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奏世コンテイル  作者: 雪宮鉄馬
第八章
70/117

70. 喪われた記憶

 どこかで声がする……。何と言っているのかはっきりと聞き取ることは出来なかったが、聞いたことのない声だ。いや、そもそもどんな声を聞いたことのある声と呼ぶのか、よく分からない。頭の中にもやがかかったようで、どうしても何か大切なことを全部忘れてしまっているような気がしてならなかった。だが、それが何なのかも良く分からない。

「その話は、情報部にすでに伝えた。わたしたちは任務をこなしただけだ。あとのことは、大本営の軍令部が考えること」

 声が少し大きくなる。女の子の声だとはっきりと分かる。それでも、やはりその声に聞き覚えはなかった。

「ですが、オスカー・ラインどのの娘である、あなたのご意見も伺えと、アルフレッド・ノース大佐は仰られています」

 今度は、男の声。明らかに年嵩に聞こえるその声に似合わず、どちらかと言えば、女の子の声に気おされているような雰囲気があった。

「わたしは父とは違う。買いかぶられても困るだけだと、アルフレッドおじさまにはお伝えしておけ。いいな?」

「は、はぁ」

 気弱な生返事の後、男の足音が遠ざかって行った。ややあって、今度は扉の開く音。近づいてくる足音は、その歩幅や丁寧な歩き方から、女の子のものであると容易に察しがついた。

 その気配が自分の傍まで近づいてくる。そこで、ようやく重たいまぶたを開くことが出来た。かすかにはっきりとしない視界に薄ぼんやりと浮かぶ天井を、朝日が照らしている。清潔感のある白い壁は、ここがそういう場所だと、薬の匂いをかぐ前に分かった。

「気がついたか? あれから三日三晩、死んだように眠り続けていたんだ。そろそろ起きる頃だと思った」

 年頃の女の子の声。だが、ひどく男っぽい喋り方が、違和感を浮き立たせていた。

「まあ、わたしたちが見つけたときには、ほとんど虫の息で、一時は本当に危なかった」

「ぼくが死にかけた……?」

 そう口にして、ひどく喉が渇き、声がガラガラにかすれていることに気づいた。それが可笑しかったのか、女の子は少しだけ笑った。

 見れば、自分とそう大して歳の変わらない、女の子だ。浅緑色の軍服が少し大きめに感じるほど華奢な体つきに、肩まである艶やかな髪。少女の名残を残す黒い瞳と顔。少しだけ褐色の肌は、彼女がダイムガルドの人であることを知らしめた。

「ここは、ダイムガルド帝国?」

「そうだ。ダイムガルド帝国陸軍の軍病院。わたしは、ダイムガルド帝国陸軍近衛騎士団、第二十八歩兵連隊所属第五哨戒小隊隊長、セシリア・ライン中尉だ」

「長い名前……」

 思わずその舌を噛みそうな肩書きに、苦笑してしまう。すると、少女は少し眉を吊り上げた。

「仕方がないだろう、肩書きを名乗るのは軍人のさがだ。別に気負うことはない、セシリアと呼んでくれたらいい。それであなたの名は?」

「ぼくは……」


 窓から差し込む朝日に輝く赤い瞳を持った少年は、天井を見上げて、まるで記憶を手繰り寄せるかのように言葉に詰まった。だが、自分の名を名乗るのに、記憶を手繰る必要などあるだろうか。セシリアは怪訝に思いながら、ベッドに横たわる少年の姿を見つめた。

 三日前、無限の砂漠のど真ん中で彼を発見した時には、言葉の通り「虫の息」であった。哨戒任務のため、消毒やアルテミシアの葉を練った傷薬などを携帯していたものの、そんな応急手当では、助かりそうにもなかった。もしも傷に砂が入り込めば、やがて破傷風や敗血症を引き起こして死んでしまうかもしれない。

 それでも、どうしてこの少年を助けようと思ったのか、セシリアにも良く分からなかった。そのあまりに惨めな姿に同情したのか、それとも人間が持つ本来的な善の心が、彼を救えと呼びかけたのか。いずれにしても、セシリアは今にも息絶えそうな少年を捨て置くことは出来なかった。

 敵国の人間である少年を助けることに、部下の二人は渋ったが、隊長命令という既得特権的な圧力で、なんとかジャック・ハイトに背負わせて帝都に帰還した。

 幸い、亡骸となっていたエイゲルが、大きな翼で彼を砂塵から守っていたおかげで、危惧したような感染症も起こしておらず、肩や腹、背中の切り傷を縫合し手当てするだけで、一命を取り留めることが出来た。それから、彼は死んだように眠り続けた。

 一方で、報告を上官に上げるべき立場のセシリアは少しばかり迷ってしまった。マーカス・ヒルの言葉を借りるなら、少年が身に着けていた甲冑は、センテ・レーバン騎士団の団長クラスのものであった。そのことを、報告すれば、彼の立場が一変してしまう可能性もあった。また、彼の肩や腹の傷は、魔物と戦った痕ではなく、明らかに鋭い武具によって傷つけられたものであった。

 想像には難くない。おそらく、一週間ほど前ガルナック平野でガモーフ神国と争っていたセンテ・レーバンの騎士なのだろう。傷はその証。だが、どうしてダイムガルドの砂漠で行き倒れになっていたのか。あの大きなエイゲルは何なのか。何故「翼ある人」に狙われていたのか。セシリアは少年が目を覚ましたら、問い質そうと思っていた。少年に関する、詳細な報告を上げるのはそれからでも遅くはない。だいいち、大本営の軍令部は「翼ある人」がついに無限の砂漠を越えたという情報で、右往左往している。この、素性の良く分からない、センテ・レーバンの少年にかまけている余裕などないだろう。

 ところが、少年は記憶をたどりつつ、ひどい頭痛に襲われたのか、両手で頭を押さえて、苦しそうに唸った。

「だ、だめだ。名前、思い出せない……。名前以外にも、何か大切なことがあるはずなのに、頭に靄がかかったみたいに、何も思い出せないんだ」

 記憶喪失。

 どうやら、嘘偽りではなく本当に名前すら思い出せずに、苦しむ少年の姿を見て、セシリアはふとその言葉を思い出した。

 あまりに衝撃的なことや、命の危険に晒された時、人間は精神を保護するために、必要な記憶を一時的に封印する。それらは、本人の精神がそれに追いつくまで、脳が封印を守り続けるという、人間的な防衛本能である、と書かれたダイムガルドの医学大学の論文がある。セシリアは軍士官学校の、図書館でそれを読んだことがあった。医学の本を読んでいたのは、戦場での簡単な医療知識の習得のため、ではあったのだが、実際に記憶を失った人が目の前に現れるまで、その論文のことは忘れていた。

「無理に思い出すことはない。それよりは、早く心と体の傷を癒すことだ。後で、栄養のあるものを持ってこさせるから、それを食べて早く良くなるんだ」

「ごめん……」

 セシリアの気遣いに、少年はやや頼りなく返した。騎士というには、その顔は本当に頼りない。

「謝られても困る。あなたが悪いわけじゃないんだ。……でも、ずっと名無しと呼ぶわけには行かないな、アルサス・テイル」

「えっ?」

 セシリアが少年の名を呼ぶと、少年はそれと分かるように赤い瞳を大きく見開いて驚いた。

「セシリアは、ぼくのことを知っているのかい?」

 少年が尋ねると、セシリアは静かに頭を左右に振った。

「いや、そうじゃない。あなたが着ていた甲冑に、名前が刻まれていた。センテ・レーバンでは、ドッグタグの代わりに、甲冑の喉輪の裏に、名前を書き入れると聞いたことがあったんだ」

 そう言って、セシリアは軍服の首元から、銀色の小さな板を取り出した。そのドッグタグとは、戦場で身元不明の遺体とならないようにするための名札である。同様に、センテ・レーバンでは甲冑の喉輪(急所である喉を護るための外装)の裏側に名前を刻み込む。余談ではあるが、ガモーフは胸当ての外側に氏名が書き入れてある。

「あの甲冑が君の持ち物なら、あなたの名前はきっと、アルサス・テイル。例え違っても、どうせ、名無しでいるよりはマシだ。その名を借りればいいんだ」

 と、セシリアが言うと、赤い瞳の少年はわずかに頷いた。

「分かった。そうさせてもらう」

「傷が癒えるまでは、ここで大人しくしていた方がいい。ただ、記憶喪失と言うのがあなたの嘘で、ここから逃げ出そうと思っても、帝都は戒厳令が敷かれて、民間人は帝都の外に出ることが出来ない」

「どこにも行かないよ。行きたくても、体中がとても痛い。頭も肩もお腹も」

 少年はわずかに笑って見せたが、すぐに苦悶の顔に戻る。傷は深かったのだ。五体満足でいられるとしても、出歩くことは出来ないだろう。

「そうか……。わたしはお役目があるから、詰め所に戻る。何かあったら、お医者さまを呼ぶといい」

 セシリアは、くるりと踵を返した。少年は、部屋を後にしようとするセシリアの背中に向かって、

「お礼、言ってなかったね。助けてくれて、ありがとう。セシリア」

 と、言った。


 幾日経っても、すっぽりと抜け落ちたアルサスの記憶は戻らなかった。本当に自分がアルサスと言う名前なのかも分からない。どうして、自分はこんなにも傷つき、こんな見知らぬ外国の病院に運び込まれたのか、それさえも分からなかった。目が覚めたとき、いや、その直前まで、何か大切なことがあったはずなのに、どうしても思い出せない。

 セシリアの話では、砂漠の真ん中に倒れていたらしい。しかし、砂漠を訪れた記憶さえ、アルサスにはなかった。

 一日をベッドに横たわり、天井ばかり見つめていても、一向にそれは変わらず、半ば三日ほどで思い出すことを諦めた。セシリアの「いつか思い出すよ」と言う言葉を真に受けたに過ぎないのだが、思い出そうと無理をすると頭が痛くなるためでもあった。

 命の恩人であるセシリアという少女は、いつも軍務の合間をぬって、アルサスのもとに見舞いに訪れてくれた。記憶があるなしにかかわらず、知る人のいない外国において、心細い思いをせずに済んだのは、セシリアという少女がいてくれたからに他ならない。

 そんなセシリアは少しばかり変わった女の子に見えた。女の人が騎士や兵隊になることは少なくない。しかし、彼女から滲み出す雰囲気は、明らかに軍人のそれとは違っていた。何とか言葉尻を男っぽくして、厳つさを見せようとしているのだが、それはなんだか窓辺の花が虚勢を張っているようにしか見えなかった。現に、彼女の顔は美しく、指先も細くしなやかで、おおよそ軍服を着ていなければ、往来を歩く年頃の町娘と何ら変わりがなかった。

 あるとき、どうして助けてくれたのか、とアルサスは尋ねた。しかし、セシリアは素っ気無く「わからない」とだけ答えて、それっきり教えてはくれなかった。他人の考えていることは、よく分からないもので、そもそも、彼女が何故軍隊に属しているのかも良く分からない。

 ダイムガルドでは、軍隊の階級呼称が他の国と違う。しかし「中尉」という階級は、中堅どころで、かつ彼女は二人の部下を従えているらしい。彼女は、「父の後を継いだだけ」と言っていたが、アルサスは、女の子が軍隊に属す理由は、たったそれだけではないような気がした。

 そうして、日が過ぎて、七日もすればアルサスの傷はふさがった。それだけ彼が若いということだ。そうして、おそらく病院に運び込まれて以来だと思われる、鏡に自分の姿を映しこんだ、なんとも、痛々しいほどに、頭や肩、腹などを包帯で巻かれた姿。はたして、そこに映る赤い瞳の少年が、自分の姿なのかも良く分からなかった。

 さらに三日もたてば、包帯は少しずつ取れていき、日がな一日を窓辺でダイムガルド帝都の風景を見ながら、すごす退屈な日々が始まった。

 ダイムガルド帝都の街並みは少しばかり変わっている。箱のような建物がいくつも立ち並び、それらから黒い煙突が何本も空に向かって伸びている。キューポラと呼ぶらしいのだが、アルサスには煙突の林のように見えた。そして、煙突からは、黒い煙や白い煙がもうもうと立ち上り続ける。夜になれば、時折火を吹き上げるのだ。

 そんな街並みを、アルサスなりの言葉で表せば「灰色の街」といったところだろうか。本当は、いくつもの色が折り重なるはずの街並みが、まるでモノトーンのように見える。さらに、この街を特徴付けているのは、朝から深夜までひっきりなしに聞こえてくる、鉄の音だ。

 セシリアによれば、この陸軍病院がある場所の近くには「ミスリル製鉄所」や「兵工廠」と呼ばれる、工場が沢山並んでいるらしい。はじめは、その騒音に睡眠を奪われかけたものの、住めば都とはよく言ったもので、慣れてくると、それほど気にはならなくなった。

 本当に不思議な街だ、とアルサスは思う。窓から見える街並みに、有機的な生活の匂いはせず、ざらざらと乾いた無機的な印象を受けるのは、きっと脳の底に眠る記憶のどこかで、他の国の街並みと比較しているのだろう。そんな些細なことも早く思い出せれば、それに越したことはないのだが、それにはまだ日がかかりそうな予感があった。

 ベッドを離れ、軍医から出歩いてもいいという許可をもらったのは、それからさらに数日後。アルサス退屈しのぎに、薬の匂いしかしない病室から抜け出した。と言っても、アルサスのいる陸軍病院は、軍施設の集合する区画の中にあり、フェンスと呼ばれる金網で、街とは仕切られている。そのため、街に出ることはできないし、軍機に触れる場所へ立ち入ることも許されない。

 案外にも自由はないのだが、記憶のない不安は、誰かに話したところで楽になるわけでもなく、外の空気に触れることは、多少なりとも気晴らしにはなる。背伸びをして、空を見上げ、工場の煙突から流れてくる煙の匂いに顔をしかめ、あたりを散策して歩く。

 軍施設と言っても、砦や要塞ではなく、帝都及びその周域の守備任務を仰せつかる「近衛騎士団」の詰め所と、軍隊の本部がある大本営の施設があるだけだ。大本営の後ろには、政治の中枢である議事堂があり、さらに軍施設からでは一部分しか見ることが出来ないが、この国を治める国王「皇帝」の住居である皇居がある。これら三点セットで、「内裏(だいり)」と呼ぶらしい。

 アルサスはいかめしく聳え立つ、ダイムガルドの象徴たる三つの建物を眺めながら、通りを曲がる。すると、通りの影から何やら声が聞こえてきた。

「すでに同志が皇居に忍び込んでいる。午後の御前会議が終わった後……」

 やたらと押し殺した男の声。気配は二つ。死角になって見えないが、その声にはどこかただならぬ雰囲気が漂っていることを、アルサスは感じ取って耳を澄ました。

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