28. ネルとルウ
たすけて、おねえちゃんっ!
声は聞こえるのに、何処にいるのかわからない。真っ暗な森の中で、ネルは辺りを何度も見回した。しかし、鬱蒼と覆い茂る樹木、蔦、草、以外に人の気配も、動物の気配さえも見当たらない。
助けて、お姉ちゃんっ!!
間違いない、妹の、メルの声だ。確信めいた思い、だがどうしてメルの声が聞こえてくるのか、ネルには分からなかった。
「メル、何処? 何処にいるのですか?」
それでも、ネルは何度も叫んだ。だが、助けを求めるメル声は、遠くなったり近くなったりするばかり。やがて、唐突にぷっつりと声は途絶えてしまう。その代わりに、ざわざわと深緑の枝葉が不気味にざわめき始める。逃げなきゃ。ネルは、咄嗟にそう思い、頭の上に載せた箱型の帽子を右手で押さえて、走り出した。
何処へ逃げたらいいのか分からない。何処へ逃げても、木々のざわめきが追いかけてくる。獲物を捕らえようとする、獣の獰猛な気配にも似て、ネルの背筋を冷たくさせた。
『こ、来ないで下さい! ルウ! フランさんっ……アルサスっ!!』
旅の仲間たちを必死で呼ぼうとするのに、何故か声が出ない。喉の奥が焼け付くような感覚に襲われ、こほこほと咳き込んだ瞬間、何かに足を取られた。「きゃあ!」と、悲鳴とともに派手に転がったネルは頭から泥をかぶってしまう。つややかで美しい銀色の髪も泥だらけ。カチュアの模様が織り込まれたワンピースも、箱型の帽子も、泥にまみれてしまった。
しゅるり。何かが、足元を触る。ネルは慌てて上体を起こし、足元に目をやった。薄緑色の葉を纏った蔓が、ネルの細い足首に巻きついている。そして、蔓は俄かにネルの足を引っ張り寄せようと力を込めた。
『いやっ! は、離して下さいっ』
血相を抱えたネルは、慌てて蔓を引きちぎった。案外、簡単に蔓ははがれたが、その千切れた口から零れ落ちたのは、樹液や草の汁ではなく、真っ赤な血液だった。ドロリとした鮮血は、たちまちネルの手のひらを目の覚めるような深紅に染めていく。
『いやぁっ!』
悲鳴を上げたいのに、声が出ない。まるでその代わりといわんばかりに、引きちぎられた蔓から血が噴出した。
「お姉ちゃん……助けてよう」
背後から、突然の声。心臓を抉り取られるような感覚を覚えつつ、ネルは後ろを振り返った。そこにいるのは、妹のメル。少しばかり、大きな瞳と、愛らしい丸顔、ガモーフ人らしい豊かな黒髪。ネルとは似つかない妹は、ネルを拾い育ててくれた父母の実の娘である。しかし、ネルにとっては、血は繋がらなくとも、十年以上一緒に過ごしてきた、かけがえのない妹だ。
「お姉ちゃん、苦しいよう。痛いよう」
自分を見下ろす妹の姿を見たネルは、全身から血の気が引いていった。メルの胸には、黒鉄色の剣が突き刺さっていた。その切っ先は、背中から抜け、先端からポタポタとちが零れ落ちている。
「苦しいよう。助けて、お姉ちゃん」
必死に助けを求めるメル。ネルは、泥まみれ、血まみれであることも忘れて、立ち上がりメルの胸を貫く剣の柄を握った。
『今助けますっ。メル、頑張って』
声にならなくとも、心の中で、ネルは必死に呼びかけた。だが、深く食い込んだ刃は、簡単には抜けない。すると、何を思ったのか、突然、俯いたメルが笑う。それも、楽しげな笑いではない。どこか気が狂ったような笑い声。
『メル? どうしたのですか?』
「お姉ちゃんがいなければ良かったんだ。そうしたら、お父さんもお母さんも死ななずに済んだのに」
笑い声をピタリと止めた、メルが言う。それまでの弱弱しい声とは違う。はっきりとした口調、それでいて、明らかな憎しみが篭っていた。
「お父さんを返してっ、お母さんを返してっ! 村のみんなを返してっ!!」
『やめてください、そんな目でわたしを見ないで下さい……』
「村に不幸を呼ぶ、『落とし子』! あんたがいなければ、あんたさえいなければっ」
憎しみ、悲しみ、苦しみ、そういったものが渾然一体となったような言葉を吐き出して、メルの手はネルの首筋を強く掴んだ。とても冷たい手だった。どうして、心優しくいつも明るかったメルが、自分の首を絞めるのか。その冷たい手のひらにこめられた感情が何なのか、ネルには痛いほど分かっていた。
全部、わたしが悪いんだ……!
『ごめんなさい……。ごめんなさい』
ネルは心の中で何度も繰り返した。涙が頬を伝い落ち、次第に全身の力が抜けて、意識が遠のいていくのを感じながら。
額に何か冷たいものが載っている事に気づいた。だが、体がずっしりと重く容易には動かせない。夢の中にいるのだろうか? いや、違う。あれが夢だったんだと、ぼんやりとした意識がまとまり、ネルは瞳をゆっくりと開いた。すると、まるで水の中にいるように視界が潤んでいる。それが自分の涙であることはすぐに分かった。
体が重く感じていたのは、あちこち痛いからだ。それでも、起き上がれないほどじゃない。ネルは、目頭に残る涙を拭いて、上体を起こした。すると、額から何かが膝の上に落ちる。真っ白なハンカチだ。隅のほうに、魔法使いギルドの紋章が刺繍されている。ハンカチはどこかに水場でもあるのか、冷たく湿っていた。
「夢……?」
濡れたハンカチを手に取り、その感触を確かめる。現実感のある確か感触。周囲は鬱蒼とした茂みと木々が折り重なるエントの森だが、手のひらには鮮血も付着していなければ、衣服も思うほど泥まみれにはなっていない。しかし、あまりにも生々しく、そして恐ろしい夢だった。
村の事を思い出して、夢に見ることはこれか初めてではない。だが、いつもはネルが村から連れ去られた、あの日の惨状を追体験するばかりで、妹のメルが憎らしげにネルを睨みつけるような夢など、一度も見たことがなかった。
想像の産物。ネルの心の奥底で、三ヶ月前から渦巻き続け、ずっと影を落とし続けていることが、そういう夢を見させたのだと言ってしまえばそれまでだが、そう言い切ることが出来ない。足首に蔦が絡まる感触も、手のひらを染めた鮮血のぬめりも、首を絞める冷たいメルの手の感触も、すべてが本物のようだったのだ。それを、想像の産物と言ってのけることは、夢から醒めたばかりのネルには無理だった。
しばらく、白いハンカチを見つめていると、手の感覚、足の感覚、肩にのしかかる重力が戻ってくる。すると、すぐ傍で小さな寝息が聞こえた。
「ルウ?」
振り向いたそこには、木の幹に寄りかかり、なぜか大事そうに魔法杖を抱きしめて眠るルウの姿があった。推察するまでもない。ネルの額に置かれたハンカチはルウのものだった。
エントに襲われ、アルサスの名を叫んだが最後、そこから先の記憶がない。気を失ったことは明白だ。そんなネルをルウが助けてくれたのだろう。そして、少し疲れて、寄りかかった木の幹で、すやすやと寝息を立てている。しかし、あたりには、ルウ以外の姿は見受けられない。気配すらない。あの蔦のお化けは? フランチェスカは? アルサスは?
思わず、ネルはきょろきょろと周囲を見渡してみた。すると、何処かから、水音が聞こえる。それは、薄暗く不気味なエントの森には相応しくないほど、さらさらと静かで心地よい響きだった。
水音に導かれるように、ネルは立ち上がり、水音の聞こえてくる方を探した。すると、その物音に、浅い眠りのルウが目を覚まし、
「気がついたんだね、よかったぁ」
と、安堵の声とともに眼鏡の下の目をまだ眠そうにこする。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「ううん、大丈夫だよ、お姉ちゃん」
にっこりと微笑む、あどけない少年の「お姉ちゃん」と言う言葉に、ネルはドキリとする。いつも、メルはネルのことを「お姉ちゃん」と呼び、慕っていた。血は繋がらなくとも、同じ両親に育てられた妹は妹として。
「どうしたの?」
立ち上がり、近づいてきたルウが、ネルの顔色が優れないとみるや、心配そうに覗き込んでくる。慌ててネルは笑顔を浮かべ、「何でもありません」と応えては見せたが、明らかに取り繕ったような笑顔も、上擦った声も、頬に残る涙のあとも、何でもないようには、見えなかっただろう。
「ルウ、わたしのこと助けてくれたんですね、ありがとうございます」
とりあえず話題を返るべく、そう言うと、ルウは頭を左右に振って、
「ボクもエントに襲われて気を失ってたんだ。それで、目が覚めたらここに、お姉ちゃんと一緒に横たわってた。アルサスたちの姿も見えないし、どうしたらいいのか分からなくって……怖かった」
と返す。心細かったのだろうか、今も必死に魔法杖を握り締めているルウの頭を、ネルは優しく撫でてやった。かつて、妹にそうしてやったように。すると、少しだけ陰の差していた心が、ほぐれていく。
あの優しいメルがあんなことをいうはずがない。メルはそんな子じゃないって、一番よく知っているのはわたし。ネルは心にそう言い聞かせた。
「そうだ、ハンカチ」
ふと思い出したネルは額にのせられていた、ルウのハンカチを手渡した。
「これ、何処で濡らしてきたのですか?」
「すぐその先に、泉があるんだ。大きな木が生えていて、きれいな水が流れてた。きっと、アトリアとクァドラから流れてきた雪解け水だと思うよ」
まだ濡れたままのハンカチを受け取り、それを無造作にしまいこんだルウは、「こっちだよ」とネルを先導して歩き始めた。何時エントが襲い掛かってくるかも分からないこの場所を、早く離れたかったのかもしれない。あたりには、あの不気味な気配も、木々のざわめきもないのだが、確かに薄暗いこの森は、何故か異様な雰囲気があった。また、さっきの夢が脳裏を掠めていく。
「ま、待ってください、ルウ!」
どんどん茂みの中に入っていくルウを、ネルは急ぎ足で追いかけた。
絡まりあう蔦は、ルウが風の魔法で吹き飛ばす。炎の魔法を使えば一網打尽だが、乾燥した空気に火の魔法を放てば、たちまち自分たちまで丸焦げになってしまうかもしれない、ということはアルサスの叱責から学んだのだろう。しかし、今魔物に襲われたら、ルウの魔法だけが頼りだ。どうやったら使えるのか分からない「奏世の力」など即戦力としてアテには出来ない。ネルは、自分の非力さと同時に、気を失っている間一人ぼっちだったルウの心細さを改めて感じた。
やがて、幾分か鬱蒼とした視界が切り開かれ、水音が近づいてくると、不意に、ルウが足を止め、何を思ったのか、
「そういえば、お姉ちゃんと二人っきりになるのって、初めてだよね」
と、脈絡なく言う。思えば、ルミナスからこっち、ずっと三人一緒だった。ウェスアからは、フランチェスカも同行し、自然と旅は賑やかになった。
「そうですね。アルサスがいないと、こんなにも心細いとは思いませんでした」
ネルが応えると、ルウは妙に意味深な顔つきをして、ちらりとネルの顔を見る。
「この際だから、訊いておこうと思って」
「はい? 何です?」
何を尋ねるつもりなのかと、ネルは思わずきょとんとしてしまった。だが、直後のルウの言葉に、ネルは顔を真っ赤にしてしまう。
「お姉ちゃんって、アルサスのことが好きでしょ?」
「えっ? あの、それはっ、えっと」
まさか、六つも年下の男の子にそんな事を言われるとは思っても見なかったネルは、しどろもどろになる。ルウは、ネルのそんな反応を見て、「顔真っ赤だよ、さては図星だね」と笑った。
「えっ、ええ? 顔、赤いですか? その、あ、アルサスには内緒にしておいて下さい。フランさんにも!」
「分かってるよ、言わない」
高潮した頬を両手で抑えるネルに、ルウはクククっと笑いをかみ殺す。
「でも、アルサスって、悪いやつには見えないけど、いつも態度大きいし、時々よく分からないところがあるよ。ほら、ボクたち、アルサスがレイヴンだってこと以外、あんまりよく知らないじゃない。故郷のこととか、家族のこととか、自分のことは何にも話してくれない。そんなアルサスのどこがいいの?」
「ルウは……、アルサスのことを疑ってるんですか?」
「そんなつもりはないよ。だって、旅の仲間だもん。仲間だから、気になるんだ。アルサスが何を考えているのかってこと」
確かに、ルウの言うとおり、アルサスのことをネルはほとんど知らない。レイヴンだということ。それは本人から聞いている。そして、センテ・レーバン人だということ。それは、白い肌を見れば一目瞭然だ。いつも、身の上の話になると、アルサスはそれを避けようとする。だが、それは、些細なことだとネルは思う。
「人には、聞かれたくないことや、思い出したくないことが、たくさんあるんですよ。ルウだって、わたしに知られたくないことがあるでしょう? たとえば、ルウが学校で片思いしてる女の子のこととか」
「な、なんでボクが、ナタリーに恋しなきゃいけないのさっ!」
「ナタリーさんって、仰るんですか?」
自分で白状してしまった以上、返す言葉に詰まってしまうルウ。目を細め、ルウの顔を見つめるネルは、そっとルウの手のひらを取った。
「こうやって、アルサスがわたしの手をしっかりと握っていてくれると、わたし、なんだか安心するんです」
「安心する?」
今度は、ルウがきょとんとする番だった。
「そうです。アルサスの手はとても暖かくて、不安なわたしの気持ちをいつも包み込んでくれます。そうしたら、胸のここのあたりが」
ネルはちょうど、胸骨の下の辺りを指し示す。
「ここのあたりが、少しだけドキドキするんです。ルウも、ナタリーさんとお話ししたりすると、ドキドキしませんか?」
「し、しないよっ。っていうか、ナタリーはそんなんじゃなくって! その、えっと……」
いつの間にか、形勢逆転。すっかり、ルウが頬を染めていた。これ以上墓穴を掘りたくない。そう思ったルウは、くるりと踵を返して魔法杖を構えた。
「今度、ゆっくりナタリーさんのこと聞かせてくださいね、ルウ」
「ううっ。お姉ちゃんって、意外と怖いかも……」
ネルに聞こえないように呟くと、つづけて魔法の言葉を唱える。魔法杖の先端に、俄かな光が点り、どこからともなく現れたカマイタチが、蔦をばらばらに切り裂いた。
すると、突然眼の中に、光が舞い込んでくる。それまで薄暗い場所にいた、二人の視界は一瞬だけ真っ白になった。そして、徐々に明反応に慣れてくると、耳朶を打つ水音ともに、滾々(こんこん)と水をたたえた泉が姿を現した。
そこは、広く開けた場所で、ぽっかりと開いた木々の隙間から、さんさんと太陽の光が降り注いでいる。その光を浴び、泉のほとりには色とりどりの小さな花が咲いており、瑠璃色をした蝶々が花から花へ、ひらりひらりと舞っていた。そして、ルウが言ったとおり、泉の中央には、巨木が威風堂々と佇んでいる。
不気味なエントの森が一転して神秘的に見えたネルは、思わずその美しさに見惚れ、巨木を見上げた。
「多分、樹齢数百年……いや、千年ぐらいの木だと思うよ」
ルウは、巨木を指差して言う。ウロの開いた幹はとても太く、その巨木が生きてきた長い時間を感じさせる。これほどまでの、巨大な木に育つまで、はたして何年の歳月がかかっただろう。その途方もない時間を思えば、この泉が神秘的なのも頷けるような気がした。
「そうだ、水筒に水を補給しておこう。それから、アルサスたちを探しにいこうよ」
と、ルウは巨木を見上げるネルに告げ、肩提げ鞄から小さな水筒を取り出す。泉の水は、とても澄んだ色をしていて、とても冷たかった。飲み水としては、申し分ないだろう。ルウは、泉のほとりにしゃがみ、水面を眺めながら、水筒のキャップを取り外す。
その時である。泉の水面に、不自然な波紋が広がったかと思うと、泉を取り囲む密林がざわざわと不気味な気配を発する。エントだ! と思う前にルウは、緩めかけたキャップを締めて、立ち上がる。
「お姉ちゃん!!」
ネルもすでに気配に気がついたのだろう。両手を胸の前で固く結び、怯えたような顔をしている。ルウは、魔法杖を握り締め、ネルの傍に戻った。いつでも魔法を唱えられるよう、ネルを守れるよう、身構える。
やがて、気配は、どんどん濃くなっていき、蔦の茂みが蠢いた。
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