41. 均衡が崩れるとき
微妙な均衡とは言いえて妙である。利害は一致していないけれど、互いに距離をとり、平穏を装っているような関係は、ちょっとしたことで簡単に崩れてしまう。それは、まさに、センテ・レーバン、ガモーフ、ダイムガルドの三つの国も同じようなものだった。ヨルンの悲劇を経験してなお、なんの歩みよりも見せないまま、空白地帯と呼ばれるある種の緩衝材を置くことで、仮初の平和という不均衡な盤上にある三国の微妙な関係は、些細なことで緊張感を高めてしまいかねない。
だが、ここで言う微妙な関係とは、ハイゼノンに住む、市民と呼ばれる富裕階層と、貧民と呼ばれる貧困階層の軋轢のことである。市民に言わせれば、貧民たちは他所から集まってきた人たちが、勝手に街の一部を占拠している、不法居住者に過ぎない。また、貧民たちは、貧困や戦争で村を失い、明日の命をつなぐため、ここに流れ着いた自分たちを、慈悲と寛大さで迎え入れて欲しいと思うのだが、ハイゼノンとてたしかに大都市ではあるが、裕福とは言いがたい。貧民たちに譲るものがあるなら、自分たちのものにしたいと思うのが、至極当然の人間心理であった。しかし、その一方で、無下に貧民たちに暴力を振るえるほど、悪辣になれないのは、市民たちもまた、ごく普通に生活をしているごく普通の人間だからである。
そうして出来上がった、微妙な均衡は、何年もの間、貧民と市民の間に深い溝を作り上げた。だが、井戸を掘るために、人が掘削するには限界があるように、心に出来た溝にも限界があるもので、ファレリアの反乱、センテ・レーバン親衛隊の到着と言う二つの要素が、ついにその時を招いたのだ。
ハイゼノンの均衡が崩れる。
それを、何とか堰きとめようとしたのは、奇しくも外国人であった。貧民の群集を掻き分けて、最後尾からハイゼノン兵たちの前に姿を現したフランチェスカとルウ。アルサスの言ったとおり、フランチェスカの白銀の鎧と、ルウの魔法学校の制服は、それだけで抑止力となる効果を秘めていた。
貧民たちの中に、ギルドの人間がいると思っても見なかったハイゼノン兵たちにどよめきが起こり、同時に貧民たちにも、ざわめきの波が巻き起こる。
フランチェスカは、そんなざわめきの中で、クレイグたちに一宿一飯の恩義を返す意味を込め、ギルド・リッターの無形的威力を口にした。裏切り同然に、ギルド・リッターを抜け出したフランチェスカは、もはやギルドの構成員ではないのだが、ギルド連盟に加盟する大ギルドは、その名だけでも各国の政府や行政に多大な影響力がある事を知っており、それは恫喝にも近いものがあったが、アルサスが戻ってくるまでの時間稼ぎにはなることをフランチェスカは心得ていた。
もっとも、ハイゼノン公を説得するなど、無茶にもほどがある。相手は、センテ・レーバン諸侯の一人だ。レイヴンごときが面会を頼んだところで、聞き届けてもらえる道理がない。しかし、去り際のアルサスの顔には、どこか言い知れぬ自信のようなものがあった。
ならば、仲間として、もしもハイゼノン公との交渉が決裂したとしても、貧民たちの命を守れるよう、自分の立場を最大限活用したい。フランチェスカはそう考えていた。
しかし、その思いを水泡に帰したのは、他ならぬ貧民たちであった。いや、正確に言えば、貧民の若者、モートンであった。
真犯人を見つける。クレイグの言葉を間に受けたモートンは、自らが役人の息子を殺した下手人であることがばれるのを恐れ、ポケットに忍ばせていた魔法カードを取り出したのだ。
何処で手に入れたのか、貧民には高価すぎるフランメ・プファイルの魔法が描かれたカードから、次々と炎の矢が現れた。それらは、上空へと打ちあがると、まるで雨のようにハイゼノンの兵士たちの頭上に降り注いだ。
ハイゼノン城のマレイアの寝室に殴りこんだアルサスが見た、貧民街に立ち上る黒煙の正体は、モートンの放った魔法だった。炎の矢は、木組みのバリケードにも突き刺さり、激しく燃え上がる。
「ええいっ! 貧民どもを捕らえろっ!」
「抵抗する者は、構わん! 斬って捨てろっ!」
「第一小隊、第二小隊、突撃ーっ!!」
鉄盾で魔法の攻撃を防いだハイゼノン兵たちは、口々にそう叫ぶと、手にした武器を振りかざし、雪崩を打った。モートンの軽はずみな行動で、ハイゼノンの均衡は崩れ去り、交差する悲鳴、怒号のような唸り声。瞬くうちに井戸広場は、戦場に似た光景になってしまう。
「お待ちください! 何卒っ、何卒っ」
混乱を鎮めようと必死に叫び、兵士に縋る、貧民の長クレイグにも、その凶刃が迫る。繰り出された名も知らぬハイゼノン兵の剣は、義足のクレイグに逃げる暇も与えず、その胸を貫いた。
「クレイグさんっ!!」
真っ青な顔をして叫ぶルウ。だが、その叫び声も、あっと言う間に喧騒に飲み込まれてしまう。フランチェスカは、咄嗟に振り向いた。混乱をきたした群集の中に、ネルとメル、二人の姿を探した。銀色の髪であれば、容易に見つけることが出来そうなものであったが、その姿が見当たらない。均衡を崩した張本人であるモートンも、すでに何処かへ逃げおおせてしまったようだ。広場に残っているのは、年老いた者や、女、子どもばかり。「せいやっ!」
突然、兵士の一人が剣を構えて、フランチェスカに踊りかかってきた。すぐさま、踵を返すが、相手も戦士である。フランチェスカの振り回した鉄槍をかわし、その切っ先をフランチェスカの胸に突き立てようとした。
「緑の精霊と契約の名の下に、具現せよ。汝、疾風の盾となれ……、ヴィント・バックラー!!」
鋭利な剣先が、フランチェスカの胸を貫く直前、ルウの声が響き、魔法の盾が二人の間に、一陣の風となって、割って入った。
巻き起こった土埃をまともに食らった兵士は、低い悲鳴を上げて両目を瞑る。フランチェスカは、体勢を立て直すと、その隙を突いて、鉄槍の穂先ではなく逆側の柄の先端で、兵士の腹を強く叩いた。
兵士は、再び唸り声を上げるとそのまま崩れ落ち、気を失う。
「大丈夫? フランお姉ちゃんっ!!」
「助かったわ、ルウっ」
駆け寄る眼鏡の少年に、フランチェスカは言いながらも、その視線は、すでに他に向けられていた。
ハイゼノン兵たちは、無慈悲にも逃げ惑う貧民たちを追いかけては、まるで猛獣が小鹿を狩るが如く、逃げ遅れた者を、その凶刃にかけていた。ある者は捕らえられ、抵抗する者は斬り殺される。その恐怖に絶望した悲鳴ほど、鼓膜を激しく叩き、胸の内を締め付けるものはないと、フランチェスカは思った。
十年前の、あの戦場とよく似ている……。
「魔法小隊、前へっ! 街に巣食う貧民どもに、魔法の矢をお返ししてやれっ!!」
ハイゼノン兵の声が響く。一時は、モートンの攻撃で、列を乱したハイゼノン兵たちだったが、訓練の賜物なのか、あっと言う間に乱れた列を直し、その一番最後尾に控えていた、ローブ姿に甲冑を纏う魔法使い部隊が前進してくる。彼らは皆、ルウが持っているものと同じような、長柄の魔法杖を手にしていた。
「いけないっ、ルウ、わたしたちも逃げるわよっ」
フランチェスカは咄嗟に、ルウの手を掴んだ。
「でもっ!」
「全員が魔法を使ってきたら、いくらあなたでも防ぎきれないっ! ここは、一端退いて、ネルたちを探しましょうっ!!」
そう言って、ルウを従え、貧民街への奥へと走り出した直後、魔法使い部隊の魔法の言葉が轟き、虚空から炎の矢が、井戸広場に降り注いだ。
貧民の群集の一番後ろにいたことが功を奏したのかもしれない。「逃げましょう」と言ったソアンと共に、ネルとメルは、ハイゼノン兵が迫り来る前に、バラック小屋の立ち並ぶ貧民街の奥へと逃げ込んだ。ややあって、井戸広場の方から、魔法の落ちる音の直後、悲鳴が折り重なるように聞こえてきたが、振り向いている余裕などなかった。
ソアンを挟んで、先頭を走るメルは終始無言のままだったが、それでも時折ネルを気遣うように、ちらちらと振り返る。
「誰かが、この街のことを『世界の縮図』だと言った」
ソアンが走りながら、おもむろに口を開いた。
「もしも、それが当たってるとしたら、また十年前のようなことが起きると言うのかしら……」
ハイゼノン兵たちが、狂気をはらんだ眼で、剣を振り上げる姿を目の前にしたソアンは、ひどく怯え、蒼い顔をしていた。彼女にとって、夫と息子を失った十年前の戦は、トラウマにも等しい。そして、今まさに降りかかってきた、ハイゼノンの火の粉は、彼女にそれを想起させた。
「十年前なんて、関係ありません。戦争なんて、関係ありません。今は、あたしたちの命が危険なんですっ。逃げなきゃっ、逃げなきゃっ!!」
メルが弱気になるソアンを叱る。メルの脳裏にもまた、三ヶ月前のラクシャ村の悲劇が過ぎっているのかもしれない。逃げなきゃ、という言葉の裏に、強迫観念じみたものを、ネルは感じていた。自分が「運び屋」のゲモック・ラバンに連れ去られての三ヶ月、妹は妹なりの血の滲むような日々だったに違いない。クァドラの山を下り、エントの森を抜け、アトリアの峰を越える。その旅路は、十四歳のメルには、過酷過ぎるものであった。
そのことも知らずに、ただ再会を喜ぼうとした自分が恥ずかしい……。もしも、両親が死んだというのなら、銀の乙女としてこの世に生を受けた自分の所為に間違いない。誰に何と言って詫びればいい? メルの言うとおり、自分が父と母に拾われなければ、ラクシャ村の人たちは死ぬことなんてなかった。女神さまに祈りをささげる前に、自分の生まれの不幸と、自分が生きてきたことで振りまいたかもしれない不幸の、統べてを謝らなければならないのだ。
そうしなきゃ、メルに許してもらえない……。
ハイゼノン兵から逃げるネルの頭の中は、メルが地面に投げつけて、ばらばらになったあのバレッタのことでいっぱいだった。
「お姉ちゃんっ! しっかりしてっ!」
心ここにあらずだったネルの耳朶を、突然メルの声が叩いた。
「あいつらの目、あの時の黒い鎧の人達とおんなじ目をしてたっ! このままじゃ、ソアンさんもお姉ちゃんも、あいつらに殺されちゃうっ!!」
と、叱責するメルの顔は、三ヶ月前とは別人のようだった。凛とした声も、真剣な眼差しも、いつも甘えん坊だった妹のメルとは違う。たった三ヶ月で、過酷な旅路はメルを成長させたのだ。
「ごめんなさい、メル……」
「謝ってるヒマがあったら、走って、お姉ちゃんっ!!」
それでも、メルは自分の事を「お姉ちゃん」と呼んでくれる。今は、それだけでいい。今、メルとソアンを守れるのはわたししかいないんだ。
ネルは、こくりとメルに頷き返して、心の中で言い聞かせた。しかし、胸騒ぎはとまらない。
やがて、迷路のように入り組んだ、バラック小屋の町を駆け抜けると、何処かから焦げ臭いようなにおいと、朝靄とは明らかに違う白い煙が、ネルたちを取り囲んだ。ハイゼノン兵が、貧民街に火を放ったのかもしれない、と気づいたのはソアンだった。
「火を放つなんて……ひどい!」
メルが震える自分の両肩を強く押さえた。ラクシャ村も、同じように黒衣の騎士団によって、火を放たれたのだ。民家が燃え盛る、紅蓮の色は、ネルの記憶にもこびりついている。その記憶が、唐突に現実感を帯びて、はっきりと呼び覚まされたのは、貧民街を包もうとする煙の匂いの所為ではなかった。
「やれやれ、ようやくお姫様を見つけたと思ったら、随分と楽しいことになってるじゃねえか……」
突然の声に、三人は足を止める。声は、濃くなっていく白煙の向こうから聞こえていた。この声、聞き覚えがある。そう思ったのは、ネルだけではなかった。メルもまた、顔をこわばらせ、拳を強く握る。
「三ヶ月ぶりか、お姫様」
煙を掻き分けるように、黒い鎧が現れる。白い煙と、黒い鎧、そのコントラストは不気味なほど、男の顔を映えさせた。野獣のような顔に、大きな頬傷。生やした無精ひげが、その男の乱雑さを象徴しているかのよう。
そう、その顔は忘れもしない。三ヶ月前、ラクシャ村を襲い、村人を、ネルとメルの両親を、無慈悲に斬り殺した「黒衣の騎士団」団長、ギャレット・ガルシアだった。
「なんですか、あなたたちは!?」
ソアンが、怯えたように声を上擦られた。ギャレットに続き、その団員たちが煙の中から狂気をはらんだ姿を現せば、彼らが放つ異様な殺気を、ソアンが感じ取るには十分すぎた。
「名乗るほど大した者じゃない。老婦人よ、何も聞かず、その銀色の髪の娘を、こちらに渡してもらおう」
ギャレットはそう言うと、腰だめの剣を引き抜いた。あの日、村人を斬り殺した剣だ。あの時の血は、すでに拭き取られているが、そこからにじみ出る殺意までは、拭えていない。
「そんな、何処の誰だかわからないようなお方に、この子を渡すなんて出来るワケないじゃないですか。わたしは、クレイグさんからこの子たちを預かっている責任があります」
凛とした声で、一歩前に出ると、自らの背後にネルとメルを下がらせたソアンが言った。ネルは、気丈なその後姿に、あの日の父の姿を思い出していた。
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