64. 思いがけない援軍
「申し開きがあるなら聞こう」
アルサスは砦の地下室中に響き渡るようなよく通る声で言うと、その男の首に、ナルシルの切っ先を突きつけた。男は、脂肪の塊のような体に、荒縄を食い込ませながら、アルサスを睨み付ける。今この光景を見れば、その肥え太った男が、騎士の一人であったなどと、誰が思うであろうか。
「アーセナル、黙っていても、何の利得にもならんぞ。我らを裏切り如何にするつもりだったのじゃ!?」
アルサスの傍で、トライゼンが眉間にしわを寄せる。しかし、その顔にはやや疲れが見え隠れしていた。彼にとって、騎士は団長クラスから末端に到るまで、すべて部下なのである。その部下が粗相をした。本来なら、その始末をつけるべく、アーセナルの首を刎ね、自らも自刃するのが、騎士の掟である。しかし、今はガモーフとの戦の真っ最中であり、全騎士団の指揮を任される身。しかも、アルサスに固く、自刃は許さないと、戒められている。その分、トライゼンの怒りはストレートにアーセナルへと向けられていた。
アーセナル隊の裏切りにより、混乱とともに瓦解したセンテ・レーバン軍は、全軍の三分の一を失う結果となった。しかし、思わぬ救援によって、事なきを得て、裏切りの首謀者であるアーセナルを捕らえ、生き残った者は、ガルナック砦に逃げ込むことが出来た。それを不幸中の幸いとするべきかは、まだ分からないが、ガモーフの軍隊は、それ以上追撃してくることはなく、アルサスたちはガルナック砦の門を固く閉ざして、立てこもることとなった。
「知れたこと! 諸侯の中には、すでにガモーフの傘下に下った者もいる!」
アーセナルは血を含んだ唾を吐き捨てて言った。地下室の頼りない明かりに浮かび上がる、厚ぼったく腫れたアーセナルの顔は、太っているからだけではない。怒り収まらぬトライゼンによって、何度も殴りつけられたのである。
「貴様! ガモーフに王国を売るつもりだったのか!?」
「この売国奴め!」
アーセナルを取り囲み、叱責する騎士団長たちが次々と声を荒げた。その勢いは、トライゼンに負けず劣らず、今にも腰だめの剣を引き抜き、アーセナルを斬り殺さんばかりだった。アルサスは、そんな騎士団長たちを諌めつつ、アーセナルを睨み付けた。
「そうして、生まれた国を捨てて、仲間を裏切り、自らだけが生き残ることに、価値があると思ったのか?」
「価値ですと? ならば、前国王陛下が逝去され、国内が荒れている折に、国を捨てて半年もの放浪を満喫し、挙句、この国をヨルンの悲劇以来の戦禍に巻き込もうとする、王子に何の価値があるというのか!? わしはただ、国を戦火に滅ぼしたくないが故に、ガモーフと手を結んだまでのこと!!」
己の言い分を吐露するアーセナルに、アルサスはやや目を伏せてから、彼の首筋に突きつけたナルシルの剣を納めた。
「ガモーフがもし、俺たちの降伏を受け入れて、センテ・レーバンに戦火を持ち込まなくても、やがて民族同士の軋轢が生まれる……。俺は壁に囲まれ、外界と途絶して、世界の縮図となったハイゼノンでそれを見た。そうならないためのアトリアの国境線なんだ。アーセナル、お前が国を憂う気持ちも分かる。そして、俺に信頼にたる価値がないことも分かる。だが、騎士としての誇りを失ったお前をこのままにしておくわけにはいかない」
「いかがなさるおつもりで?」
と、踵を返すアルサスにトライゼンが問う。
「アーセナル隊の生き残りの者たちとともに、丸裸にして砦から放逐しろ。ガモーフに助けを求めるもよし、そのまま姿を消すもよし。ただし、楽に死なせたりはしない……」
トライゼンの問いに答えたアルサスは、自分の声がひどく冷たいことに気づいた。何にせよ、アーセナルたちを赦すことは出来ない。アルサスにとって、アーセナルに与える罰は、ギリギリの選択だった。
「了解しました、直ちにこやつと、こやつに与した愚か者どもの身包みを剥ぎ、裏門から放逐いたします」
騎士の一人が命令を復唱したその時だった。鎧のこすれる音ともに、誰かが地下室の階段を駆け下りてくる。その足音はただ事ではないと言っているようで、地下室にいるアルサスたちは思わず身構えた。しかし、明かりの元に姿を現したのは、守備隊司令官のキリクである。
長身の彼にとっては、天井の低い地下室は、いかにも狭そうだった。
「大変です!」
開口一番、そう言うキリクに、トライゼンが眉をひそめる。
「何事か!? よもや、ガモーフが早速攻めて参ったか!?」
「いえ、そうではなくて……兵たちが『彼ら』に怯えて、暴動を起こしそうなんですっ!」
やや青ざめた顔でキリクが報告する。キリクの言う「彼ら」が誰のことかわかっているアルサスは、
「分かった、俺が行く……クロウ、付いて来てくれ」
と傍らのクロウを従えて、キリクの横を通り過ぎ、地下室の階段を昇った。階段の入り口はそのまま、砦の表側にある庭への通路に通じている。そのため、階段を昇りきると、兵士たちの怒声と喧騒がアルサスの耳元まで届いた。
「まったく、諍いなど起こしている場合ではないと言うのに!」
アルサスのやや後ろを小走りに付いてきながら、クロウが目くじらを立てる。
「無理もないさ。俺だって、驚いたんだ」
そう言ってクロウをなだめると、アルサスは夜風が吹き抜ける前庭に出て、兵士たちに向かって声を張り上げた。
「静まれっ!!」
鶴の一声とはこのことである。色めき立っていた兵士たちは、アルサスの声ら驚き、静まり返った。その静けさの隙間から、グルルっ、と獣のうめき声が聞こえる。
「ちょっと、道を開けてくれ」
と、アルサスは人だかりを掻き分け、兵士たちに取り囲まれた「彼ら」のもとに歩み出た。「彼ら」は、調停に現れたアルサスをも威嚇するかのごとく、牙をむき出しにしする。
「殿下、危ないです」
兵士の誰かが言ったが、アルサスは気に止めず「彼ら」に近づいた。「彼ら」は、無防備を晒すアルサスのことを、じっと睨み付ける。外見は、灰色狼に似ているが、その少し大きめの体躯、三つの瞳、鋭利な牙と爪は、彼らが魔界の眷属「魔物」と呼ばれるものであることの象徴であった。そして、人はとりわけて「彼ら」のことを「ヴォールフ」と呼ぶ。
「少年よ、この人間どもを大人しくさせろ。こやつら、我らが敵でないことを理解できぬようだ」
ヴォールフの群れの奥から、一際体躯の大きなものが、こちらに歩いてくる。アルサスは、そのものの名を知っていた。
「バゼット!」
アルサスは、その人語を解するヴォールフの名を呼ぶと、兵士たちの方に振り向く。
「みんな、安心してくれ。バゼットは智慧ある魔物の長、ハイ・エンシェント。俺の知り合いだ」
「し、しかし……」
兵士たちは、困ったような顔をする。ヴォールフ族は家畜を襲うような、獰猛で人間にとって危険極まりない生き物である、というのが共通の認識であった。俄かに、敵でないと言われても、信じがたい。
「フェルト殿下がこう申しておられるんだ。それに、我々はバゼット殿のおかげで事なきを得たのだ。分かったら、みんな持ち場へ戻れ!」
アルサスの言葉に付け加えるかのように、クロウが言うと、兵士たちは納得いかない、という顔をしながらも、散っていく。それでようやく、牙をむき出しにしていたヴォールフたちも、大人しくなる。
「すまない、バセット。あんたたちのおかげで、俺たちは助かったと言うのに……」
と、アルサスがバセットに言うと、バセットは少しばかり笑った、ような気がした。彼らの生態は、狼に似ているため、本当に笑ったのかどうかは、はっきりとしない。ただ、彼らには、かつてアトリアの森で出会ったときのような敵意はない。
それどころか、アルサスたちは、バセットに助けられたのだ。アーセナル隊の裏切りにより混乱をきたしたセンテ・レーバン軍の危機に、颯爽と現れた灰色の影。それは、バセットが率いる、ヴォールフの群れと、そしてトニア率いるエイゲル族の群れであった。
彼らが来てくれなければ、アルサスはガルナック平野に屍を晒していたことだろう……。しかし、何よりもバセットとトニアの救援に驚いたのはアルサス自身であった。
「なに、恩を返しに来ただけのことだ。我も、トニアも人間に疎まれるのは、慣れている」
「恩?」
「貴様たちは、アトリアの森で命を落とした我が同胞のために、墓を作ってくれた。それは、人間どもの最高の礼儀と聞く……」
アトリアの森でバセットたちに襲われた後で、アルサスは自らが斬り殺したヴォールフを墓に埋葬した。といっても、穴を掘り盛り土したに過ぎない。それでも、それをバセットは「恩」と受け止めたのである。
「それと、貴様とトニアの賭けが失敗したことを、笑いに来たのだ。銀の乙女が、自らの使命に従った以上、新たなる再生のために、世界は滅びる」
「だから、あの時、アトリアの森であんたはネルを殺そうとした……。俺がやろうとして出来なかったことを」
「そうだ。たとえ、アストレアの意思に背いてでも、我は今ある世界を守りたかった。それを、あの娘の心に賭けてみると言ったのは、そなたたちだ。その賭けは見事に失敗した。やがて、世界が滅びる瞬間を、共に見届けよう。我も、そなたたちの賭けに乗った身だ」
「アストレアの意思に背く?」
「そうだ、その時点で我らは、『魔物』でさえなくなった……!」
そう言うと、バセットは群れを率いて、砦の隅へと歩いていった。彼の言葉の意味は良く分からなかったが、アルサスはその背中を見つめながら、『ネルの心が変わってしまったのは、俺の所為だ』と、心の中で呟いた。
「クロウ。ヴォールフたちと兵士たちが、喧嘩しないよう見張っていてくれ。彼らは、俺たちの貴重な戦力だ。それから、負傷兵には薬を惜しまず出してやれ。頼んだ」
アルサスは、バセットたちの姿が見えなくなると、クロウの肩を叩いて、そう命じ、踵を返した。
「フェルト、君は?」
呼び止めるクロウに、アルサスは「夜風に当たってくる」と言い残して、胸壁に上る階段を目指した。
そこは、昨日の夜、カレンが歌を聞かせてくれた場所だ。そのカレンも、今は忙しく負傷兵の手当てに当たっている。さながら、戦場の天使と言ったところだろうか。もしも、この場に、ネルの力があれば、傷ついたものたちはたちどころに、回復したことだろう。
胸壁に上がったアルサスは、夜風に当たりながら、何度か頭を振った。カレンのことを思うと、なぜかネルのことを思い出してしまう。二人は似ても似つかない顔立ちだし、喋り方も、声も違う。だが、それでもカレンの姿に、ネルを思い出すのは、それだけアルサスの心にネルが住み着いている、と言うことの何よりの証拠だった。
溜息を吐き、見下ろせば、夜のガルナック平野が広がる。しかし、昨日とはまるで違う光景を見せていた。いくつかの戦いの後をうかがわせる煙の帯。月明かりに、浮かぶ小さな山のようなものは、累々と折り重なった戦死者の亡骸だ。そして、その向こう、遥か十数クリーグ向こうに、点々と見えるのは、蛍火のような光。しかし、それは蛍の求愛行動などではなく、ガモーフ軍の野営地の灯りである。
その野営地の方から、何かがこちらに向かって飛んでくることに、アルサスは気づいた。夜目を凝らしてみれば、それが鳥であることが分かる。しかし、鳥にしてはかなり大きい。翼を広げた大きさは、人間の三倍以上もあるだろうか。
鳥はやがて、翼をはためかせ、ガルナック砦の上空を何度か旋回すると、ホバリングしながらアルサスの傍らへと降り立った。
「トンキチ! 偵察、ご苦労さん」
アルサスは髪を押さえながら、巨大な鳥……エイゲル族の長の名を呼んだ。エイゲルも魔物の一種である。猛禽の一種、鷲によく似た生態を持っているが、その大きな違いは、遥かな高度を飛ぶことが出来ることと、人間を背に乗せられるほどの、巨躯である。
「まったく、フェルトは老体に厳しいやつだのう」
と、人間の老人のような声音で愚痴をこぼしながらも、その漆黒の眼は真っ直ぐ、ガモーフの陣営を見つめている。
トンキチは、バセットと共に、危機に陥ったアルサスたちを救援に現れた。ヴォールフとエイゲルは、魔物の中でももっとも恐れられる存在である。そのため、ガモーフは追撃を諦めたと言っても過言ではない。そして、ガルナック砦に逃げ込んだアルサスは、日が暮れるのを待って、トンキチに空からの偵察を依頼した。彼らの飛行高度では、魔法も矢も当たらない。安全にかつ確実な偵察の任務は、トンキチたちエイゲルに向いた仕事だった。
「どうやら、敵さんは、攻城戦の支度をしておるようじゃな。衝車や梯子を用意しておる」
「そうか……後で皆にも伝える。この砦はもともと、攻城戦用に作られた砦だ。簡単には落とされない。ただ……予定外だったのは、緒戦で三分の一もの犠牲者を出してしまったことだ」
アルサスが、ガモーフの野営地を見つめてそう言うと、トンキチは少しばかり翼をはためかせ、ぐっと胸を張った。
「そのために、ワシとバセットは駆けつけたのだ。頼ってくれても構わん」
「そのバセットに言われたよ。俺たちの賭けは失敗した。滅び行く世界を共に見届けようって……」
「あやつらしい言い草だのう。しかし、あの娘さんが、まさか金の若子と共に行ってしまうとは。あの優しげな顔を思い出すたび、今でも信じられん気持ちだ」
トンキチの脳裏には、アトリアの森で出会ったネルの顔が思い浮かべられていたのだろう。確かに、あの時のネルが「世界を変える」などと言う光景は、思いもよらないかもしれない。だが、トンキチと別れてから、随分色々なことがあった。本当はその旅の中で、彼女が真実を知り、正しい道を選んでくれることを願っていた。それが、アルサスとトンキチ、そしてバゼットが、アトリアの森で賭けたことだ。
だが、今は何が正しいことなのか、アルサスにも分からなくなっている。あれほど嫌っていた戦争を、今まさに自分の手で起こしている。剣を手に、今日だけでも数え切れないほどの敵を斬り殺した。それが嫌だった。話し合えば、分かり合える。そんな風に思っていたのは、もう遠い昔のことなのだろうか。
『わたし思うんです。人は分かり合えるって』
不意に、カレンの言葉を思い出す。それが本当なら、せめてネルにはそのことを分かって欲しかった……。
「まだ時間はある。ネルが世界を滅ぼす前に、もう一度説得することは出来るはずじゃ。そのためにも、そなたはここで死んではならん」
トンキチは、アルサスの内心を見透かしたかのように言った。アルサスは、少しだけ作り笑いを口許に浮かべて、
「あいつはもう、俺みたいな嘘つきの言葉には耳を貸さないさ。人は分かり合えない。俺もネルも……」
と言って、トンキチに背を向けた。
「人間とは難儀なものよな」
トンキチは、アルサスの背中にそっと呟いた。
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