婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか
第一章 白鶴の間
母は、三日前から寝台で体を作っていた。
胸を病んで五年になる。医師は夜会への出席を渋ったが、母は聞かなかった。娘が王太子妃として披露される日を、寝台の天蓋を眺めて過ごすつもりはないと言った。だから三日、水と薬と眠りだけで身体を整え、当日の午後にようやく起き上がり、侍女たちに支えられて髪を結わせた。
支度部屋の鏡越しに、アデライド・フォン・ヴァイセンブルクは母を見ていた。
「お母様。無理をなさらないで」
「無理をしに来たのですよ」
母フレデリカは、頬紅を入れられながら笑った。青白い頬に、刷毛で血色が置かれていく。
「あなたが十二の年に王城へ上がってから、八年。わたくしは、あなたが泣いて帰ってきた日を三度しか知りません。三度きりだったのは、あなたが泣かなかったからでしょう。──今夜くらいは、母親の役をさせてちょうだい」
アデライドは何も言えず、母の手を取った。骨の形がはっきりわかる手だった。
建国祭前夜の夜会。白鶴の間には、三百人が集まっていた。
王都の名門はほぼ揃い、地方の伯爵家も上がってきていた。楽団が入り、給仕が銀盆を運び、大理石の柱のあいだで扇が揺れている。アデライドは慣れた足取りで人の輪を渡り、挨拶を受け、挨拶を返した。
ただ、この一月ほど、彼女は婚約者のことを「殿下」としか呼べなくなっていた。
理由ははっきりしている。二人でいるときの沈黙が、待つ沈黙ではなく、避ける沈黙に変わったからだ。ユリウス・エディンガー・レーヴェンハルトは、二十二歳。この国の王太子。彼はここ半年、慈善院の視察に熱心だった。視察の報告書はいつもアデライドの手元を通ったが、そこに書かれている内容は、視察と呼ぶには私的にすぎた。
アデライドは、報告書を読む女だった。
そして彼女の婚約者は、報告書を読まない男だった。
三年前、北方三領の穀物免税を認める裁可書に、ユリウスは目も通さずに署名した。免税分の穴は国庫に空き、三ヶ月後に取り消されたが、そのときには北方の商会がすでに動いていて、後始末に半年かかった。細かい数字を突き合わせ、商会ごとに減額幅を交渉し、王家の面目が立つ形の文面を作ったのは、当時十七歳のアデライドだった。
ユリウスは礼を言った。そして言った。「おまえは、そういうのが好きだな」と。
好きだったわけではない。誰かがやらねばならず、彼がやらなかっただけだ。
九時の鐘が鳴った。
楽団の音が、途中で切れた。
指揮者が下がり、給仕が壁際へ寄る。人の流れが、ひとりでに二つに割れていく。誰かが用意した動線だと、アデライドは気づいた。気づいたときには、もう遅かった。
中央に、ユリウスが立っていた。その半歩後ろに、小柄な娘がいた。
ミーナ・ヴァルト男爵令嬢。十八歳。慈善院で子どもたちの世話をしているという評判の娘だった。夜会には不似合いなほど質素な、しかしよく見れば新調された生地の衣装を着て、彼女はうつむいていた。
「アデライド・フォン・ヴァイセンブルク」
ユリウスの声が、天井の高い広間によく通った。この男は、こういう声の張り方だけは巧かった。
「貴様との婚約を、破棄する」
扇の音まで消えた。三百人が、彼の用意した舞台の観客になった。
アデライドは扇を閉じ、一歩前へ出た。
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「白々しい」
ユリウスは背後の娘を、庇うように前へ引き出した。ミーナは震えていた。震えることを、たぶん本当に必要だと思っていた。
「二月十四日。王宮南庭の東屋にて。貴様はミーナに毒を混ぜた茶を供した。ミーナは三日、寝込んだ。侍女のケーテが、一部始終を見ている」
どよめきが、床を這うように広がった。
「嫉妬に狂った女の所業だ。──この期に及んで、身に覚えがないとでも言うか」
第二章 では、署名をどうぞ
アデライドは、どよめきの音を聞いていた。
三百人分の、息を呑む音。そのなかに、貴賓席の母のものも混じっているはずだった。三日かけて身体を作り、頬に血色を置いて、娘の晴れ姿を見るために来た母の。
頭の芯が、氷を当てられたように冷たくなった。
同時に、彼女の頭のもう半分は、恐ろしいほど正確に働いていた。
弁明の道筋を、三つ数えた。
泣けば、女の涙で誤魔化そうとしたと言われる。叫べば、逆上したと言われる。膝をついて許しを乞えば、認めたことになる。どれを選んでも結末は同じだ。この男は結論から逆算して部屋を作った。ミーナと結婚したい。そのためには婚約破棄がいる。婚約破棄には非がいる。だから非を作った。順番はそれだけのことだ。
証拠は要らない。三百人が聞けばそれでいい。彼はそう考えている。
──あの方は、書類を読まない。
その一行が、氷の下から浮かんできた。
読まないということは、書かれた中身に責任を負う覚悟がないということだ。そして責任を負う覚悟のない男に、責任の生じる紙を握らせたら、どうなるか。
アデライドは、口を開いた。
「──承知いたしました」
ユリウスの眉が、わずかに動いた。手応えのなさに戸惑ったのだ。彼はもう二、三度、打つつもりでいたのだろう。用意してきた言葉が、行き場を失って喉の奥で詰まったのがわかった。
「ずいぶん素直だな」
「殿下のお言葉に、この場で口答えする資格は、わたくしにはございません」
アデライドは深く礼をした。八年かけて仕込まれた、教科書のように正確な角度だった。
「ただ一点だけ、お願いがございます」
「言ってみろ」
「ただいまの断罪を、正式なものとして扱っていただきとうございます」
顔を上げる。声は震えていなかった。自分でも意外なほどに。
「口頭のみでは、わたくしの家名がいつまでも宙に浮いたままになります。噂だけが残り、いつ、どこで、何をしたのか、誰も正確には言えなくなる。それは殿下にとってもご不本意でしょう。──断罪録をお作りくださいませ。日付、場所、罪状、証人。すべて記載のうえ、殿下のご署名と、王太子印を」
広間の空気が、ほんの少し緩んだ。
往生際の悪い言い逃れではなく、手続きの話だったからだ。何人かは、彼女が自分の家名の始末をつけようとしているのだと解釈した。潔い、と小さく漏らした声もあった。
壁際で、ひとりだけ顔を上げた者がいた。宰相ヴェルナー。老いた目が、まっすぐアデライドを見ていた。
ユリウスは笑った。勝った側の笑い方だった。
「いいだろう。自分から逃げ道を塞いでほしいというなら、望みどおりにしてやる。おまえのそういうところは、昔から変わらんな」
紙が運ばれた。書記官が卓を出し、羽根ペンを構え、ユリウスの口述を書き取っていく。
ユリウスは同じ言葉をもう一度、今度は書記官に向かって繰り返した。二月十四日。王宮南庭の東屋。毒を混ぜた茶。三日の臥床。証人ケーテ。
書き上がった紙を、書記官が差し出した。
ユリウスは、読み返さなかった。
アデライドは、彼の指がペンを取るのを見ていた。八年見てきた指だった。彼が羽根ペンを持つとき、いつも中指の第二関節に力が入りすぎる。修正の癖を持たない指だ。書いたものを見直す習慣のない人間の持ち方だ。
署名。
そして、王太子印。
朱の印が紙に落ちる、乾いた音がした。
「では、署名をどうぞ、と申し上げるまでもございませんでしたね」
アデライドはもう一度礼をして、背を向けた。
三百人が、道を空けた。誰も彼女の顔を見なかった。見ないことが礼儀だとでもいうように、扇の陰から視線だけがついてきた。
扉まで、あと十歩。
そのとき、貴賓席で椅子が倒れる音がした。
第三章 別にいい、とは申しません
母は屋敷に運び込まれ、その夜のうちに意識を失った。
医師は明け方までかかって、命は取り留めたと言った。心の臓が驚いたのだ、と。ただし、と医師は続けた。もう歩かせてはいけない。庭へ出るのも、階段を降りるのも。
母が自分の足で外の光を浴びる日は、二度と来ないということだった。
夜が明ける前、父のヴァイセンブルク侯爵は書斎でアデライドと向き合った。窓の外はまだ暗く、燭台の火が二人の影を壁に長く伸ばしていた。
「耐えろ」
と、父は言った。
「相手は王家だ。王太子が三百人の前で口にした以上、真実かどうかはもう関係がない。噂は事実より足が速い。今頃はもう、王都の半分に届いている」
「はい」
「領地へ下がれ。二年、いや三年静かにしていれば、世間は忘れる。おまえの縁談は、そのあとで考える。──辺境なら、まだ拾ってくれる家はある」
父の声は、怒っていなかった。それが余計に堪えた。父はもう、計算を済ませていた。娘の八年と、家の百五十年を天秤にかけて、答えを出したあとの声だった。
「お父様」
「なんだ」
「わたくし、別にいい、とは申しません」
父が顔を上げた。
「無実を晴らしたいのではありません。潔白の証など、今さらどうでもよいのです。あの方に謝ってほしいわけでも、婚約を戻していただきたいわけでもございません」
アデライドは、燭台の火を見ていた。
「あの夜、お母様は、娘が毒殺犯だと聞かされました。三百人と一緒に。三日かけて身体を作って、頬に紅を入れて、それを聞かされました。──それだけです。それだけが、わたくしの理由です」
「アデライド」
「殿下は、取り消せない場所をご自分でお選びになりました。三百人。取り消せない人数。取り消せない場所。取り消せない紙。全部、あの方がご自分で選ばれたものです」
彼女は父を見た。
「わたくしは、そのご判断を、最後まで尊重いたします」
父はしばらく黙っていた。指を組み、組み直し、燭台の蝋が一段落ちるあいだ、何も言わなかった。
それから机の抽斗を開け、紋章入りの通行証と、王都の各役所へ宛てた紹介状の束を出した。かなりの厚みがあった。昨夜のうちに書いたものだと、字の乱れでわかった。
「……三年で忘れられる程度の家に、生まれたつもりはない」
「お父様」
「ただし条件がある。剣を使うな。毒を使うな。人を雇うな。金で口を買うな」
父は紹介状を卓の上に滑らせた。
「おまえがやるなら、紙でやれ。この家の娘なら、それで足りるはずだ」
第四章 書式十七番
アデライドの侍女ハンナは、十四のときから彼女に仕えている。
夜会の翌日、屋敷の使用人が三人辞めた。理由は誰も言わなかった。毒殺犯の家に勤めていたと言われるのが怖いのだと、暇を出す書類を書きながらアデライドは思った。責める気にはならなかった。彼らには家族がいて、王都で次の職を探さねばならない。
四人目が辞めるのを、ハンナが止めた。厨房で怒鳴ったらしい。声は二階まで届いた。
「ハンナ」
「はい」
「怒鳴ってはいけません」
「怒鳴ってません。説明しました」
「大声で説明していました」
ハンナは、少しも悪びれずに言った。
「お嬢様。あたし、あの東屋、行ったことあります」
と、ハンナは言った。
「去年の秋、お使いで南庭を抜けようとして、通れなくて回り道したんです。工事してました」
アデライドは顔を上げた。
「いつまで」
「わかりません。でも、あたしが通れなかったのは十一月です」
その日の午後、二人は工部の営繕記録所へ行った。
紹介状は必要なかった。営繕記録は公開文書で、閲覧料は銅貨二枚だった。
南庭水路敷替工事。着工、前年十月三日。竣工予定、当年五月末。監督官フーゴ・バルト。
日誌は一日も欠けていなかった。二月十四日の頁には、風速と気温と作業人員数と、防塵布の張り直しを行った旨が、几帳面な字で記されていた。東屋は足場に囲われ、南側の通路は封鎖。立入は工事関係者のみ。
アデライドは、その頁を三度読んだ。
三度目に、指が震えた。
「お嬢様」
「大丈夫よ」
大丈夫ではなかった。ただ、これは怒りではなかった。もっと静かな、床が抜けるような感覚だった。
──あの方は、現場を見ていない。
王宮の南庭は、彼の住まいから歩いて五分の場所だ。半年前から足場が組まれ、毎朝、職人が三十人出入りしている。それを彼は知らなかった。知らないまま、そこで茶会が開かれたと三百人の前で断言した。
彼にとって、南庭の東屋は「令嬢が嫉妬しそうな場所」でしかなかった。実在する場所ではなかった。
書き割りだったのだ。全部が。
閲覧室を出るとき、白髪の男が声をかけてきた。監督官のフーゴ本人だった。
「侯爵令嬢さま。写しがご入用でしたら、うちで出せます。手数料は銀貨一枚」
「……ご存じなのですか」
「工事現場の人間は、噂が入るのが早い」
フーゴは帽子を取った。
「うちの現場で毒が盛られたことになってると聞いて、職人が怒っておりましてね。日誌は職人が交代で書いております。うちの現場を舞台に使われるのは、迷惑なんですわ」
写しには、その日出ていた職人二十二名分の署名が添えられた。誰も頼んでいなかった。
第五章 四行
断罪録は四行だった。アデライドは、一行ずつ潰していった。
**第一行。「二月十四日、王宮南庭の東屋にて」**
工部の営繕日誌と、職人二十二名の署名。証明済み。あの日、あの場所では茶会どころか立ち話もできない。
**第二行。「毒を混ぜた茶を供した」**
断罪録に毒の名は書かれていなかったが、王都で毒物として登録されている薬品は十九種、そのうち茶に混ぜて三日臥床させる程度の量で使えるものは、灰苔の抽出液を含めて四種しかない。いずれも薬師組合の許可制だった。
アデライドは三年分の払出台帳を、自分の手で繰った。八百四十七件。三日かかった。ヴァイセンブルク家の名も、彼女の名も、ハンナの名も、屋敷に出入りする薬師の名も、どこにもなかった。
「代理でお買いになった、と言われたらどうします」
と、ハンナが訊いた。
「言われるでしょうね」
だからアデライドは、台帳の八百四十七件すべてについて、購入者と用途と、その者と自分との関係の有無を一覧にした。八百四十七行の表を作るのに、さらに四日かかった。
組合長は、証明印を押しながら言った。
「令嬢。これ、うちの帳簿より整理されてますな」
**第三行。「ミーナは三日、寝込んだ」**
慈善院の施療録。二月十四日、ミーナ・ヴァルトは朝から夕まで在院し、十一名分の記録に自分の手で署名していた。翌十五日も、十六日も。字は元気だった。
そして、寝込んでいたはずのその三日のあいだに、彼女は伯爵家の夜会に二度出席していた。招待客名簿。会計の記録。衣装を仕立てた店の帳簿には、仮縫いの日付まで残っていた。
慈善院の年老いた修道女は、施療録を差し出しながら、アデライドをじっと見た。
「ミーナは、悪い子ではありません」
「存じております」
「あの子は、断れない子です。目上の方に何かを言われて、違いますと言えたことが、一度もない」
修道女は静かに続けた。
「それを、悪くない、と言ってよいのかは、わたくしにはわかりません」
**第四行。「侍女のケーテが、一部始終を見ている」**
これが一番あっけなかった。
ケーテは二月十四日、王妃の使いとして隣領へ発っていた。西門の関所通行録に、往路の刻限と復路の刻限が残っていた。証人は、事件の日、王都にすらいなかった。
記録係の若者は、通行録の写しを取りながら首をかしげた。
「これ、確認なさらなかったんですかね。王太子殿下は」
アデライドは答えなかった。答えは知っていた。
確認しなかったのではない。確認するという発想が、はじめからなかったのだ。
三月の初め、母が意識を取り戻した。
寝台のそばに座ったアデライドの手を、母は探るように握った。
「……やめなさい」
最初に出た言葉が、それだった。
「聞きました。役所を回っていると。おやめなさい、アデライド。相手は王家です。あなたが勝てば勝つほど、あなたを許さない人が増えます。誰も、正しい娘を好きにはなりません」
「はい」
「わたくしのためだと言うなら、なおのこといけません。わたくしは、あなたに恨みを晴らしてもらうために倒れたのではありません」
アデライドは、母の手を両手で包んだ。骨の形が、以前よりもっとはっきりわかるようになっていた。
「お母様」
「なんです」
「わたくし、お母様のためだとは、一度も申しておりませんの」
母が、目を見開いた。
「わたくしのためですわ。あの夜、お母様が倒れる音を聞いたのは、わたくしですから。あの音を、この先ずっと憶えているのも、わたくしです。──ですから、これはわたくしの用事です」
母は長いこと黙っていた。それから、握った手にほんの少しだけ力を込めた。
「……あなたは、父親似ね」
「よく言われます」
「褒めていません」
母は目を閉じた。閉じたまま、口の端が少しだけ上がっていた。
その頃、社交界からアデライドへの招待状は、完全に途絶えていた。
同い年の令嬢たちは、廊下ですれ違っても目を伏せた。八年、隣にいた者たちだった。彼女たちが薄情なのではないと、アデライドは知っていた。王太子が断罪した女に近づく理由が、誰にもないというだけだ。
三月半ば。
アデライドは、四つの記録の束を抱えて王立記録院へ行った。
訴えたのではない。告発したのでもない。彼女が窓口に提出したのは、この国でもっとも退屈な書式のひとつだった。
──公文書記載事項の訂正申立
書式番号は十七。手数料は銀貨三枚。落とし物の届出と、隣の窓口だった。
窓口の役人は、書類の厚みに一度だけ眉を上げ、それから淡々と受理印を押した。
「一月ほどで回答が出ます」
「承知いたしました」
外へ出ると、風が生ぬるかった。冬が終わろうとしていた。
第六章 あなたは、殿下を殺しに来たのですね
宰相ヴェルナーがアデライドを執務室に呼んだのは、それから十日後だった。
卓の上には、記録院から回された申立書と、四つの証拠束が積まれていた。老宰相はそれを長いこと眺めてから、口を開いた。
「あなたは、殿下を殺しに来たのですね」
「いいえ」
アデライドは首を振った。
「わたくしは、記載の訂正を求めているだけですわ。公文書に事実でないことが書かれているのですから、直していただかなくては困ります。それだけのことでございます」
「同じことです」
ヴェルナーは指で書面を叩いた。乾いた音が、三度した。
「よろしいか、令嬢。これは殿下のご署名と王太子印のある正式な断罪録だ。虚偽が一行確定するたびに、それはあなたの潔白の証明にはならない。──王族による公文書虚偽記載の証明になる。四行ある。四行すべてです」
「殿下が、正式なものとして扱ってほしいというわたくしの願いを、快くお聞き届けくださいましたので」
「口頭で罵倒されるだけなら、あなたは泣き寝入りするしかなかった」
「ええ。ですから、署名をお願いいたしました」
ヴェルナーは長い息を吐き、目頭を押さえた。
「揉み消せると、お思いですか」
アデライドが訊いた。
「思いませんな」
老宰相は正直だった。
「揉み消すなら、記録院に上がる前でなければならなかった。書式十七番は受理番号がつく。受理番号のついた申立を、理由なく握り潰した記録院長は、次の代で必ず責を負う。──あなたは、王家にではなく、役所に出した。役所は、王家の顔色より自分の首を惜しむ」
「銀貨三枚の窓口ですわ」
「銀貨三枚の窓口が、いちばん堅い」
ヴェルナーは書面を揃え、端を叩いて整えた。長く役所にいた者の手つきだった。
「殿下は、王家の権威で押し切れるとお考えでしょう。だがこの件で王家が押し切れば、以後この国の公文書はすべて疑われる。免税の裁可も、叙爵の記録も、領地の境界も。──三年前の穀物免税のとき、あなたが半年かけて後始末をなさったのは、それがわかっていたからでしょう」
「あのときは、後始末をする者がおりました」
アデライドは静かに言った。
「今度は、おりません」
「あの夜、あなたが承知いたしましたと仰った瞬間に、わたしは席を立つべきだった。あなたが手続きの話を始めたとき、あれは負けた女の声ではなかった」
「宰相閣下」
「なんです」
「わたくしを止めることは、おできになりません」
アデライドは、卓の上の束にそっと手を置いた。
「これらは全部、公開文書の写しです。工部の日誌も、薬師組合の台帳も、関所の通行録も。銅貨と銀貨で誰でも取れます。わたくしが特別なことをしたわけではございません。──ただ、誰も取りに行かなかっただけです」
ヴェルナーは、初めて目を逸らした。
「……八年前、あなたを王太子妃に選んだ判断は、正しかったのでしょうな」
「殿下は、わたくしを敵に回されましたわ」
## 第七章 なぜ、あの場で言わなかった
国王臨席の審問は、四日後に開かれた。
白鶴の間ではなかった。窓の少ない、天井の低い部屋だった。三百人はいなかった。国王、宰相、記録院長、書記官が二名。あとは当事者だけだった。
ユリウスは、最初のうちは怒鳴っていた。
工部の日誌が読み上げられた頃には黙り、薬師組合の台帳が八百四十七行の一覧とともに提示されたあたりで顔色を失い、慈善院の施療録が出た時点で、ミーナの方を振り返った。ミーナはうつむいていた。
関所の通行録が読み上げられたとき、彼は椅子から立ち上がった。
「待て。ケーテは、確かにわたしに──」
言いかけて、口が止まった。
ユリウスは、ミーナを見た。
助けを求める目だった。八年隣にいたアデライドには、それがはっきりわかった。この男は、都合の悪い場面で必ず誰かを見る。三年前の穀物免税のときも、彼はまずアデライドを見た。
ミーナは、うつむいたままだった。
「ミーナ」
娘の肩が跳ねた。
「言ってくれ。あの日、東屋で──」
ミーナは顔を上げなかった。両手を膝の上で握りしめて、ただ首を、ほんの少しだけ横に振った。否定でも肯定でもない、逃げるための首の振り方だった。
部屋の誰もが、その意味を理解した。
アデライドにも、そのとき初めてわかったことがあった。この娘は、一度も嘘をついていなかったのだ。
嘘をついたのはユリウスだ。彼が「あの女に何かされたのだろう」と訊き、ミーナが否定できなかった。「毒でも盛られたか」と訊き、ミーナが黙った。「三日寝込んだそうだな」と言い、ミーナが頷いた。断れない娘が断れなかっただけの返事を、この男は証言と呼んだ。そして自分の頭のなかで組み上げた話を、三百人の前で読み上げた。
証人など、最初からいなかった。彼が信じたのは、彼自身の作った物語だけだった。
「なぜだ」
ユリウスは、今度はアデライドを見た。
「なぜ、あの夜、その場で言わなかった! 東屋が工事中だと、その一言で済んだだろう! 貴様が言えば、わたしは──」
「殿下は、お認めになりませんでした」
アデライドは、初めて彼を正面から見た。
「あの夜、わたくしが東屋は工事中でございますと申し上げたとして。殿下はどうなさいましたか」
ユリウスの口が、途中で止まった。
「日を間違えたと仰るか、場所を間違えたと仰るか、あるいは工事中の東屋に忍び込んだのだと仰ったでしょう。三百人の前で、殿下が退く道はございませんでした。──殿下がご自分で、退けない場所をお選びになったからです」
「それは……」
「わたくしは、殿下のご判断を尊重いたしました」
彼女は、静かに続けた。
「あの夜、殿下が三百人をお集めになったのは、わたくしに反論させないためでしょう。人が多ければ多いほど、間違いは正しくなる。そうお考えになった。──ですから、わたくしは人の数で争うのをやめました。紙は、三百人よりも数が多うございます」
国王は、それまで一言も発していなかった。
やがて、記録院長のほうへ首を向けた。
「訂正を認めた場合、断罪録はどう残る」
「原本は破棄いたしません」
記録院長が答えた。
「原本に訂正線を引き、訂正の根拠と日付を余白に記します。訂正申立書は原本に綴じ込み、同一の函に永久保存いたします。──陛下。公文書は、間違いを消す仕組みではございません。間違えたことを残す仕組みでございます」
「認めなかった場合は」
「申立を却下した理由書を、同じ函に残します。以後この国では、公文書の記載と証拠が食い違ったとき、証拠のほうが退けられた前例が一件ある、ということになります」
国王は、しばらく目を閉じていた。
王家に選択肢はなかった。認めれば王太子が公文書虚偽記載の罪を負い、認めなければ、国のすべての公文書が、この日を境に信用を失う。免税の裁可も、叙爵の記録も、領地の境界も。
息子ひとりと、百五十年分の紙の重さが、天秤に載っていた。
そして、天秤はもう傾いていた。傾け方を決めたのは、この部屋にいる誰でもない。三月前の夜、三百人の前で羽根ペンを取った男自身だった。
「ヴァイセンブルクの娘」
国王が、初めて口を開いた。
「そなたは何を望む」
「記載の訂正のみを」
アデライドは頭を下げた。
「四行のうち、事実でない部分の訂正を。それ以外に望むものはございません」
部屋が、静まりかえった。
訂正を認めれば、王太子の公文書虚偽記載が確定する。認めなければ、王家は虚偽と知りながら公文書を維持したことになる。
彼女は、王家に選ばせなかった。選択肢を、はじめから一つしか用意していなかった。
ヴェルナーが、目を伏せたまま呟いたのが聞こえた。
「……これだ。これを、殺しに来たと言うのです」
第八章 どうぞ、長く
処分は、その月のうちに決まった。
王太子ユリウスは王位継承権を失い、廃嫡。北方の小領を与えられ、以後、王都への立ち入りを禁じられた。侍女ケーテは偽証により追放。ミーナ・ヴァルトは、教唆については関与不明として罪を問われなかった。ただし、婚姻は認められた。二人はそれを望んでいたのだから。
立太子したのは、十六歳の第二王子レオンハルトだった。
王家はヴァイセンブルク家に正式な謝罪と、新たな婚約の申し入れをした。アデライドは前者だけを受け、後者はその場で辞退した。
レオンハルトは、退出しようとする彼女を廊下で呼び止めた。まだ少年の背丈だった。
「断られると思っていました」
「申し訳ございません」
「いえ。──ひとつだけ、伺っても」
少年は、言葉を選ぶように間を置いた。
「あなたが兄上のお隣にいらしたのは、八年です。八年、書類を読み続けて、それでも兄上は読まなかった。……疲れませんでしたか」
アデライドは、少し驚いて彼を見た。
「殿下」
「はい」
「書類は、お読みくださいませ」
レオンハルトは、笑わずに頷いた。
北へ発つ日は、よく晴れていた。
荷馬車は二台きりだった。ユリウスの外套の裾は、すでに泥で汚れていた。隣でミーナが、彼の袖を握っている。二人は望んだとおり、互いだけを手に入れていた。
見送りの列は短かった。その端に、アデライドは立っていた。
ミーナが、先に彼女に気づいた。
娘は一歩、こちらへ来ようとして、止まった。口が動いた。声にはならなかったが、形は読めた。ごめんなさい、と言おうとしていた。
アデライドは、何も言わなかった。
許すと言えば嘘になり、許さないと言えばこの娘は泣き崩れるだろう。泣き崩れさせるだけの理由が、この娘にあるとは思えなかった。断れない娘だった。断れなかったことの代償を、これから北で払っていくのだろう。
だから、アデライドは目を逸らした。それが、この娘にできる唯一の親切だった。
「……まだ、恨んでいるのか」
ユリウスが言った。声だけは、あの夜と同じだった。
アデライドは、教科書のように正確な礼をした。八年かけて仕込まれた角度だった。もう二度と使う機会のない角度だった。
「母は、あの夜からもう歩けません」
顔を上げる。
「ええ。恨んでおりますわ。許すつもりも、忘れるつもりもございません」
ユリウスの喉が動いた。何か言おうとして、言葉が見つからなかったらしい。
「ですから殿下、どうぞご息災で」
風が、北から吹いていた。
「長く、長く、お健やかに。八十まで、九十まで。北の空の下で、朝が来るたびに、あの夜のことを思い出してくださいませ。──わたくしは、この先ずっと王都におります。訂正の済んだ断罪録は、記録院に永久保存されます。書式十七番の申立書も、同じ棚に並んで残ります」
彼女は、微笑んだ。
「殿下がご自分で署名なさった紙と、わたくしが銀貨三枚で出した紙が、これから百年、同じ棚に並びます。それが、わたくしの復讐でございます」
馬車が動き出した。
アデライドは、それが街道の角を曲がって見えなくなるまで、その場に立っていた。
三百人は、もういなかった。
それで、じゅうぶんだった。
(了)
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