13. 図書館のルウ
上の階の本棚へは、本棚に取り付けられた梯子から、キャットウォークへと上る。怒り心頭のアルサスは、ネルの静止も聞かずに、乱暴に梯子を上った。確かに、いきなり本を落とされて、「やあ、ごめんごめん」だけでは、腹も立つだろう。
アルサスが梯子を上ると、その少年は本を落としたことなど忘れてしまったかのように、手元の古い本に目を落としていた。年の頃は、十歳前後だろうか。ガモーフ人らしいつややかな黒髪を短く刈っており、袖丈の余った紺色の制服とあいまって、まだまだ毛も生えていない子ども、といった雰囲気を醸し出してはいるものの、丸メガネの奥のつぶらな瞳は、研究者を思わせるほど真剣そのもので、なにやら小難しそうな本の文字を追っている。
「おいっ!」
声をかけてみたが、ちらりとも、こちらを見ようとしない少年にムッとしたアルサスは、無言で彼の手から本を取り上げた。
「わあっ! 何するんだようっ!」
少年はびっくりして、悲鳴を上げる。本を取り返そうと、両手をばたつかせるが、アルサスの方がうんと背が高いため、その両手は届かず、ついにはぴょんぴょん飛び跳ね始めた。それはそれで、見ていて面白いのだが、べつに子どもをいじめたいわけではない。
「何するんだよって、そりゃ俺の科白だっての! 人の頭の上に本を落としておいて『やあ、ごめんごめん』だけで済むと思ってんのか?」
キッっと少年を睨みつけて、アルサスが怒りを露にする。
「他にどうしろって言うんだよ。まさか、苦学生のボクから、お金を毟り取るつもり? このチンピラっ!!」
本を取り上げられた少年も、飛び跳ねるのを止めてアルサスを睨みつける。
「そういうお前は、クソガキだろっ! 金じゃねえよ! 誠意っ! 心からごめんって気持ちが伝わってこないから、怒ってるんだろっ!」
「うるさいなっ!! 先生みたいなこと言わないでよっ! だいたい、下でぼんやりしてる兄ちゃんが悪いんだろ!」
「責任転嫁してんじゃねえよ、クソガキっ!!」
「わっ! ボクのことクソガキって二回も言った。パパにも言われたことないのにっ!! このチンピラ、チンピラ、チンピラ、チンピラーっ!!」
「チンピラじゃねえ、レイヴンだっ!!」
「一緒だろ。その日暮しの浮浪者さん?」
「ほ・う・ろ・う・しゃ!!」
売り言葉に買い言葉とはこのことだ。アルサスと少年は、ここが静寂を好む図書館であることも忘れて、キャットウォークの上で言い合いになった。しかも、図書館中の人たちが二人のことを見上げているなんて、気づきもしない。
「落ち着いてください、アルサス。皆さんが見てますよ」
いつの間にか、三階のキャットウォークに上がってきたネルが、困った顔をしてアルサスをなだめる。見れば、ネルは少年が落としアルサスの頭を直撃した本を積み重ねて、両腕に抱えていた。
「ごめん。その、つい」
アルサスはネルと衆目の視線に気づき、子ども相手に思わずカッとなった自分が恥ずかしくなって、照れ隠しに本の形がついた額をさする。
「あなたも、気をつけなきゃだめですよ!」
ネルはアルサスに続いて、少年のことも窘めた。
「お兄ちゃんが取り上げた、その本を無理矢理取り出そうとしたら、他の本まで落っこちちゃって……ごめんなさい」
叱られた少年は、しゅんとなって、アルサスに頭を下げる。どうやら、子どもらしく素直なところがあるらしい。そうなると、さすがにアルサスも大人気なく怒鳴るわけには行かない。
「分かればいいんですよ。この本、どこに片付けたらいいですか?」
にっこりとネルは微笑んで、少年に尋ねた。すると少年は本棚の、ぽっかりと空いたスペースを指差して、
「あそこ。ボク、手が届かなくて」
と返す。確かに、少年の背丈では、背伸びをしてやっと届くような高さだ。
「手伝うよ」
アルサスは、ネルの腕から本を三分の二ほど取ると、背表紙と睨めっこしながら、一冊ずつ片付けていく。すると、次第に額の痛みも退いていき、代わりに、本来ここに来た目的を思い出した。
「そういえば、お前、パットンってやつ知らないか?」
と、アルサスが尋ねると、少年はきょとんと小首をかしげた。先ほどの、受付の女の子も同じような反応をしたところを見ると、パットンっという学生はよほど友達がいないか、影の薄い奴なのだろう。ちょっと可哀想に思えてきた。そんなことをアルサスが思っていると、少年はアルサスの内心を見透かしたように、再び睨みつける。
「そりゃ、ボクは友達いないけど、寂しくなんかないやい」
フンっ、と鼻息荒く、少年はそっぽを向く。アルサスは驚き、思わずネルと顔を見合わせた。
「もしかして、あなたがパットンさんですか?」
アルサスに先んじて、ネルが問いかけた。すると、少年は腰に腕を当てて、不遜な笑みを浮かべる。
「そうだよ、銀色の髪のお姉ちゃん。ボクが、ルウ・パットン! で、ボクに何の用?」
「それは……」
パットンが、こんな子どもだったとは思わなかった、とアルサスとネルは視線を交わす。魔法に詳しいという食堂のおばさんの推薦と、受付の女の子の「三年生」という言葉から、勝手に同い年前後の人間を想像していたのは、アルサスたちの勘違いだった。
「疑うわけじゃないけど、お前、ホントに魔法に詳しいの?」
訝るように、アルサスが尋ねる。小利口そうな子どもだが、食堂のおばさんが魔法学校の校長の代わりに推すような人物には見えない。どうしたものかとアルサスが思案していると、ルウは心外だとでも言いたげに、ちょっと赤みを帯びた頬を風船のように膨らませた。
「この歳で魔法学科高等科三年生に飛び級したのは、ルミナス魔法学校始まって以来の快挙と、言われてるんだから! ほらほら、なんでも聞いてよ。浮浪者のお兄さん」
フフンと、鼻を鳴らす。友達が少ない理由をなんとなく悟ったアルサスは、それでも他に当てがあるわけでもなし、仕方なくアルサスは、事情を話して聞かせた。
センテ・レーバンに狙われるネルのこと、ヴォールフの長であるバセットの言った銀の乙女のこと、瀕死のアルサスを救った奏世の力のこと。そして、奏世の力とは一体何なのかそれを知りたい……、ルミナス魔法学校を訪れるに至った経緯を話し終わると、何故かルウは、しばらく頭を傾げたり「うーん、うーん」と唸って、終いには薄ら笑いを浮かべた。
「冗談でしょ? 治癒の力なんて。冷やかしなら、帰ってよ。ボクは、魔法文字解読の勉強で忙しいんだ。神童のボクをもってしても、ものすごく難しくて、まだ、少ししか読めなくて苦労してるんだから」
まるで犬でも追い払うかのように、シッシッと手のひらを返す。
「冷やかしじゃありません。お願いです、ルウさん。信じてください!」
と、言ったのはネルだった。ネルとしては、自分の体に眠る力のこと。知りたい、知らなきゃいけないと思っていること。だから、つい語気に力が入り、懇願するような目で、ルウの顔を見る。
相手は少し年上とは言え、女の子にそんな顔をされたことがないルウは、少し困ったような顔になって、溜息交じりに階下を指差した。図書館は吹き抜けになっているおかげで、ルウの指差す一階部分、本棚の向こうに大きな机と、黒板の置かれたグループ閲覧室が見えた。
三人は連れ立って、キャットウォークを降りると、ひとまずそのグループ閲覧室へと向かった。その途中、図書司書と思しき女性に、「大きな声出さないで!」と叱られたのは言うまでもない。
グループ閲覧室は、図書館の隅にある小部屋で、学生たちが課題や研究を行う会議室として設けられている。
「この部屋は、風の魔法……ヴィント防音器があるから、大声出しても大丈夫。たとえば……」
閲覧室に入るなり、ルウは息を吸い込んで、
「この赤目のチンピラやろーっ!!」
と、アルサスに向かって力いっぱい怒鳴った。アルサスは一度抑えた怒りが沸々と再沸騰するのを、ぐっと押さえて、わざと低い声を作る。
「殴られたいか、クソガキ」
「ちがうよ、ほら、見てみなよ、みんなボクの声に気づいていない」
アルサスの声の重たさに、ちょっと怯えたルウは、慌てて館内を指差す。確かに、ルウが大声で叫んだにもかかわらず、先ほどの司書も、本を閲覧する学生たちもこちらに気づいていない。
「部屋の隅にある、マラカイトのおかげだよ。風の魔法をあの石に込めてやることで共振を起こして部屋いっぱいに広がり、この部屋から出る音を遮断しているんだ」
と説明する、ルウの視線の先には、銅細工の台座にすえられた、親指大の緑色した鉱石、マラカイトが安置されていた。
「魔法とは、大きく分けて四つ。火の魔法『フランメ』、水の魔法『ヴァッサー』、風の魔法『ヴィント』、土の魔法『エーアデ』。これは、太古の昔、黄昏の時代に女神アストレアさまが銀の乙女の魂を分けて作った、四つの精霊に関係している」
いつの間にか、ルウの講義が始まる。ルウは黒板に魔法の名前、そして四つの精霊の名を白いチョークで書いていく。
アルサスとネルは、まるで講義を聴講する生徒のように、椅子に腰掛けた。
「赤、青、緑、黄。ボクたち魔法使いは、この精霊と契約し、その力のほんのごく一部を借りて、発現する。その方法には、これまた四つの様式がある。剣の様式『シュヴェーアト』、槍の様式『ランツェ』、矢の様式『プファイル』、そして盾の様式『バックラー』の四つ。つまり、魔法は四種類の精霊の力と、四種類の様式を掛け合わせた十六種類が存在する。そこから、高位魔法使いは、各様式を特化させ極限までその力を高めた魔法を使うことが出来る。それをボクたち魔法使いは『昇華応用』と呼んでいる」
「そのくらいなら、俺でも知ってるよ」
ルウが一息ついたところで、アルサスは横槍を入れる。今ルウが話したことは、魔力がなく魔法の使えない人間でも知っていることだ。
「いいから、黙って聞いてよ。赤目のお兄ちゃん。ここからが大事なんだから。魔法には、さまざまな『応用』が存在する。魔法と魔法をくっつけて、その効果や威力を強化する『結合応用』や、アンバーによる通信装置や、そこのマラカイトの防音装置のような、特別な鉱石を用いて生活を補助する『機器応用』はその代表例。この学園にある研究室では、日々、魔法博士たちがあたらしい応用技術を編み出しているんだ。だけど……」
そういうと、何を思ったのか突然、ルウがチョークをアルサスに向かって投げつけてきた。
「痛てっ! 何するんだよっ!」
「魔法って言うのは、今のチョークみたいに、相手に対するベクトルしか持っていないんだ」
アルサスの言葉を無視して、ルウは新しいチョークに持ち変えると、黒板に大きな矢印をひとつ書き記した。
「反転して戻ってくるベクトルなんて存在しない。なぜなら、精霊の力は破壊から再生を行う力だから」
「破壊から再生……?」
ネルが小首をかしげた。
「たとえば、枯れ草だらけの畑に新しい種を植えようとするとき、枯れ草を全部抜いて、土を耕して、新しい種を植えるでしょ? 精霊の力、つまり魔法の力は、それと一緒だって、言われてる。たしかに『機器応用』で、生活に役立つ魔法機器が作られているけれど、結局魔法のベクトルは、一方通行なんだ。だから、この世に治癒の魔法なんて存在しない。そもそも、そんな力があったら、お医者さんたちは商売上がったりじゃないか」
「だけど、現実に俺はネルの『奏世の力』で一命を取り留めたんだ」
「ついでに服も直ってた……。仕立て屋さんも商売上がったりだよ。じゃあ、その力、見せてよ銀色の髪のお姉ちゃん。そうしたら、ボク、信じてあげてもいいよ」
と言われたところで、ネルは困ってしまう。あの時、どうやって「奏世の力」使ったのか、ネルにも分からないし、あれ以来、アストレアの声も聞こえてこない。今この場でやって見せてよ、などといわれても、ネルにはどうすることも出来なかった。
「そもそも、銀の乙女なんて、伝説の天使の名前じゃないか。お姉ちゃんはとっても美人さんだけど、存在すら伝説の天使の生まれ変わりなんて、ナンセンスだよ」
ルウは溜息混じりにそう言うと、手についたチョークの粉を叩き落とす。
「じゃあ、ハイ・エンシェントが嘘をついたってことなのか?」
納得いかない。そんな顔つきで、アルサスが問いかけた。
「さあ。ボクに聞かれても困るよ。少なくとも、ボクに分かるのは、この世に治癒の魔法なんて存在しないってこと。まして、『奏世の力』なんてものも聞いたことがないし、この図書館に集められた、百万冊の本のどれにもそんなこと書かれていないんだ」
「そんな……」
じゃあ、アルサスの傷を癒した力はなんだったのか。ネルは、言葉につまり俯いた。
「ごめんね、お姉ちゃん。力になれなくて」
「いえ、ルウさんか悪いわけではないです……」
と言う、ネルの声には、明らかに落胆の色が伺えた。それは、ルウに対してではなく、自分が何者なのか、自分の体に眠る力が何なのか、世界中の知識が集まるこの場所でも分からない。つまり、手がかりが何一つないと言うことへの、落胆だった。
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