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奏世コンテイル  作者: 雪宮鉄馬
第八章
74/117

74. アルサスとアイシャ

 アイシャの悲鳴が落下していく。その場にいた全員が、アルサスとアイシャが飛び出した小窓を見つめて、呆然となってしまった。どうしていいものかと、数十秒の間、誰しもの思考が停止して、ただ時間だけが凍りついたようだった。

 無数パイルが突き刺さり、ボロボロになった皇帝の執務机の後ろから、両手を挙げて侍女が姿を現し、我に返ったモーガンは苦虫を噛み潰したような顔をして、小窓の方へ走った。割れた窓ガラスの破片をバヨネットで押しのけながら、身を乗り出して、下をうかがう。

 会議室があるのは、皇居の五階。下は固い地面だ。そこから飛び降りれば、まず二人とも無事では済まされないだろう。飛び降りて死んでくれたなら御の字、とモーガンは思ったが、覗き込んだ地面にそれらしき死骸は転がっていない。変わりに、皇居の壁面に等間隔に吊るされた、縦長の国旗がぷらぷらと揺れている。

 すぐに察しはついた。小窓から飛び出したアルサスは、国旗に手を伸ばし、ジャングルの猿がツタを渡って隣の木に飛び移るがごとく、反動を利用して、国旗伝いに皇居の裏側にあるテラスまで渡ったのだ。

「本当に、軽業師なのか……?」

 と、モーガンはその常人離れした芸当に舌を巻くとともに、練り上げた反乱の計画が、たった一人のセンテ・レーバン人の少年に崩されたことに、(はらわた)が煮えくり返った。

「下の部隊に伝令! すぐに、センテ・レーバン人の小僧を追わせろ! 生死は問わん! 皇帝もろとも殺せ!!」

 獣の唸り声のようなモーガンの声にはじかれて、教導団兵たちも我にかえる。一気に、会議室は騒然となり、数人の教導団兵が伝令のために部屋を後にした。残されたセシリアたちは、相変わらずバヨネットの銃口を向けられたままだ。

「エイブラムス大将。外国人を使って、我らの正義を押さえつけようとは、どうにも芝居が過ぎやしませんかな?」

 モーガンは、バヨネットの先端に取り付けられた小剣の切っ先を、セシリアの傍らに立つエイブラムスに突きつけた。だがエイブラムスは、まったく脅しに動じる様子もなく、大将然とした居住まいで、モーガンを睨み返す。

「大将閣下、あの者は何者ですかな?」

「知らんな。小芝居を打つつもりなら、貴様ら悪逆の者をここに入れたりなどせんよ」

 と、平静かつ低く相手を威圧するような声で、モーガンの問いかけを一蹴すると、傍らのセシリアに顔を向けた。

「中尉、あの者は一体……?」

「えっ、あ、はいっ。あの者は、三日前我が小隊が無限の砂漠で救助した者であります!」

 唐突に尋ねられ、驚いたセシリアはかしこまって答えた。尉官以上の将校と言っても、所詮は小隊長であるセシリアにとって、大将は雲上の人であった。場違いであるとはいえ、セシリアは思わず緊張してすくんでしまう。

「ほほう、そのような報告は受けていないが」

 エイブラムスは口髭をさすりながら言った。当然のことながら、セシリアたちの部隊が、レメンシア哨戒任務からの帰路にセンテ・レーバンの騎士と思われる少年を救助したことは、セシリアたちの手によって報告されていない。傷つき生死の境をさまよっている少年の事を報告すれば、騎士の鎧を身に着けていた彼は傷を癒すことも出来ず、軍の執拗な取調べを受けることとなるだろう。

 セシリアには、それが忍びなかった。せめて、傷が癒えるまで、彼の記憶が戻るまでは、報告を差し止めておこうと思ったのだ。それが、こんな事態になるとは思っても見なかった。

「信用できる少年なのか?」

 エイブラムスの問いかけに、セシリアは少しだけ戸惑いながらも頷いた。皇帝を連れ去った彼を今は信用するしかない。少なくとも、記憶はなくとも、あのゆるぎない瞳を持った彼であれば、信用に足りるとセシリアは思った。


 テラスに降り立ったアイシャは、まだ足が震えている事を自覚した。突然名も知らぬ外国の少年に手を引かれ、五階の小窓から飛び降りたかと思えば、絵本で読んだことのあるサーカスのように、皇居の壁面に吊るされた国旗を伝い、裏側にあるテラスに辿り着いた。それは、皇帝と言う立場から、温室で育ったアイシャにとって、ドキドキするようなちょっとした冒険だった。

 少年の方も、そこまで上手くいくとは考えていなかったようで、内心ほっとしたような顔をこちらに向けてくる。赤い瞳がとても印象的な男の子だと、自分の命が危うかった事など忘れて、アイシャはつい少年の瞳を覗きこんでしまった。

「何? ぼくの顔に何かついてる?」

 少年がアイシャに見つめられていることに気づき、小首をかしげる。

「あ、あのっ、そろそろ、手を離してはくれまいか」

 アイシャが慌てて言うと、少年は「ごめんっ」と、少し頬を染めて手を離した。どうやら、少年はアイシャの手を固く握り締めていたことを忘れていたようだ。しかし、不意に少年は、しげしげとアイシャと繋いでいた自分の手を見つめ、まるで自分に問いかけるかのようにつぶやいた。

「こんなこと……前にもあったような?」

 少年はうっ、と呻くと頭が痛いのか、顔をしかめた。

「思い出せない……くそっ!」

「なんじゃ、そち、記憶がないのか?」

 悔しそうに歯軋りする少年に、アイシャが尋ねる。察しがいいと言うよりも、最近読んだ絵本で見たことがある、と言うのが正しい。しかし、現実に記憶喪失者を前にすると、違った感慨も沸いてくるもので、頭痛に苦悶の表情を浮かべる少年のことが、心配になってきた。

「無理をするでない。そちが、ここで倒れてしまったら、わらわはどうすればよいのじゃ?」

「そう、だね……。ごめん」

 先ほどまでの無謀ささえちらつく勇壮な雰囲気とは打って変わって、力なく少年は笑う。

「なんじゃ、さっきから謝ってばかりじゃの。それよりも、わらわは名乗ったのじゃ、そちの名を聞かせてはくれぬか。それとも、名前すら忘れたのかの?」

「あ、ああ、そうだね。ぼくは、アルサス・テイルだ」

「アルサスか……センテ・レーバンの絵本に出てくる、平和の王様の名前じゃの」

 知っているぞ、という顔で、ふふんと鼻を鳴らすアイシャ。アルサスは、そんなアイシャに「絵本?」と問いかけた。すると、アイシャは、やや悲しげに長い睫を伏せる。

 アルサスは知るはずもない。絶対不可侵の神聖なる存在であるダイムガルド皇帝と言う地位にあること。それは、神秘性を高め人々の忠誠心を煽るために、下々に顔を見せないよう、皇居の奥まったところに幽閉されているのと同じであった。

 口を利くのは、お付の侍女だけ。見えるのは、窓からの風景だけ。

 十数年の人生を広い世界から見れば、芥子粒ほどの小さな空間だけで過ごしてきた。歳の近い友達もいなければ、年上の人間がぺこぺこ頭を下げる。わがままを言っても叱ってくれる人はいないし、かと言って、わがままを口にするのも莫迦らしい。

 そんな歳頃の女の子にとって、皇帝と言う地位にあることは生まれながらに決まっていることで、責任だけが重くのしかかり、寂しい時間をすごしていくことは、鬱憤でもあった。

 その鬱憤を晴らすことが出来る唯一の友が、皇居の書庫に納められている書物だった。その中でも、アイシャの想像力と夢を育んでくれたのが、絵本である。古今東西あらゆる絵本を読んでは、皇帝と言う身分にある自分と、物語のヒロインを結び付けていた。帝王学の本よりも、それらはアイシャに実りある時間を与えたと言っても、過言ではないだろう。

「はじめて、空の下に出た はじめて風の中に立った。はじめて太陽を見上げた」

 アイシャはそう言って、雲の流れる青空を見上げた。命を狙われたと言うのに、晴れやかな笑顔であることに、自分自身滑稽に思えてくる。だが、この胸の高鳴りは何だろう……。あこがれたものが、今目の前にある。一生外に出ることは許されないと思っていたのに、ここに風があって、空があって、陽の光が溢れている。それが、この上もなく、胸をドキドキさせるのだ。

「はじめて、殿方と手をつないだ。わらわと直接口を聞いたのは、侍女以外では、アルサスが初めてじゃ」

 アイシャはにっこりと笑い、再びアルサスの赤い瞳を見つめた。アルサスはやや照れたような顔をする。

「それにしても、どうして、そちはわらわをたすけてくれたのじゃ? そちがいてくれなければ、わらわはモーガンとやらに、殺されておった」

「どうしてって、上手くは説明できない。誰かが殺されるかもしれないのを黙ってみているわけには行かなかった」

「じゃが、センテ・レーバン人で、記憶のないそちにとって、わらわの命など関係ないことであろう?」

「そうだけど」

 と言いかけたアルサスの言葉にかぶせるように、アイシャはやや悲しげな声をする。

「わらわは、皇帝に即位した時から、いつかこんな死に方をするんじゃないかと、思っておった。定かなことではないが、わらわの父もヨルンの戦の敗退の責を負わされ、軍部の者に暗殺されたと言われている。同じように、あのものたちが、わらわを殺そうとするのは、わらわに落ち度があったからじゃ……」

「何を言ってるんだよ!」

 返すアルサスの語気は、非常に強いものだった。アイシャはその勢いに、思わずたじろいだ。

「反乱を起こして、誰かの命を犠牲に変えられる未来は、結局分かり合えないままの未来だ。分かり合えないなら、潰せばいいなんて、正しいことじゃない。落ち度なら、誰にだってある。それを認め合えるようにならなきゃいけないんだ! 間違ってるのは、モーガンの方だ」

「どうして、そういいきれるのじゃ? そちは記憶もないというのに」

「それは……そんな気がするんだよ。記憶とか、そんなんじゃなくて、心がそう言ってる。それに、少なくとも、君だけが間違ってるんじゃない」

 アイシャの問いかけに答えるアルサスは、少しずつ語気を緩めると、最後に優しげな微笑をくれた。アイシャはその笑顔にドキリとする。まるで胸の中で何かが弾けたような気がした。

「君、と呼ばれたのもはじめてじゃ……。アルサス、そちはわらわを皇居から連れ出してくれる、王子さまだったのかもしれんの」

「ぼくは王子なんかじゃないよ。きっと暗殺者か、そうじゃなかったら軽業師だよ」

 おどけてみせるアルサスに、思わずアイシャは声を立てて笑った。 

 と、その時。まるでタイミングを計ったかのように、和やかな雰囲気を壊して乱暴な足音が聞こえてくる。探るまでもない、アイシャを追いかけてきた教導団の連中だ。

「早いな! ここで戦うか……?」

 アルサスの視線が、ちらりとアイシャに送られる。先ほど会議室で見せた、雷のような剣技を用いても、大人数のバヨネットを相手にすることは難しいだろう。戦いのことは、てんで分からないアイシャにも、それくらいなら察しがつく。

「足手まといにはならん。それに、そちはわらわの事を守ってくれるのじゃろ?」

 アイシャはそう言って、アルサスに右手を差し出した。アルサスは、頷くと抜き身の剣を構えつつ、アイシャの手を握る。

 乱暴な足音は、すぐさまテラスに駆け込んできた。案の定、青色の腕章をつけた、教導団兵であった。彼らは、そこにいるのが、アルサスとアイシャである事を確かめようともせずに、バヨネットを構えた。問答無用、と彼らの顔に書いてあるようだ。

 そのため、「そなたたち! わらわは、ダイムガルド皇帝なるぞ! バヨネットを収めよ!」と、アイシャが言ったところで、教導団兵はだじろぎもしない。

「われらの理想のため、そのお命いただきたく存じます」

 逆に、がちゃりとバヨネットが無機質な音を立てれば、今にもその銃口から、ミスリルの杭が打ち出されるかもしれないと、アイシャは足がすくんでしまった。そんなアイシャの代わりに、アルサスが言う。

「理想だって!? 戦争することが理想なのかよっ!」

「黙れ、センテ・レーバン人! 貴様らに、この砂漠の国の苦しみが分かるはずがない! 緑ある大地を手に入れることは、我々ダイムガルド人の悲願なのだ。しかし、そこにいる皇帝は、地位に胡坐をかき、戦争に臆病になるどころか、平和などと口にする! それが、ダイムガルド三億人を苦しめていると言う事実を、貴様ごときが分かるはずもないだろう!?」

 そうだ、そうだと、教導団兵は声を合わせる。

 アイシャは、いたたまれない気持ちになった。戦争は正しいことではない。自分が読んだ絵本の中に、何度も出てきた言葉。アルサスと同じ名を持つ、センテ・レーバンの伝説の王も、そんなことを口にした。だから、平和の王と呼ばれるのだ。ところが、戦争をしないから、と教導団はアイシャの命を狙う。

 それは理不尽なようで、その一方、自分が本当は何も知らないで、平和を口にしているのではないのかと思えてくる。やはり、自分に落ち度があったのだ。

「平和の何が悪い!? 分かり合えば、互いに助け合える。国境とか、そんなもの取っ払って、手を取り合える。その努力もしないで、責任だけをアイシャに押し付けるのは、間違ってる!」

「知りもしない事を抜かすな! 人は分かり合えない。だから、十年前も、そして今も、この世界に白き龍が現れたんだ! あの力を我らのものとすれば、センテ・レーバンもガモーフもすべて我らの土地と出来る。戦争こそが、真たる人間の姿だ!」

「モーガンといい、あんたたちといい、誇大妄想が過ぎるってんだよ!!」

 アルサスはわずかに後ろに下がる。二度は通用しないかもしれないが、それでもここで蜂の巣にされるくらいなら、テラスから飛び降りて、ふたたび国旗伝いに逃げる方が、分がある。

「アイシャ、もう一回飛ぶよ」

 と、小声でアルサスが言い、アイシャが頷いた。じりじりと、牽制の視線を送りながら、一歩ずつテラスの淵に下がる。

 不意に、雲が翳った。あたりが急に薄暗くなり、思わずその場にいた全員が空を見上げた。

「あれは……雲じゃない!」

 青い空の、ちょうど太陽と重なる位置に、ぽっかりと浮かぶ白いもの。一見するとひつじ雲に見えていたそれが、瞬くうちにばらばらになり急降下してくる様に、一番最初に声を上げたのはアルサスだった。

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