4. 襲撃
「地下室に隠れていなさい。心配することはない、だから絶対に声を立ててはダメだ。分かってるね、ネル」
父の言葉は、ひどく震えていた。それが恐怖によるものなのか、それとも、夜の寒さに凍えているからなのか。聞くまでもなく、前者のほうだったに違いない。それなのに、地下室の扉を閉めようとする父の顔は、娘を不安がらせまいと、優しく微笑んでいた。
家の地下室は、本来食料品を貯蔵しておくための、小さなスペースしかない。小柄なネルでも、そこに入れば隙間などほとんどなかった。
地下室の扉を閉めた父の足音がする。そして、その足音が止まったかと思うと、不安げな母の声が続いた。
「あなた……あの黒い鎧の人たちは? ネルを差し出せなんてっ!」
「大丈夫。あの子をあいつらに渡したりしない。いつか、こんな日が来ることは、あの子の親になったときから、分かっていたことじゃないか」
「でも、何故。どうして、あの子が連れて行かれなければならないの?」
「理不尽なことは、承知の上だ。それでも、女神アストレアさまとの約束だ」
父が、信奉する女神さまの名前を口にする。しかし、まるで本当に女神さまと何らかの約束をしたような、父の口ぶりに、真っ暗な地下室の中にうずくまって聞き耳を立てるネルは、疑問に思った。
「アストレアさまとの約束……そんなもの、反故には出来ないの? メルだけじゃない、ネルもあたしたちの大事な娘なのよ」
「分かってる! だから、ネルをやつらに渡さない。たとえ、十六年目の今日が約束の日だったとしても、ネルは絶対に渡さない。お前は、メルと一緒に、奥の部屋に隠れていろ」
ネルの父は、母に次女のメルとともに隠れておくよう指示を与えると、屋根裏に秘蔵しておいた剣を手に、家を出て行った。すべての足音が消え、話し声も聞こえなくなると、地下室のネルは静けさの中で胸騒ぎを感じていた。
「銀色の髪の少女を渡す決心はついたか!?」
誰かの声がする。村の人の声でも、父の声でもない、野獣を思わせるような野太い声だ。
「たとえ誰であろうと、村の者を渡しはせん! 早々に村から立ち去れられるが良い!」
今度は長老の凛とした声がする。それに呼応するかのように、村人たちの「出て行け、出て行け」と言う声がうねるように、こだました。
しかし、そのうねりを野獣の声が一瞬でかき消してしまう。
「愚かなことよ。者ども、火を放て! 村を蹂躙しつくせ! 銀色の髪の娘を探し出すのだ!!」
その後聞こえてくるのは、武器のぶつかり合う音、炎の唸り声、悲鳴、足音。光のない地下室の中からでは、外で何が行われているのか、確かめることは出来なかったが、ネルはわずかな扉の隙間から漏れてくる音と、煙の匂いに、その惨劇を想像することは難くなかった。
「お父さん! お母さん、メルっ!!」
わたしのために、みんなが傷つけられている……。あの黒い鎧の人たちは、自分を連れ去るために、ここへきたのだ。何のために、自分を連れ去ろうとするのかはわからない。でも、そんなことよりも、このままじゃ村の人たちがみんなひどい目に合わされる。だけど、わたしが素直に出て行けば、全部丸く収まるはず。
だって、わたしは、普通の子じゃないから。神さまが間違えて生んだ、村に不幸を呼ぶ「落とし子」だから……!
ネルはいてもたってもいられなかった。狭い地下室の中で、立ち上がり、扉を探す。だけど、扉には外から何かで閂がかけてあるのか、びくともしない。
「お母さん! 開けてっ メルっ、お父さん! 誰でもいいからここを開けてっ」
開かない扉を両手で叩いて、ネルは叫んだ。だが、その声は誰にも届かなかった。焦り、恐怖、不安、いろいろな感情がない交ぜになりながら、ネルの頬を涙が濡らす。
「お願い……、みんなを傷つけないで。アストレア様、どうか、みんなを助けてください」
そう何度呟いたか分からない。ドアを叩き続けた両手からは、血がにじみ、涙は止まることを知らず流れ続ける。やがて、あたりから人の悲鳴が消えた。それが、最悪を意味していることくらい、ネルにも分かった。なぜなら、ドアの隙間から流れ込む煙の匂いに、ひどく鼻の曲がりそうな、人の焼ける匂いがしたからだ。
「残るは、ここだけか。村人どもはどうした?」
突然、野獣の声が聞こえた。そして、鎧の擦れる金属音とともに、どかどかと乱暴な足音が近づいてくる。
「逃げた者もいるようですが、ほぼ皆殺しです。隊の者たちも、久々に暴れられて、喜んでいるようです」
別の声。口調は丁寧だが、無慈悲で冷酷な響きをしている。
「人を殺しに来たわけではないのだがな……ダグ、お前は寝室の方を調べろ。俺は、そこの地下室を調べる」
「はっ、分かりました」
二つの足音が別れ、一際重苦しい足音が、地下室のネルに近づいてくる。そして、ニ、三度、がたがたと扉が揺れたかと思うと、ゆっくりと開かれ、ネルの瞳に真っ赤な光が飛び込んだ。それは、開け放たれた家のドア越しに見える、村の惨状だった。
ごうごうと炎が夜の空に燃え上がり、もくもくと黒い煙を立ち上らせすべてを燃やし尽くすまで収まらない。
「いたぞ! 銀色の娘だっ!!」
こげた匂い、血の匂い、それらを纏った黒い鎧の男は、声と同じように野獣のような顔をしていた。男は、村人の血に濡れた剣を納めると、その手でネルの腕を乱暴につかみ、彼女を地下室から引きずり出した。
「離してくださいっ!! この、人殺しっ」
ネルは男の手を振り解こうともがいたが、あまりにも力の差は歴然としていた。出来ることは、憎憎しげに睨むことくらい。しかし、男はそのようなネルの尖った視線をさらりと受け流すと、
「大人しくしろ。さもなくば、その美しい顔に傷がつくだけだ」
野獣のような髭面をぐにゃりと歪めて下品に哂う。それが、ネルには魔物よりも恐ろしいもののように見えた……。
「ネルっ! ネル!! 起きてっ」
誰かが、肩を揺らす。ネルはその瞬間、燃え上がる炎も、村の人たちの悲鳴も、あの男の醜い顔も、すべて夢だったと気づいた。そう、村が襲われたのも、ネルが連れ去られたのも、すべて三ヶ月前の出来事。あの日以来、毎晩見続けている悪夢。いや、記憶と言った方が正しいか。思い出すのもつらいのに、眠りにつけば、脳裏にこびりついた記憶が、呼び覚まされる。
「アルサスさん? ごめんなさい、もう朝ですか?」
自分を起こしたのが、アルサスだと気づいたネルは、まだすこし寝ぼけた意識のままで、起き上がった。しかし、森はまだ夜闇に包まれており、梢の隙間からは、星の瞬きが見える。いったいどうしたのだろう、と視線をめぐらせたその拍子に、ネルの視界に鋭く光るアルサスの剣が飛び込んできた。
「きゃっ!!」
ネルは、一瞬で目が覚めた代わりに、全身の血の気が引いて、驚きと恐怖で悲鳴を上げた。すると、すかさずアルサスの手が、ネルの口元を強く抑える。
「しっ!! 静かに」
と、言ったアルサスは、抜き身の剣を手に、小川の川岸を睨みつけていた。さらさらと流れる小川の対岸は、茂みになっている。しかも、ネルが眠りについて、それほど時間はたっておらず、まだ夜闇に包まれて、真っ暗だった。
「何者かが、こっちに近づいてる気配がするんだ」
そう言いながらも、茂みから目を離さないアルサスは、そっとネルの口元から手を離した。
「ギルド・リッターですか?」
「いや、違う。これは、人間の足音ではないな……」
ネルはアルサスに問いかけたつもりだったが、答えたのはトンキチだった。ネルは知らないことだが、巨鳥エイゲル族の耳は、人間には聞こえない音も聞き分けられる。
「囲まれておる。かなりの数じゃ」
「トンキチ。空飛べる?」
そっと、声を殺してアルサスは、トンキチにたずねた。
「アルサスや。鳥目という言葉を知っておるか? それに、二人も背負って飛べるほど、わしは若くないぞ」
答えるトンキチも、尋ねるアルサスも会話を交わしながら、じっと茂みの方に神経を尖らせているようだった。
ネルは、そっと毛布をのけて立ち上がると、アルサスの傍で、目を凝らした。ネルにも、茂みの奥の異様な雰囲気は伝わってくる。まるで、獣が獲物を狙っているときのような、張り詰めた空気だ。
「ネルは、俺の後ろに。トンキチ、いざとなったらネルだけでも連れて、空へ逃げるんだ」
「アルサスさんはどうするんですか? アルサスさんを置いては逃げられません」
「大丈夫、俺一人なら、何処へでもとんずらできる。それが、気ままな暮らしのレイヴンに備わった、唯一の必殺技だからね」
冗談めかしたつもりなのだろうが、アルサスの目は笑っていなかった。ネルは、そんなアルサスの横顔を見つめながら、彼の背に隠れる。
この世に、これほどまでに緊張感を伴った静寂があるとは、戦争や戦いとは無縁だったネルが知る由もない。しかし、一歩、また一歩と、気配は確実に近づいてくる。こちらの様子を伺いながら。
「来るぞ!」
突然、トンキチが声を張り上げた。その瞬間、茂みが大きく、がさがさとうごめき、そこから黒い影が飛び出してくる。黒い影は、目にも留まらぬ勢いで川底の浅い小川を渡りきり、アルサスに飛び掛ってくる。その一瞬、影の頭の部分に、赤い光が三つともる。
それが、目であるということに、ネルが気づいたのは、アルサスの手にする、魔法文字の刻まれた剣が、影の腹を貫いた瞬間だった。
「キャインっ!!」
獣の悲鳴。と同時に、バシャッと、はじけるように血しぶきが上がる。黒い影はそれっきり動かなくなった。
「ヴォールフか」
焚き火の炎に照らされた、黒い影の屍骸に、アルサスが呟いた。
ヴォールフ。大陸のほぼ全域に生息する、灰色狼に似た魔物。ただ、狼と違うのは、頭に三つの瞳があることだ。地方によっては、三つ目狼と呼ばれるヴォールフは、非常に獰猛な性格をしていて、しばしば旅人や家畜を襲い、その生肉を食らう。
「しかし、ヴォールフは、単体で行動するはずじゃ。このように、群れを成すことなどありえん」
気配はひとつではない。まだたくさんの気配が、アルサスたちを取り囲んでいる。まさに、トンキチの言うとおり、群れを成しているかのようだ。
「そんなこと、どうだっていい。次の奴がくるぞっ」
アルサスは、剣についたヴォールフの血のりを払うと、再び剣を構えた。
グルルルル。茂みの奥、いや森のあちこちから、まるで狼の声にそっくりな、ヴォールフの唸り声が聞こえてくる。しかも、相手は魔界の住人である、魔物。下手をすれば、狼などよりも危険な相手だ。
「怖い?」
そっと、アルサスがネルに問いかけた。ネルは、頭を左右に振って「大丈夫です」と答えながらも、わずかに恐怖で震える手で、アルサスの服の裾をつかんだ。
ご意見・ご感想などございましたら、お寄せください。