◆【幕間】峠の頭目
ザーシュは、焚き火の向こうに広がる峠の闇を見つめていた。
かつて、彼にも真っ当な暮らしがあった。
峠の麓の小さな村。
痩せた畑を耕し、細々と麦を作り、家族を養っていた。
豊かではなかった。
だがそれでも、そこには1日の終わりに家族と分け合う1椀の粥があった。
それで、十分だと思っていた。
すべてが変わったのは、2年前のあの冬だった。
冷害で、麦が全滅した。
それでも領主への年貢は、待ってはくれなかった。
役人は痩せた蔵の底から、最後の1袋までを機械のように運び去っていった。
「決まりだ」と、彼らは言った。
血に選ばれた貴族の決まり。
逆らうことは許されない。
――ザーシュはその冬、幼い娘を飢えで失った。
貴族に助けを求めたか。
ああ、求めた。
何度も。
だが、痩せた辺境の村の1人の農夫の窮状など、屋敷の上の方には届きもしなかった。
彼らは、自分たちが搾り取る土地の現実を、見に来ることすらしない。
見なくても暮らしていけるからだ。
娘を埋めた日、ザーシュの中で何かが静かに焼き切れた。
真っ当に生きて、真っ当に、飢え死にする。
それが、この世界が、自分のような者に用意した、"分"だというなら。
――ならば、その決まりの外へ出るまでだ。
彼は村を捨て、鍬を捨て、峠へと入った。
---
盗賊、と人は呼ぶ。
ザーシュ自身は、その言葉を否定はしなかった。
峠には、彼と同じような者たちが、いくらでもいた。
飢えた者。
追われた者。
真っ当な世界からこぼれ落ちた者たち。
彼らは、隊商を襲い荷を奪って、その日を食い繋いだ。
誇れる暮らしではない。
だが、少なくともここには、飢えて死ぬのをただ待つしかない村よりは生きるための"抗い"があった。
奪うとき、ザーシュには1つだけ己に課した掟があった。
むやみに殺さない。
荷は奪う。
だが、抵抗せぬ者の命までは取らない。
――彼はまだ、そのくらいの一線は守っていたかった。
自分たちを飢えさせ、見殺しにしたあの貴族たちと同じ側には堕ちたくなかった。
それが、彼のなけなしの矜持だった。
だが、峠の暮らしは細々としたものだった。
護衛の薄い隊商を選び、慎ましく奪う。
それだけでは日に日に増えていく仲間たちの腹を満たしきれない。
冬が来ればまた誰かが飢えて死ぬ。
ザーシュはそれを痛いほど知っていた。
そんなある夜のことだった。
1人の男が焚き火のそばへ音もなく現れた。
上等な身なりの抜け目のない目をした男。
フェルゼン領主の使いだと名乗った。
---
「取引だ」とその使者は言った。
「あんたらに、武器を融通しよう。糧食もだ。冬を越すのに、困らぬだけの。……それからもっといいものもある」
男は、1枚の書きつけを焚き火の明かりにかざした。
「どの隊商がいつ、どれだけの護衛で峠を通るか。その一覧だ。これがあればあんたらはもう当てずっぽうに獲物を待つ必要はない。手薄な隊商だけを確実に狙って襲える」
ザーシュはその書きつけをじっと見つめた。
喉が鳴った。
それがどれほど価値のあるものか彼にはすぐに分かった。
飢えて死ぬか否かの瀬戸際にいる者にとって、それは――命綱に等しかった。
「……なぜ、フェルゼンの領主様が俺たちのような者に」
「なに、簡単なことさ」使者は薄く笑った。
「隣のファルケンハイト領が近頃、目障りでね。あそこの交易路が細れば細るほど我が領主は、喜ばれる。……あんたらが腹を満たすために獲物を狩る。その狩り場がたまたま我が領主のお役に立つ。それだけの話だ。互いに損のない取引だろう?」
ザーシュは馬鹿ではなかった。
その言葉の裏を彼は正確に読み取っていた。
――自分たちは利用されるのだ。
あの領主のどこか大きな企みのただの手駒として。
腹を満たすためと信じて奪う1つ1つが、実は誰かのもっと大きな盤の上で駒として動かされているにすぎない。
分かっていた。
分かっていてなお。
ザーシュはその手を伸ばした。
書きつけを受け取った。
飢えの前では矜持も意地も、あまりに無力だった。
冬を越せなければ、仲間が死ぬ。
娘のように。
あの痩せた蔵の底のように。
――ならば、たとえ誰かの駒であろうと、生き延びるほうを選ぶしかない。
それがこの世界が、彼のような者に許したただ1つの"選択"だった。
「……いいだろう」彼は掠れた声で言った。
「乗ってやる。その取引に」
使者は満足げに頷き、闇の中へと消えていった。
---
使者が置いていった糧食袋には黒い鷲の印があった。
フェルゼン家の紋ではない。
商会の荷印。
ザーシュは、その袋を人目につかぬ洞穴へ移した。
仲間には、遠い村から買ったと説明する。
誰かに問われた時、本当に知らない方が口は固い。
だが、知らされない者ほど安全だという理屈は、使者が自分へ向けているものでもある。
命令する領主の顔を、ザーシュは見たことがない。
使者の本名も知らない。
情報の書きつけは襲撃の後に燃やすよう命じられた。
自分だけが捕まれば糸はそこで切れる。
「俺たちは捨て駒だ」
副頭目が言った。
「分かってる」
「なら、やめるか」
焚き火の周りには久しぶりに肉の入った鍋があった。
痩せていた少年が、底に残った脂まで匙ですくっている。
ザーシュは答えられなかった。
捨て駒だと知る知恵はある。
捨てられる前に盤から降りるだけの食料がない。
それが使者の握る鎖だった。
それからの峠は、面白いように獲物が獲れた。
領主から流れてくる情報は、正確だった。
手薄な隊商を狙い違わず襲える。
武器も糧食も蔵に積まれていく。
仲間たちは久しぶりに、腹いっぱいの飯にありついた。
ザーシュはその光景に、複雑な思いを抱きながらも――少なくともこの冬は、もう誰も飢えて死なずに済む、と、そう思った。
だが、ザーシュの胸の底にはずっと小さな棘が刺さっていた。
自分たちの襲撃が、1つ1つファルケンハイト領をじわじわと締め上げている。
鉄が、塩が、あの領地に、入らなくなる。
――ということは。
あの領地の痩せた村の名も知らぬ農夫たちが、自分たちと同じように飢え始めているのではないか。
かつての自分のように。
自分は飢えて峠に堕ちた。
そして今、その飢えを隣の領の見も知らぬ誰かへと配って回っている。
飢えた者が、飢えを、また別の飢えた者へ。
……なんという堂々巡りだろう。
だが、ザーシュにはそれを止める術はなかった。
彼もまた、この大きな盤の上で動かされる1つの駒にすぎなかったからだ。
飢えという名の鎖に繋がれた、哀れな駒。
---
その夜彼は、焚き火の向こうの闇を見つめながら、ふと、妙な噂を思い出していた。
隣のファルケンハイト領で、何やらおかしなことが起きている、という噂。
四男坊とかいう子どもが平民に妙な道具を配っている。
飢えていた村が実りを得ているらしい、と。
……平民に、力を配る。
ザーシュはその言葉を口の中で静かに繰り返した。
もしそれが本当なら。
もし、自分たちのような者が貴族に頼らずとも飢えを免れる道があるのだとしたら。
――それはいったい、どんな世界なのだろう。
娘が飢えずに済む世界。
真っ当に生きて、真っ当に、生きていける世界。
彼は小さく頭を振った。
夢物語だ。
この世界はそういうふうにはできていない。
血が力を握り、持たざる者は飢えて死ぬ。
それが決まりなのだ。
だが――もし。
もし、その決まりを本気で変えようとしている者が隣の領にいるのだとしたら。
自分はそいつの味方だろうか。
それとも、駒として使われて、そいつの邪魔をしているのだろうか。
ザーシュには分からなかった。
ただ、焚き火がぱちりと爆ぜ峠の闇がいつもより、少しだけ深く感じられた。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
是非評価、コメントをいただけますと励みになります。




