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奏世コンテイル  作者: 雪宮鉄馬
第六章
53/117

53. 悲しみのネル

 ここがなにもない暗闇の世界ならどれほど楽であったか。自分がもしも、物言わぬ雑草であったら、これほどまでに胸を痛めずに済んだかもしれない。しかし、ここはあまりにきらびやかで、あまりに騒々しい。そして、自分は雑草ではなく、人間だ。

 悪夢から目覚めるたびに、そのことを噛み締めなくてはならないことが、つらくて仕方がなかった。悪夢は、一週間前から、毎夜見続けている。うなされ、もがき、心とともに全身が引き裂かれたような痛みに目を覚ます。覚醒しきらないぼやけた視界は、ただ自分が寝ぼけている所為ではない。大きな瞳いっぱいに、涙の粒が溜まっているからだ。それが目じりから枕元へと零れていく度に、頭の中を支配するのは、愛する妹の死に顔だった。

 街を焼く炎の黒煙が汚していく空を見上げ、「こんな世界いやだ」と呟いた妹は、ミスリルの壁に囲まれた異国の街で父と母の元へと旅立った。二度と帰ることのない、人生最期の旅へ。だが、そのときを迎えるには、メルの人生はあまりに短すぎる。たった十四年。おしゃまで、ちょっと生意気な子だったが、まだ恋の一つも知らぬまま、姉の膝元で息を引き取った。

 何故、メルは死ななければならなかったのか? メルを外国人だからと、殺したあのハイゼノン兵が憎い。そして、何も出来ず泣いていた自分が憎い。憎悪の気持ちは、ぐるぐるとめぐり続けながら、ネルの心を縛り付けていく。雁字搦めに縛り付けていく。それは、アルサスと出会う前、「運び屋」の辻馬車に揺られていたときの、孤独と絶望感に似ていた。

 そして、自ら怒りの中で、力を使った。「奏世の力」と魔物の長が呼んだ力。それは、あたりを吹き飛ばす嵐となって、それまでとは違う顔を見せた。

 分かり合えないから争いあう。貧乏人だから、外国人だから、自分たちにとって邪魔だから、名も知らない人を平気で殺してしまう。そんな欲や恨みによって、メルは死んだんだ。こんな世界なら、要らない……!

 まるで、ネルの憎しみが爆発するかのようだった。

 だが、そんなネルをアルサスは、あの優しい赤い瞳の少年は、いつになく声を荒げて、ネルを叱責した。その言葉を聴くにつけ、自分の中にある力が、本当は恐ろしいものではないのか。ネルがそう思い至った瞬間、彼女の憎しみが恐怖に彩られた。大粒の涙が止まらない。

 自分の所為でたくさんの命が失われた。そして、後一歩間違えれば、「奏世の力」で大切な人まで巻き込んでしまうところだった。

 許してほしいと懇願するネルの目の前で、アルサスは黒衣の騎士に斬られた。血を流し伸ばす少年の手をネルは取ることが出来ず、黒衣の騎士団によって、あのラクシャ村の悲劇の日と同じように、愛する者と引き離された。

 両手を縛られ、馬車に乗せられ、あの時と同じように積荷として運ばれる。あの時と同じように、心の中は真っ暗闇になった。しかし、あのときと違うのは、四日間の強行軍で目的地が見えてきても、空から少年が助けにやってくることはなかった。

 奏世の力が何なのか、もう知りたくない。憎しみと悲しみと恐怖が交じり合った、自分の心も癒せない力のことなどもうどうでもいい。何のために自分は攫われ、王都に連れてこられたのか、そんな自分が置かれた身の上もどうでもいい。すべて投げ出して、暗闇の中に閉じこもってしまいたい。出来ることなら、雑草にでもなってしまいたい。

 それなのに、ギャレットに連れられてやってきたこの、センテ・レーバン城では、なぜかそれまでとは打って変わって、手厚く迎え入れられた。ぼろぼろになったカチュアのワンピースに代わり、見たこともないきれいなドレスを与えられ、絵本の中でしか見たことのない、お姫様のような部屋に案内された。

 だからと言って、この気持ちが晴れやかになるわけではない。目を開ければ、アルサスたちは無事だろうか、もう一度会えるだろうか、そんなことばかりが頭の中を過ぎり、目を閉じれば、もう二度と会えない人たちの顔と、メルの最後の顔が蘇る。

 王都に連れてこられて苦しみに満ち満ちた、三日間。ネルは、お姫様のような部屋で、城と城下のにぎやかさとは裏腹な、暗い気持ちを抱え続けていた。

「メル……」

 ベッドの隅に座り、窓から見下ろせる、センテ・レーバン王都の夜景を眺めるネルは、今日だけでもその名を何度呟いたことか。本当は美しいその景色も、不意の涙で透明にぼやける。

 ネルは、アルサスたちがこの城に乗り込んできていることはおろか、今日がこの国にとって大事な日であることも、自分にとって運命の分かれ道であることも知る由もなかった。お姫様と形容する部屋の外には、銀色の鎧を身に着けた騎士らしき人が、交代で見張りに付いている。言ってみれば、広々としたこの部屋に、ネルは軟禁状態なのだ。

「おや、口に合わなかったのかな?」

 突然声がして、ネルは窓から視線を部屋の中に移した。ぼんやりしすぎていて、ノックの音も聞こえていなかったのだろうか、部屋の入り口に、一人の青年が立っていた。

 さらりとした金色の髪。切れ長の瞳と精悍な細面によく似合うモノクル。背は高く、すらりとしており、所作にまったく隙がないその青年は、自らのことを「メッツェ・カーネリア」と名乗った。宰相府と呼ばれる、センテ・レーバンの最高行政機関の参謀を務めているそうだ。だが、そんなことはどうでもいい。

 この青年には、どこかアルサスのものとは異質な優しさがあった。

 ギャレットによって城に連れてこられたネルは、宰相ライオット・シモンズに面会した。だが、カイゼル髭の蛇男とは、三日の間それっきり会っていない。代わりに、ライオットの召し抱えるメイド長と、この青年がネルの身の回りの世話を焼いてくれた。

「驚かせてしまったかな?」

 メッツェはそういいながら、部屋の中央に置かれたテーブルの上にある、色とりどりのフルーツで飾られた皿を見つめていた。ネルはこの三日間何も口にしていない。センテ・レーバンの食べ物が口に合わなかったわけではない。ネルは、そのようなわがままを言うような娘ではなかった。しかし、メルやアルサスたちのことを思えば、食べ物が喉を通らない。世話を焼いてくれるメッツェの手前、何度か食事を取ろうと、むりやり口に詰め込んでみたが、メッツェのいないところで戻してしまった。

 見かねたメイド長が、センテ・レーバンの豪華な食事の代わりに用意してくれたのが、ライオット御用達のフルーツである。しかし、それすら、ネルの喉を通らなかった。

 与えられた青いドレスこそ、彼女の銀色の髪を引き立てて、美しいものの、今のネルの姿は、アルサスが見れば心を痛めてしまうほどに、弱弱しく苦しげである。だが、そのアルサスが無事かどうかさえ、この部屋の中からでは分からない。せめて、暗く沈み行く心の傍で、想い人の無事を祈ることしか出来ない自分に何が出来るだろう?

「食欲がないのは分るが、何か食べなければ、体が持たない……」

 メッツェは、ネルの傍までやってくると、親愛の笑みを浮かべる。出会って間もないと言うのに、この青年と目を合わせると、どこか親近感を覚えるのだ。アルサスの暖かさとは違う、それはちょうどメルの視線によく似ていた。何故そのような感覚にとらわれるのかは分からなかったが、かろうじて、ネルが軟禁状態にあっても、心の闇に巣食われずにいられるのは、メッツェのおかげと言っても過言ではなかった。

「これでも飲んで、少しは栄養をつけてくれ。君は、大事な客人だ」

 そう言って、メッツェはネルにグラスを差し出した。メイド長特製の、野菜とフルーツのミックスジュースである。固形物が喉を通らないのならと、メッツェが気を利かせて、メイド長に作らせた。浅緑色をしたジュースは、見るにまずそうであったが、メッツェの気遣いを無碍にするわけには行かないと、ネルは「ありがとうございます」と述べ、そのジュースを受け取った。

 味は思ったよりもさわやかで、口当たりも悪くはない。この一週間、栄養らしい栄養を取っていない体には、優しい味だった。

「フォトン・アクシオンが君の恒常性を保ってくれると言っても、君も同じ人間だ。息をして、水を飲み、ものを食べなければ、いずれ死んでしまう」

 ジュースを飲むネルの横顔を優しく見つめながら、メッツェが言う。ネルは聞きなれない言葉に、小首をかしげた。

「フォトン・アクシオン?」

「そうか、君は何も覚えていないんだな……」

 メッツェは窓辺に立ち、ネルに背を向けた。ベッドの隅に腰掛けるネルには、メッツェの表情は分からない。しかし、少しばかり悲しげな声をしているように思えた。

「フォトン・アクシオンは、『奏世の力』の源。世界を救うため五つに分裂した『銀の乙女』の魂のうち、女神アストレアの手元に残った、最後の魂に与えたもの、それがフォトン・アクシオンだ」

「メッツェさまは、どうしてそれを知っておられるのですか?」

 こわごわと、青年の背中に問いかける。すると、メッツェは以外にも、悲しげな顔でちらりとネルに振り返った。

「君には本当につらい思いをさせた。申し訳なかった。君を育ててくれた、父君と母君のこと、そして妹君のことはとても残念だ。君をここに連れてくるため、黒衣の騎士団を使うようライオット閣下に進言したのは、私だ」

 悲しげな目じりと、その言葉はネルを驚愕させた。息を呑み、全身に悪寒が走り抜けていくのを感じながらも、揺らぐ視界を必死にメッツェに合わせ続けた。

「約束の日が訪れる前に、君にここに来てもらう必要があった。十年前の戦役で、ライオット閣下に大恩ある彼らなら、迅速に君を連れてきてくれると思ったんだ。そのために、ギャレットがラクシャ村を滅ぼすなどと言う愚かな行為に及ぶなどとは、思っても見なかった。それは私の不徳とするところだ」

「あなたが、父や母、メル、それに村の人たちを殺したわけではありません。ただ、一つだけ、教えてください……、わたしは何のために、お城に呼ばれたのですか?」

 ネルは謝罪の言葉を口にするメッツェから視線を落とし、美しいカーペットの毛並みを見つめた。

「世界を変えるため、と言えば君は信じるだろうか?」

 メッツェも再び視線を窓の外に向けた。シオン次期国王の即位式を迎え、十年近く暗い話題ばかりだった、城下のものたちにとって、久々の明るいニュースだったのだろう、夜景はいつになく光り輝き、その光が踊っているかのようにさえ見えた。

「この世界はとても美しい。風と土と水と火、四つの精霊の恵みが、大地に潤いを、緑に光を、海原に慈しみを与えている。しかし、その反面で、世界は長い間、人々によって争いが絶えない。ヨルンの悲劇はその頂点と言ってもいい。だが、二百万もの命が失われてなお、争いは終わらない。君がハイゼノンで見たものは、その一端に過ぎないのだ」

 その言葉に、ネルの脳裏に、ハイゼノンでの出来事が蘇る。目の前で次々と死んでいく人たち、メルの顔、暴発する力、凶刃に倒れるアルサスの手のひら。あれは、地獄のような出来事だった、それが、一端に過ぎないと、この青年は言うのだ。

「人は、分かり合えない生き物だ。己の価値観がすべてで、それ以外の価値観に触れることが出来ない、とても不器用な生き物だ。だから彼らの価値観は歪を生む。時としてそれは、諍いとなり、争いとなり、戦となる。そうして、不幸を目の当たりにしても、分かり合うことが出来ない、相手をこの世からけしてしまうまで分かり合えない。永遠にその繰り返しが続き、いまやこの美しい世界は疲れきっている。疲れた世界が天変地異や飢饉を引き起こしていることは、君も旅の途中でつぶさに見てきただろう?」

「はい……。だけど、それと、わたしに何の関係があるのですか? 銀の乙女って何なんですか? 奏世の力って!」

 ネルが問いかけると、メッツェは少しばかり肩を震わせて苦笑した。そして、窓辺から離れると、何を思ったのかこちらに歩いてきて、ネルの隣に腰掛けた。

「質問が増えている……。いや、無理もないか。だが、真実を知れば、君は選ばなければならない」

「選ぶ?」

 戸惑うネルの手を、メッツェはそっと取った。心の底から暖かな手。どうして、この人の手は、アルサスと同じような手をしているのだろう……。

「つまり、極端な話をすれば、世界を救うか救わないか。平たく言えば、誰の手をとるか」

 メッツェの言っていることの意味はよく分からない。だが、メッツェの口から語られる、おおよそ真実と疑いようのない上に、あまりに途方もない話は、ネルを更に戸惑わせた。

 どのくらい、時間が過ぎただろう。メッツェは一通り話し終えると、もう一度「世界を救う、それが銀の乙女に与えられた使命」だと付け加えた。

 その折をちょうど見計らったかのように、部屋のドアがノックされる。メッツェが「誰だ」と返せば、扉の向こうから聞こえてくるのは、メイド長の声だ。

「即位式のお時間です。ライオットさま言いつけの支度がありますので、殿方は退室していただけますでしょうか?」

 ひどく淡白で、事務処理のような喋り方だが、わずらわしさはない。メッツェは「分かった」と返事を返し、ネル傍から立ち上がった。

「ネル……約束の日は今宵、即位式の会場で。そのとき、君が正しい選択をすることを、私は信じている」

 メッツェはそう言うと、化粧道具やアクセサリーを載せたカートを押すメイド長と入れ替わりに、このお姫様の部屋を後にした。ネルは、口を真一文字に結びつつ、メッツェの背中を見送りながら、そっと呟いた。

「世界を変える力……」


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