8. ネルの決意
小川の水面に映る自分の顔見つめて、ネルは頬にはっきりと涙の後があることに気づいた。どうして、涙は、流しても流しても、枯れ果てることがないのだろう。そんなことを思いながら、そっと冷たい水に指をつけた。
アルサスがバセットに斬られた時、心の底から怖くて悲しかった。出会って間もないとは言え、故郷から攫われて絶望の淵にいたネルを救い出してくれたのは、アルサスなのだ。彼がくれた、優しい微笑みも、温かな手のひらも、悲しみを知るには十分すぎた。少しだけ、彼に心惹かれている。こんな気持ちは、生まれて初めてのことだ。
ネルは、小川の水を救い上げると、冷たい水で一気に顔を洗った。
「はい、タオル」
突然、ネルの横から手が伸びてきて、白いタオルが差し出される。見れば、いつの間にかアルサスがニコニコと微笑んで、ネルの傍にいた。
ネルは、ドキっとして、赤くなった顔を見られまいと、視線を逸らし、タオルを受け取った。幸い、アルサスは、ネルの心の機微には気づいていないようだった。
「あ、ありがとうございます、アルサスさん」
「礼を言わなきゃいけないのは、俺の方だよ。ネルが助けてくれなかったら、多分死んでた。ありがとう、ネル」
「え、その……、はい」
上手く答えられず、ネルはタオルに顔をうずめた。
バセットの魔法で瀕死の重傷を負ったアルサスを助けたネルの力。それを、バセットは「奏世の力」と呼んだ。人の傷を癒す力、だが、それは「奏世の力」の一端に過ぎないとするのなら、「奏世の力」とは一体何なのか?
「ねえ、ネル。ひとつ、聞いてもいい?」
アルサスは、ネルの隣に腰を下ろすと、唐突にそう切り出した。驚く暇もなく、アルサスは続ける。
「バセットが去っていく前、君はバセットに『わたしはあの銀の乙女なんですか?』って、言ったよね。銀の乙女が何なのか、知ってるの?」
「アルサスさんはご存じないのですか? 有名な、ベスタ教の伝説です」
きょとんとするネル。知っていて当然だ、と言う顔ではないが、知らないことが意外だと言いたげだった。
「センテ・レーバンでは、ベスタ教は廃れてるんだ。その代わり、白い龍の言い伝えっていう昔話ならあるんだけど……。よかったら、その『銀の乙女」の伝説って言うのを聞かせて欲しいんだ」
「はい……。『銀の乙女』は、遠い遠い昔、この世界がまだ神話の時代、女神アストレアさまにお仕えした、天使の名前です。まだ世界が創世の時代。神様たちは、互いに争いあっていたそうです。ベスタ教では、それを黄昏の戦争と呼んでいます。何千年も戦争は続いて、大地は荒れ果て、川や海は毒の色に変わり、空は黒い雲に覆われ、正義の女神であるアストレアさまは悲しみに暮れました……」
これは正しいことなのか? 神と呼ばれる者が争いをして、誰のためになるのか? アストレアは日々涙を流し、荒れた世界を見つめ、せめて滅び行く世界のためにひとつの歌を歌った。その歌声を聴いたのは、アストレアに使える天使の一人、「銀の乙女」だった。銀の乙女は、アストレアをこれ以上悲しませないために、そして、世界を救うために、願い出た。『わたしの魂を、世界のためにお使いください』と。
アストレアは、その願いを聞き届け、銀の乙女の魂を五つに分けた。赤、青、黄、緑の四つの精霊に生まれ変わった銀の乙女の四つの魂は、世界に降り立ち、傷ついた世界を癒した。そして、最後に残ったひとつの魂に、アストレアは約束をした。
『いつか、この世界が再び危機に陥った時、あなたの力を再び必要とするかもしれません。ですが、もしも、世界が正しい姿になったならば、あなたには幸せを与えましょう。その日まで、眠りなさい……』
約束に従い、五つ目の魂は、静かに悠久の眠りについた。
それが、ネルの知る「銀の乙女」の話だった。ベスタ経典に記された一節であり、ベスタ教の教主が首長たる宗教国家「ガモーフ神国」の人間なら、子どもでも知っている下りだ。しかし、アルサスが言ったとおり、ベスタ教はセンテ・レーバンに根付いていない。遠く、数百年前にはセンテ・レーバンにもベスタの信者がいたそうだが、少なくとも現在は、ガモーフとセンテ・レーバンの間を隔てるように横たわるアトリア連峰を境に、センテ・レーバン側に信者を公言する者もいなければ、ベスタの教会も見当たらない。
そんなセンテ・レーバン生まれのアルサスにとって、ネルの話しは、御伽噺でも聞いているような気分だった。だからなのか、アルサスは、押し黙って彼女の語りに聞き入っていた。
「じゃあ、君は、天使の五つ目の魂の生まれ変わり、ってことなの?」
「おかしいですよね。わたしなんかが、天使さまの生まれ変わりだなんて」
まるで自嘲するかのように、ネルは苦笑して、水面に映る自分の顔を見つめた。銀色の髪、ガモーフ人にしては白い肌。幼いころ「普通の子じゃない」と知ってから、他の人と違う外見がずっとコンプレックスだった。
「そうかな。俺は、ネルをはじめてみた時天使みたいだって、思ったよ。だって、その……ネル、すっごく可愛いから」
「えっ!?」
突然のアルサスの発言に、ネルは目を丸くして、アルサスの顔を見た。すると、アルサスは急に赤い顔をして、頭をぽりぽりとかいた。下手な口説き文句みたいで、どうやら、口に出した本人も恥ずかしかったらしい。
「いや、うん。その……えへへ」
二人して照れていると、背後でバサバサと羽の音が聞こえてくる。慌てて立ち上がり振り向いた二人の前に、トンキチの巨躯が空から着陸してきた。
「なんじゃ、老体のわしがお前さんたちのために空から偵察しておる間に、若い者どもは川辺で、いちゃいちゃしておったのか?」
まるで冷やかすような、トンキチの口調に、アルサスが目くじらを立てる。
「そ、そんなんじゃねえっ!! このジジイっ!!」
ガウッと、噛み付くように怒鳴ると、アルサスは溜息をつき、トンキチは高らかに笑った。
「それよりも、トンキチ。空から見た様子はどうだった? 森の周りは安全か?」
「ふむ。ヴォールフの群れも、人影もなかったぞ。お前さんたち、これからどうする? 娘さんの故郷、ラクシャまで、運んでいってやりたいところじゃが、二人を背中に乗せてやることは無理じゃしの」
「そこまでは頼めないよ。ネルを故郷まで送り届けるのは、レイヴンである俺の仕事だから。気持ちだけ受け取っておくよ。ありがとう、トンキチ。それに、あんたはハイ・エンシェントとして、エイゲル族をまとめる仕事もあるんだろう?」
「そうじゃな、ならば、お言葉に甘えるとしよう」
「とりあえず、ガモーフ国境を越えるため、カルチェトの街へ一端向かおうと思う。俺は通行手形を持ってるけど、ネルの分を調達しなきゃいけないから。それから、ヨルン平原を越えて、ラクシャへ向かう」
「そうか……道中気をつけるんじゃぞ」
と、言ったトンキチの顔はどこか、息子を見送る父のような顔つきだった。それだけでもネルには、人間のアルサスと魔物のトンキチが交わす、友情が伝わってきた。
「娘さんも、息災でな」
「はい。ありがとうございます。あの……トンキチさん、ひとつだけいいですか?」
「うん? なんじゃ、娘さん。わしの好物か? じつはの、人間の肉が大好きなんじゃよ」
はぐらかすように、冗談を言うトンキチに、ネルは戸惑ってしまう。慌てたネルが「いえ、そうじゃなくて」と言いかけると、それにかぶせるようにトンキチは急に真面目な顔になった。
「分かっておる……。銀の乙女が持つ『奏世の力』のことじゃな。ベスタの経典にも、『奏世の力』のことは記されていない。それは、記すことの出来ぬほど膨大な力なのじゃ。アルサスの傷を癒した力は、ほんの一端に過ぎない。じゃが、そなたにとっては、自分にそんな未知の力があるのは、不安で仕方がないじゃろう」
「はい」
「しかしの、バセットの言ったとおり自分でその答えを見つけなければならない」
「でも、わたし、まだ自分が銀の乙女だなんて、信じられなくて……」
「すぐには信じられんかもしれん。じゃが、わしはそなたを一目見た時から、気づいておった。そなたは、銀の乙女の生まれ変わりじゃと。娘さんや、世界の真実を知りなされ。自分のルーツを探しなされ。アルサスを救った、その優しい心があれば、それらを知った時、必ず正しい答えを導き出せると、わしは信じている」
「世界の真実……自分のルーツ?」
「そうじゃ。それを知ることが、絶大なる力をもつ、銀の乙女の使命なのじゃ。しかしの、もしも怖いと思うなら、ラクシャに戻り、ひっそりと誰にも見つからぬよう、隠れて暮らすがいい。それが、世界のためじゃ。どちらが、そなたにとって幸せか、それさえもわしが教えてやることは出来ない。すまんの」
「いえ、わかりました。いろいろと、ありがとうございました、トンキチさん」
ネルは、心から感謝の微笑を浮かべ、自ら手を差し出した。昨日は、怖いと思った魔物のトンキチも、今では優しいお爺ちゃんに見える。
「うむ。では、そなたたちの道中の安全をアトリアの峰から祈っておる」
ネルの手を翼でそっと包んだトンキチはそう言うと、空を見上げた。トンキチの翼が大きくはためくと、あたりにつむじ風が舞い起こる。アルサスは、砂埃からネルを守り、ネルは帽子とスカートを抑えながら、飛び立つトンキチを見送った。
「また会う日まで! さらばじゃ!!」
と、風とともに飛翔するトンキチが別れの言葉を告げる。ネルとアルサスは、空に向かって手を振りながら、エイゲルの長を見送った。
「ど派手なジジイだな、まったく」
トンキチの羽音が聞こえなくなると、アルサスは陰口するように苦笑して、髪の毛や鎧に挟まった葉っぱを払い落とした。
「さて、俺たちも出発しよう。日暮れまでに、カルチェトの街に着かなきゃ」
アルサスは、ネルからタオルを受け取りしまいこむと、リュックをよいしょと背負った。老草色のリュックは、本来登山者や修験者などが愛用するもので、食料品や雑貨が詰め込まれているほかに、毛布や鍋、水筒がぶら下がっている。放浪者・レイヴン御用達のアイテムなのだ。
二人は、来たときと同じように、アルサスを先頭に、森の木々を掻き分けて、再び空白地帯の草原へと舞い戻った。
「カルチェトは、ここから南の方角にある。しばらく休憩なしで歩くけど、大丈夫?」
と、春風が優しくなびく草原の彼方を指差してアルサスが言った。
「はい、大丈夫です。山育ちですから」
「そっか。じゃあ、行こう。カルチェトに着いたら、なにかおいしいものでも食べようよ」
アルサスは、ネルに微笑みかけて、草原を歩き始める。草を分ける足音が、少しずつ立ち止まったネルから遠ざかっていく。
「あのっ、アルサスさん!」
不意に、ネルは先を行くアルサスを呼び止めた。アルサスが振り向くと、ネルは胸の辺りで硬く両手を結び、アルサスの瞳を見つめていた。
「わたし、お金とか、そのお礼とか出来ないんですけど……お仕事をお願いしてもいいですか?」
「仕事? ラクシャまで送り届ける分の金なら、依頼主からもらってる。ほら、あの五百ドラクマ」
アルサスが小首をかしげる。
「いえ、その。そうじゃなくって、わたし、このまま村に帰っちゃだめな気がするんです。どうして、あの黒い鎧の人たちはわたしを攫いに来たのか、バセットさまはどうしてわたしを殺そうとしたのか。トンキチさんの仰ったとおり、わたしが本当に銀の乙女の生まれ変わりなら、『奏世の力』について知らなきゃいけないんです。でも、わたし一人じゃ、どうやってそれを知ったらいいのか、どこへ行ったらいいのかも、分かりません。だから、一緒についてきて欲しいんです」
「でも……」
無理に知る必要はないと、言いかけたアルサスは思わず口を噤んだ。アルサスを見つめ、返事を待つネルの瞳は、真剣そのものだったからだ。自分の失った過去と、そしてこれからに向き合う決意、そんなネルの思いを察したアルサスは、しばらく思案するように空を見上げた。
「知識を得るためなら、カルチェトから海を渡って、魔法使いギルドの本拠地『ルミナス魔法学校』へ行くのが一番いいと思う。あそこなら、いろんな書物と研究者が揃っている。いいよ、どうせ俺は気の向くままの放浪旅をする渡り烏。君の気がすむまで付き合ってあげる。報酬もいらない」
「アルサスさん!」
ぱぁっ、とネルの顔に笑顔が咲いた。しかし、アルサスは真剣な眼差しをしたまま、続けた。
「ただし! 二つだけ条件がある」
「条件ですか?」
「そう。俺と一緒に旅をする以上、もう二度と『死んでもいい』なんて言うな。そういうの、大嫌いなんだ」
と、言われたネルは、少し驚いた顔をして頷く。アルサスは、ヴォールフに囲まれた時、ネルがアルサスとトンキチを守るために、命を投げ出そうとしたことを言っているのだ。
「それから、もう一つ」
不意に、アルサスの顔が穏やかになる。
「その、アルサスさんっての止めにしない? 同い年なんだし、俺は勝手に呼び捨てしてるんだから、ネルも俺のこと呼び捨てにして欲しい」
条件と言うよりは、意外な申し出に、ネルはきょとんとしてしまった。
「それだけで、いいんですか? わかりました、アルサス。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ。じゃあ、行こう。カルチェトで船の切符を買おう」
二人は、互いに頷きあうと草原を南へと歩き出した。目指すは、空白地帯最大の街、カルチェトである。しかし、同じころ、ダイムガルドはレメンシアの街を、フランチェスカ率いるギルド・リッターの部隊がアルサスとネルを探して出発したことも、アトリアの森に影のような男たちが同じくネルを探して現れたことも、二人は知る由もなかった。
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