45. アルサスたちの敗北
ギャレットのカウントは、ネルの耳朶を打ちつけた。『約束は破るためにある』その言葉が、カウントとともに、脳裏に蘇る。
人が人を殺すような世界……。ラクシャを離れ、絶望に暮れたこともあった。命の危険を感じたこともあった。必死に戦おうとする人の姿も見た。死を覚悟してもなお心静かでいられる人がいることも知った。だけどこのハイゼノンの街を覆う、気分が悪くなるほどの敵愾心、嫌悪感に包まれた感覚は、ネルがはじめて知るものだった。
どうして、簡単に人が人を殺そうとするのだろう? ソアンとメルを殺した兵士は何を思って、武器を振ったのだろう。そして、目の前にいる黒い鎧の男は何を思い、ラクシャ村の人たちや父と母を殺し、今また、フランチェスカの命を奪おうとしているのだろう……。彼の笑みには、人を殺すことへの愉悦すら垣間見える。どうしてそんな顔ができるのか。
分からない。分かりたくもない。
ネルには、目の前にいるギャレットが、真っ黒で汚らわしい塊にしか見えなかった。人ではない、悪魔。いや、生き物ですらない。憎悪と悪意の集合体。そんな者の考えを知る必要など、どこにもありはしない。
ただ、ひとつだけ、ハイゼノンの地を踏んで分かったことがある。それは、この世界に、ギャレットのような人間がたくさんいるということだ。たとえば、お城の高みから貧民街を見下ろし、貧民たちを皆殺しにするように命じたハイゼノン公。ウルドの思いも聞き届けず、処刑しようと決めたガモーフの大臣たちもそうだ。ソアンとメルを、そして貧民街のひとたちを次々と殺める、ハイゼノンの兵隊たちもおなじこと。
いや、そんな具体例なんか出さなくてもいい。この世界には、常に憎悪が満ちており、やがてそれが戦争と言う形で結実する。そのひとつが、ヨルンの悲劇なのだ。
世界は、ハイゼノンと同じように壁に包まれている。ミスリルや石でできた壁ではない。見えない人間の、欲と傲慢、己のみを大事に思う心が作った、見えざる壁だ。
こんな世界、わたしもいやだ……。
「ななーつ!!」
ギャレットのカウントがそのときを迎えようとしている。
ネルはそっと瞳を閉じた。貧民街が燃えていく焦げ臭い煙のにおいと、血のにおい。それに混じって、鼻を突くような人間の焼けるにおい。凄惨で、あまりにも無常な現実が、瞳を閉じてもそこにある。
「ネル、俺が合図したら逃げるんだ。何処だっていい。とにかく逃げろ」
カウントの声に混じって、アルサスがネルに耳打ちした。視線はじっと、ギャレットを睨み付けている。アルサスは何をしようとしているのか。一抹の不安とともに、ギャレットのカウントは、ついに十を数えた。
「答えを聞こう、レイヴンっ!! その娘を差し出すか、この女を見捨てるか!?」
轟く宣告の一言。アルサスは、半ばネルを突き飛ばすようにその手を離すと、腹のそこからうなり声を上げて、ギャレットに突撃した。
「うおぉっ!! 逃げろ、ネルーっ!!」
振り上げられるアルサスの剣。迅雷の素早さで、ギャレットの懐へと飛び込む。しかし、ギャレットは余裕ある表情を崩すことなかった。むしろ、血なまぐさい愉悦の笑みを浮かべている。
「だめっ! アルサスっ、行かないでっ!!」
アルサスが殺される! ネルが悲痛な叫び声を上げたその瞬間、フランチェスカの喉元にあてがわれたギャレットの剣が、風を薙いだ。その一撃は、アルサスの剣が振り下ろされるよりも遥かに早く、確実にアルサスの脇腹を突いていた。
「ぐっ!」
脇腹を貫かれた痛みに、顔を歪めるアルサス。
「迅雷の剣技……センテ・レーバンの騎士団に伝わる、王家の剣術。なるほど、レイヴンよ、貴様もセンテ・レーバンの騎士崩れの類か」
「おまえと、一緒にするなよ、ギャレットっ!」
アルサスは、自ら後ろに飛びのき、ギャレットの剣を脇腹から引き抜いたものの、その傷口からは、ボタボタと血の塊が地面に零れ落ちた。
「アルサスっ!」
傷は見た目よりも深く、立っていることも出来ず、肩膝を突くアルサス後姿に、逃げろといわれたことも忘れて、ネルはその場に座り込んでしまった。
みんな死んじゃう……。フランチェスカの槍も、アルサスの剣も、ギャレットに及ばない。ソアンに、メルに続き、フランチェスカが、アルサスが殺されてしまう。何も知らない、守られてばかりの自分の所為? それとも、人を殺すことに、心を痛めないような人間所為?
『ううん、この世界がこんなにも汚い所為……。わたしも、ギャレットも、みんなみんな、悪いんだ。悪い人間の所為で、いい人間が殺される。……こんな世界、わたしもいやだっ!!』
心の中で、ネルが叫んだ瞬間、彼女の体から光があふれ出した。目に痛いほどの眩く真っ白な光。
「奏世の力っ!」
そう叫んだのが、ギャレットであったか、アルサスであったか、フランチェスカであったか。それを確かめるよりも早く周囲は光に包まれた。
もしも、我々人間が鳥のよう空を飛べたとしたら、ハイゼノンの端に現れた一条の光が膨れ上がり、まるでドミノ倒しかなにかのように、街をなぎ倒し、破壊していく光景を目の当たりに出来たであろう。しかし、人は空を飛ぶことは出来ない。ネルの全身から溢れ出した、「奏世の力」の光は、瞬くうちにアルサスたちの視界は真っ白になった……。
光に吹き飛ばされる。光とともに、激しい突風が吹き荒れる。それは、爆風にも似た強い力だった。しかし、ひと時もすれば、その光はしゅるしゅると収束し、あたりは静けさを取り戻す。その静けさの中で、アルサスは自分の体の半分が瓦礫に埋まっている事に気づいた。幸い、その瓦礫はすべてバラック小屋の木片で、除けるのは容易いことだった。
「ネル……っ」
瓦礫を押しのけ、ずきずきと痛む脇腹を押さえながら立ち上がるアルサス。そして、わずかな粉塵が舞う眼前の光景に、アルサスは全身を強張らせた。破壊の跡。うずくまるネルを中心に、バラック小屋というバラック小屋がなぎ倒され、跡形もなく廃墟になっている。
ネルが「奏世の力」を使ったことは明白だった。
「くそっ! 本当の力に目覚めちまった!」
脇腹の痛みをこらえながら、アルサスはネルの方を睨み、強く歯噛みした。
「俺が、迷ったからだ……これじゃあ、ライオットの思惑通り、白き竜が目覚める」
そうつぶやくアルサスの声は、ネルの悲鳴によってかき消される。眼前に現れた瓦礫と化した貧民街に、ネルは自らの力に恐怖し、震えている。こんなつもりじゃなかった、といやいやをしてみても、目の前の破壊の光景は変わらない。子供のように泣きじゃくって、悲鳴を上げる姿は、メルの亡骸にすがる姿よりも惨めに見える。
アルサスはよたよたと、ネルの元に駆け寄り、ネルの頬を血のついた手で引っぱたいた。
「どうして、逃げろって言ったじゃないかっ!」
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
今までのネルからは想像もつかないほどの、狼狽振りと困惑を見せながらも、その言葉だけを繰り返そうとする。それが、却ってアルサスを苛立たせた。
「ごめんなさいじゃないっ! お前が破壊衝動に駆られたからだ! 力をコントロールせず、ただ無闇に使えば、次は人が死ぬ! その次は、世界が滅びるっ! そうならないために、気をしっかり持ってくれ、ネルっ!!」
「アル……サス?」
何を知っているの? アルサスの言葉に戸惑いを隠せないネルは、怯えたような顔をして、赤い瞳を覗き込んでくる。
と、そのときであった。アルサスの背後に、殺意を持ったギャレットの気配が。咄嗟に振り向いたが、黒い影のようなものが行き過ぎた瞬間、アルサスは背中に熱を感じた。熱はまたたくうちに痛みに変わる。
噴出す鮮血。倒れこむアルサス。悲鳴を上げるネル。
「ギャレット、てめぇっ!」
踵を返して、剣を振ろうとするが、力が入らない。アルサスはそのまま転倒するように地面に突っ伏した。
「すばらしい力だ。あのお方の仰ったことは真であったか!」
下品な笑い声とともに、ギャレットは地の滴る剣身に舌を這わせた。そして、乱暴にネルの右腕をつかむ。
「あのお方がお待ちだ、銀色の娘! 来いっ!!」
「いやぁっ! 離して下さいっ!! アルサスっ、アルサスっ! 死なないでっ」
ネルは左の手のひらを伸ばす。アルサスもその手を取ろうと腕を伸ばしたが、その指と指が触れ合う前に、ギャレットの拳が、ネルの腹に叩き込まれた。ネルは、声なき声でアルサスの名を口にすると、そのまま、意識を失ってしまう。
「ここで、嬲り殺しにするのも一興だが、その時間はないようだ。女神アストレアも意地悪なもんだ」
皮肉とも取れる言葉とともに、ギャレットがニヤついた視線でアルサスを見降ろす。
「野郎ども、王都へ急ぐぞっ!! グズグズするなっ!!」
「待て、ゴミ野郎……!」
精一杯の汚い言葉を吐き捨て、伸ばした手の先、ネルを担いで去っていくギャレットと、黒衣の騎士団の後姿がぼやけていく。何度か、似たような場面に出くわした。ルミナスで、エントの森で。だが、今回は違う……。
言い知れぬ漠然とした敗北感の中で、ギャレットとネルの姿たちが、見えなくなると、代わりに聞こえてきたのは、馬のいななきと、ルウの叫び声だった。
「アルサスっ、しっかりしてっ!!」
アルサスは駆け寄ってくるルウの姿を見ることなく、その意識を失った。
ハイゼノンから遥か西に位置する、センテ・レーバン王都は祝賀ムード一色であった。王城へとつづく、沿道には、花で飾られた垂れ幕が掲げられ、「シオンさまのご即位に万歳」と描かれていた。分離主義者ファレリア公爵の反乱を鎮圧したことを受けて、ついに七日後、新たな王国の王が即位すると、宰相ライオット・シモンズが、公表したのだ。
シオン・コルネ・レーバン。前王の正室の子であり、国民にその姿を見せたことはないが、風のうわさでは、側室の子、フェルトよりも聡明で王の器にある人物だと囁かれる。
飢饉や異常気象といった、暗い話題ばかりが席巻していた王都の人々は諸手を上げて喜び会う。そこには、これで世の中が少しはマシになるのではないかという期待すら含まれていた。それは、お祭り騒ぎにも近いものがあり、七日間、王都の人々は仕事を放り出して、祝いの酒を酌み交わす。王が代替わりするたびに行われてきた、伝統の慣わしだ。街には、陽気な音楽と笑い声が絶えない。
そんな王都の人々は、張る上空を飛び回る、一羽の鳥の姿に気づいてなどいなかった。
その鳥は、ぐるぐると空を旋回しながら、黒い眼で王都を見下ろしていた。巨大な翼、鋭い鉤爪……魔物の一族、エイゲルの長、トンキチことトニアである。
トニアは、ため息混じりに、「愚かなことだ」と呟いた。けして、明るい話題に喜び合い、大騒ぎをする人間の姿を嘲笑したわけではない。これから、何が起きるかも知ろうとせず、ただ浮かれる姿にため息を漏らしたのだ。
「バセットよ、どうやら、わしの賭けは失敗じゃった。お前さんの言ったことが、正しかったのかも知れん。すぐに、マリア博士が望んだ未来がやってくる。何故、人間どもは同じ道を歩もうとするのか……、世界が終わってしまうかもしれないというのに」
ともすれば、老人のぼやきのような声は、けして誰かに届くものではない。
「わしらは、わしらの務めを果たすべきか。それとも、バセット、お前さんのように使命に逆らうべきか。それが問題だ……」
トニアは、再びため息を漏らすと、そのまま王都を離れて、アトリアの峰に向かって羽ばたく。地上から聞こえてくる、にぎやかしい笑い声が遠ざかっていくと同時に、トニアは薄ら寒い空気に、ぶるぶると、頭を震わせた。
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