66. 翼ある人
季節外れの雪だろうか? しかし、温暖な気候のガモーフ神国との国境沿いで、この季節に雪が降ることはない。ならば、シエラの山から降りてくる、あの白いものは何なのか。鳥? それとも……。
「人だ!!」
アルサスの傍らで誰かが叫ぶ。アルサスの眼には、それがはっきりと分かるわけではなかったが、鳥のような真っ白な羽を背中から生やした、人であった。言い換えるなら「翼ある人」。それらは、シエラの山頂にかかる薄い雲の中から次々と現れて、山肌をすべるように地上を目指した。
「どうなってるんだ……?」
思わず、唾を飲み下したアルサスは、額から冷たいものが流れ落ちるのを感じていた。
シエラ山の異変は、ガモーフ軍も気づいていた。ガルナック砦の放棄と爆破というアルサスの策により、混乱をきたしたガモーフ先遣隊は、背後に聳える山の頂上より姿を現した、「翼ある人」に驚愕と更なる混乱を来たし、軍列を乱した。
その光景は、アルサスのいる丘からもよく見えた。予期せぬ事態、兵たちも浮き足立つ。
「まさか、ダイムガルドの新兵器か!?」
などと口々に叫び、うろたえる兵たちを、「静まれ、皆のものっ!!」とトライゼンが一喝したその時であった。その声ははっきりと聞こえた。鼓膜を揺さぶる空気の振るえなどではなく、確かにアルサスたちの頭の中に、響き渡ったのである。
『聞け、おろかなる者たちよ、私は女神との約束をここに果たす』
脳裏に呼びかける声、アルサスはその声に聞き覚えがあった。どのように語気を強めても、その声の裏に鉄よりも冷たい響きが見え隠れする声。
「メッツェ……!」
『千年前、私と銀の乙女は女神アストレアと約束した。時が過ぎ、再び人々が戦をするならば、この世界に再誕の鐘を鳴らせと。そして、彼女の予言の通り、十年前のヨルンの悲劇以来、世界は混沌とし、破滅への道を歩んでいる。世界は、異常気象や飢饉によって人々が命を落としていると言うのに、それでも争い続ける者たちよ、世界が生まれ変わる音を聞くがいい! これは罰ではない。光となった魂は、清浄なる女神の慈愛のもと、新たな世界に生まれ変わる。それが、金の若子と銀の乙女が、アストレアより受け継いだ救いの願いだ!』
何処からともなく、人々の脳裏にメッツェ・カーネリアの声が響き渡った。それとほぼ当時に、ガモーフ軍の列に、文字通り雪崩れ込んだ「翼ある人」は、何処からともなく三叉の槍を取り出し、無機質な顔をして、次々とガモーフ兵を突いた。だが、それは殺すと言う行為とは、少しばかり違っていた。三叉の槍に貫かれた人たちは、うめき声を上げるわけでもなく、一瞬で光の粒になって消えたのである。
ガラススコープを取り出し、その光景をつぶさに見つめたキリクは青い顔をしながら、それをアルサスたちに伝えた。
「これが、救いだって!? 殺戮と何が違うって言うんだ」
騎士の誰かが、声高に毒づいた。アルサスはひとり、遠目に見える白い翼をにらみつけながら、それがネルのしたことなのだと、心をざわつかせた。
あの時、即位式典の会場で「白き龍」を目覚めさせた時から、ネルは何かを決意していたように、アルサスの眼には映った。その決意が何であるかを知る術は、本人に聞き質す他にないのだが、言い換えれば、あの時、ネルは「銀の乙女」としての使命に目覚めた。
それでも、アルサスは心のどこかで、白き龍を目覚めさせ、ルミナス島を滅ぼしたのが、あの心優しい少女の行いと思いたくはなかった。それは、アルサスにとって、ネルの裏切りに等しいことだったからだ。しかし、目の前に突きつけられる現実は、否応なしにアルサスを絶望させた
「始まってしまった……。もう、あいつの心を取り戻してやることなんて、俺には出来ない。やっぱり、人は分かり合えないんだ……!」
ナルシルの剣を握り締める手に、力が篭る。
「全軍に通達!! 作戦を変更する。直ちに、クロウ、カレン隊と合流し、ガモーフの兵を助ける!!」
アルサスの声に、兵たちはどよめいた。つい今しがたまで、命のやり取りをしていた相手を助けるなどと、あまりにも突拍子もないことで、瞬くうちにどよめきは疑問と不満の声に変わる。
「説明している暇はない。だが、あれにみえるは戦争ではない! メッツェの殺戮だ! その殺戮から、隣国の人を助けることは、騎士道の真髄ではないのか!?」
「し、しかし、それでは、死んでいったものたちが浮かばれません」
「彼らも、俺たちが悪しきを挫き弱きを助くという騎士道の真髄を捨てる事を望んではいない」
だが、アルサスの言葉に納得が出来ない様子の兵たちを、見るに見かねたトライゼンが一喝する。
「皆のもの、殿下の申される通りじゃっ!! 敵の敵は味方と言う! 我らが戦うべき相手は、誰か。思い起こしてみよっ! ライオットを彼の欲望を餌に操ったメッツェ・カーネリアではないか!?」
トライゼンの怒号はびりびりと空気を震わせて、兵たちを奮起させた。あちこちから「そうだ、トライゼン将軍の仰られる通りだ!」と、声が上がる。
「すまない、トライゼン……」
アルサスは、改めて自分の人望が、王子と言う位にのみあるのだと悟り、やや肩を落とした。
「そのような顔をされますな、殿下。兵を束ねるは、ワシの役目ですぞ」
トライゼンはアルサスの肩を軽く叩くと、兵たちに手早く指示を与えていく。アルサスたちセンテ・レーバンが攻撃の目標を変えて進軍を開始したのは、それから間もなくである。
その頃、戦場の東部に身を潜めて、時を待っていたクロウたちは、眼前の敵がシエラの山から下りてきた「翼ある人」たちによって、攻撃されていることを知り、こちらも俄かに騒然とした。
「いかがされますか?」
と、クロウに問いかけたのは、副官のブレック・ケイオンである。クロウはしばし瞳を閉じて思案をめぐらせた。状況がおかしな方へと変わってしまった。しかも先ほど聞こえてきたのは、メッツェの声である。ライオットのことはどちらかと言えば嫌いであったが、それでもヴェイル家を救ってくれた男である。たとえ、それが「使える駒」のためだったとしても、その恩を忘れたつもりはない。いわば、メッツェはその恩にとって仇である。
「これより我らは、あの白き翼をもつ者たちを攻撃する」
瞳を開き、そう命じたクロウに、兵たちは驚きを隠せなかった。その驚きを代表したのも、またブレックであった。
「よろしいのですか? フェルト殿下からの命令もないままに、攻撃対象を変えても」
「フェルト殿下……いや、アルサスならそうする」
「何故そう言いきれます?」
訝るブレックに、クロウは間をおかず、「僕があいつの親友だからだ」と言い少しだけ笑った。このとき、アルサスたちが「翼ある人」を攻撃し始めていたことを、クロウたちは知る由もなかった。本来なら、エーアデ通信などを用いて、部隊間の連絡を取り合うのだが、アルサス側にその装備と準備がなく、作戦会議の予定では、アルサスたちがガルナック砦を爆破し、無事逃げおおせたら、魔法球を打ち上げ、本隊とカレン隊の同時三方攻撃を開始する手筈だった。
しかし、ガルナックから爆炎と煙が上がっても、その合図がない今、クロウは親友のとるであろう行動を察知し、独断で命令を破ることを決意した。
同じ頃、西側に配置したカレン隊も、同様の算段をまとめ、ガモーフ軍から目標を「翼ある人」に変えて、進軍を開始していた。このときに及んで、彼らの信頼が必然のように合致したことを、それぞれは知ることもなく、同じ敵に向かって兵を進めたのである。
炎上するガルナック砦の脇を抜け、駆け抜けたアルサスたちは、各々の武器の先を「翼ある人」に向けた。突然の援軍が味方ではなく、つい今しがたまで矛を交えていた敵であることを知ったガモーフの青銅色の騎士たちは、少なからず動揺した。
しかし、アルサスたちが当面の敵でないことを悟ると、彼らは徒にアルサスたちを攻撃することはなく、共に、シエラの山より次々とあふれ出してくる「翼ある人」を攻撃した。
「翼ある人」を間近で見ると、その異様な姿に、皆青ざめた。皆同様の三叉槍を携え、鳥がごとく宙から攻撃を仕掛けてくる。その背中に映えた翼は、白鳥を思わせるほど真っ白であり、身にまとう白い鎧と白いスカートと併せて、その清浄さが不気味にすら見えた。だが、もっと不気味なのは、端整な顔立ちである。青い瞳に生気はなく、どちらかと言えば石像か何かを思わせる無機質さがある。そして、なにより、どの「翼ある人」も同じ顔をしているのだ。
「こいつら、双子かよ!?」
「いや、千つ子だろ!」
そんな声さえ飛び交ってくる中、アルサスたちは「翼ある人」に斬りかかった。地面を蹴って高く舞い上がり、一刀のもとに切り伏せる。だが、その手に伝わってくるのは、肉を絶つ鈍い感触ではない。いや、むしろ、感触がないのだ。それでも、剣身は「翼ある人」の左腕を確実に斬り取っていた。
ところが、地面にごろりと転がった、「翼ある人」の左腕は、突然光の粒になり、もとあった場所へと還っていく。それは、アルサスの眼に、まるで斬り落とされた腕が再生していくように見えた。
「な、何なんだ、こいつらっ!!」
アルサスは思わずうろたえた。すでに、彼は「翼ある人」が人間、いや生き物でないことを認識していた。だが、生き物でないとすれば、何と形容していいのか。それは、おそらく、光の粒の集合体。思えば、即位式典でネルを刺したとき、彼女の体を覆った光の粒と、「翼ある人」の光の粒はよく似ているような気がした。
フォトン・アクシオン……。
その言葉の意味をたどる暇などない。左腕を再生した「翼ある人」は無機質な表情のまま、三叉槍をアルサスめがけて繰り出してきた。咄嗟に、アルサスは地面を蹴って後ろへ飛びのいた。「翼ある人」の攻撃にまったく迷いがない。たとえ、いがみあい、憎しみあって戦争をしていても、誰もが相手を殺すときには、一瞬の躊躇をするものだ。それが、普通の心をもった人間だ。その一方で、たとえば、黒衣の騎士団団長のギャレット・ガルシアのように、人を殺すことに愉悦を感じるような輩もいる。しかし、「翼ある人」のそれは、ギャレットのような人間とも違う。まったくその刃に感情がないのだ。
その所為なのか、センテ・レーバンの兵も、ガモーフの兵も、却って恐怖を感じて、「翼ある人」に隙を与え、瞬くうちに光の粒になって、みんな消えていく。
両軍がごちゃ混ぜになり、混乱がピークに達したときには、すでに戦場は「翼ある人」で溢れかえり、恐怖と光の粒で満たされていた。
それに引き換え、アルサスたちは何度剣を振っても、なかなか敵を殺すことが出来ない。剣で斬っても、槍で突いても、弓矢で射ても、魔法で焦がしても、一度光の粒になったかと思えば、すぐに再生する。
「トライゼン将軍! クロウと、カレンを探して体勢を立て直すっ」
アルサスは、「翼ある人」の繰り出す槍を避けながら、近くで戦斧を振り回す老体に、呼びかけた。
「了解いたしたっ!!」
トライゼンが、少しばかり疲れの見え始めた顔で、そう答えたその瞬間だった。アルサスは不意に、足元の石に疲れた足を取られてしまった。視界がぐるりと反転する。転倒してしまう、と思ったその瞬間には、アルサスの眼前に「翼ある人」の槍が迫っていた。咄嗟にアルサスはナルシルを平行に構え、三叉槍を防ごうとした。だがその刹那、激しく弾け飛ぶような音がして、ナルシルの剣が、剣身の中央から折れてしまう。
「な、何っ!?」
折れた剣先が弧を描き、地上に突き刺さる。アルサスの手元に残ったのは、柄と剣身の三分の一だけ。そして、同時に、三叉の槍はアルサスの肩口を容赦なく突き刺した。そこは、胸甲冑と肩当の隙間。悲鳴を上げる余裕もなく、アルサスの肩を真っ赤な血が染め上げていく。
「殿下ーっ!!」
トライゼンが青い顔をして飛び込んでくる。振り上げられた戦斧は「翼ある人」の頭上から、真っ二つに切り下ろされた。「翼ある人」は光の粒になり消える。その光の粒はガルナック平野を吹き抜ける風に乗って、シエラの頂へと昇っていく。それが、再び「翼ある人」の形を成すのだ。
「トライゼン将軍っ、剣をくれっ!!」
アルサスは、折れたナルシルを鞘に収めつつ、トライゼンに命じる。だが、その右肩の痛みは尋常ではなかった。よろめき膝を突くアルサスに、トライゼンは、「傷の手当てを」というが、そんなことをしている余裕などなく、アルサスは無理矢理トライゼンの腰から、帯刀の剣を引き抜いた。トライゼン愛用の、幅広の剣「ブロードソード」である。
「このままじゃ、皆光の粒になって消えてしまう……。キリクっ!!」
トライゼンの剣を片手に、アルサスはキリクを呼ぶ。キリクは額から血を流していたが、どうやら大事には到っていないらしい。アルサスの元に駆け寄ってくると、「何でございますか?」と尋ねる。
「全軍とガモーフの軍に撤退を勧告しよう。このままじゃ、埒が明かない」
「しかし、部隊は、バラバラです。クロウどのも、カレンどのも、一体何処にいるのか、無事なのかさえ分かりません。退路も塞がれ、もはや、進むことも戻ることも適いませんっ」
ガルナックで顔をあわせた折、冷静に見えたキリクの顔が、焦りの色とも取れる顔色に変わっていた。
「それでもっ。ここで死ぬわけには行かない!!」
アルサスは、キリクをにらみつけた。確かに、彼の言うとおり、混乱の中、進むことも戻ることもままならない状態になってしまった。クロウたちが広大な戦場の何処にいるのかさえも分からない。そんな状況を打破する方法を思案してみるが、思いつくはずもない。
と、アルサスが歯噛みしていると、そんなアルサスの内心を悟ったのか、それと意を汲んだのか、トライゼンがおもむろにこう言った。
「ならば、ワシが王都への血路を切り開きますぞ!!」
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