116. もう一度ここから
ずっと、瞳を閉じていた。固く、固く……。何も聞こえない、何も見えない中で、ネルは必死にアルサスの手を握り締めた。
いくつもの人の死があった。父、母、村の人々、ウルド、ソアン、メル。ネルの知らないところでも、いくつもの命が失われた。その度に、ネルの心は少しずつ硬化していき、記憶とともに呼び覚ました使命に縋った。
その結果はどうだ。
最愛の人の死を目の前にして、ただ泣いているしか出来ない。奏世の力などといって、世界が恐れることは何もない。ネルは何も出来ない、ちっぽけで弱虫な女の子に過ぎないのだ。それなのに、世界を生まれ変わらせて、世界から憎しみや悲しみを取り除こうとした。
バセットやトニア、ガムウ、ローアンなど、本来アストレアの天使を守る役目にある魔物たちが、何度も「正しい道を」と言ったのに、少なくとも正しいかどうかも分からない道に進んで、アルサスを失ったのだ。
やがて、無音がネルを支配する。深遠の闇の中で、たった一人うずくまっているみたいだった。とうとう、ひとりぼっちになってしまったのだ……。
だが、それでいい。自分が犯した罪の数だけ、罰を受けなければならない。かつて、マリアが自分を戒めて、贖罪に残りの人生を注ぎ込んだように、自分も罪を購うためだけに、生きなければならない。
『まだ、終わってはいませんよ』
不意に語りかけてくる優しい言葉。瞳を開くと、アルサスの亡骸が淡い光に包まれていた、フォトン化しない、とアルサスは言っていたはずなのに、アルサスの体から青白い光が輝くと、光の粒があふれ出したのだ。そうして、アルサスの体がすべて、フォトンになると、それは一粒ずつ集合して、一つの像を作り上げた。その像を前に、ネルは思わず呟いた。
「お母さん……」
目の前にいるのは、紛れもなく、二千年前戦災孤児となったメッツェとネルを救った、一人の女性だった。マリア・アストレア。現代に女神として語り継がれる彼女の姿を忘れるはずがない。記憶にはしっかりと刻まれているし、エントの森の遺跡船でもその姿を見た。あの時は、記憶を封じられていたから、マリアの顔を思い出すこともなかったが、今なら分かる。それが母であることを。
「どうして、お母さんが?」
『この赤い瞳の少年が母親から受け継いだフォトンは、わたしのフォトン。わたしのフォトンは特別なフォトンで、あなたたちのアクシオンや、人々のゲージのように力を発揮することはありませんが、わたしの記憶を永遠の時間の中に、複製し続けるのです。もしも、あなたたちが道に迷った時、あなたたちに責任を押し付けてしまったわたしが、最後に出来ることです』
「そんな……」
『大きく、そして美しくなりましたね、ハンナ』
まるで、慈しむかのように、フォトンの集合体である母の像は、ネルの頭を優しく撫でた。
「わたしは、きっと間違ってた。人が分かり合えないって思い込んで、大切な人を失い、多くの罪を犯しました。もう取り返しが付きません」
『どうして、あなたは人が分かり合えないものだと思ったの?』
「人の心は様々だから。想いは人の数だけあって、それぞれに違う。だから、誰かを傷つけても、想いを守ろうとする。そうやって、悲しみが生まれることを誰も分かってくれないから」
『でも、わたしがあなたを愛しているように、人には優しい心もあります。時にはぶつかったり、憎しみあったりしても、それは、永遠のものではありません。人間とは、とても不器用で、とても拙い生き物です。憎めば憎むほど恐ろしくもなり、ともに分かり合おうと努力すれば、分かり合えないなどと言うことはないのです』
「それじゃあ、どうしてお母さんはわたしに、奏世の力を与えたんですか? わたしは、こんな力なんていらないっ! アルサスと一緒にいられたら、それだけでいいんです」
わあっ、と溢れる涙を抑えきれずに、両手で顔を塞ぐネル。
「わたしは死にたい。もう誰も傷つけることのないよう、すべての罪の中で死んでしまいたいのです! アルサスの元に行かせて……!」
『なりません! あなたが犯した罪は、あなた自身で、償わなければなりません』
「償いなんて、どうしたらいいのか分からない。失われた命は、永遠に戻ることはない」
『たしかに、失われた命は戻ることはない。それが自然の摂理です。メルも、あなたが滅ぼしたルミナスの人たちも、二度と戻ってはきません。ですが、まだ終わりではありません。あなたの力。本当に活かして欲しかったのは、再生の力。世界が傷つき、それでも尚争いをやめないとき、荒れ果てた大地と荒れ果てた人の心を癒すための力です。そのために、メッツェと手を取り合って、世界を守って欲しかった。本当の意味の奏世計画とは、今ある世界を壊すことではなく、今ある世界を見守ることだという願いを込めたつもりでした。間違った方向にすすめば、それを正す。そうして、世界を守っていくこと。それを、あの子に伝えられなかったのは、わたしの罪です。二千年越しの……』
「お母さん……」
『フォトンに複製された記憶は、このベルテスに残されています。あなたがそれらを集めて、もう一度再生するなら、世界を元に戻すことが出来る。それが銀の乙女なのです』
マリアの像は再び、慈愛に満ちた瞳でネルの頭を撫でた。
「わたしに出来るでしょうか?」
『できます。信じる心がある限り、フォトンとなった人々も、赤い瞳の少年も、もう一度未来を切り開くことが出来ます。ただ、そのためには、あなたに残された、フォトン・アクシオンのすべての力を使い果たさなければなりません。一度使えば、もう二度とあなたは奏世の力を使うことは出来ないでしょう。それは、あなたが銀の乙女ではなくなると言うことです。あとはあなた次第。あなたが、償いのために生きると心に決めるだけです』
「償いのために生きる……お母さんには、もう会えないの?」
ネルが問いかけると、マリアは少しだけ困ったような顔をした。これがきっと今生の別れになる。そんな予感がネルの心にも、マリアのフォトンにも過ぎっていた。
『大丈夫、あなたにはこの赤い瞳の少年も、そしてあなたを心配してくれる人たちもいます。独りぼっちではありませんよ』
「そう、なのかな……?」
『それでも、もしも、あなたがもう一度わたしに会いたいと言うなら、ここから三千キロの東。かつてアジアと呼ばれた、現在の未開の地に、二千年前の遺跡が残されています。そこには、わたしがあなたたちと出会ってから残した日記があるはずです』
「その日記の中なら、わたしはお母さんにもう一度会えるんですか?」
『ええ、何度でも。あなたの心の中に、わたしが行き続け。そしてあなたがちゃんと、赤い瞳の少年の手を離すことがなければ』
マリアは、微笑みをネルに与えた。ネルはマリアの娘として頷き返すと、頬を濡らす涙をごしごしとふき取った。また目は赤いが、それでもネルの顔に、悲しみの色とは違うものが浮かんでいた。
『さあ、ハンナ! 銀の乙女としての最後の務めを果たしなさい』
「はいっ!」
ネルは瞳を閉じて、意識という意識すべてをフォトン・アクシオンに投げた。やがて、ネルの体は眩い光に包まれる。けして棘のある光ではなく暖かな光。それは、見る見るうちにあたり一面を、そして世界を取り囲んだ。あるべき命を元に戻す。その一念のみにすべてを託して。
マリアのフォトンは、そっとそんな娘の姿を見つめ続けた。
瓦礫の山が動く。大きな岩盤と化したのは、そこにあった城砦の壁の一部。それが、地下脱出通路の出口をべったりと塞いでいたのだ。ようやくそれを取り除いた時には、すでに夕刻の風が、ルートニアの草原を駆け抜けていた。
「出口ですっ! やりました! 俺たち、助かったんですよ、アイシャさま!」
アイシャの手を引いて地下通路を出てきたのは、ルートニア守備兵の一人。主ではない少女を守り抜き、ようやく外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ守備兵の青年は、喜びに顔をほころばせた。
地下通路に逃げ込んだ数名の守備兵はみな、待ち構えていた「翼ある人」によってフォトンに変えられた。残ったのは青年とアイシャの二人のみ。そんな二人の顔も、必死の戦いの末に、泥と血で汚れ、見る人が見なければ、ルートニア守備兵と、ダイムガルドの皇帝とは思いもよらないだろう。
「総攻撃はどうなったのでしょうか?」
守備兵の青年は、じっとシエラの山がある方を見つめる。ここからでは戦いがどのようになったのかは、分からない。
「勝ていても、負けていても、彼らには帰る場所がないのじゃ……シオンさまも」
自分たちを逃がすために盾となった、シオンの事を思い出したアイシャは、ぽろぽろと涙を落とした。
「な、泣かないで下さい、アイシャさま! 最後まで私があなたをお守りいたします。必ず、命に代えても!」
「ダメじゃ! ダメなのじゃ。そちは死んではならん! 何があっても、わらわとともに生き抜くのじゃ。そして、みなの帰りを待つのじゃ!」
「はい。必ず!」
センテ・レーバン騎士であるこの守備兵の青年にとって、アイシャは敵国の皇帝である。にもかかわらず、必死になってアイシャを守り抜いた。そこにセンテ・レーバン人という括りもなければ、絶体絶命の中で、ただ人間として、一人の男として、アイシャを守ろうと心に決めたのだ。
ふと見れば、もう繋いでいる必要はないのに、しっかりとアイシャの手が青年の手を握り締めていた。
「いや、これは失礼!」
慌てて、青年は手を離そうとしたが、アイシャはしっかりと握り締め「このままでいて欲しい」と言った。やや気恥ずかしくなったのか、青年は頬を染めながら、もう一度シエラ山の方角に視線を投じた。すると、一瞬だけ、その方角がキラリと光り輝いたではないか。驚いた青年は目をしばたいて、凝らした。
何か、きらめく砂のようなものが、こちらに向かって飛んでくる。
「あれは、フォトンじゃ!」
と先に気付いたのは、アイシャだった。やがて、フォトンは風に流されるように、二人の傍に舞い降りた。そして、それらは徐々に人の形に変わる。見覚えのある人の形に。
「シオン陛下! ストライン閣下、みんなっ!!」
青年は嬉々として叫んだ。目の前に現れたのは、フォトン化したはずの、シオンやストライン、守備隊の者たちの姿だった。
「あらあら、お二人とも仲がよろしいんですね」
なんだか、アルサスを思わせる冗談めかしたシオンの言葉に、二人は慌てて繋いでいた手を放し、再会の喜びに満たされた笑顔を浮かべた。
「もう、ダメかな……」
呟いたのは、ルウだった。いつになく弱気な声には、だれも答える者はいなかった。
リアーナを撃破し、アルサスが辿ったであろう光の階段を逆に降りて、クロウたちと合流を果たしたセシリアたちだったが、すでに武具はボロボロになり、剣を振るう力も、魔法を唱える力も残されていなかった。
クロウは右の足をひどく痛めつけられ、すでに迅雷の剣技で敵を討つことはできない。フランチェスカの槍は穂先が欠けて、もはやただの鉄の棒に過ぎず、業物もこうなってしまっては形無しというのを体現しているかのようだ。それは、セシリアのエクスカリバーも、ジャックの小剣も同じ。
だが眼前にはまだ何千匹もの「翼ある人」が背中に生やした翼をはためかせながら取り囲み、攻撃の機会をうかがっている。逃げ場など何処にもない。いや、あるとすれば、フォトンとなって散ることくらいか……。
「アルサス、大丈夫かな。ネルお姉ちゃんをちゃんと連れ戻してくれるかな」
再び、ルウが弱気に呟いた。すると、フランチェスカがいつになく厳しい顔でルウを睨む。
「信じるのよ、ルウ! アルサスなら、きっとネルを連れ戻す。全部が上手く行くって!」
「そうだ、信じるんだ、あいつの事を。だから、それまで、僕たちは死んじゃいけないんだ!」
クロウが役に立たない足を引きずりつつ、ルウの杖を武器代わりに振りかざす。
「俺たちは、そのためにここに来たんだ!」
ジャックの声が轟く。慣れないバヨネットの接近戦で、すでにジャックの鎧はボロボロだ。それでも、闘志だけは両目に滾らせていた。
「一気に駆け抜ける。ジャックはクロウどのを背負え! 躓いたり遅れても、助けてやれないからな!」
セシリアは渾身の力を振り絞って、エクスカリバーを振りかざした。そして、これが最後だと言わんばかりに、腹の底から声を上げる。
「行くぞ、みんな!!」
駆け出したセシリアに続き、フランチェスカ、ルウ、クロウを背負うジャックと続く。しかし、疲れはピークに達し、走っていても膝が笑い、腕が震え、「あっ!」と思ったときにはもうすでに時遅く、セシリアの両手からエクスカリバーが零れ落ちていた。
その隙を「翼ある人」が見逃すはずなどない。急降下よろしく、数十匹が一気にセシリアたちを取り囲んで、三叉槍を繰り出してくる。観念とか覚悟などと言うのとは程遠い。ただ静かにその瞬間が訪れてしまうことをセシリアは、言葉とは別に予感していたような気がした。
しかし、「翼ある人」の三叉槍がセシリアの体を貫いてしまう直前、それは起こった。まるで、その槍で貫かれた人が光の粒になって消えてしまうのと同じように、「翼ある人」の体がパーンっ、と弾けて消えたのである。
これは一体どうしたことか。フォトンに視界をふさがれながら、セシリアは驚きに後ろを振り返った。
「みんな、大丈夫か?」
「ええ。でも、これはどういうこと?」
フランチェスカがみなを代表して言う。しかし、セシリアにも分からない。一体何が起きたのか。
やがて「翼ある人」のフォトンが散り散りになって消えると、今度は階段の遥か彼方が、輝きに満たされた。その輝きは、階段を滑るように下りてくると、セシリアたちを包み込んだ。驚いている暇などない。あたり一面にフォトン・ゲージの粒が舞い、やがてそれらが一つの像を築き上げる。
「トライゼン将軍、カレン!!」
叫んだのは、クロウだった。見れば、そこには髭面の老将と、鎧姿の似合わぬ少女が立っていた。
「マーカス!」
ジャックが叫ぶ。振り向けば、そこにいるのは、セシリアの部下であったマーカス・ヒルの姿があった。
次々と、セシリアたちの周りに現れるのは、多くの戦いでフォトンと化した者たちだった。そうして、セシリアたちは、やわらかく温かな光の中で、突然の再会に驚きと喜びをかみしめたのだった。
人の心は漠然として不確。だから、分かり合えなくて、仲違いをする。やがてそれは、憎しみへと変わり、次第に大きくなって戦争へと発展する場合もある。己の利益、富、名声、未来、あらゆるものをかけて、時には正義を振りかざし、時には悪意を持って、互いに命を削るのだ。
その根幹にある者は、相手を嫌いだと思う心。でも、少しだけ待って欲しい。あいてを嫌いだと思う気持ちの、ほんの少しだけでいいから、相手の事を好きになろうとして欲しい。そうすれば、見かたは違ってくるはずだ。
けして、この世界は分かり合えない世界ではないと言うことが、きっと分かるはずだ……。この広い世界はそれほど暗澹としたものではないし、人はそれほど愚かな生き物でもない。本当は、誰もが、分かり合える生き物なんだ。それは、一人一人の心の持ち方次第……。
どこかで小鳥の声がする。青い空を飛びながら、東へと飛んでいく。
風が頬を撫でる。土の匂いに混じって、つんと夏草の匂いがした。
穏やかで、どこか静かで、でも生き物や自然の喜びに溢れた平和な音がする。
「ネル! ネル起きて」
肩を揺さぶられて、ネルはゆっくりと目を覚ました。そして驚いた。アルサスの顔かすぐ近くにあったからだ。
「アルサス……?」
「よかった。ずっと眠ったままだったらどうしようかと思ったよ」
アルサスがゆっくりと顔を離し、ほっと胸をなでおろす。ネルは、まだぼやけたままの頭で、体を越した。ここは何処だろう。
見渡す限り草原。その向こうには、霞がかったアトリア連峰と、アトリアの森がが見える。そして、草原の真ん中で交わる三本の街道。ここは、空白地帯の中心にある草原だと、分かったネルは辺りを見回した。そこに戦争の煙は上がっていないし、メッツェの姿もなければ、戦いの跡もない。
おもむろに立ち上がったネルは、更に驚いた。自分が着ているのは純白のドレスではなく、カチュアの紋様が刺繍されたワンピース。頭に被るのは、サークレットではなく箱型の帽子。一体全体何が起きたのだろう……祖思いながら、アルサスの方を見る。
アルサスは、うーんと唸りながら両手を高く突き上げて背伸びをしていた。しかし、彼が着ているのは、なんだか懐かしいような、銀色の胸当て。ノミの市で手に入れたという、ギルド・リッターの鎧だ。
「どうしたの、ネル? まだ寝ぼけてる?」
きょとんとしたアルサスが振り返る。
「ううん、大丈夫です……それより、その」
何と尋ねたらいいのか分からずに言い淀んだネルに、アルサスは小さく笑った。
「俺にも良く分からない。でも、目が覚めたらこの恰好で、ここに寝転がってた。かすかに、ネルが俺の事を呼んでいたのは、覚えているよ」
「でも……わたし、アルサスたちにひどいことしました。わたしは」
突然、アルサスの人差し指が、ネルの口を塞ぐ。それ以上言うな、とアルサスの赤い瞳が言っていた。本当は、それだけでは許されないことは分かっている。それでも、今だけは、その優しさに縋りたい。これから始まる贖罪の前に。
「いいんだ。俺もネルも生きてる。フォトンになった人たちも、元通りになった。それだけで、とても素晴らしいことだよ。例え何があっても、俺の気持ちは変わらないさ」
と言うアルサスの言葉に、ネルは自分の気持ちを伝えていなかった事を思い出した。わたしも、あなたのことが好き。その一言を口にしようとしたネルは、再び口を塞がれた。それも言わなくてもいい、言わなくたって分かっているよ、そんなアルサスの微笑み。
「さて、これからどうしようか……。まだ依頼の件、終わってなかったよね」
そう言って、アルサスが懐から取り出したのは、金貨の詰まった麻袋だ。ガモーフの関所で依頼者から前金で貰った、などといっていたが、本当はアルサス自身が用意したもので、依頼者も言わばアルサス自身なのだ。
「流浪の旅人レイヴンとしては、ちゃんと依頼を終えなければならない。もしも、君がその気なら、ラクシャまで送るよ。きっと世界は、復興に向かっている。それを見ながら旅するのも、悪くないと思うよ」
「だけど、アルサスは、センテ・レーバンの王子様ですよね?」
「いや、違う。それはフェルト・テイルのことだろ。俺は、レイヴンのアルサス・テイル。君が、ハンナ・フリューゲルじゃなく、ネル・リミュレであるように。ネルの前にいるのは、フェルトじゃなく、アルサスだよ。さて、それじゃ、街道をガモーフに向けて歩こう。そのうち、辻馬車が通るだろう」
アルサスが草を分けて歩き出す。ネルは慌ててその背中を呼び止めた。
「待ってください。あのっ……依頼。依頼していいですか?」
ネルが言うと、アルサスは少し驚いて振り返る。
「わたし、これから沢山の人のために生きたい。でも、独りでは何も出来ません。だから、そのっ、アルサスに一緒にいて欲しいんです。傍に、いてくれるだけでいいんです」
「それは、罪滅ぼし?」
アルサスが問うと、ネルは頭を左右に振ってそれを否定した。
「違います。わたしの罪は、きっといつまでも消えません。でも、この世界がもっといい世界になるように、わたしに出来る事をしたいんです。ダメ、ですか?」
「いや、ダメじゃないよ。俺で力に慣れるなら」
「あのっ、それから、もう一つ。アストレアさまがわたしに言ったんです。遠く未開の地に、アストレアさまが残した日記があるって。もう、二千年も前の日記だから、もう残ってないかもしれません。でも、わたしはその日記を手に入れたい。きっと、これからの贖罪に役に立つと思うんです」
「レイヴンの依頼変更両は高いよ。しかも、未開の地への旅となるとさらに倍」
にやりと、アルサスが白い歯を見せる。いつもの、皮肉めいた調子だ。
「そのっ、わたしお金なんて持ってなくて」
言いかけたネルの目の前に、アルサスの晴れ晴れした顔と、手が差し出される。
「この手を離さなければそれでいい。俺も、もうネルに嘘つかない」
「アルサス」
「でも、未開の地となると、遠いし険しいな。ルウとフランも誘った方が良さそうだ。まずは、カルチェトの港から二人のところに行って、それから……それからは後で考えればいいか」
自分自身に笑ったのか、アルサスは少し気恥ずかしそうにすると、空いた手で頭をかいた。そして、急に真顔になって続ける。
「ネル、もう一度ここから、俺たちが出あったこの場所から、旅を始めよう」
そうだ、この場所は、アルサスと出会った場所。ここから始まった物語は終わる。そして新しい物語が始まる、もう一度この場所から。
「はいっ!」
ネルはにっこりと微笑んで、アルサスの手に自分の手をそっと添えた。その手をアルサスが強く握り締める。初めて手をつないだときのような、温かさがネルの心に伝わってくる。
「あっ! やばい。辻馬車が行ってしまう」
アルサスの視線の先。街道を黄色い三角旗がはためく三頭立ての馬車「ウォーラ」が走っていく。街道を走る辻馬車の数は多くない。
「ネル、走ろうっ! 置いていかれたら、カルチェトの港まで地獄の徒歩になっちまうっ!!」
ぐっと、力強くネルの手が引っ張られた。
「おおーい、そこの辻馬車、待ってくれーっ!!」
アルサスの声と、二人の足跡が草原を駆け抜けた。ネルは風に飛ばされそうな帽子を片手で押さえながら、つないだ手はしっかりとアルサスの手を離さないように力を込めた。
もう一度、ここから旅をはじめよう……。
(おしまい)