カシオッペイア」と呼んでいた。いつの季節にも、必ず夜空に輝く星である。
「どうも、交渉は上手く行っていないらしい……」
星空を見上げるルウの背後で、騎士たちがひそひそと噂話をしている。先ほどルウのことを気に掛けた騎士も混ざっているようだ。その話題がなんであるかは、すぐに察しが付いた。
「同盟を交わすためには、交換条件を互いに出し合わなければならない。ストライン卿は、ダイムガルドで採掘されたミスリルの三十パーセントを要求したらしいが、向こうの外交官もやり手だ。空白地帯へのダイムガルド軍進駐を認めさせようとしているらしい」
「空白地帯って、ギルドの管轄じゃあないのか」
「いや、もともと三国で取り決めたことだ。ギルドに空白地帯を領有する権利はないさ。だから、この期に既成事実を作って、空白地帯をのっとるつもりだろう」
「だいたい、クロウ将軍が提案した同盟だ。向こうは『同盟しやるんだから、それくらい譲れ』って具合に、上からものを言っているんだよ。人の弱みに付け込みやがって」
「でもよ、俺たちだけじゃ、あの化物には敵わない。俺は、ガルナックで見たんだ。あの不死身の空飛ぶ化物を。斬っても突いても、光の粒になって蘇る」
「そして、人を光の粒に変えて消し去るんだろう? そんなことはわかってるさ。ただ……、戦後のことも考えておかなければいけないってのが、政治屋どもの考えなんだろうよ」
「この戦に勝たなきゃ、戦後もなにもないのにな」
折角の星空に水を差すような噂話に、耳を傾けるつもりはなかったが、自然と彼らの会話が耳に入ってくる。ルウは騎士たちに聞こえないように溜息をついた。大人たちは、手を取り合うだけにも、損得を考えなければならないのだろうか。「一緒に戦いましょう」と言うだけの簡単なことなのに、そうは行かないのが大人の難しいところなんだろう。賢しい子どもである分、ルウはそのことについてとやかく言いたくはない。
ただ……、相手はネルだ。いつも穏やかで優しく、どこか悲しげな顔は絶対に忘れることが出来ない。しかし、好きな男の子の声も届かぬくらい、絶望し決意したネルは、今や人類の敵だ。白い翼を生やした化物を操り、世界中を蹂躙している。しかもその何処にも、ネルの心が見えないことが、ルウにとっては恐ろしいことだった。
せめて、ネルをとめることが出来たなら。それが出来るのは、アルサスだけだと思っていた。
「だって、アルサスはネルお姉ちゃんが好きで、ネルお姉ちゃんはアルサスのことが好きなんだ……」
呟いたルウは、その言葉が夜風にのって、カシオッペイアの方角に飛んでいくの目で追いかけた。ふと、その視線に、きらりと光るものが見える。流れ星? いや、違う。一瞬だけ光ったあと、それが、白い翼の群れであることに気づいた。
こんな夜更けに鳥は飛ばない。エイゲルだって、夜は飛ばない。あれは……。
「みんな、あそこっ! 『翼ある人』だっ!」
ルウは反射的に振り返って、騎士たちに声を掛けた。騎士たちは、ルウの指先を追う。夜空に見える無数の白い翼。それは、紛れもなく、「翼ある人」の大群だった。
「敵襲ーっ! 敵襲ーっ! 全軍、配置に付けっ!」
見張りの騎士が角笛を吹き鳴らす。その音は次々と、伝令役の兵士につたわり、瞬く間にルートニア要塞全体を幾重にも包み込んだ。
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