11. 月夜の船旅
アルサスたちが、ラッタルを上り船に駆け込むと同時に、船は艀を下ろし、カルチェトの港を出港した。船に乗り込んでから、自分たちが切符を買っていないことに気がつき、青くなる。これでは、いわゆる無賃乗船、密航というやつだ。密航は、ギルド連合の約款で重罰が与えられる。
すでに、船はカルチェトを離岸している。どうしよう! と慌てていると、アルサスたちを助けてくれた水夫が、もはやトレードマークとも思える白い歯をキラリとさせて、「心配するな」と言って、二人分の切符を用意してくれた。元来、人のいい男なのかもしれないが、ネルが何度も感謝の言葉を言うと、彼は高らかに笑って、
「困った時はお互い様さ! それに、海の男は風鴎と可愛い娘には、親切なのさ!」
と海風と一緒にさわやかに言った。
そんな水夫のおかげで、雑魚寝の船倉室ではなく、一晩のふかふかベッドを手に入れることができた。アルサスとネルに、一室ずつ個室の客室が用意されたのだ。ルミナス島までは、順風満帆でも半日以上かかることを思えば、危うく密航者にならずに済んだことも含めて、水夫の親切さは至れり尽くせりだった。
「それじゃ、明日の朝」
そう言って、それぞれの部屋へ別れ、自分の部屋に入ったアルサスは、リュックを下ろすと、ベッドに身を投げ出した。おそらく隣室のネルも同じように、ベッドに寝転がっているだろう。彼女にとっては、三ヶ月の間、過酷な日々の連続だったはずだ。それを思えば、船旅の間だけでも、そっとしておいてやりたいと、アルサスは天井を見上げながら思った。
天井にぶら下げられた、ランプが船の揺れに合わせて、ゆらりゆらりと揺れる。それを見ていると、どっと疲れが押し寄せてきて、自然と睡魔が襲ってくる。アルサスは、そのまま、ふかふかベッドに埋もれるように、眠りに沈んでいった。
そうして、どのくらい眠りについていただろう。隣室の扉が開く音がして、アルサスが目を覚ました時には、船窓から見える洋上はすでに、夜に包まれていた。
「ネル?」
ベッドから起き上がったアルサスは、部屋の前を通り過ぎる靴音に耳を澄ました。潮騒と船体やロープがきしむ音に混じって、足音は客室の廊下を甲板へと歩いていく。アルサスは、怪訝に思い、そっと部屋の扉を開いてみたが、すでに廊下にネルの姿はなかった。
どうしたんだろう、眠れないのかな? そう思ったアルサスは、護身用に剣だけを携えて、部屋を出た。甲板までは、薄暗い廊下をまっすぐ歩くだけ。その先にある階段を上れば、船の前部甲板へ出ることが出来る。
アルサスは、甲板をぐるりと見回して、ネルの姿を探した。彼女は、ひとり甲板の縁に佇み、夜の海をぼんやりと眺めていた。
さらさらと潮風に揺れる三つ編みにした銀色の髪も、海を眺めつつ愁いを帯びた横顔も、月影に照らされて、一枚の美しい絵画のように映る。なるほど、水夫が「可愛い娘」と言ったのも頷ける。アルサスは、思わず声をかけるのも忘れて、ネルの後姿に見とれていた。
そんなアルサスの視線に気づいたのか、ネルが振り返る。
「アルサス! ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
と言う、ネルの目に一粒の涙が光った。
「泣いていたの?」
アルサスが問いかけると、ネルは困ったような顔をして、手の甲で涙を拭う。そんなネルの姿に、アルサスは少しだけ微笑んで、そっとネルの傍に寄ると、夜の海を一望する。
「怖い夢でも見た?」
「い、いいえ。違います。その……船に乗るのはじめてて、酔ってしまったんです」
アルサスに妙な気遣いをさせまいとしたのか、問いかけに答えるネルの声は、どこかしどろもどろしていて、すぐに嘘だとばれる。
「ネルって、嘘つくの下手だね」
そういわれて、ネルは直良困った顔をして、再び夜の海を見つめた。船は、わずかな風を受けて陸地沿いに進む。波は低く、月を写しこむ水面は、キラキラと輝いていた。見上げれば、月影に負けじと輝く無数の星。空を縦断するのは、天の川と呼ばれる星の川。そして、頭上高く輝く星は北極星。こんな穏やかな気持ちで、夜空を見上げるのは久しぶりのことなのに、ネルの胸は苦しくて仕方がなかった。
「力のこと、知るのが怖い?」
アルサスがたずねると、ネルは頭を左右に振った。
「怖くないって言ったら嘘になってしまいますけど、でも、自分で決めたんです。奏世の力のこと知らなきゃいけないって。でも、それよりも、今は家族のことが心配なんです。妹のメルや両親、村のみんなが無事なのか心配で、そうしたら、なかなか寝付けなくて」
ひとたび眠ろうとすると、瞼の奥に家族の顔が蘇る。必死にネルを守ってくれた、村の人たちの顔が思い出される。幼いころの記憶のないネルにとって、実の親でないと知りながらも、大切に育ててくれた両親も、明るく慕ってくれる妹のメルも、優しい村人たちも、すべて大切な家族なのだ。その家族のことを思えば、ふかふかのベッドで眠っていていいのか、安心していていいのか分からなくなって、キュッと胸を締め付けられるのだ。
「そっか……。安受けあいするつもりはないけどさ、大丈夫だよ。きっと神さまが、ネルの家族を守ってくれているよ」
そう言って、少し照れくさそうに、アルサスは星空を仰いだ。塞ぎ込んでしまわないように、ネルを元気付けようと思ったのだろう。
ネルは、アルサスの言葉にふと、あのときのことを思い出した。バセットに斬りつけられ、大量の血を吐き出して倒れたアルサスを抱きしめた時、頭の中に響いてきた声。どうして、あれを女神アストレアの声だと思ったのかは、ネルにも分からない。見守ってくれている……もしも、あの声が、アストレアが見守ってくれていると言うのなら、信じたい。「奏世の力」が、バセットの言うようなものではないと。
「ねえ、アルサスは神さまを信じていないんですか?」
アルサスには、あの声は聞こえていない。自分だけが聞いたのだ。だからこそ、ネルは訊いてみたかった。
「信じてないわけじゃないけど……。目に見えないような神さまなんて、肝心なときに頼れないと思ってる。そういうの、現実主義っていうのかな。理想だけじゃ、なにも出来ないんだってこと」
「なにも出来ない?」
「一般論だよ。レイヴンなんて、その日暮の生活してるとさ、頼れるのは神さまじゃなくて、この剣だけだって気づくのさ」
そう言って、アルサスは腰に帯びた剣の柄をぽんぽんっと叩いた。刀剣に詳しくないネルでも、魔法文字の刻まれた美しい剣は、立派だと思うほどの名剣だ。
「でもさ、神さまを心の支えに生きることは、何も悪いことじゃないと思うよ。信心のない俺が言うのもなんだけど、要は、人それぞれに信じるものがあるってこと。君はアストレアを、俺はこの剣を」
「どうして……、どうしてアルサスはレイヴンになったんですか? アルサスほどの剣の腕前をもってすれば、王国の騎士さまや、ギルド・リッターの隊員さんになっていてもおかしくないと思います」
「うっ、痛いとこ突いてくるなあ」
アルサスが苦笑する。ネルは「ごめんなさい、余計なことを!」と慌てたが、アルサスは怒っている様子もなく、
「前もって言っておくけど、俺はそんなに強くないよ。ただ……気ままな旅がしたかったんだ。騎士やギルドメンバーになれば、出世だの、忠義だの、任務だのと縛られるものがたくさんある。何かに束縛された人生は、嫌だった。だから、家を飛び出して、剣と少しだけの路銀で旅をしていたら、いつの間にかレイヴンになってたってわけ」
と、記憶を手繰るように言った。
「家出、したんですか?」
「さあね……それよりも、部屋に戻ろう。しっかり寝ておかないと、今度いつふかふかのベッドで眠れるか分からないよ。それが、レイヴンの生活だからね」
アルサスは、くるりと踵を返す。まるで、自分のことはあまり語りたくないと、アルサスの背中が言っているようだった。ネルは、「分かりました」と答えつつも、アルサスのことをほとんど知らないことに気づいた。魔物と友達だったり、「影走り」のことを知っていたり、よく分からないところが時々ある。
「ううん、アルサスは悪い人じゃない」
ネルは、部屋に戻るアルサスの背中に向かって、小さく呟いた。
エーアデ通信とは、土の魔法エーアデを応用したものである。遠くにいる相手と、通信会話をするため、エーアデの魔法で、地面を振動させるのだ。ただ、このエーアデ通信には欠点がある。返信を期待する場合には、相手も魔法を使えなければならないため、一方通行な通信手段であり、心得ある魔法使いなら通信振動を読み取って、情報を中抜きすることが出来てしまう。つまり、通信の秘匿性に、いまいち信用が置けない。
そのため、書簡や手紙によるやり取りも、廃れてはいない。しかし、エーアデ通信が着信する速度は速く、緊急を要する通信では、専らエーアデ通信が用いられていた。
メッツェ・カーネリアがその通信を受け取ったのは、アルサスたちがルミナス島行きの船に乗り込んだ後だった。エーアデ通信の受信には、「アンバー」と呼ばれる土の魔法の振動を受け取る稀少鉱石を用いる。銀の装飾台に吊るされた、親指ほどの黄色いアンバーが震えて、声となるのだ。
『メッツェさま。こちら、シャドウズ一番隊。積荷を取り戻すことかなわず。積荷にはカラスが一匹かじりついていました。積荷とカラスは、ルミナス行きの船に乗船した模様。指示願う』
アンバーの振動から聞こえる声は、朝方放った密偵からのものだった。メッツェは、小さく溜息をついて、ペンを置いた。
王城の南棟にある、宰相府付参謀官執務室。メッツェは、自分に与えられた個室で、ランプの明かりを頼りに、雑務の処理をしていた。すでに窓の外には、夜の城下町が広がっている。雑務をこなすのは嫌意ではない。メッツェは、まだ二十歳を過ぎたばかり。歳若く、才気にあふれ、眉目も秀麗であるから、城のメイドたちには人気が高く、他の参謀官や文官たちからは妬まれている。しかし、仕事をしていれば、そういう周囲の反応など、気にしなくとも済むのだが、悪い報告を聞かされると、つい疲れの混じった溜息がこぼれてしまう。
「カラス、か」
メッツェは、モノクルを外し、金髪をかきあげた。「積荷」とは、上司である宰相ライオットが、黒衣の騎士団に攫わせた娘のこと、「カラス」はその娘を運び屋から奪ったやつのことだろう。カラス、即ち放浪者・レイヴンの事を指している。
「レイヴン風情が、何故娘を奪った? 誰かに頼まれたか……」
レイヴンが路銀を稼ぐため、誰かの依頼を受けることは知っている。ギルドや裏ギルドのように、組織立っていない分、面倒な奴らという認識があった。
「誰がレイヴンを雇った? ……まさか、あのお方が」
メッツェはハッとなる。ハッとなってから、それは考えすぎだ、と思い直し、アンバーに手をかざす。小さく魔法の呪文を唱えれば、アンバーが小刻みに震え始める。
「こちら、カーネリア。報告ご苦労。積荷の対処はこちらで行う。追って命令あるまで待機されたし」
メッツェの声を乗せた振動は、銀の懸架台を伝わり、城の壁を駆け巡り、地上から相手へと向かう。メッツェはさらに、もう一度魔法を唱えた。
「こちら、カーネリア。『ガムウ』を使う。至急準備せよ」
エーアデ通信は、その秘匿性にかけるため、簡潔で暗号めいた言葉を送らなければならない。しかし、「ガムウ」の名を知るものはいないだろう。
通信を終えると、メッツェは一息ついて、再びモノクルを着け、ペンを持った。すると、そのタイミングを計ったかのように、個室のドアがノックされる。
「メッツェ参謀官。先ほど、親衛騎士団クロウ・ヴェイル隊が、アローズ関所より帰還したそうにございます」
下仕官の声だ。メッツェは、「そうか、今行く」と答えて、再度ペンを置くと、立ち上がった。今頃、上司である宰相ライオットは、私室でいびきをかいているだろう。自分が床に入れるのは、何時になることやら。部屋を出るメッツェの、目の端は、深夜を示す時計の針を捉えていた。
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